三章 『頭上注意』

 三章 『頭上注意(アッパーカット)』


 1


 初めて授業を受けなかった。

 何でもかんでも許されているようなこの釉漆ゆうるし高校で、数少ない校則とも言える、授業にちゃんと出ること。それを私は破ってしまった。破ったからと言って反省文を書かされるようなこともないし、先生からちょっとした注意くらいは受けるだけだろうけど、それくらいに収まるだろうと思う。それでも、どうしたって罪悪感があって、しかしだからと言って、教室を抜け出したことを後悔はしなかった。

 罪悪感を持っているということはつまり、後悔しているということなんだろうか。

 私には分からない。

 『大衆的天才フレックス』、物部もののべつづりさん。

 『悪役令嬢オブジェクション』、加々良柄かがらがらかがりさん。

 私のクラスにいる異名持ちは二人。

 私も異名がもらえていたら、こんな風に弱くなんてなかったのかな。

 異名を貰えるような才能や個性があれば、私も認めてもらえたのかな。

 羨ましくてたまらない。

 それでも、私なんかが羨んだって意味がないと、自分の醜さが際立つみたいで、本当に嫌になる。

 進める歩は屋上へ。

 ただ何となく、外の空気が吸いたくなって、高いところから世界を見下ろしたくなって、誰もいないような、切り離されたような世界に行きたくて。

 屋上の扉を開けると、夏の暑い空気が流れ込んでくる。その空気よりもずっと不快なぎらついた日差しは、目にかかるくらいの私の前髪を貫くほどに照り付けて、どうしてこんな日中に屋上に来てしまったのかと疑問に思う。

 それでも、誰もいない、しんとしたこの場所はなんだか落ち着いて——。

「あ? なんだ? サボりか?」

 私の上から、声がした。

 屋上に出る扉。ペントハウスの上、給水タンクが置いてある場所。

 その人は、そこに仁王立ちをして、高いところから私のことを見下していた。

 夏の日差しと同じくらいにぎらついた八重歯を、不敵に笑みとともにのぞかせていて、面白いものを見るかのように瞳を細めて私を見据えている。男の人にしては若干長めの髪で、その髪の一部を黄色く染め上げていた。

「……私、貴方のこと、知ってます」

「うん? そうか? 俺はお前のことなんか知らねえが、俺は裏峰うらみね古月ふるつきってんだ」

 ギラリと八重歯をのぞかせて、その人、古月さんは笑う。

 私がこの人を知っているのは、この人が釉漆高校の中でもちょっとした有名人だからだ。

 異名を持っているからというのもあるけれど、どちらかと言えば轟いているのはその悪名の方で、しかしやっているのはなんだか小学生のような悪戯ばかり。

 捕まえてきた蝶々を職員室で開放したり、プールにカルピスの原液を入れたり、パソコン室のパソコンのデスクトップ画面を、見たら死ぬと言われている絵画に変えたり。

 しかしそれでも、つけられた異名は『頭上注意アッパーカット』。

 異名とは、その人の個性に当ててつけられたもの。

 見上げたこの人に、その異名がついた意味を、私はまだ分からないでいた。


 2


「『頭上注意アッパーカット』?」

「うん、そう」

 物理の教科書を開き、物部綴はその内容をノートにまとめながら言う。

 『大衆的天才フレックス』の異名を与えられた、学校はおろか、日本はおろか、世界にも名を知られており、素顔こそ知られていないものの、その容姿までもが一級品という、訳の分からない天才美少女。

 いくら冷房の効いている図書室とはいえ、真夏と呼んでも差し支えないくらいの気温のこの季節ながら、色あせた裏起毛の茶色いパーカーを今日もトレードマークのように腰に巻き、そのパーカーよりも若干茶色が強く、それでも地毛らしいその髪を後ろで一つに結っている。

 物理の教科書を開いているのは、一月後に控えた学期末テストの勉強をすでに始めているのだろうと思う。そんなことをしなくとも、全国模試一桁の綴なら、学年順位のトップを維持することくらい余裕だろうに。天才でありながら秀才なのだから、本当に勝ち目がない。

 平々凡々の生き字引きである僕、邑神ゆうがみ夕暮ゆうぐれは、テスト週間になってからしか勉強を始めない。

 一つ下の綴の勉強ではあるけれど、僕が教えられることなんかあるわけがないし、むしろ前に綴に僕の勉強を見てもらったことがあるくらいだ。

「古月だろ? あいつも変な奴なんだよな。古月がどうかしたのか?」

 頭の中に思い出すのは、立ち入り禁止のトラテープのような、黒と黄色のあの髪と、ぎらついた八重歯。

 ついでのように、一昨日ほど前にあった、黒板消しの中に大量の重りを仕込むというしょうもない悪戯を思い出す。しょうもないとはいえ、発想には驚かされたような。

「どんな人かなって。私会ったことないから」

「気になるのか?」

鍵音かぎねさんに言われたんだよ。ちょっと調べてくれーって」

 鍵音さん。枢火くるるび鍵音。

三年、我がゆる校の現生徒会長。『絶対民政グランドメイカー』の異名を持つ人。

「なんで『絶対民政グランドメイカー』が『頭上注意アッパーカット』のことなんか調べようとしてんだ?」

「うーんと……こうは言いたくないけど、ほら、古月さん、ちょっと問題児でしょ? 生徒会長として、ちょっと動向を把握しておきたいんだって」

「それを何でお前に頼むんだ?」

「夕暮さんと仲いいんですよって話をしたからかな。それで、そういえば夕暮さんは古月さんと同じクラスだったなって、鍵音さんが」

「なんであの人そんなこと知ってんだ?」

「学校に通う人、校民の名前も顔もクラスも、あの人は全部覚えてるよ」

 当たり前のように言う綴だけれど、我らが釉漆高校、通称ゆる校は、総生徒数が千人を超える、昨今の少子化を感じさせないマンモス校だ。

 いくら何でもと思うけれど、枢火さんなら本当にやりかねない。

「同じクラスではあるけどよ、僕だって別に仲いいわけじゃないぞ?」

「でも私よりはいいはずだよ」

「それでもある程度の情報は綴だって知ってるだろ? ほら、こないだの職員室のパソコン事件」

 職員室のパソコン事件。

 一夜明けたら職員室のパソコンのスペックが二段階グレードアップしていたという事件。かなり使いやすくなったと言われてはいるものの、セキュリティ面で割と問題視された事件だ。

 犯人は『頭上注意アッパーカット』。裏峰古月。

「古月さん、いいことをしてるんだか悪いことをしてるんだか、分からないよね」

「本人にとってはやりたいことやってるだけだからな。いいことも悪いこともないんだよ。己の欲望に忠実なんだ」

「そういうことが知りたかったんだよ、夕暮さん」

 ふふと小首をかしげるようにして笑む綴。

 この仕草は綴の癖なのだろうけど、綴の目を奪われるような容姿も相まって、僕は視線を合わせづらくなってしまう。綴が自分の容姿に自覚的なんじゃないかと思ってはいるものの確信はなく、しかし、そう思わせるようなことをよく僕にやってくる。

 まったく、ありがたい話だことで。

「ていうか、なんで今更『頭上注意アッパーカット』のことなんか調べようとしてるんだ? 枢火さんは」

「生徒会に引き込みたいんだって」

「はあ⁉」

「図書室では静かにね」

 綴はたしなめるように言う。

 しかし、あれほど悪名高いあいつを、どうして生徒会に入れようと思うのかは不思議なことだ。悪の帝王とは言わないけれど、性格は最悪なのだ、あいつ。

「実はそこまで不思議じゃないんだよ。パソコンのスペックを二段階あげるなんてそう簡単にできることじゃない。それをあっさりやってのける技量だとか、悪戯の発想力とか、鍵音さんは古月さんのことを買ってるんだよ」

「でもあいつ、生徒会なんてやりたがらないだろ」

「どうして?」

「さっき言っただろ。自分の欲望に忠実なんだよ。行動が制限されるようなことを、あいつがやりたがるとは思えない」

「そっか……残念」

「そもそも生徒会なんて、いくら枢火さんが入って欲しいって言ったところで入れるものじゃないだろ。一応は選挙なんだし」

「鍵音さんが押せば入れるでしょ」

「…………否定できないな」

 国民ならぬ校民の願いはとことん叶え、人望という人望を集めまくっている枢火さん。

 確かにあの人が推薦した人材となれば、古月と言えど生徒会に入ることは難しくないだろう。

「つまりはだ、夕暮さん。古月さんは自分がやりたいと思ったことを叶えることに長けているってことだ」

「やりたいと思えばな。そういう欲望への渇望は、あいつ並外れてるから」

「私面識ないから仕方ないし、鍵音さんからちょっと聞いてはいるんだけど、古月さん、どうして『頭上注意アッパーカット』なんて異名がついてるの?」

「自分の異名の理由も知らない僕が知ってると思うのか?」

 『彼誰時エクストラコンテンツ』。僕の異名だ。

 個人的には、平々凡々過ぎて哀れまれているだけだと思っている。しかし、つけられた理由は不明ながら、少し前にその内容をなんとなく仄めかされてはいるのだった。

「まあ、古月のそれに関してはなんとなく予想がつく部分はあるんだ」

「あるんじゃん」

「なんていうかな……あいつの本質みたいなのは、ただやりたいと思ったことに熱心なだけなんだけど、あいつは人を見下すっていうか、不幸にしようとするんだよな。誰かの嫌がることを的確にやってくるって言うか」

 普段の悪戯なんて可愛らしいものだ。

 しかし、例えば誰かが本気で落ち込んでいる時に、落ち込ませる要素となった存在にひっそりと干渉し、それとの決別を図らせるようなことが、あいつは大の得意なのだ。いいことのように思われるかもしれないけれど、解決するはずだった物事を台無しにし、成長を妨げる。

 重ねてしかし、それでいて、明確にあいつの影響だと分からせないからこそ、そういう部分の才能があるのだろうと思う。

 悪戯はただの欲求の解消。おためごかしですらなく、ただの私利私欲のためだ。

 アッパーカットという名前のごとく、対象の中枢に、強烈な一撃を入れる。

 だから多分、上に上がるものを叩き落とすという意味と、ボクシングの技の名前の意味と、二つが重なって、そうつけられているのだろうと思う。

「随分なやつを枢火さんも引き込もうとしたもんだよ。正直、あんまり理解は出来ないな」

「そっか………ありがとう、鍵音さんに伝えておくよ」

「僕としては不思議なんだが、綴は生徒会に誘われたりしないのか? 古月じゃないんだし、立候補すれば普通に当選すると思うぜ?」

 ゆる校の生徒数は千人を超えていながら、生徒会はたったの五人。しかし、全員が異名を持ち、何かのきっかけで五人がそろって壇上にでも立とうものなら、その様はなかなか壮観だ。ただものじゃないという雰囲気が、全員から溢れている。

 綴ならあそこに並んだって、勝るとも劣らない。

「まあ……二年生にでもなったらやろうかな」

「なんだ、思ったより消極的なんだな」

「だって、授業終わったら、なるべく早く家に帰りたいんだもん」

「だったら、僕とこうやって放課後に話してていいのか?」

「うん? だって、こういう時じゃないと夕暮さんとは話せないよ?」

「………」

 うーんと唸る綴。本当に何の気なしに言っているんだろう。

 こういうことを素でやってくるから問題なのだ。

「なあ綴」

「うん? どうしたの?」

「お前は美少女だ」

「あ、ありがとう。嬉しいです」

「正直な話、僕はお前に惚れないように頑張っているんだ。だから、綴も僕を惚れさせないような努力をしてほしいと思ってる」

「う、うーんと……もうちょっと言葉を貰ってもいいかな」

「分かった、真面目な話だぜ? 僕だからこうしていられるものの、世の中には綴の言葉を勘違いして、しかもその勘違いを綴のせいにしてくるようなやつらもたくさんいるんだ。美少女は美少女として、周りを惚れさせない努力をするべきだと思う、そういう話だ。己の才能には自覚的であるべきなんてよく言うけどな、それと同等に——いや、それ以上に己の容姿には自覚的であるべきだ」

「………」

 ちょっとばかし残酷な話ではある。

 綴がいいやつで、分け隔てなくその優しさをふりまくからこそ、大衆的であるからこそ、変な奴が勘違いをするようなことは、この先絶対にあるだろうと思う。そうなったとき、「自分の勘違いだったのか」なんて自分の心を諫められるようなやつは、そこまで多くないのだ。

 自分の恋心を弄ばれたような感覚にすらなるだろう。

 それは、綴が本気で忌避していることでもある。

「で、でも私、男の人と二人で話さないようにしてるんだよ? 出来るだけ——というか、出来ないだけだけど……」

「僕と今話してるだろ」

 綴の言い方に若干引っかかったものの、僕はそう返す。

「そ、それは夕暮さんが……」

 言葉を飲み込むように、綴の声は小さくなっていく。

「僕が?」

 言葉の続きを、それでも僕は促す。

 実は結構気になっていることなのだ。僕のような平々凡々が、いくら『大衆的天才フレックス』とはいえ、こうして二人きりの時間を綴と過ごせるということが。

「………笑わない?」

「聞かないことには分からん」

「……………夕暮さんね——」

 長い沈黙の後、綴は恥ずかしそうに僕から顔を逸らして、言った。

「夕暮れさんね、パ、パパに、ちょっと似てるから………」

「つ、綴の、パパさん?」

 それはなんとも。

 喜んでいいことなのか?

