二章 『良酔宵』


 二章 『良酔宵チャルダッシュ


 1


 釉漆ゆうるし高校、通称、ゆる校。

 自分の通っている高校を褒めるのは、少しだけこそばゆい。

 それは多分、自分の通っている高校を褒めることによって、遠回しにそこに通っている自分のことを評価しているように感じてしまうからだろう。

 平々凡々の権化である僕、邑神ゆうがみ夕暮ゆうぐれはゆる校にこそ通っているものの、なんの特徴も個性もないような、取るに足らない存在だ。そんな人間が自分の通っている高校を誇るなんて何を偉そうに、と思ってしまう。

 しかし、事実として言うのならば、僕という存在が通っていることを一切排除してゆる校のことを語るのならば、非の打ち所がないほどに優れた高校であると、声を大にして誇らせてほしい。

 個性派に粒ぞろいの高校ではあるけれど、それぞれの生徒がそれぞれの個性を爆発させて高校生活を過ごし、青春を謳歌しているさまは見ていてとても楽しいし、息をつく暇もないくらいに刺激的だ。

そして、そんなゆる校の日々をさらに彩っているのは、ゆる校の不思議な伝統としてある、異名の文化だろうと思う。

 簡単に言えば、とりわけ個性的な人には異名が与えられるのだ。

 例えば、『大衆的天才フレックス』の異名を持つ、物部もののべつづり

 容姿端麗、成績優秀、天上天下、天下無双、当代無比……いくつの才能を持っているのかまるで分からない、それでいて人間的感情の一切を欠落させず、孤高ではなく親しみやすく、前世でどんな徳を積んだんだと苦情の一つでもつけてやりたい、それでも、その人柄の良さで、劣等感を持つ自分に自分で叱責をしそうになる。学校中はおろか、そして日本中もおろか、世界でも名を知られているという、最早なんだかよく分からない、天上の天井に位置するような無類の天才にして、圧倒的人格者。

 彼女は異名もちの中でもかなりイレギュラーな存在だ。それでも、分かりやすい例である。

 他にも『博愛フラジャイル』の異名を持つ、いつも眠ってばかりだけれど、人を無下にしないという『大衆的天才フレックス』よりもずっとエピソードの弱い僕の友人がいたりするけれど、不思議なことに、僕のような平々凡々にも『彼誰時エクストラコンテンツ』という異名が与えられている。

 平々凡々も一つの個性とは昨今の世の中じゃあ言われているし、もてはやされてもいるけれど、僕からすればお情けで恵んでもらったんじゃないか、あまりの平々凡々ぶりに馬鹿にされているんじゃないか、なんて、卑屈な考えを持つことしか出来ないものだ。

「誇ればいいと思うよ、夕暮さん」

 『大衆的天才フレックス』、物部綴は、手元の本に目を落としたまま、若干ため息がちにそう言った。

 髪を染めることが許されているゆる校で、髪を染めずとも色素の抜けた艶やかな髪を後ろで編み込んでまとめている。彼女のトレードマークなのか、毛玉だらけでほとんど色の抜けた、それでもぎりぎり茶色だと分かる裏起毛のパーカーは、夏が始まろうとしているこの季節ではさすがに耐えられなかったのか、それでも腰に巻いていた。

「そうは言ってもな、綴。僕はこの異名が付けられた理由を知らないんだ」

 僕はそう返した。

「取り方によっては悪い意味にもとれるだろ? つまりこれは、学校ぐるみで僕のことをおちょくって遊んでるんじゃないかと思うんだ」

「自分のことを平々凡々って言う割に、学校ぐるみでおちょくられるっていう自負はあるんだ」

 本から視線をあげて、綴は言う。

 場所は図書室の隣。図書準備室という図書室に並んでいない本がしまわれている部屋だ。

 なんでも、綴は図書委員長と仲がいいらしく(そもそも綴と仲の悪い人を知らない)、本の整理を手伝ってほしいとの依頼を二つ返事で引き受けたんだとか。「夕暮さんも手伝ってくれると嬉しいな」と、美少女が優しく微笑んでくれたので、僕は手伝うことにしている。

