第80話 尖兵、現る

 授業の最中、ミファエルは眼の奥に鈍痛を覚える。


 空に違和感を覚えたあの日から数日が経った。合同遠征は折り返しに入り、もう数日でオーウェンとドッペルゲンガーが帰ってくる。


 体調を悪そうにしてあまり心配はかけたくないのだけれど、慢性的に訪れる鈍痛に思わず眉間に皺が寄ってしまう。


 遠征が終わる頃には治っていると良いのだけれど、どうにも日を重ねるごとに痛みが酷くなっているような気がする。


 空を見れば痛んだ眼も、今では定期的に痛みを訴えてくる。


 医者に診てもらおうとも思ったけれど、眼に関する事だ。信頼できない誰かに診せる訳にもいかない。


 それに、この痛みは身体的な不調では無いように思えるのだ。


 上手くは言えないけれど、今すぐにどうにかなる異常ではない。何故だか、そう確信している。


「御嬢さん、大丈夫ですかにゃ?」


 膝の上のフランが声を潜めて心配そうに尋ねる。


「大丈夫ですよ。ありがとう、フラン」


 ミファエルも、声を潜めてそれに答える。


 その言葉を鵜呑みにした訳では無いフランは、心配そうに尻尾をゆらゆらとさせている。


 幸い、眼の痛みはそんなに長時間では無い。少し我慢すれば良いだけだ。


 ただ、痛い事は痛い。思わず、表情に出てしまうくらいには。


 そんなミファエルの様子を、ルーナは影の中から見守る。


『主様ー、その威圧感抑えてくれませんかー?』


 佇むルーナに、影女が溜息を吐きながら言う。


『最近ずっとその調子じゃ無いですか。何か思う所でもあるんですか?』


『……首筋が』


『はい』


『ずっと、落ち着かない』


『はぁ……?』


 ルーナの言葉に、影女は意味が分からないと言った声を上げる。


『ずっと、殺気を受けているような感覚だ』


『なら殺してしまえばよろしいのでは? 主様なら朝飯前でしょうに』


 中々に物騒な事を言う影女に、しかし、同じく物騒なルーナは特に何を思う事も無く言葉を返す。


『その出所が分からない。視線を感じる訳では無い。ただ、害意のみを何処からか感じるのだ』


『それ、気のせいとかでは?』


『杞憂であれば良い。が、私のこの手の勘は残念ながら外れた事が無い』


『嫌な実績ですねぇ……』


『そうだな』


 出所不明の害意のせいで、ルーナは常に臨戦態勢になっている。それを影の外へと漏らすような愚は起こさないけれど、それでも影女には伝わってしまう程に溢れている。


 ルーナとは短い付き合いだけれど、影の国に行った時にはこのような威圧感は無かった。つまり、影の国に行く事以上に危険な状況かもしれないという事になる。


『なんだか、雲行きが怪しいですねぇ……』


 嫌だ嫌だと溜息を吐きながら、影女は懐に仕舞っていた恋愛小説を広げる。


 荒事は影女が考えていたって仕方がない。ルーナが焦ったら、自分も焦れば良い。


 死ぬ時は、まあ諦めればよろしいだろう。


 影の中での会話などつゆ知らず、ミファエルとフランは授業を終えて食堂へと向かう。


「あ、ミファエル様~!」


 食堂へと辿り着けば、ピュスティスが嬉しそうに手を振る。


 ミファエルも控えめに手を振り返し、ピュスティスの元へと向かう。


 見学以降、どういう訳かピュスティスに懐かれてしまい、お昼はこうして一緒に食べる事になったのだ。


 本人曰く、今回は同年代が一緒では無いのでこうしてお喋りが出来る同年代のお友達が欲しかったとの事だ。


 特別な許可証を貰ったため、ピュスティスは滞在中は自由に学院に出入りが出来るようになった。


 二人は二階席に上がり、端っこの日当たりの良い席でいつもお昼ご飯を食べている。


 ピュスティスは料理を食べるたびに満足そうに頬に手を当てる。可愛らしい面をしているので、そんな姿もとても絵になる。


 思わず見とれてしまう男達が居ても、致し方の無い事だろう。


「学院の方が羨ましいですぅ。こんなに美味しいお料理を毎日食べる事が出来るだなんてぇ」