「し、仕方ないじゃん! パパってやっぱり一番近い異性なんだからさ! どうしたってそこ基準で計っちゃうし、男の人慣れしてない私が慣らすには、夕暮さんが一番なんだもん!」

 開き直ったように、そして、図書室だから静かにと自分でさっき言っていたのに、そんなことお構いなしで、立ち上がって、机に両手を叩きつけるほどの必死の釈明だった。

 ほんとに恥ずかしそうに頬を赤くしている。

「ていうか、綴、お前男苦手だったのか?」

「………」

 プイとそっぽを向いて座り直す綴。

 それはつまり肯定なのだろうと思う。

「でも、クラスで男子に話しかけられたりするだろ? 告白されたみたいな話も聞いた覚えがあるし」

「告白の時は私も頑張って相対してるんだよ。出来るだけ気を張ってる。それと、クラスにいるときは篝さんが一緒にいることが多いから男の子は寄ってこないんだ。篝さん血の気が多いから」

「篝さん……ああ『悪役令嬢オブジェクション』か」

 確か本名は、加々良柄篝。『悪役令嬢オブジェクション』の異名を持っていることは知っているけれど、その異名の理由は会ったことが無いから知らない。

「まあともかくだ。お前は自分の容姿に自覚的になった方がいい。お前は美少女なんだ」

「はあ………警告、恐れ入ります」

「真面目な話だぞ」

 一つ息をつく。

 男子高校生というやつは馬鹿なもので、女子にちょっと優しくされたら、それが他の男子にも適用されていることに気が付かないままに好意を持たれていると勘違いしてしまう輩が多いのだ。僕は平々凡々ではあるが、この部分に関してはその限りでは無い。

 しかし、綴に惚れないようにするのは大変だと思いつつも、綴の持つ隔絶したような天才性が、僕に綴への恋愛感情を抱かせようとしない。正直な話、僕の努力なんてものは必要ないのだ。

 重ねてしかし、僕が言ってやらねばならないことでもあるのだろうと、そう思うのだった。


 3


 授業を終えて、パパが面白いと言っていた本を机の上に開いたところで、私の机の上に踵落としが繰り出された。なかなかに破壊的な音が鳴っているから教室が一瞬静まり返ったものの、その音を出した犯人が誰で、やられた相手が私であることを確認したクラスの皆は、さっきまでの調子をすぐに取り戻す。

 授業中もこの本の続きが気になって、いよいよ続きを読めるという時に踵落としなんてされたものだから、私はちょっとだけムッとした。

 本を開いたまま、それでも、踵落としの犯人に私は目を向ける。

「お前、なに呑気に本なんか読もうとしてんだ?」

 不機嫌さを隠そうとしないままに、踵落としをしたその犯人。

 分厚いレンズのはめ込まれた黒縁の眼鏡。セミロングの黒髪は染めることなく後ろで一つに結っている。凛々しさを越え、普段の視線ですら威圧感を放つその眼光は鋭く、少しだけ細めて私の顔を見据えている。半そでのカッターシャツから覗く、細くとも筋肉質な腕を組んで、私の机の上から踵を下ろそうとしない。

 銀行を経営する資産家、加々良柄家の長女。

 『悪役令嬢オブジェクション』、加々良柄篝さん。

「いいでしょ、本くらい読んでも。休み時間だよ?」

「お前は馬鹿だな」

「………」

 はて、とは思うものの、実はちょっとだけ嬉しい。

「私に馬鹿馬鹿言ってくるのは篝さんくらいだよ」

「はあ? 喜んでんのか? マゾか? きもいぞ?」

「いやいや、私は方々で天才天才と言われているからね。篝さんみたいにストレートに馬鹿と言ってくれる相手がいるって言うのは、結構嬉しいものだったりするのさ」

 いくら私が大衆的と呼ばれていようが、天才だという称号も同時に与えられているという事実がある。それは、理解が出来ないという一線を引かれていると感じることも決して少なくなく、しかしそんな中で篝さんだけは、私をそういう部分で計ることなく接してくれている気がする。

 これが私にはたまらなく嬉しかったりする。

「篝さん。そろそろ足下ろさない?」

「………」

 いまだ私の机の上に乗っている篝さんの足を見ながら私は言う。

 カッターシャツと、ゆる校生である証明のためのバッジ装着以外の服装の制約が無いものの、一応は指定の制服も持っているゆる校。毎朝の服装選びが面倒で指定の制服を着ている私と同じで、篝さんも指定の制服。ひざ丈より上のスカート。

 机の上の足から、健康的で筋肉質なそれをたどっていくと、何がとは言わないけれど、もろに見えてしまっている。

 篝さんは足を下ろしたものの、恥ずかしがる様子は全くと言っていいほどなかった。

 私に指摘されたから下ろしただけなのだろうと思う。

「ところで篝さん、別に本を読んでたっていいでしょ? 休み時間だよ?」

「はあ? お前あれだろ」

「あれ」

「あのー……あれだ、あれ。あれだよ。あれってなんだよ」

「私に訊かないでよ」

「本が読めんのにあたしの心は読めねーのかよ」

「ごめんね。本と顔色くらいしか読んだことないんだ」

 どうやら何か言いたかったことがあるらしい。

 部屋に忘れ物を取りに言って、別の忘れ物を思い出したせいで本来の忘れ物を忘れるみたいなあれだろうと思う。

 私が一つ話題を挟んでしまったせいで忘れてしまったのだろう。

「じゃあ思い出すまでの話題を一ついいかな」

「あ?」

 本当に私と同い年かと思わせるくらいの鋭い眼光の篝さん。

 不機嫌なわけではなく、普段からこんな感じの人だ。

「私は美少女なんだろうか?」

「あ?」

 反応は変わらないものの、眉間に寄せたしわが、さらに顔に影を落とす。

「あー、あれだな? お前いっつもへらへら笑ってるもんな」

「私そんなにへらへらしてないでしょ」

 美少女というより、微笑女と言ったところだろうか。

 よく笑う方だと思ってはいるし、正直あんまり否定できなくもあるのだった。

「この前ちょっと言われたんだよ。お前は美少女だから、分相応の振る舞いをしろって」

「誰だよ、そんなこと言ったやつ」

「友達、一個上の」

「そいつの言うところの分相応の振る舞いってのはなんだ」

 パキパキと拳を鳴らす篝さん。

 夕暮さんの名前を聞こうものなら殴りに行こうとでも思っていたりするんだろうか。

「あんまり勘違いをさせるような振る舞いをするなって」

「……なるほどな。つまりどういうことだ?」

「分かってないんじゃん」

「仕方ねーだろ、あたし、分かんねーことは分かんねーんだから」

 そりゃあそうでしょうとは思うものの、ならばなぜ、なるほどと相槌を打ったのか。しかし、なんだか確信をついた発言のような気もする。

 分からないことは分かるわけはない。

 分かっているつもりの私は解説する。

 それと一応断っておきたいのだけれど、篝さん、学年二位の成績だ。全国模試だって一桁近い上位にいつもいる。

「つまりだよ、容姿がいい人間というのは、それだけ周りの目を奪いやすいってことだ。男子高校生というやつはちょっと優しくされたら勘違いするし、美少女相手なら、それは加速する恐れがあるって。そう簡単に微笑を向けるなって。希少にしろって」

「あー………よく分かんねーけど、それはなんか問題なのか?」

「勘違いって言うのが、私がその人に対して好意を抱いているんじゃないか、自分のことを好いているんじゃないかっていう種の物らしいんだ。私がそんなつもりじゃなくても、相手は本気でそう思ってるから、相手を怒らせちゃうかもしれないんだって」

「そいつが悪いじゃねーか」

「そうだけど、私は私で対策しろって話だよ」

 夕暮さんはそういうことが言いたかったらしいけれど、会話をするだけでもアウトになることがあるらしい。そうなると私に打つ手はもう無いのでは? と思う。

 いろんな人とお話をするのが私は大好きなのに。

「ん、思い出した」

「うん? なにを?」

「次は体育だ。本を読んでる場合じゃねーってことを言いに来たんだった」

「あ、そっか。ありがとう」

 私は立ち上がって、体操着の入ったカバンを取る。

 会話に夢中になって気付かなかったけれど、教室の中からもう半分ほどの人がいなくなっていた。誰か教えてくれても良かったのだろうにとは思うものの、篝さんが結構怖がられているから、誰も寄ってこられないのだ。

 教室を出て、更衣室に向かう途中。

「さっきの話だけどよお」

 篝さんの身長は私よりも少しだけ高い。

 体操服の入ったカバンを肩から掛けて、篝さんは言う。

「お前に非はねーだろ。そいつらの勝手な勘違いでお前が気負う必要ねーんじゃねーの?」

「そうは言ってもって話をしたでしょ? 私側でも努力を出来るならした方がいいのかなって、そういう相談」

「お前誰にだって等しいタイプだろ。そいつら盲目過ぎねーか?」

「男子高校生って言うのは、そういうものなんだってさ」

「さっきから、男子高校生、男子高校生って言ってけど、お前の一個上の友達ってのは男なのか?」

「うん、男の人」

「………」

 いぶかるような、鋭い瞳。

 篝さんは私が男の人を苦手としていることを知っている、数少ない人だ。

 その理由までは、誰も知らない。私のパパと、その愛すべき友人さんを除いて。

「その人はパパに似ているんだよ」

「それが話せる理由になんのか?」

「なるよ、大いに。その人には申し訳ないんだけど、男の人に慣れる練習にさせてもらっているんだ」

「成果は?」

「上々」

「そいつは重畳」

 実はほんとに上々。

 昔ほどの緊張感が自分の中に産まれなくなった。夕暮さん様々だ。何かお礼がしたいとは思いつつも、多分それは夕暮さんが心配していることに、もろにぶつかってしまうのだろうと思う。

 日々感謝を口にするほかない。しかしそれもちょっとだけ拒絶される。

 どうしたものかなあと。

「篝さんは男の人相手に警戒とかしてるの?」

 加々良柄家の長女である篝さん。

 警戒してるの? なんて聞いたものの、男性関係には、当たり前ながら私よりも気を張っているだろうと思う。

「別にねーかな」

 気を張っていないようだった。

「あたし普段からこんなんだからよ、その辺の馬鹿な男は寄ってこねーんだよ。馬鹿を演じてるつもりはねーんだが、こういう性格だとあたしを下に見るような男は少なくねーからな。こっちも判断しやすくて助かるもんだぜ?」

「篝さんって偉いところのパーティーとかも行ったりするの?」

「まあ、父さんの付き合いとかで行ったりはすっけど、そこじゃあもうちょっといい感じに振る舞ってるぜ? おしとやかってやつだ。げらげら笑ったりしねえ。あたしだって微笑ばっかの美少女だ」

「見てみたいな、その篝さん」

「ストレスなんだよ。行かずに済むなら行かねえ」

 けっ、と舌打ちをする篝さん。

 加々良柄家というのはそれなりに名を知られた名家ではあるから、そこの長女さんがこの感じでいいのだろうかと思うものの、親しみがあって私は好きだ。そもそも、加々良柄家というのは篝さんの背景、バックグラウンドであって、ゆる校にいる以上、女子高校生である以上はただのかっこいい女の子だ。

「そういうお前こそ行ったりしねーのか? 名が知られてっと、呼ばれたりもすんじゃねーの?」

「名前が知られても、顔は知られたくないって頑なに言わせてもらってるからね」

「けど、ここじゃああんまり隠してねーよな」

「吹聴してるわけでもないんだけどね。私だって女子高校生なわけだし、この高校で自分のやれることは出来るだけやりたいんだ。そのためには仕方のないことだよ」

「やりたいことってなんだ?」

「お洒落、勉強、恋愛とかね。所謂青春ってやつだ」

「なんだ、お前恋してんのか。さっき言ってた——」

「いやいや、それは違う」

 早い段階で私は否定する。

 夕暮さんに申し訳ないから。

「はぐくまれる恋を見ている、観測するというのを、私は好いているんだよ。目も口さがも遠慮も持つように気をつけているけどね」

 更衣室につき、その扉を開ける。

 授業開始まで時間はあるものの、数人を残してほとんど人はいなくなっていた。

 空きロッカーに鞄を入れて、腰に巻いた裏起毛のパーカーを外す。

「いつも思うけどよ、それ暑くねーのか?」

「暑いって言うのは、このパーカーを脱ぐだけの理由にはならないかな」

 私の隣でカッターシャツのボタンをほとんど外さないままに、豪快に脱ぐ篝さんに向けて私は言う。

 覗く肌。腹筋が六つに割れている。

「相変わらず、凄く良い身体してるよね……」

 引き締まっている身体だ。決して細いというわけではなく、健康的な肉を残したままに、しかしそれは鍛え上げられている。筋肉の形が見ただけで分かるくらいだ。ムキムキというよりはバキバキと言った方が近いくらいの、見惚れてしまうくらいの肉体美。

「さっきのお前の話じゃねーけど、あたしもこういう部分で自衛してんのかもな。いつ襲われても返り討ちに出来る」

「自衛のために鍛えてるの?」

「まあ、単純に身体鍛えたり動かすのが好きだってのもあるな」

 篝さんは柔道部。

 実際に見たわけじゃないけれど、入学そうそう、入部そうそう、学年を問わない男子を投げ飛ばして回っているらしく、おかげさまで結構恐れられているらしい。

 篝さんに本気でパンチされたら、一発で意識としばらくの記憶が飛ぶ自信がある。

 そんなゆる校の柔道部。現職の警察官の方が講師として時折教えに来ているらしい。

そのおかげか、大会では多くの成績を残していて、ひとつ前の大会では決勝でゆる校生同士が争ったんだとか。

「私も身体鍛えた方がいいのかな」

「お前運動神経は壊滅的にねーもんな」

「あはは……」

 私は何でもできると思われることがある。

 もちろんそんなわけはなく、私が苦手なことの一つの例として、運動はからっきしだ。どうにも身体の使い方は分からない。

 前にドッヂボールをやったときに、私の投げたボールがなぜだか私の真下に当たり、跳ね返ったボールで、洒落にならない量の鼻血を吹き出したことがある。

 なんだか知らないけど話題になった。私が鼻血を吹き出すことには、特殊な需要があるらしい。篝さんが言っていた。

 私にも分からないことはある。これがその一つだ。

「その、ちょっと触ってみてもいいかな」

「腹か?」

「うん、お腹」

 篝さんは私の方へ身体を向ける。それを肯定と取って、私は篝さんの割れた腹筋へと、手を、指を伸ばす。柔らかく滑らかで、すべすべとした皮膚の表面。しかし、私の指先が沈み込むよりも先に、鉄の板にでも触れるような感覚に辿り着く。

「すっごい、ムキムキだね……」

「鍛えてるからな」

 しばらく鉄の板をつついたり撫でたりして堪能した後、私は手を離した。

「ありがとう、篝さん」

「………」

「どうしたの?」

 じっと私を見つめる篝さんに、私は首を傾げる。

「十二秒」

「うん? なにが?」

「お前があたしの腹を触っていた時間だ。つまり、あたしもそれだけの時間お前の腹を撫で繰り回すだけの権利を得たということでいいな?」

「………はい、大丈夫、です」

 確かに、触らせてもらいながら、私の方は触らせないというのは不公平だ。ひょっとしたらあっさり触らせてくれたのは、この対価を想定してのことだったのかもしれないけれど、それでもやっぱり公平に、私が拒絶してはいけないと思う。

 体操服のお腹の部分だけを少し上げて、篝さんの方に向ける。

 すぐに触ろうとせず、篝さんは顔を近づける。呼吸、鼻息が私のお腹にかかる。

 そして。

「んっ——きゃあっっ!」

 おへその穴に指を突っ込まれた。

 一秒にも満たない間に私は篝さんから飛びのいて離れた。勢い余って尻餅をつく。

「十一とはしねーぞ?」

「だ、だって、私は撫でてただけだよ! おへそに指は入れてないよ!」

「六。二分の一」

「………三。四分の一」

「四。三分の一」

「………」

 尻餅をついたままの私。そんな私の太ももの間に膝を差し込んで、覆いかぶさるようにして、篝さんは顔を寄せてくる。

 篝さんが掛けている眼鏡。分厚いレンズに、顔を真っ赤にした私が映っている。

 三分の一。三分の一くらいなら……。

「よ、四秒、だけだよ……?」

 今度は私が服をまくる前に手を入れ込んでくる。きっと真っ赤になっているだろう、私の顔を見つめたまま、手元を見ることなく。私はと言えば、篝さんと目を合わせることなんて出来るわけがない。視線を逸らして、それでも顔が熱くて、真っ赤になっていると見えてなくとも分かる。