「平々凡々の人間はな。自分の才能に保険をかけているんだ」

「保険?」

「自分は才能がないと言うことで、あった時の喜びを引き上げている」

「謙虚に行こうと思っているわけじゃないの?」

「違う」

「完全に否定するんだ……」

 人は誰しも才能を持っているらしい。目の前の『大衆的天才フレックス』について言う必要はないだろうけど、その言葉が正しいのならば、つまり僕もあるということだ。

 そんな才能が発掘された時のための保険だ。

「ええっと、つまり、自分に才能が無いって思っておいた方が、才能があったときに、より嬉しいってこと?」

「そういうことだ」

 例えば、僕のような平々凡々が天才と、あるいは自分よりも頭の良い人と相対するにはコツがあって。

 程よく情報を渋ると、天才の方が勝手に意味を理解してそこに言葉を当ててくれるのだ。むしろ、僕が渋ったつもりのない情報ですら、上手く言葉をあてて、僕にとっても理解しやすい形に噛み砕いてくれるとも言える。

 相対しやすいと言うだけで、つまりは僕の負けだ。馬鹿と天才は紙一重だというけれど、綴という天才を知っていると、そんなことはないと断言できる。

 天才には勝てないよ。

「結局さ、夕暮さんって、自分のことをほんとに平々凡々だなんて思ってるの?」

「異名は誇っていないが、平々凡々、普通は普通に誉め言葉だと思っている。綴の『大衆的天才フレックス』が誉め言葉としてしか取れないようにな」

「そんなことないよ。想像力を働かせればいくらでも悪いように取ることが出来る」

「例えば?」

「孤高が普通の天才に、大衆という名称を与えているとか?」

「それは褒めてるってことだろ。僕の『彼誰時エクストラコンテンツ』とは違ってな」

「いやいや、つまりは、夕暮さんのそれも同じってことの証明だと思うよ」

 なんだか言いくるめられたような気分になる。

 しかし、ここで食い下がるほど僕も馬鹿ではない。僕は平々凡々なのだ。

「解釈次第、って言うのは一つの悪口だと思うぜ?」

 解釈の違いだよとか、言い方一つだよとか、物は取り様というけれど、思いやりや親切心ほど信用のならないものはないだろう。

 高校二年にもなれば、嫌でも理解させられることだ。

「でも、ゆる校でそんなことをする人はいない」

「どこだって悪人はいるだろ。綴じゃないんだから」

「私は話せば分かり合えると思っている馬鹿じゃあないけど、それを選択しないほど無能じゃないよ。天才だとは思ってないけどね」

「じゃあお前は『大衆的天才フレックス』って異名を誇ってないのか?」

「貰ったからには誇ろうと思ってるけど、やっぱりちょっと恥ずかしいよね」

 言って、綴は少しだけ頬を赤くする。

「お前がそうなのに、僕が誇れるわけがなくないか?」

「私を介して図らないでよ。夕暮さんは夕暮さんなんだから」

 ムッとした表情を見せる綴。

 しかし、僕に出来て綴に出来ないことはないと、割に本気で思っている身としては、綴が無理だと言うのなら、僕には出来ないと決めつけてしまう。

 しかし、少し前の『博愛フラジャイル』の一件は、それを否定し、綴の言葉を肯定しているのだった。

 重ねてしかし、結局あれも『大衆的天才フレックス』の力だったように思う。

「夕暮さんって、普段本は読むの?」

「教科書以外の活字には触れてない」

「本は嫌い?」

「ああ。現代の若者っぽい平々凡々だろ?」

「そこは誇るんだね」

 ふふと、綴は笑む。

「やっぱり本は読んだ方がいいと思うか?」

「無理して嫌なことをするものじゃないよ」

「そうは言うけどさ、ほら、いまどきの若者は本離れをしているから……みたいな議論はよく聞くだろ?」

「小学校とかで読書のための時間があるって聞くけどね。やっぱりそれじゃあきっかけにはならないのかな」

「本ってかなり個人趣味だもんな。走り回って遊びたい子には向かないだろうな」

 あるって聞くという、自分も経験しただろうに、なんだか他人事のような言葉選びに若干の違和感を覚えつつも、僕はそう返した。