「そうですね。ただ、あまりに美味しいと食べ過ぎてしまうので、そこだけは注意が必要ですね」


「あうぅ……確かに、最近食べ過ぎてしまっているような……」


 言いながら、お腹を触るピュスティス。


「にゃにゃ! ぼくも最近体重が……」


「あら。最近やけに肩が凝ると思えば。まさかフランが重くなっていただなんて」


「にゃにゃにゃ!? や、痩せますにゃ! 今日から断食しますにゃぁ!」


「ふふふっ、冗談ですよ」


「ひ、酷いですにゃ! 体重はデリケートな話題なのですにゃぁ! どれだけ食べても美ボディの御嬢さんには分からないんですにゃ!」


 しくしくと悲しそうに泣いて見せるフラン。けれど、食べる前足は止まらない。


「羨ましいですぅ。私なんて、気を抜けばすぐにでも……」


「私だって食べればその分太ってしまいますよ。適度に運動をしているだけです」


「確かに、私は運動する機会がそう無いですし……うぅっ、運動をするために時間を捻出するしか……。因みに、ミファエル様はどういった運動をしているのですか?」


「私の場合は、机と向かい合っている事が多いので、身体の凝りを取る体操をします。後は、気分転換に庭園を散歩してみたりですかね」


「そうなのですねぇ。私も散歩をしてみようかなぁ」


「後は、ダンスのお稽古もあるので、それである程度は体重を絞れているのかもしれません」


「ダンスですかぁ。私には縁遠い世界ですぅ」


「確かに、司祭様がダンスを踊っている印しょ――――」


 言葉の最中、ミファエルの動きがぴたりと止まる。


 その事に、ピュスティスもフランも怪訝そうな顔をする。


「……ミファエル様?」


「御嬢さん?」


 二人の呼びかけにも答えず、ミファエルの視線は窓の外へと向けられる。


「空が……」


「空、ですか?」


「……」


 ピュスティスはミファエルの視線の先を追い、フランの雰囲気が一瞬で切り替わる。


「え…………?」


 空を見て、ピュスティスの表情が固まる。


 一体、どれほどの者がこの異常に気付いただろうか。


 一握りの人間しか、この異常に気付いていないだろう。


 空にひびが入る。


 罅は広がり、ぱらぱらと青空が割れ落ちる。


 青空の先は、一寸の光すらも通さないような暗い闇が広がる。


 その中で、蠢くナニカ。


 きしきしと音を立て、かさかさと音を立て、己の存在を証明しているナニカ。


 暗闇の中で唯一の光源が、亀裂から世界を覗き見る。


 赤い赤い、害意に満ちた無機質な眼。


 その眼を見た瞬間、ミファエルの背筋に怖気が走る。


 あれは良くない者だ。あれはこの世界・・に来てはいけない存在だ。


 勝手に手が震える。


 恐ろしいのに、あれから眼が離せない。


 何処からともなく金属が擦れるような音が響き渡る。ミファエルには、何故かその音が喇叭ラッパであると理解できた。


 その異音に、ようやく他の者も異常に気付いた。


 けれど、気付いた時にはもう遅い。


 囁くような声がミファエルの耳に届いた。


 ――進軍、開始――


 直後、強烈な破砕音を立てて空が割れる。


 割れた空から滝のように何かが溢れ出てくる。


 白い、蠢く、何か。


 硬い甲殻。三対の鉤爪の付いた脚。凶悪に尖った顎。赤く光った眼。


 人よりも大きなそれが、大群を成して地面に落ちる。


 真っ直ぐ、真っ直ぐ、それは進む。


 その名を彼等は知らない。彼等の世界に存在しない生き物であり、存在してはいけない生き物なのだから。


 だから、名前は知らない。けれど、進む群れが何の群れであるかは分かる。


「虫……」


 凶悪な顎を唸らせ、蟲の大群が迫る。


 彼等は知らない。それが破滅の尖兵である事を。


 ただ知っている事は、あれらが自分達の脅威であるという事だけだった。

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