 指先が、私のおへその穴を探るように肌を伝って、その入り口に、人差し指があてられる。

 顔の熱よりも、おへそを伝うその指の感覚の方が確かだった。

「綴、カウント」

「よ、よんっ……」

 指が入り込んでくる。細く長く、真夏ながらどこか冷たく感じる指。

繊細な手つきで、おへその穴の一番奥までたどり着くのに時間はかからなかった。

「さ、さん…………っ!」

 そのまま上下に。押し広げるように。

 より深く、入り込んでくる。深く入り込んだ人差し指と、穴の入り口を探るように中指が、それぞれ全く違う動きで、器用に私のおへその穴を刺激する。

 時折私のお腹に触れる親指や薬指、小指の形まで、よく分かる。

「んん——っ! に、っにぃ………」

ぐるりと穴の中を撫でまわすように——、むしろ、指で舐めまわしているかのように、穴の大きさを私が知覚できるくらいに、ゆっくりと。それでも、突然動きを早くして、緩急をつける。私のおへその穴に、篝さんの指の形が覚えこまされていく。

私のおへその穴の周りの皮膚が、それに合わせて引っ張られるのも、嫌になるくらいに分かる。

「い、いちっ……んあっ——っっ!」

 最後のカウントに合わせたのか、篝さんはより深く指を差し込んだ。

 身体が震えて、上手く支えられなくて、私はしがみつくように篝さんの身体に腕を回した。

 早くしたり、ゆっくりにしたり、強く入れ込んだり、優しくなでるようにしたり。たった一秒の間なのにそれが途方もないほどの時間に感じるほどに、緩急をつけて、様々な方法で私のおへその穴を弄って、弄って、弄って、弄って、好き放題にする。

「ぜ………ぜろっ——! も、もう終わりだよ!」

 突き飛ばすようにして、私は篝さんから身体を離した。

 呼吸が荒くなっている私に対して、篝さんは特に変わった様子も見せず、さっきまで私のお腹の中を探索していた人差し指を眺めている。

「耐え性が無いな、お前は」

「お、おへその、穴に、指を入れられる経験なんて、ない方が普通だよ……っ!」

 息を切らしながら、私は答える。

 もう指は入っていないけれど、その感覚は嫌になるくらいに鮮明に思い出すことが出来るし、思い出そうとしなくても、疼いた私のお腹がその感覚を忘れさせないようにしてくる。

 ぎゅっと両手でお腹を包んでみても、服が少し触れるだけで、おへそに痺れが走り、身体を跳ねさせた。

「触ってるときに気付いたんだが」

 これ以上指も手も入れこまれないようにお腹を包んだ私の腕。その先にある、さっきまでいじくりまわされていたその場所に、その場所をいじくりまわしていた人差し指を向けて、篝さんは言う。

「腹に、傷があるな?」

 私のわき腹の辺り。

 よく見ないと気づかないくらいには薄くなっているし、篝さんのように弄り回すように触らなければその凹凸にも気づかないだろうけれど、大きな傷跡が一つ。

「む、昔、ちょっとドジ踏んじゃって」

 立ち上がった篝さんが差し出した手。

切らした息を整えてから、その手を取って、私も立ち上がった。

「ドジ?」

「ジャングルジムに登っててね、足を滑らせて落ちちゃったんだよ。そこにたまたま木の枝が」

「刺さったのか?」

「内臓が傷つかなかったのは奇跡だって」

 という、嘘。

 木の枝なんか刺さってない。

 刺さったのは、一本の包丁だった。

 厳密に言えば、のは、だ。

「そのころから運動神経がなかったんだよ。何かないかな、運動が出来るようになるような練習」

 そうして私は、話題を戻した。

 というよりは、逸らした。

「体力作りから始めたらどうだ? さっきもへそを弄られただけで息が切れてたし」

「し、仕方ないでしょ………じゃ、じゃあ体力付いたら運動もできるようになる?」

「なるわけねーだろ、馬鹿か」

 ぴしゃりと言い切られる。

「まあでも、体力が無いことには始まらんもんもある。早起きしてランニングでもしてみたらどうだ」

「そうしてみ——」

 と、私は言葉を失った。

 次の言葉が出てこなかった。

 原因は、篝さん越しに見える、更衣室の端で着替えている女の子が目に入ったこと。

 その、身体。

「おい、どうした?」

「……う、ううん。なんでもない」

 私は平静を装った。

 不用意に触れていい問題ではないことは分かっている。それも、こんな場所で。他にも人がいる場所で。

「今日って何やるんだっけ」

「ハードル」

「私、あれ怖いんだよなあ………」

「コツだ、タイミングさえつかめればぶつかったりしない」

「出来るかな………」

「分からねーなら教えてやるからいい」

「ふふ、ありがとね。そうやってちゃんと教えてくれるとこ、私、好きだよ」

 おへそを弄られても、別に嫌いになるなんてことはない。出来ればもうやられたくはないけれど、そもそもあれは、私が先に篝さんのお腹に触ったことに対する対価のようなものなんだし。

 夕暮さんと違って照れた様子も見せず、それでも篝さんはふっと笑んだのだった。


 4


「サボりが悪いことだってのは、お前、知らねえのか?」

「……知ってますよ、古月さんと違って」

 ペントハウスの上から、ポケットに手を突っ込んで、相も変わらず古月さんは私を見下ろしている。普段から俯いてばかり、足元と廊下の床を確認してばかりの私も、この人を前にすると、無理やりに顔をあげなくてはいけなくなるし、距離のせいで少しだけ声を張らなくてはいけなくなる。

 背に日差しが当たって痛いくらいの私に対して、真正面から日光を受け止める古月さんは、気にした様子も見せないまま、ぎらついた八重歯にその光を反射させ、弱い風に黄色の混ざった黒髪をなびかせる。

「俺だってサボりが悪いことだとは分かってんだぜ?」

「じゃあ、どうしてサボりなんかしているんですか?」

「ルールを破るってのは難しいよな」

 不敵に笑んで、古月さんは言う。

「破る以上、ルールってのは存在していなければいけないもんだ。でもな、初めからルールに従わなかった場合、それはルールを破ってることになんのか?」

「………」

「なんだ? 意味わかってねえのか?」

「なんとなく、分かります。でも、上手く言葉にならなくて……」

 ルールを破るからルール破り。単純だ。

 しかし、ルール破りと言われるからには、ある程度そのルールの中で存在しなければ、振る舞わなければいけない。うまい例えになっているかは分からないけれど、ハンドを貰うには、まずはサッカーをしなければいけない、みたいな。野球でハンドは貰えない。

「えっと……それでつまり、古月さんは何が言いたいんですか………?」

「俺は割と普通に授業に出てる。でも、たまに出ないからサボりなのさ」

 ふふんと、なぜだか誇らしげな様子の古月さん。

「普段から一切授業に出ないやつが授業に出なかったところで、いつも通りだ。俺は普段授業に出てるから、こうしてサボりだって事実が産まれるのさ」

 詳しく解説するようにまた言って、また鼻を鳴らす。

 なんだか誇らしげだった。

「悪い人に、なりたいんですか……? 古月さんは」

「悪がいるから正義がいる。間違いがあるから正しさがある。俺は悪と言われている方に住んでいてえなあ」

「な、なぜですか……?」

「悪がいなきゃ、正義は成り立たねえんだぜ? 正義はいつだって、悪の奴隷だ」

 八重歯をのぞかせて、不敵に古月さんは笑う。

「サドがマゾの奴隷だって、それと似たようなもんだ」

「は、はい?」

 なんだか思いがけないことを言われた気がして、私は露骨な反応を示してしまう。

「マゾってのは自分一人でも虐げられるような状況を作れんだろ? でも、サドってのは一人でサドれねえだろ」

「サドる……」

 自転車のことでないのなら、そんな言葉は初めて聞いた。

 でも実際、サドは一人で完結しない。マゾは一人でも完結できるだろうと思う。

 マゾは一人でもマゾれる。

「要は正義ってのは悪がいなきゃ成り立たねえのさ。俺はそう思ってる」

「で、でも、飢えて苦しんでる子どもに食べ物を与える行為はただの正義ですよ。誰も悪じゃない」

「何言ってんだ? 子どもを飢えさせるような国がクソほど悪だろうが」

 正義を語っている。それも真っ当な。

 古月さん、さっき悪に住みたいって言っていたのに。

「ま、っつーわけで、俺は悪になりてえんだよ。正義を成り立たせてやんのさ」

「それは、悪なんですか? 必要悪は、正義だと思ってますよ、私。形の違う正義」

「知らねえよ、俺が悪だと思ってっから悪なんだよ」

「………」

 なんだか全部を台無しにするようなことを言われた気がする。

 そういう話じゃなかった気がするのに。

「んで? お前は何しに来てんの?」

 私を見下ろして、見下して、古月さんは言う。

「えっ、と……わ、私も、サボりです………」

「俺みてえな理由もねえサボりだろ? 授業はちゃんと受けたらどうだ?」

 たしなめられた。

どうにもよく分からない人だ。

しかし、だからこそ、意味は置いておくにしろ、この人も異名持ちなんだなと思わされる。

「いいじゃないですか、べつに。たまのサボりくらい」

「こう、大木があるだろ?」

 古月さんはまた何かを話し始める。

 大木が目の前にあるかのように、その形を両手で象る。

「それが勉強ってやつだ。学校生活の上での勉強は、枝を伸ばす方法を知るためのもんで、将来必要な勉強をする方法を教えてくれるもんだ」

「? 将来必要な勉強じゃないんですか……?」

「それが全くねえとは言わねえが、大人になればそんな勉強、ほとんど必要ないもんだ。そんでも、勉強の方法を知っておくのは悪いことじゃねえし、やりたいことが出来たときに、学校の勉強はとっかかりを教えてくれたりもする。勉強はしとくもんだぜ?」

 八重歯をぎらつかせて古月さんは笑うのだった。

「……な、何がしたいんですか?」

「何がってなんだよ」

「いや、悪になりたいって言ってる割に、さっきからいろいろ諭してくれてるので、ほんとに悪になる気はあるのかなって」

「悪になる気はあるのか! って、おもしれえな」

 けらけらと一人で笑い始める古月さん。

 この人の悪名のほとんどは小学生のような悪戯ばかり。それでも時折とんでもないことをやらかしているこの人だけれど、要はこの人、悪者がかっこいいと思ってるだけの中二病みたいな人じゃないのだろうか。

 そう思うと、なんだかその様子も、異名を与えられているという事実も滑稽に思えてくる。

「俺が悪であるためには他のやつらが正義である必要があんだよ」

「………?」

 少し考えても、言葉の意味を理解しかねた。

「ばかだなあ、お前。言っただろ? 正義の心を育ててやらねえと、独りよがりの悪になっちまうだろ? どんなヒーローもののアニメにも、青臭いくらいの、見てるこっちが赤面するくらいの正義が必要なんだ。それを育てるのもまた、悪の務めだと俺は思ってんだよ」

「………」

 多分この人、普通にいい人だ。

 悪名のせいで警戒していたりもしたのだけれど、多分必要ない。

「古月さんはいい人なんですね」

「はあ⁉」

 驚いている。

 年上に思うことじゃないかもしれないけど、可愛いところもある人だ。

「悪だろ! 俺は!」

「頑張ってなるものでもないと思いますよ、悪って」

 正義の味方になる方が楽と、なんの漫画だったかそんな言葉を覚えている。

 なんにせよ、この人に悪は向いていない。

 どうして『頭上注意アッパーカット』なんて異名が付けられたのか不思議だ。

「じゃあ、お前に悪が分かんのか」

「少なくとも、古月さんよりは分かっているような気がします……」

「じゃあさ、お前が俺に悪を教えてくれよ!」

「………」

 まさかそんなことを言われると思わず、口を開いただけで声が出てこなかった。

 私が、教える?

 異名を持っている人に?

「わ、私で、いいんですか?」

「なんでダメなんだ?」

「……そう、ですね……はい! 任せてください!」

 嬉しかった。

頼ってもらえただけじゃなくて、異名を持っている人からこんなことを言って貰えるなんて。

まるで、私のことを、私自身を、求めてくれているみたいで。

「そういえば、俺はお前の名前を聞いてなかった。なんだっけ。なんて呼べばいい?」

華表はなおもてひな、です。呼び方は、なんでも……」

「決めてくれよ」

「………じゃあ、華表、で」

「ん! 分かった!」

 最初に見せてくれたような不敵な笑みではなく、子どもっぽい無邪気な笑みで、古月さんは言った。

「よろしくな! 華表!」


 5


「古月」

 ふんふんと、上機嫌にイヤホンで音楽を聴く古月に、僕は声をかける。

 声は届いていたようで、古月は片方のイヤホンを外した。

「なんだ? なんか用か?」

「………いや、べつに、特別用があったってわけじゃない」

 前に、綴と『頭上注意アッパーカット』の話をして、なんとなくこいつのことをもう少しだけ正確に把握しておきたいと思ったのだ。

 普段から話すわけじゃないから、怪訝な顔を向けられた。

「じゃあ用もないのに話しかけてきたのか? 俺とお前はそんな仲だったか?」

「機嫌良さそうだったから、ちょっと気になったんだよ」

 そんな風に無理に理由をつけて、僕は古月の前の席に座る。

 古月は、不思議そうな顔を返してきたものの。

「ま、いいだろう。異名持ちのよしみだ。実際、機嫌はいいからな」

 そう言って、もう片方のイヤホンも外した。

 不敵に笑んで、指を組む。

「お互い異名持ちだけど、あんま話すこともなかったな」

「お前いっつもあいつと一緒にいるじゃねえか」

 言って、古月は自分の机に伏して眠る、『博愛フラジャイル』、足利あしかがかしに視線を送る。

「このクラスじゃあ俺らだけだぜ? 異名持ち。仲良しの輪に入れてくれよ」

「お前悪さしかしないだろ。巻き込まれて僕らまで怒られるのは嫌なんだよ」

「でもお前もよく怒られてるだろ、あいつのせいで」

 古月はまた樫に視線を送る。

 樫が授業中にも寝てばっかりいるせいで、樫の世話係と思われている僕が起こられることもしばしばある。しかし、古月よりは怒られていないだろうと思う。

「俺は別に怒られてねえよ」

「逃げてるもんな、いっつも」

「こないだのパソコンの件はすげえ微妙な反応されたな。やったことは悪いことなんだが、実績としては立派だ、みたいな感じだった」

「なんであんなことやろうと思ったんだ?」

「なんか使いづらいって誰か言ってたんだよ」

「使いやすくなってほしくてやったのか?」

「いや、なんとなく」

 こいつ実はいいやつなんじゃないだろうかと思わされることがしばしばある。

己の欲求に忠実なだけとは分かっていても、自分のやりたいこと、やってみたいと思ったことには、良くも悪くも、やっぱり酷く忠実なのだ。だから、あることを成し遂げたいと思った時、上手いことこいつをやる気にさせれば、こいつが勝手に終わらせてくれる。

 ただし、誰かの力が加わっていると分かったとたんにやる気をなくす。

 小学生に「勉強しなさい」と言って、「今やろうと思ってたとこなのに!」と返されるような感じだ。

「古月って、他に異名持ちとか知ってんのか?」

「異名持ち? そりゃああれだろ、『大衆的天才フレックス』」

「他には?」

「『絶対民政グランドメイカー』とか、『潮流イナーシャ』とか、『伏魔殿ティツィアーノ』とか?」

「結局、ゆる校には何人くらい異名持ちがいるんだ?」

「三十人もいないんじゃなかったか?」

「そんな少数のうちの一人に選んでもらえたのか、僕は」

 千人以上の生徒数を誇るゆる校。

 そんな中の選ばれた数十人に入っているのか。

 僕じゃないだろ、絶対。

 本当に平々凡々を極めているからなんて理由で異名が与えられただけなんじゃないか?