 図書室で思うことではないかもしれないけれど、本なんて面倒なものを好んで読む人の気が知れないと僕は思っている。もちろん、それによって得られるものも、本を読まないなりに理解しているつもりなのだけれど、長く連なった文章を追って、その情景を想像し、登場人物の心情に心を重ね、周りの音を排するという、集中力を相当に必要とされるそれに身を置けないのも仕方がないと思う。例えば知らない漢字や言葉が出てくるだけで、集中が途切れてしまうこともあるだろうし。

 繰り返すけれど、それによって得られる知識というのもわかってはいるし、『大衆的天才フレックス』のような本好きはそれを楽しむのだろうけど………。

 書く人間の能力も求められるけれど、読む人間の能力も求められるようなものが流行らないのも、一瞬のうちに異常な量の情報が流れる現代では頷ける。

「綴はどうせ本読むんだろ?」

「どうせってなに?」

「頭のいいやつは総じて本を読んでいる印象がある。そして、憧れるだけのやつは、総じて本を読んでいない。僕がそうだ」

「うーん……あんまり肯定したくはないけど、本を読んで、先人の知識だとか、色んな思想を持つ人だとか、知らない世界だとか、そういう場所を知れるから、頭がよくなるわけじゃないと思うよ」

「………つまり?」

「自分が未熟だって理解させられるから、それを理解できているから、頭がいいっていう風に見えるんじゃないかな。頭が悪いと分かっているから、頭がいいんだよ」

「………なんか、分かるような分からないようなって感じだ」

「それがわかるためには、本を読むしかないね」

「疲れるよな、やっぱり」

「例えば持久走とか、音楽の演奏者とか、行為の最中は案外疲れないものだよ。疲れるのは集中していないから。途切れた瞬間が一番疲れる」

「じゃあ、どうやったら本に集中できるんだ?」

「慣れることだよ。私だって、最初はあんまり読めなかったし。パパが本読みだから真似して読んでたんだけど、三十分も読み続けられなかったな。今じゃあ一冊読み切るくらいは集中できるし、読むことが途切れないくらいの言葉も知ったんだけどね」

 綴は手元の本を一ページめくる。

 一冊の本を読みながら、当たり前のように僕との会話もこなしているのは、綴がこういうことに慣れているからなのだろうか。

 本を読むだけでも厳しいのに、会話しながらなんて、正直できたものじゃあないのだけど。

「じゃあ綴は自分が未熟だって理解するために本を読んでるのか?」

「いやいや、そんな気持ちで読んでないよ。単純な娯楽、暇つぶし、あとは知識の集積と知性の創造かな」

「頭の良さそうな回答だな」

「頭の悪そうな返答だね」

 綴にしては珍しく毒舌だった。

 しかし実際、頭の悪い返答ではあった。

「電子書籍を読んだりもするのか? 紙の本に慣れたやつは電子が読みにくいって聞くけど」

「電子で本は読まないかなあ……あ、でも、漫画は電子でも読むよ」

「お前、漫画読むのか」

「そりゃあ読むよ。漫画は履修しておくベきってパパにも言われてるしね」

 なんだか綴の口から出てくる言葉らしくないのだ、漫画は。

 いくら『大衆的天才フレックス』と呼ばれようが才能が世界に認められていようが、俗っぽいものに馴染みが無いなんて、そんなわけがないだろうに。そう分かってはいても、実は昔、綴が自転車に乗っているだけで腰を抜かしそうになったことがある。

 なんだかわからないが驚いたし、面白かったのだ、『大衆的天才フレックス』が自転車にまたがってペダルをこいでいるという状況が。

 悪役は食事シーンを見せないとか、そう言うのと似たような理由だろうと思う。

「綴のお父さんも漫画好きなんだな」

「お父さんじゃなくて、パパね」

「違うのか?」

「大事なこと」

 本に目を落としたまま綴は言う。

 お父さんでも父でもダディでもパパでもなんだって構わないだろうとは思うけれど、まあこだわりのようなものがあるのだろう。綴が腰に巻いている、季節に明らかにあっていない裏起毛のパーカーも、一種のこだわりなのだろうし。

