第3話 セスチノ

「お前が逃げて行ったワルキューレだな? お前が宝具を持っていったのは分かってるんだ。魔力の臭いもするしな」

 魚の魔人は中腰で背を丸めた姿勢でファティアに向き直る。透明な瞼が素早く動き、丸い大きな目がぎょろりと光る。

「お前は……神殿を襲った奴ね!」

 ファティアは槍を両手で持ち上段に構える。穂先を魔人に向け、そしてゆっくりと後ろに下がる。心臓の拍動が速くなっていく。

「ああそうさ。まったく、肝心の宝具がなかったから俺達は捜索隊に駆り出されたんだ。しかし川の近くに来てくれて助かったぜ。ここは俺の領分だからな」

 ファティアが下がるのに合わせて、魔人はゆっくりと前に進む。一定の距離を保ち、間合いを測るようにゆっくりと動く。

「さあ、宝具を出しな。さもなきゃ痛い目に合うぜ」

「宝具は……渡さない!」

 槍を握る手に力を込め、ファティアは屈することなく強い語気で答える。

「チョッ! そうこなくちゃ面白くねえぜ! へへ、若い女の肉なんざ久しぶりだな……」

 不穏な魔人の言葉にファティアは警戒を強める。そして、魔人の喉が異様な動きを見せるのに気付いた。

 次の瞬間、魔人の口から何かが放たれる。ファティアは反射的に左に倒れ込むようによける。背後の地面に何かが打ち込まれ地表が抉れる。それは水弾だった。

「チョッ!」

 魔人の攻撃は止まらない。続けざまに口から水弾を放ち、ファティアを襲う。ファティアは地面を転がりながら避け続け、そして槍を前に構えて立ち上がる。

「舐めるな!」

 放たれた水弾を槍で打ち払い、ファティアは前に出る。上段に構えた槍を突き出し、魔人の胴に向けて捻じるように打ち込む。

「ホッ!」

 まっすぐに伸びる槍を、魔人はその右手で払った。打ち合う音は硬く、まるで金属同士のぶつかり合いだった。ファティアはその衝撃に姿勢を崩しそうになるが、すんでの所でこらえる。そして槍を引き、連続して突きを打つ。

「たああぁぁっ!」

 気合と共に放たれるファティアの突き。しかし、その攻撃はことごとく魔人の手によって払われてしまう。魔人の手が光を反射する。その指先には鋭い刃が生えており、それが槍を打ち払っていた。

「チョッ!」

 今度は魔人が前に出た。一気に間合いを詰めて槍の内側に入り、下からすくうように右手の爪を振るう。ファティアは後ろに飛び、のけぞりながら爪の攻撃をかわした。

「ヒヒッ! やるじゃねえか! 人間にしてはいい動きだチョ……」

 そう言い、魔人は右の爪先を紫色の舌で舐め上げた。

「くっ……!」

 ファティアの左頬に朱の線が走る。今の爪の攻撃が僅かに掠っていたのだ。傷は浅いが、それはファティアに強い緊張を強いるものだった。

「おいおい」

 どこか間延びしたような声が、ファティアと魔人に向かってかけられた。

「チョッ? 何だお前」

 左の目玉だけを動かし、魔人が声の方を見た。声の主は山小屋の男だった。突然目の前で始まった戦いに、恐れる様子もなくどこか呆れたような視線を向けていた。

「逃げなさい、あなた! こいつは危険な魔人です! 神殿を襲った連中の仲間です!」

 ファティアが叫ぶように言うと、男は困ったように頭を掻いた。

「よく分からんが、あんた追われてたのか? ふうん……」

 呟くように言った男の足元に、魔人は水弾を放った。地面が抉れ、泥水が男の足元に飛び散る。

「お前、逃げるなよ? 見た奴はどうせ殺さにゃいけんのだ! 逃げると手間だ。それともお前から死ぬか?」

「俺を殺すのか?」

「チョッ! 二度言わなきゃ分からねえ馬鹿か?! 黙ってそこで大人しくしてろい!」

「まったく、どこにでも魔人は出てくるもんだな……」

 呟くように言うと、男は前に出る。そして魔人とファティアの間に割って入り、魔人に向き直った。

「何のつもりだァ? チョッ! このセスチノ様の邪魔をしようってのか?!」

 セスチノと名乗った魔人は威嚇するように地面を蹴りつけた。両手の鋭い刃が陽光を反射する。

「何してるの、逃げなさい!」

 ファティアが言うのと、セスチノが水弾を打つのはほとんど同時だった。鋭く撃ち出された水弾が男の体を貫かんとする。男は咄嗟に体を腕で守るが、人間の生身が耐えられるものではない。ファティアは男の死を予感した。