「古月はさ、自分の異名の意味に自覚的だったりするのか?」

「『頭上注意アッパーカット』か? まあ、なんとなく分かってはいるけど、そう言うのは自覚的になると出来なくなったりするもんだろ? ほれ、ムカデに歩き方を訊く、みたいな」

「じゃあ、僕の異名の意味は分かったりしないか?」

「お前の? 『彼誰時エクストラコンテンツ』か?」

「うん。古月と違って、僕の中で少しも掠めるものがないんだ。歩き方も分かってないムカデだよ。だから、平々凡々過ぎる僕に哀れんだ人が与えた異名だと思っている」

 『大衆的天才フレックス』ほどの才能はないし、『博愛フラジャイル』ほどの明確さはないし、『良酔宵チャルダッシュ』ほどの雰囲気もないし、『絶対民政グランドメイカー』ほどの人望もないし、『頭上注意アッパーカット』ほどの独創性があるわけでもない。

 繰り返すが平々凡々だ。

 それも、その代表を名乗れないくらいの、平々凡々。

「なんで、俺なら分かると思った?」

「僕以外の誰かなら分かると思ったんだよ。異名が与えられているってことは、少なくとも、そういう部分に関して周りが何かを思ってるってことだろ? 古月から見てどうかなと」

「俺、お前とまともに話したの今日が初めてなんだが」

「やっぱ分かんないか?」

「………まあ、分からんでもないな『彼誰時エクストラコンテンツ』」

「分かるんじゃんか」

「教えねえけどな。歩き方を忘れないためにも」

 果たして、古月と話したこの瞬間で分かることなのだろうか。

 雰囲気から出ているのか、話し方に何かの特徴があるのか、あるいは古月が普段見ている僕から感じられることなのか。

 彼誰時という言葉から推測して、存在が不透明的な意味かもしれないけれど、しかし、ならば、異名がついていることに矛盾が生じそうな気も……。

「まあお前には一生分からん」

「わ、分かんないのか……」

「分かったら奇跡」

「そこまでか」

「まあ『大衆的天才フレックス』と似てんのかもな」

「……古月、適当なこと言ってるだろ」

 古月は肩をすくめた。

 そうは言いつつも『大衆的天才フレックス』と似ている、と言った時の古月のそれはどこか真実味があったような気がする。多分気のせいだろうとは思うが。

「そういえばな、最近新しいおもちゃが手に入ったんだ」

 話題を変えて、なんだか嬉しそうに古月は言う。

「おもちゃ?」

「そうさ。若干壊れかけなんだけどな」

「壊れかけ? なんだ、中古でなんか買ったのか?」

「まあそんなところだ。そんで、それを使って何をしてやろうかと今画策しててな。楽しい想像が止まらねえんだよ。ワクワクだ」

 頭の中にそのおもちゃを思い浮かべているのか、古月、『頭上注意アッパーカット』は口元を抑え、くつくつと不敵に笑む。

 なんだかあんまりいい予感はしなかった。

「どんなおもちゃなんだ、それ」

「まだ詳しいことは分かんねえかな。もうちょっと弄ってみねえと」

「弄る? なんかの機械か?」

「そうだよ。機械も機械。超精密機器だ」

「こないだの職員室のパソコン事件みたいなこと、またやるつもりか?」

「ちげーよ。その精密機器の壊し方を考えてんのさ」

「……?」

 少し考えてみたものの、言葉の意味が分からなかった。

「機械なんか、ハンマーとかで壊せばいいんじゃないのか?」

「それじゃあ面白くないだろ。叩けば壊れるもんを叩かず、自壊させるんだよ」

「自壊……パラドックスみたいなもんか?」

 なんでも言うことを聞く機械に、「言うことを聞くな」という命令を出したとする。

 なんでも聞かなければいけないのに、言うことを聞いてはいけないという命令が出され、その命令を聞こうものなら、なんでも言うことを聞く、という前提が壊れてしまう。その矛盾から機械がショートしてしまうという、そんな現象、矛盾、哲学みたいなもののことだ。

「? お前なんか難しいこと言ってんな?」

「分からないのかよ」

「仕方ねえだろ。分かんねえんだから」

 不満そうな様子の古月に、僕は一つ息をついてから。

「じゃあ、その機械は壊すために手に入れたのか?」

「物ってのはいずれ壊れるもんだけどよ、壊れる過程に干渉できるって嬉しくねえか?」

「付喪神みたいなもんか? 壊れるまでそれを大切にする、みたいな」

「違えよ。んだ。とは違う」

 破壊欲ということだろうか。

 出来上がったもの、丁寧に時間をかけて作ったものを壊す瞬間の快感が分からないわけじゃない。子どもが積み上げた組み木を、突然壊すような、人間が元来持っているらしい破壊衝動。

「一応は精密機器を大切にしてみる、そんな様子で接する、観察するんだ」

「……」

 機械の話だろうに、接するとは不思議な表現をするなあと、それでも僕は耳を傾ける。

「壊れかけの機械に、明確な役割を与える。役に立っている、役に立てそうな気がする、そう思わせるくらいに頼ってやるんだよ。そうすると、機械は安定して動き始める」

「………」

「そして知らないうちに機械はそれを行動の指針にし始める。自身の役割に自覚的になったんだ、むべなるかなって感じだな。そうやって、たった一つを丁寧に。丁寧に、丁寧に守ってやって、ただ一点の薄氷の上で安定させるんだ」

「………」

「しかし、その薄氷は俺だ。あとは、俺がそいつを落としてやればいい。その機械はもう自壊以外に選択できなくなるんだよ」

「………なんの、話をしてるんだ?」

「言ったろ? 精密機器の話だよ」

 くつくつと不敵に笑う古月。

 どうにも機械の話なんかではないような気がしてしまう。こいつは、とんでもないことに手を出そうとしている気がする。

 こいつはその手のプロだ。『頭上注意アッパーカット』だ。

 ここで止めないと、マズい気がする。

「トロッコ問題ってのは有名だよな」

 古月は言う。

「五人を殺すか、一人を殺すか。選ばないとか言う、本質も捉えられてねえふざけたことを抜かしてるやつもいるが、俺は五人の方を殺すんだ」

「……なんで、五人を?」

「一人を殺した場合に、責任が分散しすぎるからさ」

「責任?」

「五人をトロッコでひき殺した後、生き残った一人にその死体を見せ「こいつらのおかげでお前は生きている」、そう言ってやるんだ。だが一人を殺して、五人にそれを見せたらどうだ? そいつらは、俺たちは悪くない、一人を殺したお前が悪い、なーんて言いだすだろうぜ? 人は集団、群衆、群れになったとたん、己の正当性を強固に主張しだすからな。だから、五人を殺す。一人だけなら責任を背負わせられる」

「……何が言いたい?」

「例えば生き残った一人が、勝手に五人の遺体を見つけたとしたら? この五人のおかげで生き残ったと、考えずにはいられないと思わないか?」

「だから、何が言いたいんだ?」

「誰がやったか分からなければ、そいつは自分のせいだと思うだろうな」

 古月は性格が悪い。

 必死でよじ登ろうとしているやつを、平気な顔をして蹴落とす。しかもそれは、ひっそりと、そいつに気付かれないように。

企みが人に向いたとき、こいつは何をしでかすか分からない。

「誰を壊すつもりなんだ? 古月」

「ただの壊れかけの精密機器だって、そう言ってるだろ?」

 古月は笑う。

「邪魔するなよ? せっかくいい具合に面白くなりそうなんだから」


 6


 コツコツと指先で机をたたく綴の姿なんてものを見るのは、初めてだった。

 美術室の中で、いつものように絵を描くこともなく。

 今日は、僕の勉強を見てくれるという話だった。綴が一月前なのに勉強を始めるものだから、なんだか僕も焦らされてしまったのだ。一つ上である僕の勉強を、綴が見ることが出来るという事実に、特に疑問は抱かない。

「つ、綴?」

「……………」

 椅子の上で片膝を立てて、もう片方の足は胡坐をかくように。

 はいているのはスカートなのだから、机の下ではあられもないことになっているだろうに、それを気にした様子も、気づいている様子もなかった。

 苛立ちと似てはいるけれど、少し違う。

 焦り、焦燥。

 その方が近い。

 机をたたくのを辞めたと思えば、その指を頭に当ててぐりぐりと押し付け始める。唇を噛んで、何かと戦っているかのように、眉間にしわを寄せる。

「綴」

「……なにかな」

「あんま人前で、そういう感情を放出するもんじゃない」

「………」

 僕に言われて、綴ははっとした様子を見せる。

 肩の力を抜くように、大きく息を吐いた。

「……ごめん、夕暮さん」

 あげていた片膝を下ろし、丁寧に座り直す。

「いや、いいんだ。綴がそこまでになるって、何事なんだ? なにがあった?」

「………」

 元から誰もいない美術室。

 それでも綴は誰もいないことを確認するために、教室中を見渡した。

「……ちょっと、重たい話を、してもいいかな」

「一人で抱えられないなら、僕に預けてくれて構わない」

 僕の言葉に、綴は小首をかしげるように、穏やかに笑んだ。

「他言無用で頼むね。憶測だし、多分だから。確信もないこと」

「……ああ、分かった」

「………」

 一瞬だけ躊躇いの様子を見せて、それでも、綴は口を開いた。

「私のクラスに、虐待を受けている子がいる。助けたい。でも、どうしたらいいか分からない」

 肩と、その声を少しだけ震わせ、まっすぐに僕の目を見て、一息に綴は言った。

「方法は知ってるんだ。どうすればいいか、どこに相談すればいいか、誰に相談すればいいか。でも、そんなに簡単に干渉してはいけないことだって言うのも、分かってるんだ。下手に干渉すれば、状況が悪化しかねないってことも」

「………」

 綴は、机の上で拳を握りしめる。

 予想だにしない言葉に、何を言えばいいのかもわからなかったし、どうすればいいのか分からなかった。

 本やアニメ、ニュースくらいでしか、虐待なんて見たこともなければ聞いたこともない。

 まさかこんなに身近に起こっていることだなんて思わなかったし、そもそも、現実に起こっているのかすら疑っている風があるくらいだ。助ける方法なんて分かるわけがない。

「その子ね、最近授業に出席しないことがあるんだ。そんな子じゃなかったはずなのに。普段と違う行動をするって、あれは一つのSOSだと思ってる。だから、多分、そんなに時間が無い」

 口元を両手で覆って、綴は少しだけうつむいて、大きく息を吐く。

 僕に何が出来るかなんてわからない。

 それでも。

 向き合え。分からないからって、逃げるな。

 僕に作れるだけの、言葉を作れ。

「助けたいんだよな、綴」

「うん、当たり前だ」

 僕の目を見て、綴は言う。

「その方法とか、相談相手が分かってるなら、まずはその人、場所? に相談してみればいいじゃんか」

「……そうだね、その通りだ」

 違う。今の言葉は違う。

 そんな事実を綴が分かっていないわけがない。それでも、綴は僕にこのことを話してくれたんだ。だから、僕にしかできないようなことがあるはずなんだ。

 自分ひとりで抱えるのが不安だからと、頼ってくれたんだ。

「い、いいか、綴」

 慎重に、僕は口を開いた。

「多分、僕に出来ることはそう多くない。虐待を受けている子の話なんて、まさかリアルで聞くとは思ってなかった。だから、どういう対処をすればいいのかも分からない。きっと、僕自身がその子に関わるのも、その子に変な意識をさせてしまうから悪手なんだと思う。だけど、だけどな、綴——」

 何も出来なくとも、誠実であることは出来る。

 目の前にいる、一人の子を助けたいと願う、僕の友人に向けて。

「綴がどんな選択をしようと、それは綴がその子を思って動いた結果だろ。少なくとも、今この瞬間、僕はそれを知った。そう聞いた。だから、綴が間違えたとしても、綴の想いを否定するようなことを僕はしない。絶対にだ。仮にそんなことをする奴がいたら、僕が代わりに怒ってやる。綴のことを守ってやる。だから、綴は自分に出来ることを慎重にやればいい。照れ臭いけど、僕はここにいるから。いつだって、頼ってくれ」

 きっと、僕に出来ること、言えることはこれが全部だ。

 ただ綴を安心させてやること。味方だと示すこと。帰ってもいい場所を用意しておくこと。僕に出来る全部で、僕に出来る最大限の誠実さ。

 やるべきことが分からないなら、やれることをやるだけだ。

「……ありがとう、夕暮さん。私、夕暮さんのそういうとこ——」

「だから、辞め——」

「そういうとこ、好きだよ。ほんとに。心から」

 僕が遮った綴の言葉を、綴はさらに遮って、小首をかしげるような笑みとともに、そう言ってみせた。安心しきったような笑みを向ける綴に、僕は目を合わせられるわけが無かった。