 しかして、綴のパパさん。

 圧倒的な才能を持つ綴の親御さんだなんて、一体どんな人なのかと、僕は割と本気で会ってみたいと思っている。綴の口からたまに出る情報から察するに、綴の人格者としての部分は、多分パパさんから来ているのだということは分かる。

 人の親に興味なんて持たない方が普通なのだろうけど、綴相手はやっぱり例外だらけだ。

「綴」

 と、僕のそんな考えごとの中。

 図書準備室の扉が開いて、一人の女性が顔をのぞかせた。

 印象は黒。というより漆黒。もっというなら、宵の闇。

 腰まで蓄えた長い黒髪は黒より黒く、インナーカラーとして入っている深い藍色も、彼女の持つ宵の闇のような漆黒を手伝っている。綴と同じように白い半そでのカッターシャツでありながら、そして、雪のような白い肌でありながら、あまりにも黒い印象を抱かせてくる。

 綴が美少女ならば、この人は美人だ。

 細めた真っ黒い瞳と少しだけ上げた口角。普段からそうなのだろうけど、何か企んでいるんじゃないかというくらいに、あまりに妖しく笑む彼女。

 綴に本の整理を依頼した図書委員長、三年、鈴墨すずすみすずりだった。

「あ、ごめんなさい、硯さん。全然進んでないです……」

 恥ずかしそうにそう言いながら、綴は開いていた本をパタリと閉じる。

「いやあ、良い良い。ここには普段図書室に出していない本があるからね。集中できないことは仕方がない」

「あはは、すみません……」

「興味があるものがあれば、借りていってくれても構わないよ」

「い、いいんですか!」

「良い良い。委員長の私が許可しよう。君は信用があるしね」

「じゃ、じゃあちょっと鞄取ってきます!」

「行ってらっしゃい」

 嬉しそうに声と肩を跳ねさせながら、綴は図書準備室を出て行った。

 結果、僕と硯先輩が残されることになる。

「さて、君とは初めましてだね」

 扉を閉めて、そこに背を預けてから硯先輩は言う。

「あ、はい。はじめ、まして……邑神夕暮、と言います」

「初めまして、私は鈴墨硯という」

 妖しく笑んで、硯先輩は続けた。

「『良酔宵チャルダッシュ』という異名を、与えられている」


 2


 誰が付けたか『良酔宵チャルダッシュ』。綴の『大衆的天才フレックス』同様、上手く言い表しているよなと思う。

 もちろん、雰囲気一つで決められないなんてことは分かっているけれど、それでもこの人が醸し出す雰囲気は、まるで酩酊させられたかのような、行ったこともない酒場にいるかのような気分になる。

 良いというのは口癖で、酔いが回ったような気分になり、宵の闇のような姿をしている。

「綴に本の整理を頼んで、友人を連れてくると良いなんて言ったのだけど、まさか君のような少年を連れてくるなんてね」

 目を細めて妖しく笑む硯先輩。

 さっきも思った通り、別段理由があるわけでもない、硯先輩にとっての普通の笑みなのだろうと思う。

 雰囲気に良く似合っているけれど、不安になる表情だった。

「仲がいいのかい? 彼女と」

 さっきまで綴が座っていた場所に腰掛けて、硯先輩は言う。

「……あいつと仲の悪い人を知りませんよ」

「そんなことないさ。普通に好かれて、普通に愛されて、それでいて普通に嫌われるのだから、『大衆的天才フレックス』なのだろう? それでも世に馴染めるというのがやはり異質なのかもしれないけどね」

 言いながら、また妖しく笑む。

 異質なのかもしれないけどね、なんて、異質な雰囲気を醸しながら言われても受け取り方に困る。

 異質じゃないことが異質な綴と、普通に異質なこの人。この人の方が異質に見えるというのが、それでもやはり、硯先輩の言う通り、一つの『大衆的天才フレックス』の才能なのだろうと思う。

