第2話 焦燥
森の中をファティアが駆ける。耳を打つのは虫の音と風の音。木々がそよぎ、ざわざわとした音が耳に届く。
空は白み始めていた。神殿を出てからもう数時間が経過していた。ファティアの体感では四時間が経過しているはずだったが、まだ森を抜けることはできない。そろそろ森が途切れ、目指すメフィル山脈の麓が見えてくるはずだったが、少なくともそれまでは止まるつもりはなかった。
だが、その意思に反して脚は重くなり思うように走れなくなってきた。呼吸も苦しい。それに、走っている途中に枝葉に当たり肌を何か所か切ってしまっている。治療が必要なほどではないだろうが、微かな痛みに意識が散る。それに、喉も乾いていた。
ティオイラから託された宝具、アクアクリスタル。それと一緒に雑嚢の中には水の入った皮袋と携行糧食が入っていた。これまでにも何度か休もうと思ったが、燃え上がる神殿の様子を思い出し、それどころではないと走り続けていた。
だがそれも限界に近いようだった。
(どこかに、身を隠せる場所があれば……)
ファティアは走りながら周囲に視線を巡らせる。身を隠せるような洞穴や、木陰。避難小屋でもあれば一番だが、今の所そう都合のいい場所は見つかっていなかった。
喉の渇きに唾を飲もうとして、口の中が完全に乾いているのに気付いた。そろそろ脚も限界のようで、膝が笑っている感覚がある。ファティアは意を決して歩速を緩め、そして森の中で足を止めた。
しゃがみ込み、素早く振り返り周囲を確認する。人影はない。動くような音も聞こえない。自分の荒い息遣いが聞こえるだけだ。
「追手は、無しか……」
ファティアはほっと胸を撫でおろす。早駆けは訓練生の中でも得意な方だ。これ程長い距離を走ったのは初めてだったが、たとえ追手がいたとしてもある程度引き離せただろうという自信があった。
それにティオイラの判断も速かった。あの時、一緒になって神殿を守るために戦うことも出来ただろうが、そうしていれば宝具は持ち出せずに奪われていたかもしれない。禁則を破ることになってしまったが、あの時点ですぐに宝具と一緒に逃げ出したことは正解だったはずだ。
ファティアは片膝をついて、雑嚢から水の入った皮袋を出す。そしてゆっくりと水を飲んだ。乾いた喉と体にぬるい水が染みわたっていく。そして呼吸を整えながら立ち上がった。
「もう少し進めばメフィル山脈の麓……山小屋でもあればいいけど」
ファティアは雑嚢を背負い、再び走り出した。ただし速度はそれほどではない。体力を温存しつつ、休めそうなところを探す。気持ちとしては一分一秒でも早く王都に行きたいところだが、王都までは
周囲の森の様子は、いつも神殿の周囲で見る物とはすこし変わってきていた。神殿の標高は約
「……あれは?」
ファティアは遠くに小屋のようなものを見つけ、足を止めて下草の陰にしゃがみこんだ。息をひそめて様子を見ていると、
「空き家か……ちょうどいいかも……!」
周囲を見回し、もう一度人の気配を探る。動くものと言えば鳥くらいのものだ。警戒してしすぎるという事はないが、ひとまずは安心できるようだった。
ファティアはゆっくりとあばら家に近づいていく。戸や壁は破れ、屋根にも穴が開いている。人が住むには適当ではないが、短時間休む程度なら問題はなさそうだった。
ドアに近づき、手をかける。二か所ある蝶番の上の方は壊れていたが、軋みながらドアは開いた。中に動物……狸や熊、その他モンスターがいる可能性もあるので槍を突き出しながらゆっくりと中の様子を窺う。湿った土の臭いがする。だが獣臭はない。モンスターの類はいないようだった。ほっと息をつき、ファティアは中に入る。
「ボロボロだけど……姿を隠せるだけましか」
家の中には棚、机、ベッドがあり、その他にも農具や生活用品のようなものが乱雑に置かれていた。誰かが住んでいたのは間違いないようだが、放棄されそのままになっているらしい。
布団のない木枠だけのベッドに腰掛ける。ギィと軋みを上げるが、見た目よりも意外としっかりした作りのようだった。
背負っていた雑嚢をベッド脇のスツールに置き、ファティアはベッドに横になる。木の堅い感触で快適とはいいがたいが、文句は言ってられない。
「二時間……二時間だけ休みましょう。そしたらまた走って……」
目を閉じるとどっと疲れが湧いてくる。気は逸るが休むのも大事なことだ。そう思いながら、ファティアの意識は眠りに落ちていった。
ファティアは覚醒した。見慣れぬボロボロの木の天井に数瞬困惑したが、自分今置かれている状況をすぐに思い出した。