 こいつ、ほんとに僕のことを恋愛的に好いていないんだろうな。

 こんなの、勘違いされたって仕方ないだろうに。

「ち、ちなみになんだけどさ、綴。一応、その子の名前を聞いといてもいいか?」

 照れをごまかすように、僕は言う。

「華表雛さん。私のクラスにいる、私と同じくらいの背丈の女の子だよ。前髪が長くって、いつも長そでで過ごしてる」

「長そでってのは、つまり………」

「うん。隠すためだろうね」

 なにを隠しているのかの確認なんて必要はない。

 綴の話から、そんなものは考えなくとも分かる。

「そんなに、危ない状態なのか……?」

「分からない。私だって、どうやって判断すればいいのかもわからないし、何か手を打つべきなのかも迷ってるんだ。でも、そうだね。壊れちゃいそうな、そんな感じがする」

「壊れ………?」

 ふと、頭の中に嫌な想像が浮かんだ。

 壊れかけの、精密機器。

「……なあ、綴」

「うん?」

「一旦、少しの期間だけ、この件を僕に預けてくれないか?」

「い、いいけど……どうしたの?」

「僕の予想が正しければ、ちょっと面倒なことになってる気がする」

「面倒なこと?」

「多分、その華表って子に関して、一番関わってはいけない人間が、関わり始めている気がする。そいつのことは、僕がどうにかする」

「………」

 怪訝な表情で、綴は僕の次の言葉を待った。

「作戦会議だ、綴。て言っても、僕はそんなのできない。それでも僕に出来ることは何だってするから、綴の力を貸してくれ」


 7


「雛さん」

 休み時間、廊下を歩いていたところを、『大衆的天才フレックス』、物部綴さんに呼び止められる。

 同じクラスで、話したことがないとまでは言わないけれど、それでもそう多くの言葉を交わした記憶はない。私の名前を知っていたのだって驚きだ。だから、どうして私に話しかけてきたのかと、私は戸惑って、いつも下がってばかりの視線を、また下げる。

「ど、どうしたん、ですか……?」

「あ、えっと……その、なにか、困ったこととか、ないかなって………」

「困ったこと?」

 私の前髪は長くて、多分綴さんの方から私の目は見えていない。

 恐る恐る送った視線の中で、綴さんはどこか不安げな様子で私の方をうかがっていた。

 綺麗な子だと、そう思う。男の子たちはその容姿に対して言うのだろうし、私もそう思うけれど、何より、瞳が綺麗だ。芯のある、凛々しい瞳。見入ってしまうような、見惚れてしまうような、美しい、瞳。

 それでも、あまり目を合わせていたくない。

 私の汚さが、醜さが、際立つようで。

「なんにも、ない、ですよ? 困ったこと、なんて」

「………そっ、か」

 少しの沈黙の後、綴さんはそう返した。

「あの、雛さん」

「な、なん、ですか……?」

「私は、いつでも、相談に乗るから——乗れるから、ね?」

 小首をかしげるように優しく笑んで、綴さんは行ってしまった。

「………」

 私は、綴さんが羨ましい。

 頭も良くて、たくさんの才能があって、愛嬌も、容姿も、人望も、すべてを持ち合わせているような子。なんの欠点も見当たらない、そんな子。

 ずるい、羨ましい、妬ましい。

 そんな風に考えてしまう自分が醜く思えるほどの、人格者。

 私なんかに目をかけてくれるなんて。

 でも、でも、でも。

 それでも。

「………放って、おいてよ」

 私は綴さんが嫌いだ。

 あの子がいなければ。あの子さえいなければ。

 私は——。

 拳を強く握りながら帰路について、結局私は、あの子に思考を奪われていた。

 嫌いも一つの好意の感情だとか、冗談じゃないと思う。何でもかんでも綺麗な風に捉えて、人の醜さとか、汚さとか、そういうものを無視して、すべてが救える存在だなんて思って、自分たちの理解の範疇に押し込める。

 私がどういう感情なのかなんてどうでもよくて、ただ、正しいことをしていることの優越感に、愉悦感に浸っているだけ。私の人生なんか何も関係ないだろうに。私はこのままでいいのに、このままで落ち着いているのに、幸福でなくとも、このままでいいって思っているのに、私のことを指さして、不幸だって言うんだ。私のことを不幸だって決めつけないと、私を救うことにならないから、自分の愉悦に浸れないから。自分が善人だという事実に浸って、それをふりまいて自己肯定して、誇らしく思うんだろう。

 私はあんな子のおもちゃじゃない。

 私を必要としてくれる人がいたんだ。子どもっぽくて、無邪気な様子で、私を必要としてくれる。私も誰かに影響を与えられるような人間になれる。それもゆる校の中でごく少数の異名を持っている人にだ。こんなに誇らしくて、嬉しくて、たまらない幸福はないだろうに、そんなことまで剥奪しようとしないでほしい。

 才能をたくさん持って、天才だって言われて、色んな人に好かれて、そんなにたくさんあるのに、まだ足りないのだろうか。嫌になる。私なんかより、ずっと醜い。

 六階建てのマンション、その三階。私の家に帰ってくる。

「………ただい——」

「雛!」

 帰ってそうそう、怒号が聞こえた。

 びくりと肩を震わせて、その声が外に漏れないように、素早く扉を閉める。

 足音をどすどすと鳴らしながら、お母さんが一枚の紙きれを手に、私の方へ向かってくる。少し前にやった数学の小テスト。

百点満点中、九十六点。クラスで三番。

 上の二人が誰なのかは言うまでもなく、そして、二人とも満点だった。

「なんで、こんな簡単なテストに満点も取れないの!」

「ご、ごめんなさ——っ!」

 言い切るよりも早く、ぱちんと頬を叩かれた。

 お母さんは賢い人だった、有名な大学を主席で卒業して、海外の大学で活躍していたお父さんと結婚した。私はそんな二人の間に産まれて、子どものころから、所謂英才教育というものを注ぎ込まれてきた。習い事も塾も、家庭教師も、友達なんて作る暇もないまま、「大人になったら友達なんて必要なくなる」とか、「雛に友達なんか必要ない」そう言われて、私はその言葉をそのまま、ただ、言いつけに従った。

 それでも私は、一番にはなれなかった。

 中途半端に、一番に届かないくらいのギリギリの成績。

 そんな半端な成績を取れない原因を追求し合った両親は離婚した。賢い子供が出来ると思っていたらしく、教育の失敗をお互いに擦り付け合ったのだ。

 私はお母さんの方に引き取られ、それでも、お母さんの期待を裏切りたくなくて、寝る間も惜しんで勉強した。けれど、中学ではどれだけ頑張っても二番が最高で、ゆる校に入学してからは、余計に自分の力の無さを突きつけられた。

「貴方の学校には物部綴って凄い子がいるんでしょ⁉ その子から学びなさいって、いつも言ってるでしょ⁉」

 『大衆的天才フレックス』、物部綴。

 規格外の化け物だった。頭がいいだけじゃなくて、音楽も、絵画も、文学も、世界に認められるだけの才能を持ち合わせて、容姿までもが一級品で、誰にだって優しくできるような人格の持ち主。

 私の完成形だなんて、そんな表現は間違っている。それでも、私が、ああなっていたのだろうなとそう思う。

 もう一人、私の上にいる加々良柄さんのことは、お母さんは気にしていないらしい。家柄が家柄なのだ。仕方がないとか、なんとか。

 私を指さして叱責を続けるお母さんに目を合わせられなかった。

 言葉はすべて私の中に入ってくる。

「……まったく、どこで間違えたのかしら」

 その言葉も、確かに私の耳に入ってくる。

「………勉強、してきます」

 小さくそう言って、憤るお母さんの横を抜けて、私はひりひりとした頬を抑えることも出来ないままで、自分の部屋に入ってすぐに机に向かって、今習っているところを、また復習する。

 あの子はきっと、こういう努力のことを知らない。

 頭のいい人間は、初めから頭がいい。努力なんて、そうたくさん必要としない。私は頭が悪いから、たくさん努力しなくちゃいけない。

「………」

 握ったペンに力がこもった。

 あの子がいなかったら、私はお母さんに認めてもらえたのかな。

 あの子がいなかったら、お父さんは帰ってきてくれるかな。

 あの子がいなかったら、二人とも私を褒めてくれるのかな。

 あの子がいなかったら、昔みたいに頭を撫でてくれるかな。

 あの子がいなかったら。

 あの子がいなかったら。あの子がいなかったら。

 あの子がいなかったら。あの子がいなかったら。あの子がいなかったら。あの子がいなかったら。あの子がいなかったら。あの子がいなかったら。あの子がいなかったら。あの子がいなかったら。あの子がいなかったら。あの子がいなかったら。あの子がいなかったら。

「………」

 あの子さえ、いなければ。


 8


「古月ってさ、たまに授業でないけど、何してんだ?」

「サボってんだよ」

 休み時間になって、そのひとつ前の授業に出ていなかった古月を捕まえて、そんな話。

「そりゃあサボってんだろうけどさ。どこでどうサボってんのかと思って」

「屋上で日光浴してんだ」

「こんな暑い中か?」

「暑くたって日光浴くらいするだろ」

 へらへらと笑って、古月は言う。

 今日は雲一つないくらいの快晴だ。そういえば聞こえはいいけれど、季節は真夏だし、気温だって相当高い。そんな中で屋上に行こうとする精神がいまいち僕にはわからない。授業をサボりたいと思う気持ちが分からないわけじゃないけれど、実行なんて出来るわけもない僕は平々凡々だ。

「あ、そうそう。俺この間『大衆的天才フレックス』に会ったんだよ」

「『大衆的天才フレックス』に?」

 思いがけず出てきたその名前に、少しだけ肩に力が入った。

「まあ会ったって言うか、一方的に見ただけなんだけどよ。あいつも、このクソ暑い中、裏起毛のパーカー腰に巻いてんだ」

「らしいな。トレードマークだとでも思ってるんじゃないか?」

「頭のいいやつが考えることはよく分からんな」

 当たり前ながら、綴と僕が知り合いであることは隠している。

 しかし、もあるから、古月の方から話題を出してくれたことは都合が良かった。

「しかし、『大衆的天才フレックス』ってあれだな。美少女ってやつだな」

「いろんな才能を持ってて、その上容姿までいいってのは、どうなんだろうな。僕はあんま羨ましいと思えないんだよ」

「なんだ? お前は才能を欲しがらないタイプなのか?」

「僕は平々凡々なんだよ。そのうち見つかるかもしれない才能に期待してるんだ」

「じゃあなんで羨まないんだ? 期待してるってことは、欲しがってはいるんだろ?」

「あそこまではいらないと思ってる。いろいろ持ちすぎて、もうよく分からないだろ、あいつ」

 たくさんの才能が、綴を一人にしてしまっているのではないかと時折考える。

 しかし、そうではないから『大衆的天才フレックス』という異名がついている。けれど、重ねてしかし、もしも普通の人があれだけの才能を持ってしまったら、それは多分毒にしかならないだろうと思う。

 天才とは孤高なものだという。その限りでないから綴に『大衆的天才フレックス』とつけられているのだろうけれど、綴の心境はやっぱりわからないのだ。

 僕のような平々凡々には、才能なんて、程よく持って、少し足りないくらいがいい。むしろ、無いなら無いで、それが幸せなのかもしれない。

「まあでもなんつうかさ、あいつはちょっと違うんだよな」

「違う? 何がだ?」

「澄んだ綺麗な瞳、みたいなことを普通のやつは言うんだろうが、多分あいつは、結構暗い部分がある。というか、そう言うのを知ってる側の人間だ」

「暗い、部分」

 綴から感じたことはないなんて言えないくらいには、僕も時折垣間見る。

 遠い場所にいるような、天才としての綴と相対している時とは、また違った感覚。

 悲しそうとか、寂しそうとかじゃなくて、ただ単純に、あまり思い出したくない過去を想起しているような、そんな表情、雰囲気。

「俺の才能って言うのかね。そう言うの分かんだよ。だからこそなのかもねえ、『大衆的天才フレックス』なんて呼ばれるほどに大衆的なのはさ」

 暗い部分をしっているから、人に寄り添える。

 ただ才能を持っているだけでは、決して成し得ないことだ。

「ところでさ、大衆的天才を、体臭的天才って言うと、ちょっとゾクゾクしねえか?」

「別にしない」

「はあ? 汗だくの美少女とか、ゾクゾクすんだろ」

 意外とこいつも男子高校生っぽいところがあるんだなという驚きだった。

 しかし、興奮する、とかじゃなくて、ゾクゾクと言っているところが、なんだかうまく笑えない。男子高校生的な意味ではなく『頭上注意アッパーカット』として言っているような気がしてならないのだ。

「お近づきになりてえなあ。どんな人間なのかねえ、あいつ」

「僕らには一生かかわりが無いような人種だろうさ」

「ただ、『大衆的天才フレックス』の中学の頃が気になるよな」

「中学?」

 思えば、綴は自分の中学時代、そもそも、自分のことをあんまり話す方じゃない。

 パパさんの話は時折しているけれど、あまたの才能を持ち合わせていると話題になったのだって、二、三年前、それも突然に名前を聞くようになったのだ。

 綴と同じ中学に通っていたという人の話も、一切聞いたことはない。

「あいつのセーラー服、見て見たくね?」

「………は?」

 想定していたこととは違う言葉が古月から出てきた。

「俺さ、ブレザーよりセーラー服派なんだよ」

「……分からんでもない」

 一応合わせておくことにした。

 そして、事実だ。

「お、分かってくれんのか! ちなみにやっぱ黒って言うか、紺色っぽい感じ?」

「そうだな。リボンよりもスカーフが好きだ」

「やっぱ、そうだよなあ……」

 うんうんと頷いて、古月は息を吐く。

「俺はセーラー服にミニスカートはねえと思うんだよ」

「ブレザーはミニスカートになってもいいと思うんだけどな、セーラー服こそ膝下の服装を守ってほしい」

「あっははは! やっぱそうだよな!」

 けらけらと嬉しそうな様子の古月。

 実際、セーラー服こそきちんと着てほしいと思っている。制服はきちんと着たときにこそ、丁寧で礼節さを表せるデザインになっているとどこかで聞いた覚えがあるし、果たしてそれがセーラー服に対しての熱い思いを裏付けてくれているのかは分からないけれど、少なくとも、ミニスカートのセーラー服にはそういう感情は芽生えない。

 ちゃんと着るからこそ、セーラー服には価値があるのだ。

 ちなみに冬のセーラーはもっといい。マフラーとか巻いてほしい。

「それで、綴の中学、セーラー服が気になるのか?」

「……そうそう。あんな美少女のセーラー服とか、超興味あるじゃん?」

 一瞬だけ言葉に詰まったような、考えるような様子を、古月は見せた。

「僕は別に美少女じゃなくてもセーラー服が好きだよ」

「あっはは、言えてる」

 八重歯をギラリと見せつけて、古月は笑った。

 しかし確かに、綴のセーラー服は見てみたい。それはもう見てみたい。

綴の普段の服装は、指定制服のミニスカート。そこから覗く生足が魅惑的で、魅力的で、男子高校生からすれば感謝、というよりむしろ、そんなありがたいものを僕のような平々凡々に見せていただいてどうもすみませんという謝罪の感情にすらなってしまいそうなものだ。しかしその点、膝下まできっちりと隠すセーラー服のプリーツスカートは、綴の生足、太ももを隠してしまう。