 肉を打つ鈍い音が響く。男の体が僅かに後ろに傾く。

「チョッ! 死ねィ!」

 セスチノは吠えるように言い、右手の爪で男に襲い掛かった。鋭い刃が容赦なく男に襲い掛かる。

 ファティアはその様子をなす術なく男の背後から見ていた。庇おうにもこの位置からでは間に合わない。男が殺されるのを黙ってみているしかない。

 セスチノの爪が閃く。大ぶりの攻撃が男を襲う。爪が、鋭い刃が、男の命を――。

 聞こえたのは硬い音だった。まるで石に金属を打ち付けたような音。人間の体からは到底考えられない音が、セスチノの爪から生じていた。

「ギョッ?!」

 セスチノは目を見開いて驚く。自分の右手が、男の右手に掴まれ止められていたのだ。

「見て見ぬ振りしようかと思ったけど、殺してやるとまで言われてはな……やるぞ」

 男がぼそりと言う。すると、セスチノの手を掴んでいる男の腕に変化が生じた。肌の表面が黒く変色し、ごつごつとした形に盛り上がっていく。まるで岩肌のように、瞬く間に男の腕は姿を変えていく。

「な、なんだァ?!」

 セスチノが突然の現象に驚いていると、強い力で姿勢を崩される。男がセスチノの腕を放り投げるように振り回したのだ。セスチノは辛うじて転ばないように踏みとどまる。

「チョッ! なんてェ力だ! てめえただの人間じゃねえな?!」

「さあ、どうだろうね」

 とぼけるように男は答え、そしてセスチノに向かって殴りかかる。黒い岩石のように変わった前腕が唸りを上げて叩き込まれる。

「ギョッ!」

 セスチノは腕で男の拳を受ける。拳は一発では終わらない。顔、腹、腕と箇所を変えながら連撃が叩き込まれる。セスチノは受けようとするが、一発を受け損ね顔面をしたたかに打たれる。大きくのけぞり、ヨタヨタと後ろに下がる。

「ギ、ギ……」

 セスチノは歯を軋らせながら目を見開く。その目は赤く、怒りの感情が満ちていた。

「てめえ! 刺身にしてやるチョ!」

 激昂したセスチノは唇を尖らせ、水弾を立て続けに撃った。だが男はそれを腕で受けて防御する。黒い岩のような腕は、鋭い水弾の衝撃をも意に介さないようだった。

「チョッ!」

 特に太い水弾が放たれる。それは男の頭部を狙って放たれるが、男はそれを手の平で受けて守る。

「ギョーッ! むかつくぜテメーよぉーっ!」

 セスチノが右手を振りかぶる。その爪先に青い光が宿り、そしてぼこぼこと水が湧き出す。水は渦を巻き、まるで鞭のように細く伸びていった。

「真っ二つになりなァ!」

 叫びと共にセスチノの右腕が振るわれる。爪先から伸びた水の鞭は大きくしなり、男の体を舐めるように強く打ち据えた。肉を打つ音が響き、男は右側に吹き飛ばされる。

「次はてめえだ女ァ! 三枚におろしてやるチョッ!」

 セスチノは鋭い歯を剥き出しにして叫んだ。そして右腕をもう一度大きく振りかぶる。

 だが、その動きは途中で止められた。指先から伸びる水の鞭を、男の左腕が掴んでいた。

「チョッ! まだ生きてやがったか?!」

 ファティアの目にも、男は水の鞭でやられてしまったように見えていた。しかし、男は立ち上がりセスチノの鞭を掴んでいた。腕や体に攻撃の跡があり血が滲んでいるが、深い傷ではないようだった。

「今度はこっちの番だ」

 男が静かな声で言う。すると、掴んでいる水の鞭から蒸気が立ち上り始めた。

「ギョッ! 何だァ?!」

 セスチノが不測の事態に驚く。水の鞭を掴む男の腕に生じているのは、強い熱だった。その熱は見る間に上昇し、そして男の腕は赤熱化していく。

「赤熱鉄鋼……食らいな!」

 男が赤くなった腕に力を込めると、水の鞭は沸騰し千切れ飛んだ。

「ギョアッ!?」

 面食らっているセスチノに、男は右の拳を振りかぶりながら突進する。硬く握られた右の拳が赤く発光し、強い熱が陽炎を生んだ。

 拳が、セスチノの胴を貫いた。硬い鱗は熱で一瞬のうちに焼けて割れ、剥き出しになった肉を渾身の打撃が貫く。前腕の半ばほどまでがセスチノの腹にめり込み、赤熱化した腕は肉を焼いた。

「ギョボォォ!」

 セスチノは縋りつくようにその両手を男の背に突き立てる。着古した服は容易く斬り裂かれるが、しかしその下の肌には傷がついていなかった。人の肌ではありえない硬さだった。

「な、なんだァテメェ……!」

 セスチノが血を吐きながら問う。しかしその答えを聞くまでもなく、眼球がぐるりとひっくり返り事切れた。

「よっと……」

 男は無造作にセスチノから右腕を引き抜き、腕を血ぶりするように振るった。赤熱化していた腕は黒い色に戻り、そしてゆっくりと元の人の腕に戻っていった。

「あ、あなた……一体なんなの……?!」

 ファティアは目の前繰り広げられた光景を信じられずにいた。魔人は強い。普通の人間ではかなわない存在だ。それが容易く殺された。しかも、男は腕を岩に変えていた。それもまた異常なことだった。

「俺は……」

 男は困ったように頭を掻きながら言った。

「ただの化け物さ」

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