「ところで少年」

「………少年と呼ばれるほど、歳は離れてないですよ」

 見た目だけで言えば、ずっと年上に見えるし、雰囲気にしても違和感がないのだけれど、僕より一つ上なだけのこの人。

 少年と呼ばれるような年齢差じゃあないのだ。

「一つしか違わなくたって私はお姉さんだろう? 君のことは少年と呼ぼう」

「しばしばそう言うのを聞くんですけど、じゃあ、例えば綴のことはどうするんですか? 少年を少年と呼んでも、少女を少女と呼ぶような例は聞いたことが無いですよ」

「そうだね、私は年下の女子のことを少女とは呼ばない」

「じゃあ、なんと呼ぶんですか?」

「ロリだ」

「………」

「………」

「………」

「聞こえなかったかい? ロ——」

「ごめんなさい、聞こえてます」

 随分大真面目な顔をしてそんなことを言うものだから面食らってしまっただけだ。

 年上のお姉さんが、それも怪しいお姉さんがそんなことを言うだなんて。

 本を読んでいる気分というやつなのかもしれない。

「年下の女子を等しくロリと呼ぶ」

「年下の女子を等しくロリと呼ばないでくださいよ」

「そうか。ならば君のことはショタと呼ぼう」

「こっちであわせないでくださいよ。ロリの方を変えるでしょう、普通」

「だが、人間誰しも年上のどエロいお姉さんに手玉に取られたいとは思うだろう」

「ど、っどどどど、どエ——?」

「人間とは? という哲学的な問いには昔から悩まされてきたのが人類だが、私はその定義を年上のどエロいお姉さんに手玉に取られたいと思うかどうかとしている」

「そんなことを定義にするな」

「ならば君はどう定義するんだ?」

「……」

「……」

「…………年上のどエロい——」

「君も同じじゃないか」

 くそう、言い返せない。あまりに的を射すぎている。

 だって年上のどエロいお姉さんには、男女問わずやっぱり誰だって手玉に取られたいと思うじゃないか。

 自分は思わないって?

 うるさい、本を読んで勉強しろ。

「じゃあ、硯先輩は自分のことを年上のどエロいお姉さんだと思っているんですか?」

「いや、そんなことはない」

「そんなことはないんかい」

「どエロいとは思っていないが、年上の妖しいお姉さんだとは思っている。それはそれで需要があるだろう」

「それはあるんでしょうけど………」

 結局のところ、どエロかろうがなんだろうが、年上のお姉さんには手玉に取られたいのが人間というやつなのかもしれない。

 人間の定義だけではなく、最近盛り上がっているらしい人間とAIの違いというやつも、多分ここに結論を持つだろう。

 年上のお姉さんって凄いんだなあ。

「じゃあ、綴のこともロリだと思っているんですか? そう言い切れるほどには少女的ロリィではないと思いますよ」

 言うならば、『博愛フラジャイル』、足利あしかがかしの幼馴染であり、最近恋人へと変わった亜鉛あえん奈良ならの方がそういう容姿をしている。綴だって、美少女というくらいには幼げで、さっきのように、子どもっぽく喜ぶ部分もあるにはあるけれど、少女的ロリィというには、いささか大人びた雰囲気になってしまっている。