 しかし、見えていないからこそ培われる想像力、見えていないからこそ試される男子高校生力。隠した御身の御肌に想いを馳せ、己の実力を試すくらいに、僕は——平々凡々だと、そう言わせてもらう。

 見てぇー。

 美少女のセーラー服見てぇー。

「やっぱ俺らってのはもう手遅れなんだよな。この先セーラー服なんざ見れねえだろ?」

「そんなことないだろ。コスプレだってあるし、通学途中の中学、高校生、あるいは学校前で張っていれば見ることくらいできる」

「いやいや、コスプレはコスプレだろ? やっぱ現役の女子がセーラー服を着るからこその意味だと思うんだよな。それに、セーラー服を見るためだけに学校前に張るって、不審者だろ」

「いまどきなんかスマホ見てれば「妹とか弟でも待ってるのかな?」なーんて、ごまかせるさ。僕らだって若いんだから」

「じゃあ、俺らは社会人になったら、学校前にあるようなマンションに引っ越すべきだな。それこそ、不審者には見られねえさ」

「登下校の時にいつもいるお兄さん程度に抑えられるかね」

「変な目で見なければな」

「………」

「………」

「「無理だな」」

 さっきも思ったことだし、古月自身も言っていたけれど、案外気の合う相手だった。

 今までほとんど話してこなかった——というか、こんな話をたいして話したこともない相手とするべきではないのだろうけれど、フィストパンプくらいなら交わせるだろう。

 いいやつなのかもしれない。

 ついつい『頭上注意アッパーカット』であることを忘れてしまいそうになる。

 けれどまあ、は、多分、上手くいったのだった。


 9


 たまにしかサボらないから、サボりになる。ルールに従ったうえで破るからルール破りになる。型にはまっているから、それを破るから、型破り。

 その言葉通りに、私が屋上に行っても古月さんがいないことはそれなりにあって、なんだか日増しに、私は古月さんよりも悪になっているような気がしてきていた。悪になる方法を私が教えるとは言ったものの、つまりは私が悪をきちんと知らないことには始まらないわけで、そう考えるといいことなのかもしれない。

 その日の古月さんは、なんだか機嫌が良さそうだった。

 鼻歌。カノン。

 どうして卒業ソング、卒業クラシックなのかは謎。機嫌がいいときに鼻歌をする曲なのかもわからないけれど、なんとなく機嫌は良さそうに見える。

 というかこの人、カノンとか聴くんだ。

「どうしたんですか? なんだか機嫌が良さそうですけど………」

 ペントハウスの上から仁王立ちして私を見下ろす古月さんに、私はいつも通り、顔を大きく上げて訊ねる。

「そうだなあ………面白い奴と、敵対できそうなんだ」

「敵対? なんの戦いなんですか?」

「それはいまいち分かんねえけどな………ただの興味だったとして、隠す意味がなあ……」

 ぶつぶつと、古月さんは何かを言ったものの、後半は聞き取れなかった。

「ま、いいや。んで? 今日は何教えてくれんの?」

「あ、え、ええっとですね……」

 手元にあった本を何冊か、私は開く。

 悪い人になる方法なんて本はどこに行ってもない。ならばどこからその情報を得るのかと言えば、正義の物語を読めばいいだけだ。単純に、悪人側の視点で。

 猟奇殺人鬼は分かりやすいし、いじめをしている子の話だってある。泥棒の話もあれば、軽犯罪のものだって。

 本を開いて、古月さんの方へ向けた。

 なかなか距離があるけれど、古月さんはかなり目がいいらしく、問題なく読めている。

「華表、お前、なかなかとんでもないやつだよな」

「と、とんでもない……?」

「悪人を学ぶために、そういう本を持ってくんのは分かんだけどよ……殺人鬼の本とか見せるか? 普通」

 若干引いたような様子を見せて、古月さんは続ける。

「華表に異名がついてねえのが不思議だよ」

「………そ、そう思い、ますか?」

「異名持ちの俺が言ってんだからそうだろ」

「………」

 古月さんは、私が欲しい言葉を、まるで分っているかのように言ってくれる。

 私はまだ一年生。三か月くらいしか学校に通っていない。だから、これから先、私にも異名がいつの間にかつく可能性がある。

 照れた顔を本で隠して、私は少し笑んだのだった。

「ところでさ、華表のクラスに『大衆的天才フレックス』っているだろ?」

「………」

 嬉しい気持ちが、一気に冷めてしまった。

 聞きたくない名前だった。

「なんで、私のクラスにいるって知っているんですか?」

「うん? ほら、だってあいつ有名人だし」

「………『大衆的天才フレックス』さんが、どうしたんですか?」

「どんな奴なのかなーと思って。話題にはなってっけど、俺見たことしかないんだよな」

「……別に、普通の子ですよ」

 普通の子。

 ただ頭が良くて、ただ音楽を奏でられて、ただ絵画を描けて、ただ物語を紡げて、ただ人から好かれて、ただ愛嬌があって、ただ美少女なだけの。

 私が持ち合わせていないものをすべて持っているだけの、普通の、子。

「ふうん、まあ、大衆的って言ってるくらいだからそう見えるんだろうな」

「普段の様子は、別に普通ですよ。突飛なこともしない、突拍子もないことを言ったりしない、特別な様子は見せない。仲のいい子と楽しく高校生活を過ごしているだけの子です」

「そんでお前はそいつをリスペクトしてんのか?」

「………?」

 言葉の意味がいまいち分からなくて、私は首を傾げる。

「だってよ、『大衆的天才フレックス』はこのクソ暑い中、裏起毛のパーカーは肌身離さず着たり、腰に巻いたりしてんだろ? 仮に冷房が苦手なんだとして、あれはちょっとやりすぎだ。そんでも着てるってのは、つまりなんかのこだわりがあるんだろうが、だからじゃないのか?」

「だ、だからって、なんですか……?」

「華表が長そでなの」

 古月さんは私のこと、私のカッターシャツを指さして言った。

「パーカーを着たら意識してるって思われるかもしれないから、そうやって暑い格好をすることで、ひっそりとリスペクトを表現してるんじゃ——」

「そ、そんなつもりじゃないですよ!」

「おお、どうした急に声荒げて」

 少しだけ驚いた様子を見せる古月さん。

 私だって、こんなに大きな声で反論するとは思わなかった。古月さんのそれよりも驚いてしまったかもしれない。

「お、同じクラスの身としては、目を引くのは容姿だけで、才能という才能、その片鱗も見えませんよ。世間で有名な物部綴と同一人物なのか、疑わしくなるくらいです」

 弁解のように、私は言う。

「それでもそう感じさせるんだろ?」

「………」

 その通りだ。

 ゆる校に通っているただの女の子にしか見えないけれど、時折、その才能の一部をのぞかせる。しかも、理解が出来る程度の。才能の片鱗というには少し弱い。

 それでも、だからこそ、あの子は天才なのだろうと思う。

 誰にでも分かるように、誰にでも理解が出来るように、噛み砕き、すりつぶし、飲み込みやすく手を変え品を変え言葉を変え、それでも自分の芯を無くさずに、あの子は柔軟フレックスに対応する。

「……いいじゃないですか、あの子の話は」

「嫌いか? 物部綴のことが」

「………羨ましいだけです」

「妬ましいんだろ?」

「………どうしたんですか? いつもと、違う気がします」

「俺とお前が会ったのなんて数回だろ? 「いつも」なんて俺のことを図るにはまだ早いんじゃねえの?」

「………」

 古月さんが『頭上注意アッパーカット』と呼ばれている理由を、私はまだ分かっていない。

 いつも高いところにいるというくらいのこじつけのような理由でしかその異名を感じる部分はない。しかし、この人だって普通に授業を受けている瞬間があるのだから、机の上に仁王立ちでもしていない限りはそんな異名はつかないだろう。校則がほぼないゆる校で、授業関連には多少なり縛りがあるから、そんなことをしていたら普通に怒られる。

 異名持ちだなと思わされることはあっても、異名そのものの理由は分からないままだ。

「まあ、才能のあるやつを羨むってのは仕方のない話だ。しかし、さっくり見た感じ、あいつは俺とちょっと似てんのかもな」

「似てる……? 古月さんと、あの子が? どこがですか?」

 異名持ちのシンパシーだろうか。

 しかし、あまり似ているとは思わない。

「自分のやりたいことに忠実なとこかな」

「………」

「才能持ちってのはな、自分の才能に酷く自覚的なんだよ。やりたいことに注げる情熱を持っている。その点は俺とあいつは同じ。あいつの場合、やりたいこと、やってみたいことに総じて才能を持っていたとか言うバケモンだけどな」

 へらへらと笑って、古月さんは言う。

 やりたいことに自覚的であることが才能の醸成に必要なのならば、私のやりたいこととは何だろう。私が積み上げて、重ねて、連ねていきたいものは何だろう。

「天才を羨むってのは、他人を羨むなって言葉の最たるもんじゃねえのか? 才たるもんを持ってるやつを羨んだって、時間の浪費だぜ。自分の才能さがそーぜー」

「……古月さんは、自分の才能を何だと思っているんですか?」

「知らない方がいいことはこの世にたくさんあるもんだ。『大衆的天才フレックス』が大衆的であるのは、その才能が比較的わかりやすいものであるからって側面もあると俺は思う。音楽、美術、文学。しかし、それは突き詰めればあいつの中身の問題で、たまたまそれが外部に出力できる、視覚的な、聴覚的な才能だっただけだ。大体の人間が持ってる才能ってのは、もっとその場、その時、その瞬間に発揮されるものが多い。知ったところで外枠が図れないまま、羨む気持ちが募るばかりだぜ?」

 周りをよく見ているとか、場慣れが早いとか、人を動かすのが得意とか、それも立派な才能で、しかし、それはあの子が発揮しているようなものではない。だからこそ、あの子のことを平気な顔をして天才だと言えるのだろうと思う。

 大衆的だ、なんて、あの子の持ちうる一番訳の分からない才能だ。

 そう思えば、『大衆的天才フレックス』という異名には、若干の皮肉も込められているような気がする。

「じゃあ、古月さんの才能は、ある特定の瞬間にのみ発揮されるものなんですか?」

「少なくとも俺はそう思ってる」

「………」

 私がその瞬間に出会っていないだけだろうか。

 それとも、私が気づいていないだけで、気づけていないだけで、とっくに私はそれを味わっていて、その中に身を浸しているのではないだろうか。

 そして、それは、喜ぶべきことなのだろうか。

「古月さんは才能を羨んだりしないんですか……?」

「別に」

 古月さんは平気な顔をして言う。

「羨んだって仕方ないとか思ってんじゃなくてさ、さっきいったろ? 俺は俺のやりたいことに自覚的だから、誰がどんな才能を持っていようが、興味はあれど、どうでもいいんだよ。すげーって思うくらいだ」

「じゃ、じゃあ、今やりたいことってなんなんですか?」

「うん? お前が悪を教えてくれるんじゃねえの?」

「………」

 なにを言っているんだ、とでもいうような顔。

 平気な顔というか、不思議そうな顔をしてそう返した古月さん。こうしてなんの屈託もなく私を求めてくれる存在に出会ったのなんて——。

 無かった、のかもしれない。

「でも悪の学び方ってのも難しいよな。真善美に反すりゃそれは悪なんだろうけどさ、悪役が悪役足り得るってのは、かなりわかりやすくないといけないだろ? 最近の物語じゃあ、明確な悪はいなくて、互いの正義がぶつかってるだけ、みたいな印象だし。こっちの正義と違うから、相手が悪、みたいな」

「だったら、対抗馬を決めないと、ですか?」

「しかしそうなると、正義に準じてるみたいじゃねえか? やっぱ悪って勝手に悪になるもんだろ」

「こだわりがあるんですね……」

「悪人には美学が付きもんだしな。俺はそんなもんねえけど」

「こだわりは似たようなものじゃないですか?」

「じゃあそうなのかもしれん」

 あっさりと古月さんは私のことを肯定する。

 どうにも芯の掴みづらい人だというのは、変わらないのだった。

「じゃあ、古月さんは、もし対抗したいと思った相手が悪だったら、正義になるんですか?」

「それをやりたいと思えば、な」


 10


 帰り道は十五分程度の徒歩。

 体力に自信は無いし、運動能力が無いことも篝さんに言われずとも理解しているけれど、十五分程度の登下校で疲れるほど私も体力が無いわけじゃない。服装にたいして校則もないゆる校に靴の指定があるわけもなく、運動靴の登下校だから、これもまた疲れづらい理由なんだろうと思う。

 夕方だから日差しはそれほど強くない、とはいえ、夏。気温はそれだけ高いけれど、腰に巻いた裏起毛のパーカーを外す気にはなれない。いつまでも執着し続けるのもいけないことだと分かってはいるものの、私はまだ高校一年生、子どもだ。

 天才だと言われようと、私は世界のことなんて全然知らなくて、怖いものものたくさんあるし、逃げたいと思うことだってある。

 私は天才である前に、一人の人間で、子どもだ。

 それに自覚的になるのは難しいし、正直嫌ではあるけれど、なぜだか自分にそう言い聞かせなければいけないような気がするのも、確かなことだ。

「……あの、ちょっといいかしら」

 と、帰り道の思考の中、私は呼び止められた。

 多分、誰かのお母さんだろうと思う。

「貴方、釉漆高校の生徒さん?」

「はい、そうですけど……」

「物部綴さんって、ご存じ?」

「……知って、ますけど……その子がどうかしたんですか?」

 この人はどなただろうと、そう思うのは仕方のないことながら、私の頭の中には、少しだけ違う形の疑問が産まれていた。

 この人は、、と。

 開口一番で私の名前を出してくる相手に警戒心を抱いてしまうのは仕方のないこと。

 だから、他人であるふりをした。

「凄い才能を持ってる子って聞いたのよ。だから、どんな子なのか気になったの」

「……才能を持ってるって言うだけで、普通の子だと思いますよ。高校生らしく、青春を謳歌したいだけの」

「でも、頭もよくって、たくさん才能があるんでしょ? うちの娘とは大違いよ」

「………」

 こめかみのあたりを、私は少しだけ掻く。

 こういう感情は、夕暮さんに怒られてしまったものだから、自覚的になって、表に出さない方がいい。

 卑下しながらも愛している、とかではなく、ため息を混じらせていた。

 本当に、呆れているかのように。

「……娘さんは、どんな子なんですか?」

 軽く息を吐いて、私は言う。

「ダメダメよ。昔からいろんなことを教えてるけど、そのどれも才能を見せることなんて無くてね、取り柄だと思ってた勉強だっていっつも一番になれないし、努力してるように見せてるだけでどこか手を抜いてるのよ」