そして気付いた。鼻腔をくすぐるような甘い匂いに。
ファティアはガバリと跳ね起き、そしてベッド脇に置いた槍に手を伸ばす。
「何者!」
槍を掴み振り返ると同時に
「あ? 起きたのか」
男は怯む様子もなく、火にかけた鍋をぐるぐるとかき回している所だった。その様子に、ファティアは混乱する。
「……っこ、ここで何をしている!」
ベッドから降りて立ち上がり、槍を構えてファティアが言う。男は困ったような表情で答える。
「何してるって、そりゃあんたの方だろ。ここは俺の作業小屋だぜ。飯の準備しに来たらあんた寝てるし、呼んでも起きねえし……」
「えっ……?!」
ファティアは愕然とした。呼ばれても起きなかった? 警戒していたつもりだったのに、なんという体たらくだろう。もしこの男が追手だったら殺されていたかもしれないのだ。自分の馬鹿さ加減に呆れながら、槍を下げてファティアは男に聞く。
「大変失礼しました。あなたは……地元の人?」
「ああ、この辺のもんだよ。ちょっと行ったところに村がある。あんた道にでも迷ったのか? 見た感じ兵隊さんみたいだけど」
「私は……エルドア神殿のワルキューレです」
「エルドア神殿……? ああ、山の上のあれか。はいはい、ワルキューレね。聞いた事があるよ。学校があるんだっけ」
「ええ、修練所があります……私はそこの訓練生で……」
「ふうん。脱走でもしたのか、こんな所で寝てるなんて」
「いえ、違います?! 私は……!」
何と言うべきか迷い、ファティアは黙り込んでしまう。男はそんなファティアの様子を気にする風もなく、鍋をかき回していた。
「……メフィル山脈への道をご存じですか?」
「メフィル? すぐそこだけど……なんだ、山に行きたいのか?」
「はい。山を抜けて王都へ……行かなければならないんです」
「王都? 王都って王都かい? 遠いねえ?
「はい。なるべく早く……あの、今何時か分かりますか?」
「七時くらいだよ」
神殿を出たのは恐らく深夜の二時ごろ。そこから四時間走り、今七時。寝ていたのは二時間弱のようだ。まだ疲れは抜けていないが、ゆっくり寝ている時間はない。
「すいませんが、メフィル山脈への道を教えていただけませんか?」
「いいけど……どうしよう。口で言うと面倒なんだよな。ええと……」
男は鍋を火からおろし立ち上がった。薄暗がりで良く見えなかったが、男は二十代かそこらの年齢のようだった。やや伸び気味の髪の毛をかき上げ、頭を掻いている。
「……案内した方が早いな。ついてこいよ」
「は、はい!」
男はそう言うとファティアの脇を通って外に出ていく。ファティアは雑嚢にアクアクリスタルが入っているのを確かめ、雑嚢を背負って外に出た。
「まっすぐ行って右にいくと川に出る。その脇に細い道があってな、そこを進むとメフィルの山道に合流できるんだ」
「はい」
言いながら男は森を進んでいく。ファティアにはどの方向も同じように見えたが、確かに地図で見た限りでは近くに川があった記憶がある。男への警戒心は残しながら、ファティアはその後ろに続いていく。
そのまま十分ほど歩き続けると、男が言ったように川が見えた。そして川沿いに細い道があり、それが斜面の上に続いている。木々の切れ間からもメフィル山脈が見えていた。
「良かった。これで進める……」
「これでいいかい、あんた?」
「はい! ありがとうございました!」
男に向かいファティアは礼を言う。麓からであればどこからでも山を登ることはできるが、やはり整備された山道を進むのが早い。ここで地元の者と出会えたのは
「じゃ、気を付けて」
そう言って男は来た道を戻ろうとした。
とぷん。
水の跳ねる音がして、川から何かが飛び出した。
ファティアは一瞬魚かと思った。しかし、その大きさは魚のものではなかった。まるで人間のような大きさ。それが川から飛び出し、ファティアの前に着地する。
「おっと見つけたぜ。アクアクリスタルは返してもらうぜ、嬢ちゃん」
そう言ったのは怪物だった。魚の顔を持ち、鱗に覆われた四肢を備えている。腕や背にはひれも生えていて、魚と人間を混ぜたような生き物だった。しかしそんな生き物はいない。ファティアの知る限り、モンスターの中にもそんな形態のものはいないはずだった。
ならば、可能性は一つ。
「まさか……魔人?!」
超常の力を持つ、異形の存在。それが魔人。魔界より現れ、世を乱す災厄の権化。ファティアは確信を持てないまま、槍を構えて距離を取った。
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