「愛らしいだろう、あの子。時折押し倒したくなる」

 上手く否定できないまま、僕は応える。

「どういう反応をすると思います? そんなことをしたら」

「ぜひ見てみたいよね。狼狽える『大衆的天才フレックス』。可愛らしい容姿の子は困らせたくなる」

「綴でも、年上のお姉さんに手玉に取られたいとか思うんでしょうか。仲いいんですよね。普段の綴の様子はどうなんですか?」

「なんだかうまくかわされているような気分になるよ。仲はいいし、んだが、やはり天才だと思わされるような部分がある」

 普通に話せる。

 その言葉の持つ意味くらい、訊き返すまでもないのだった。

「さっき聞きかけたことだが、私としては君と綴の関係の方が気になるね。まさか男を連れてくるとは思っていなかった。下衆な勘繰りをしてもいいのかな?」

「そんな関係じゃないですよ。はっきり言えば、付き合っているとかではないです。ただの仲のいい女友達ですよ。硯先輩は男女間の友情が無いと思っているんですか?」

「そういうわけじゃあないが………ああ、そうか」

 考えるような仕草と、訝しむような視線を僕に向けた後、硯先輩は一人納得したような声をあげる。

「君が『彼誰時エクストラコンテンツ』か」

「………」

 隠していたというわけでもないけれど、どうやらバレてしまったらしい。

 しかし、なぜ。

「そう呼ばれてはいますけど、どうしてそう呼ばれるようになったのかを、実はよく知らないんです」

「そう言うのは想像力で補うものだ」

「それだと、想像ばかりが膨らんで、真実を捉えなくなりますよ」

「良い良い。だが、それでも足りないのが、この高校で異名を与えられている存在だ。誇るといい。悪戯に与えられているわけじゃない」

「精進しろってことですかね。本でも読めばいいんですか?」

「ありのままでいればいい。案外人は、自分でも知らないうちに成長しているものだ。しかしだからこそ、自分の能力に鈍感になるのだけどね。本を読むというのは、自覚的になる一つの方法だ。捉えたいのなら、不安なのなら、読んでみると良い」

 随分と大人びた考えの人だとそう思わされる。

 分かるようなことと分からないようなことを織り交ぜて話すさまは、視界がぼんやりとして、まるで僕に酔いが回っているかのようだ。綴にも似たような部分はあるけれど、この人の場合、雰囲気も相まっているからこそ厄介。

 しかしだからこそ、『良酔宵チャルダッシュ』。

 ありのままでいて成長するとは、つまりそう言うことなのだろう。

「まあ、君が君自身の異名の意味に自覚が無いのも良い。そのうちきっとわかるだろうし、分からなくたって別に良いだろう」

「まあ、そうなんでしょうけどね」

 気になりはするけれど、気になるだけ。

 理由を知れないなら知らないままでいいという、口先で質問をするだけの僕は平々凡々だ。

 どうせ誰かに理由を聞いたところで、すぐに失念するだろうと思う。

「で?」

 話しの戻し方が怖い。

「べつに、ただの友達ですって」

「ただの友達ならばここに連れてくるのは君ではなかったろう。暇をしている綴の友人なんて君以外にいるだろうしね」

「思いついたのが僕だったんじゃないんですか? それとも、綴が僕のことを好いているとでも思うんですか」

「それはないな」

 即答、そして、断定だった。

 しかし、僕だって冗談で言ったようなものだ。綴が僕のことを好いてくれているのは知っているけれど、それは決して恋愛的な意味ではない。

 そもそも綴は、僕ではない別の誰かに恋愛感情を抱いているのだ。

 要は、それを話してくれるくらいの仲ということである。

「綴は、君を何かに利用しているんじゃないかという予想を実は立てているのだけど、どうかな?」

「どういう予想ですか、それ」

「真実を隠すのが上手いね。でも、嘘をつくのは下手だ」

 見抜かれた。あっという間に。

 出来るだけの平静を装ったのに。

「まあ隠したいなら別に聞こうとは思わないかな。立てた予想が合っているんじゃないかという予想が合っている自信はあるし。にもね」

「僕の、知らない役割………?」

 僕が知っている役割は、綴が干渉しないらしい恋の観測を、僕が担っているということくらいだ。

 綴が策を考え、僕が実行する。しかしそれは、必要とされれば、そう感じればというのを大前提に、二人を先に進めるという意味合いで、決して干渉するという意味合いではない。綴自身が動けるのなら、綴が動くこともあるだろう。

 そういう契約みたいなものだ。

 しかし、僕の知らない、僕の役割とは?