「………」

 こんなことを言いたくはないけれど、こんなことを自分の娘に対して言えるのか。それも、会ったばかりの、素性も知らない私に対して。

 これでも人の親なのかなんて、そんなことを思ってしまう。

「じゃあ、娘さんに見習わせるために、その、綴さんという子を、見に来たんですか?」

「そうよ。あの子の才能を開花させるきっかけくらいは見られるんじゃないかと思ったのよ」

「……娘さんのお名前は、なんていうんですか?」

「雛よ。一年、四組だったかしら?」

「——っ!」

 一瞬だけ眉間にしわを寄せる程度、出来るだけ表情に出さないように繕った。

 私なんかに対してこんなことを言うこの人が親で、才能や能力を持つことをただひたすらに押し付けられ続けたんだ、雛さんは。教室にいる時だって、ずっと教科書とにらめっこして、それだけでなく、参考書だとか、学術書だとか、そういうものを見続けてもいる。

 努力しているように見せているだけで手を抜いているだなんて、どうして言えるのだろう。

 知らないからだろうな。

 それとも、知ったつもりになっているからだろうか。

「綴さんの才能——というか、才能って、盗めるようなものではないと思いますよ」

「盗むなんて出来ないわ、それくらいわかってるわよ? でも言ったでしょ? きっかけくらいは作れるんじゃないかって」

「だとしたら、得られるきっかけ、得られるものはですよ。綴さんは、ただ自分の生活を楽しんでい——」

「そういうことじゃないのよ」

 雛さんのお母さんは、私の言葉を遮る。

「なんであろうと、何を目的にしていようと、天才なんでしょ? 普通を望んだって、普通に振る舞ったって、自身の才能からは逃れられないし、手放せない。才能の無い人間は、結局見て学ぶほかないのよ。そういう才能すらあの子にはないのだから、私が見て教えてあげなくちゃいけない。ほんとに手のかかる子だわ」

「………」

「ほんと、どこで間違えたのかしら」

 自分が天才であると認めたくない。しかし世の中は私のことを指して天才であると言うし、おそらくその評価を否定することは出来ない——というか、私がしたところで誰も耳を貸しやしないだろう。

 才能のある人間が才能を持たない人に何を言ったところで意味はないし、しかし、才能を持たない人は才能を持つ人に渇望することが許可されている。才能を持てば持つ程、私は口を開くことが許されなくなり、自分の才能に溺れるほか、縋る他なくなる。

 しかし私がそうしなくて済んでいるのは、私に道を示してくれる人が——パパが、いるからだろう。

「雛さんは努力をしていると思いますよ」

「あら? 知ってるの?」

「努力を重ねて、私を追って、それでも私は私であり続けなければいけない。私が手を抜くということは、私を目指してくれている子への冒涜になるから。ただ自分の才能を楽しむことが、私が唯一出来ることです」

「………ど、どういうこと? 貴方、どなた?」

「初めまして、雛さんのお母さん。私は物部綴と言います」

 困惑する瞳を見据えて、私は言った。

「貴方が言うところの、天才というやつです」


 11


「なんとお呼びすればいいですかね、お母さんのままでいいですか?」

 見据えたまま動かさない。

 私には帰る場所があって、味方がいてくれる。

 戦うだけの強さが私にはあって、戦うだけの理由もある。

 でも。

 今は。

 抗いがたい理由で動きたくなってしまった。

「まあ、正直なんでもいいんです。私は貴方が雛さんに何をしているのか知っていますし、正直そのことに関して業腹な部分がありますから。端的に言えば、貴方に対していい印象を全く抱いていないんです。さっきの会話も、それが自分の娘に対して言う言葉ですか?」

「……あの子は私の娘よ? 貴方に何の関係があるの?」

「関係? それを先に持ち出したのは貴方ですよね? 何も関係が無いはずの私を探しに来たのは貴方でしょう。だというのに私の言葉を無視するんですか?」

 こういうことをするのは好きじゃない。やりたくない。

 でも、私が何の犠牲も払わずに、誰かを救おうだなんて、虫が良すぎるのだ。

この人にとっては、そして、雛さんにとっては、私は害虫みたいなものだろうか。

「物部綴という人間を、貴方が天才だと思っているのであれば、貴方に分かることは、きっと雛さんとそう変わらないと思いますよ」

「………」

「相手を天才と評するのは、自分には理解できないものだと一線を引くことと同義です。貴方が理解すべきは、雛さんに教えるべきは、天才である私ではなく、人間である私です。今、貴方の目の前にいて、貴方の言葉に、行動に、想いに、憤りを見せている私です。この怒りが何に起因するものなのかを理解できないのであれば、貴方には私なんて分かりっこありません。自分に出来ないことを、他者に、それも自分の娘に望むものじゃない」

 雛さんのお母さんの、その目を睨むようにして、私は続けた。

「子どもは親の、雛さんは貴方の、おもちゃではない」

 私が天才であって、天才でないのは、パパが天才で、天才じゃないからだ。

 恵まれているのだ、私は。大きな背中が、大きな愛が、私のことを守ってくれるから。

「失礼しますね」

 私の言葉に茫然と佇むその人を残して、私はくるりと背を向ける。

「あまり貴方と言葉を交わしたくない。私の人間性に、著しい支障をきたす気がする」

 なんて、著しく人間性の欠けた言葉を吐いて、私は歩きだす。

 酷い言葉を吐いてしまった。最低なことを言ってしまった。必要なことだと分かっていても、私を理解しようとするあの人のことを私は拒絶した。否定した。

 自分のことが嫌いになりそうになる。

 ため息をついて、角を曲がる。

「あ……夕暮さん」

 ブロック塀に背を預けて、夕暮さんがそこにいた。

 何も言わないまま、少しだけ笑んで、私に視線を送る。

「……帰ろう、綴」

「………」

 夕暮さんは歩き出す。

 小走りに追いついて、私は、その隣を歩く。

「一応けど、ほんとにいいのか? 綴」

「うん、いいよ。思いがけない偶然もあったけど、私には味方になってくれる人がいてくれるから」

 そう言って、夕暮さんに笑いかけると、夕暮さんは、やっぱり照れたように笑うのだった。


 12


「雛!」

 帰るなりの大声にはいつまでたっても慣れることはない。でも、今回のこれに関しては、思い当たる節がまるでなかった。

 私はいつものように、肩を震わせることしか出来ない。

「なんなの! あの子!」

「あ、あの子……?」

「物部綴よ!」

「え………」

 なんで、お母さんの口からあの子の名前が出てくるの?

 確かに、今まで名前が出てくることは何度かあったし、あの子を見習えと言われることもあった。でも、こんな風に、怒った様子で名前をあげることなんて、今までになかった。

「人の親に、大人に向かって! なんて口の利き方をするの!」

「な、何を話したの………?」

「貴方のことよ! 雛!」

「わ、私のこと……?」

 あの子が、私のことを、どうして?

 相談に乗るなんて言っていたけれど、私の事情なんて何にも知らないくせに。

 どうして? 何様のつもりなんだろう。

「関係もないのに口を出して! 雛はあんな子みたいになっちゃダメよ!」

「……う、うん」

 あの子みたいになったらダメって、だったら私は何を指針にすればいいんだろう。

 ずっと、あの子を目指せって言ってきてたのに。

 ずっと、押し付けてきたのに。

 物部綴という、果てしないほどに遠い化け物を追いかけることを辞めたら、私は何を指針にすればいい? なにを目標にすればいい? どうやって、自分を保てばいい?

 誰を、目指せば……。

「………」

 なんだか酷く肩の力が抜けた。

 目指した指針も、指標も、空中に、重力の無い場所に、急に放り出されたような気分で、感じるすべてが、鈍く、重く、それでいてどこにもないような。何かをつなぎとめていた一つの大きな糸が、切れてしまったかのような。

 虚無感のような、焦燥感のような。

 結局、その日はろくに眠ることも出来ないままに、次の日を迎え、登校してすぐに、屋上へと向かった。

 何もなくなった私に、唯一残った、役割。

 古月さんは、いつものように、ペントハウスに仁王立ちを決めていた。

「早い、ですね。古月さん」

「朝は好きでな。千人近くの生徒が校門を通ってく様は、なかなか壮観だぜ?」

 校門を顎で指す古月さんに促されるように、私も視線を送る。

 まだ早い時間とはいえ、ちらほらと校門をくぐる生徒が見える。運動場に視線を送ると、朝練に励む陸上部や野球部が見える。

「んで? そんな朝早くに、お前はどうしたんだ?」

「あ、えっと……その……」

「……?」

 古月さんは首を傾げる。

「わ、私、目標を、失っちゃったんです」

 目を伏せる。声だって碌に出ていない。

 それでも、古月さんが私の方を見ていると分かるし、声を聞き取ってくれているというのも、不思議と分かった。

「ずっと嫌だって思っていた人なのに、あまりに大きな存在だったから、見失わないくらいに大きな才能だったから、いつの間にかそれに縋るみたいになってて……でも、それを、追ってはいけないって、私の信じてることが——」

「なあ」

 古月さんは、私の言葉を遮り、続けた。

「俺別に、お前の身の上話に興味ねえんだけど」

 古月さんの言葉を聞くためにあげていた顔を、下げることが出来なかった。

 それくらいに茫然としてしまって、それくらいに愕然としてしまって、私はこの人に何を期待していたんだろうと、そう思わされてしまった。睥睨するように私のことを見るその瞳に、私はようやく、この人の『頭上注意アッパーカット』という異名の意味が分かった気がした。

 私は、私が今どれほど危ない状況に置かれているのかを分かっている。精神状態が普通ではないことが、分かっている。そして同様に、多分古月さんにも私がどういう状況に置かれているのかが分かっている。

 それでも、こんなことを。

「……古月さんは、悲しいこととか、苦しいこととか、ないんですか……?」

「俺はな、人生楽しんでんだよ」

 くつくつと笑って、古月さんは言う。

「幸福も不幸も、それを体現してるみてえな、一身に受けているみてえな、自分はそれに包まれてるみてえな奴が、世の中にはごろごろいやがる。そいつらを見てるのが俺は楽しいんだ。だから、俺自身がどうかとか、そんなことどうでもよくなってくんだよ。どんな不幸も、どんな幸福も、コンテンツとして楽しんでんだ」

「コン、テンツ……」

 だったら、私のこれも、そう思っているのだろうか。

 そんな風に、まるでおもちゃのように、私を見ているのだろうか。

「俺は結局人好きなんだろうな。そいつがどうこうなっているのなら、もっとたくさんの感情を俺に見せて欲しい。もっと俺を楽しませてほしい。もっと深く、落ち、昇って欲しい。でないと、意味がねえだろ? そいつのためにも、それを見てる俺のためにも」

「………」

 沈黙のうちに、一人納得してしまった。

 その言葉の意味も、私がどうして、この人の傍にいることに落ち着いて、安心を得られているような気分になるのかを。

 この人は、相手に肯定も否定もしない。ただ、自身の望みを示すのだ。

 こうあって欲しい、あああって欲しいでもなく、その人がただその人でいることを突き詰めることを望んでくる。

望んでくれる。

 私が、私であることを望んでくれる。

 才能に憧れても届かなくて、目標を目標とすることも否定されて、勝手に押し付けておきながら失望されて、自分自身のことなんて何にもなくなって、空っぽになってしまった私に。

 何も分からなくなった私に。

 それでもただ、何を押し付けるでもなく、私であることを求めてくれているんだ。

 肯定していないからこそ、私は、穏やかに、暖かに肯定されているような気分になるんだ。

「……古月さん」

 私は言う。

「そこに、行ってもいいですか?」

「ん? 別に構わねえけど?」

 ペントハウスの側面に回って、そこにある鉄製のはしごを上る。

 一段ずつ、足を滑らせながらも、丁寧に。確実に。着実に。

 初めて古月さんの目の前に立って、古月さんは思ったよりも背が低いんだなと思わされた。私よりも背は高いのだけれど、十センチほども身長に差はないだろうと思う。

 目にかかった前髪が邪魔で、それでも私は、古月さんの目を見据えた。

「私のことを話したら、古月さんは聞いてくれますか?」

「興味ねえって言っただろ?」

「ていうことは、私が話したら聞いてはくれるってことですよね?」

「……俺、そういう計算高そうなやつ嫌いなんだけど」

「興味ないよりましですよ」

「嫌ってんのにか?」

「嫌ってるからですよ」

 古月さんは不満そうにため息をついて、ペントハウスの端に座る。

 私は、その隣に座った。

「あの、古月さん」

「ん?」

「古月さんのこと、好きになってもいいですか?」

「………」

「………」

「………はぁ⁉」

 ワンテンポ空けて、古月さんは驚愕の声をあげた。

「私が古月さんのことを好きになる理由は、もう揃ってますよ?」

「………」

 ひきつったように片目だけを細めて、古月さんは何も言わない。

「私は所謂教育虐待というものを受けています。父も母も私に友人を作らせようとはせず、学業や才能を望みました。結局、そのどれも花開きませんでしたし、ゆる校に入ってからは、物部綴という天才、化け物に出会いました。その子のようになれ、その子を目指せと、父と別れた母は私に求め続けましたけれど、綴さんが母に相対して、母すら圧倒したようで、私はあの子のようになるなと言われました。勝手に目指せと言って、また勝手に、目指さなくていいなんて言ったんです。滅茶苦茶ですよね」

「だから興味ねえって」

「でも、この先私がどうするのかは、気になるんですよね?」

「………」

「私これでも、学年三位です」

 綴さんと篝さんがずば抜けているというだけ。

幸か不幸か、たくさんの教育を受けてきたおかげで、才能はなくとも努力を重ねたおかげで、私だってそこそこの学力を持っているのだ。

 論を重ねて、古月さんに恋心を覚えるその理由は、説明できる。

「話の続きですが、そうして私は心をだんだんと壊していったわけです。否定も肯定もたくさん重ねてきた中で、古月さんはどちらも選択せず、ただ私でいることを求めてくれた。押し付けられ続けた私でもなく、自分に言い聞かせた私でもなく、ただ、今の私を見てくれた。これって、私にとっては、本当にうれしいことなんですよ」

「………」

 古月さんは頭を抱えていた。

「マジで、なんでお前に異名がついてねえんだよ」

「私が変わったのは、今この瞬間でしたから。それに不特定多数に向けてじゃなくて、古月さん限定です」

 果たして前に同じことを言われた時のそれと、同じ意味なのかどうかは分からないけれど、今に関しては、本心から言葉にしているようだった。

「それで、私は古月さんに恋をしてもいいんでしょうか」

「辞めろっつっても、辞める気がしねえ………」

「女の子の多くはメンヘラというものに分類されるらしいですよ。セロトニンとかなんとかが原因らしいですけど、そんな中でも、嫌な子に関わっちゃいましたね、古月さん」

 ため息をつく古月さんに、私はにっこりと笑ったのだった。


 13


「アッパーカットってさ、本来、下から上に突き上げるような攻撃だよね。突き上げて、相手の限界を叩き上げるから、頭上注意。自分の天井を決めてしまっている人に対して、その天井に頭をぶつけさせて、天井を壊す。古月さんは相手を不幸にするのかもしれないけれど、それは多分、己の弱さを自覚させるっていう意味だと思う。だから古月さんは、相手を成長させることが得意な人なんだ」

「………」

「雛さんは、もう大丈夫だと思う。古月さんって言う、身を預けられる相手に、出会えたんだから」

「……それは、誰を納得させるための言葉だ?」

「………」

 綴は頭を抱えていた。

 少し前に、華表雛、という子のことについて話していたあの時と同じように。

 しかしその時よりもずっと多くの負の感情を感じさせて。

「私は、雛さんに、相当危ない橋を渡らせた。一歩間違えば、雛さんがどうなっていたのか……わからない」

 雛という子を救うために綴がたてた作戦は、綴が悪になることだった。

 その子が綴のことを嫌っていることに綴は気づいていた。そして、雛という子が悪を上手く作れない子であることも。終わりに近づいた人間は誰かを悪にすることが難しくなる。自分を悪にしてしまう。

 だから、明確な悪を、自分の外に作ってあげる必要があって、綴が適任だった。

「虐待を受けている子はさ、いつだって危険な橋の上にいる。そんな子に、私は関わった。関わろうとした」

「そ、それはいいことなんじゃないのか……?」

「雛さんは私が嫌いだったんだよ。そんな子に、無理に関わられようとするのは、心の大事な部分に踏み込まれようとするのは、誰だっていやだろうって、そう思うよ」

 この一件に古月が、『頭上注意アッパーカット』が関わっていると知ったとき、綴は古月のことを利用しようと考えた。古月が元来持っている性質は、性格の悪さではなく、自分がやりたいと思ったことに忠実であるということ。性格が悪いからこそ、それが悪い方に働くというだけで、性質自体は悪いものではないのだ。

 だからこそ、綴が考えたのは、古月のやりたいことを、雛という子を救う方向に向けるというもの。古月が綴のことを面白がっているのなら、綴が悪として屹立すれば、対抗馬として古月が動くと、そう考えたのだ。

 僕が綴に頼まれていたのは、それだけ。

 雛という子と綴の関係。

 僕が綴のことを知っていて、それを古月に隠していると感じさせ、古月を焚きつけるだけ。

 ひっそりと綴の名前を出せばよかっただけなのだ。僕が綴のことを古月に対して隠している理由なんかを古月が勝手に考えて、対抗意識を燃やしてくれる。そういうやつだというのは、もう分かっていた。

 綴がお母さんに会えたのは偶然だったらしい。

その話の中で、綴自身が家庭の中ですらその子の抑圧の原因となっていることを知った。

 だからそれも、利用した。

「雛さんの悪には、私以上の適任はいなかった。だから、雛さんの家族にも嫌われれば——ううん、違う。私が嫌だったから、あの人に不快感を覚えたから、雛さんのお母さんを、悪戯に否定したんだ」

「僕は、あの時のお前を間違いだなんて——」

「死んじゃうかもしれなかったんだよ! 雛さんは!」

 両手で机を荒々しくたたいて、綴は立ち上がる。

 勢い良く立ち上がったせいで、椅子が大きな音を立てて倒れた。

「雛さんを危ないところまで追いやって! 古月さんに任せて! わ、私はっ……私……」

 ボロボロと涙を流しながら、綴は言う。

 整理すれば。

 雛という子は綴を嫌っていて。

 綴が雛という子の悪になることによって、雛という子を安定させて。

 僕が古月を焚きつけて。

 古月に雛という子を救ってもらおうという話。

 あいつは、そういうことが得意な人間だ。実際、理由は不明ながら、結末は綴の望んだとおりになった。

 綴の望んだとおり、雛という子は危険な橋を渡ることになり、古月がそれを救った。

「ごめんね、夕暮さん。協力してもらったのに……」

「な、なんで謝るんだ……?」

「謝らなくちゃ、いけない気がしたから………」

「………」

 力なく、綴はうなだれる。

 もし上手くいかなかったときの策だって、きっと綴は考えていたことだろうと思う。それでも、上手くいったと分かっていても、雛という子が救われたと分かっても、綴のやったことは褒められたものじゃない。

 それでも、一人の人間を追い詰めたのだ。

 上手くいったからと言って、その事実は変わらない。

 誠実なんて言葉は、絶対に当てられない。むしろ、正反対と言ってもいい。

 『博愛フラジャイル』の一件とは、訳が違うのだ。

「ごめん、夕暮さん、私、今日は帰るね」

「お、おい、つづ——」

 呼び止めても止まることなく、綴は教室を出て行ったのだった。


 14


 十二階建てのマンション。六階。六〇四号室。

 玄関の扉を開けたくなかった。

 自分がしてしまったこと。やってしまったこと。

 必要なことだと分かっていても、上手くいったと分かっても、雛さんが救われたことに安心しても、私が私を許せない。一人の人間を追い込んで、追い詰めて、危険な状態に追いやってしまった。

 ここ数日の私の様子がおかしいことに、パパは絶対に気付いている。

 それでも何も言わなかった。

 私を信じてくれているから。私を愛してくれているから。

 そんなパパのことを、裏切ってしまったような、そんな気分で——

「あっれ? なんかやましいことでもあんのけ?」

 ノブに手をかけたまま動かさない私の顔を、腰を大きく曲げて覗き込む一人の女性。

 緩く低い位置で結われた黒髪。ノースリーブの服で、不安そうな瞳ながらも、うなだれる私のことを元気づけようと穏やかに笑んでくれているその人。

 パパの愛すべき友人さん、洞神ほらがみかけるさんだった。

「お、お久しぶりです。賭さん……」

「うんうん、おひさ。で、どうしたん? あいつに顔が合わせづらいんか? うちで前哨戦でもするけ?」

 体勢を直しながらにっこりと笑んで、賭さんは私の心を見透かしてくる。

 警察官という職業のこともあってか、賭さんはこう言うことが本当に得意な人で、初めて会ったころから、私が何か抱えていると、パパの次に早く異変に気付いてくれる。

 私にとってとても関係の近い、心から信用できる大人だ。

 断っておくけれど、別に関西生まれではない。なんだかよく分からないけれど、賭さんの中で、関西弁がブームを起こしているらしい。

 常に。

「……酷い、ことをしたんです」

 ノブから手を離して、私はうつむきがちに言う。

 賭さんは、壁に背を預けた。

「虐待を受けていた子がいて、わ、私は、それに、気づいたんです。それで、相談所、とかにも、行こうと思って、でも、それが、あの子を、家族と離してしまうんじゃないかって……そのせいで、上手く、行動も、出来なくて……」

「ほおん、嬉しいやんか」

「う、嬉しい……?」

 途切れながら言った私の言葉に返した、賭さんの言葉。

 意味も分からず、私は訊き返す。

「家族愛を語れるようになったんやな、綴?」

「………」

「人を愛する、恋をする。そないなもんはあいつが教えとるんやろうけど、家族愛っちゅうもんは綴が自主的に学ぶほかあらへんもんな。さすがに、綴のパパっちゅう立場で、そないなことをあいつも言うたりせんやろし」

「で、でも、私は、もっと——もっと、強くならなくちゃいけないんです。じゃないと、私が後悔してしまったら……そんなの、絶対、ダメで……」

「………綴」

 少しの沈黙の後、賭さんは私の名前を呼ぶ。

 そして。

「——っっ!」

 バチンと、私の額にデコピンを喰らわせ、その激痛に、声にならない声をあげながら、私は額を抑えてうずくまる。

 バチンというより、ズドンというくらいの強烈な音で、パパが、賭さんは警察署の修練所みたいなところで鎧袖一触の往立ち回りを見せている、みたいな話をしてくれたことを思いだした。

「綴は一体あいつから何を学んどん」

 鋭い声で、賭さんは言う。

「高一の子どもが、うちの前で大人ぶろうとしとるんちゃうぞ。そんな覚悟持つんは勝手やけどな、強くなろうと思うから強くなるんやのうて、弱くなるから、人は強くなる。見当違いの覚悟決めとんな」

 パパが甘くなくとも優しい人なら、賭さんは、厳しくとも優しい人だ。

 私がたくさんの人に好きでいてもらえているその理由は、パパと賭さんから貰ったものの力が多くを占めているだろうと思う。

 二人の前で、私はいつだって子どもだ。

「あと、知らんみたいやから教えとくけどな」

 目を細めて、賭さんは私のことを見る。

「うちはな、おどれがあいつに引き取られるずっと前から、あいつの友人やっとる——引き取られたんやなくて、名目上は、お泊りなんやっけ? まあ何でもええけど、そう簡単に、あいつんことを裏切れるなんて思わんほうがええぞ」

 パパは実の父親じゃない。

 私がパパの家に来ることになった当時、私はパパ意外と口をきける状態になかった。そのことから、私のいた児童養護施設が、泊まりに行っているという名目で、私がパパの家で暮らすことを特例的に許可した。心情的に調べられないでいるのだけれど、里親とか、養子とか、パパの二十四歳という年齢では法律的にいろいろ難しいらしい。

 だから、私はパパと苗字が違う。

「何があったか知らへんけど、綴は何をしてもあいつを裏切ることは出来ん。あいつは綴を愛しとるから。無条件に与えたいと願われたから。綴がどういう選択を取ろうと、あいつを裏切るなんぞ、出来やせん。あいつに愛されてもうたんやからな。愛した相手へ向けるあいつの感情は恐ろしいぞ?」

 言い切って、賭さんは一つ息をついた。

「うちはおどれほど賢くはないが、おどれよりも大人で、あいつの友人。才能に、胡坐かきすぎとらんけ? 綴」

 そんなつもりは無くとも、そうなのだろうと思う。

 パパは私以上の天才ではあるけれど、そんなことよりもずっと前に、私のパパだ。

 私がどれだけパパのことを裏切ってしまうような気持ちになったとしても、パパはその気持ちを否定することなく受け入れて、変わらず接してくれるだろう。

 残酷なくらいに、私の力では到底太刀打ちできないほどに、パパは私を愛してくれている。

賭さんも同じだ。

「でも、私、一人の子を、危ないところまで、追いやったんです……」

 額を抑えたまま、私はまだ、賭さんと目を合わせられなかった。

「必要なことではありました。失敗したときのことも考えてました。でも、だからって、一人の子を追い込んだのは事実で——」

「くどい」

 ぴしゃりと、賭さんは私の言葉を遮る。

「おどれの考えとったことが上手くいったとはいえ、やり方があかんかった。後悔も、反省も多く残っとる。それが分かっとんのやろ? その場、その時、その瞬間、解決策が目の前に転がっとるなんて考えるな。時間をかけて後悔しろ。醸成してこそやぞ、後悔は」

「………」

 醸成してこその後悔。

 積み重なって、連なって、考え込んで、それがいつか、別の何かに変わるまで、そんな奇跡が起こるまで、私は、この後悔を噛みしめ続ける。

 苦しくはあるし、怖くもなるし、辛くもなるけれど、それは決して救いのない考えではないのだろうと思う。

「ま、おどれはちっと大人になるんが早すぎるんよな。うちらの前でくらい、泣き喚いて、子どもになりいや。そんなことで嫌いになったりせえへん。心を押し込めるんは、まだ早い」

 言って、私の前にかがんで、賭さんは両手を広げる。

「ほれ」

 何も言葉を返せなかったけれど、私はその胸の中へ身体を預けた。

 ゆっくりと、回した腕に力を込めて、私は賭さんの胸の中に顔を埋める。賭さんも私の背に腕を回して、頭を優しくなでてくれた。

 すすり泣くようにしていた私も、賭さんの腕の中で酷く落ち着いて、自分がどれだけ無力でちっぽけな存在なのかが分かるようで。

次第に声が大きくなって。

 ただの一人の子どもとして、泣いたのだった。


 15


 釉漆高校には、奇妙な異名の文化がある。

 個性的な校風らしく、個性を重視するのは当然のことながら、その中でもとりわけ個性的な存在には異名が与えられる。

 例えば『博愛フラジャイル』。

 誰にでも優しく、それでも、ナルコレプシーという不眠症によって、会話が成り立たないことが多い。最近は改善しつつあるその病ながら、もとの性格の怠慢さも相まって、結局異名が消えることはない。しかし、活動的になる時間が増えたために、博愛的に誰もを助ける彼は、その異名を確かに体現している。

 例えば『良酔宵チャルダッシュ』。

 良いという口癖と、酔わされるような雰囲気と、宵の闇のような容姿。酷く達観したような言葉遣いと、長い黒髪のインナーカラーを深い藍色にしていることも相まって、どこか暗いところにいるような、飲んだこともないお酒に酔わされているような気分になり、思ってもみなかった本音を口から吐き出してしまう。

 例えば『頭上注意アッパーカット』。

 自分のやりたいことにとことん忠実で、それが他者に向いたとき、他者に他者であることを強く求め始める。対象の限界をたたき上げ、突き上げ、ただただ自分自身を突き詰めることを強要する。

 例えば『大衆的天才フレックス』。

 地頭の良さと、音楽、美術、文学、そしてその容姿と、いくつの才を持っているかもわからない、すべてを与えられたと言わしめる圧倒的な天才。しかし、天才でありながら、決して孤高ではなく、親しみやすい、大衆的な存在。

 そして、例えば『彼誰時エクストラコンテンツ』。

 僕に与えられた異名にどんな意味があるのかは分からないけれど、そこには確かに何かの意味があって、特質した個性を僕が身につけているということなのだろう。

 異名を持っている生徒は、個性派の釉漆高校の中でも、群を抜いた個性派だ。

 しかしそれでも、そんな異名持ちも一人の人間で、恋をする。

 他の誰かと土俵を同じくする、恋を。

 覚え、覚えられ、口に出したり、心に秘めたり、拒絶されるかもしれないと怯え、受け入れてもらえた時に喜ぶ。自覚的であったり、無意識であったり、ある日突然訪れたり。ぶつかり合うほどに、奪い合うほどに、醜く、不自然で、いびつな、決して抗えない、それでも、美しい、恋を。

 また今日も、気づかないくらいに、それでも確かに変化をして。

 それは決して、異名持ちだけではなく、釉漆高校の中だけでなく。

 今日もどこかで、誰かが。

 恋を、する。


三章 終


次章 幕間 先生

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