「言っただろう? ありのままで良いのだよ、『彼誰時エクストラコンテンツ』。ありのまま、存在するだけ、ただそれだけで影響を与える人間に、誰しもなっているものだ」

「………」

「精一杯考えろと言いたいところではあるが、考えなくて良い。それにちょうど、思考を遮る要因が出来たしね」

 硯先輩がそう言った時、準備室の扉が開いた。

「お、遅れてすみません! 委員長!」

 息を切らして扉を開けたその少年。

 染めていない黒髪は短髪で、身長は綴よりも低いんじゃないだろうか。

 顔も幼げで、ややもすれば女の子と見間違えてしまいそうな、少年。

 つまり。

「紹介しよう、夕暮。我が図書委員会の一年——」

 僕の頭の中にある言葉を、そのまま硯先輩は言った。

「ショタだ」


 3


「ちっ、違いますから!」

 切らした息で、その少年は否定した。

 そりゃあ「この子はショタだ」と紹介されれば、誰だって否定したくなるだろう。僕が自身に与えられた『彼誰時エクストラコンテンツ』を誇れないことよりもずっと誇れない名称だろうし。

「ぼ、僕は、これから成長するんですから!」

 頬を膨らせて怒るその子。

 全然怖くなかった。むしろ可愛らしいくらいだ。

「あはは、怒る小筆こふでも可愛いよ」

「子ども扱いしないでください!」

 両の腕を振り上げて鼻息をふんふんと鳴らす、硯先輩が小筆と呼んだその子。

「夕暮、彼は字原あざはら小筆という。さっきも言ったが図書委員だ」

「初めまして小筆君。僕は邑神夕暮。一応は『彼誰時エクストラコンテンツ』っていう異名を与えられてる」

 誇ればいいと、『大衆的天才フレックス』にも、目の前の『良酔宵チャルダッシュ』にも言われたから、とりあえず自己紹介として名乗ることで、誇ってみる。

 しかし、どうやら悪手のようだった。

「あっ、えっ、あ……い、異名持ちの、先輩ですか……」

 小筆君は一年生。まだこの高校に慣れていないだろうから、異名持ちの相手には少し怖いところがあるんだと思う。彼にとって一番近しい異名持ちはおそらく、図書委員長である『良酔宵チャルダッシュ』か、同学年であり、イレギュラー中のイレギュラーというべきか、準レギュラーというべきか、ともかく『大衆的天才フレックス』くらいだろうから、仕方のないことだった。

「恐れなくても良いよ、小筆。彼はそこまで怖い人間ではない」

「あっ……す、すみません」

 小筆君は軽く頭を下げる。

 恐れている様子を前面に出してしまったことを謝罪しているのだろうと思う。別に気にしていないのだった。

「そこまで怖いというか、別に僕は恐れられるような人間でもないですけどね」

「そうでもないさ。小筆は入学したてなんだ。まだ恐れる方が当たり前だ」

「入学したてで『大衆的天才フレックス』と名付けられた綴が不憫になりますよ」

「しかし的を射ているのも事実だ」

「だからって、ですよ」

 いつから異名を与えられているのかもわからない僕だけれど、綴で言えば、入学とほぼ同時にもう名付けられていた。綴のことを初めて知ったのだって、クラスの女子が「新入生に『大衆的天才フレックス』がいるんだって!」という紹介からで、入学したてなのに大衆的かどうかは分からないだろうとは当時思ったものの、しかしまったくその通りだった。

名前よりも異名が知れ渡っているのはこの高校ではよくある。

異名だけが知れ渡って、その正体を知っている人が実は少ない、なんてことも多いのだ。

「小筆、遅れたとはいっても、別に委員会の時間にはまだ早いだろう」

「で、でも、委員長が来ているのに、僕が遅れるのは……」

「将来苦労しそうだね、その考え方は。私は気にしていないから、この場所ではその考え方は捨てなさい」

「は、はい……」

 うつむきがちに、それでも小筆君はそう答える。

「まあ、せっかく早く来たんだ。返却のあった本を棚に戻してもらってもいいかな?」

「わ、分かりました!」

 ぱっと顔をあげて、小筆君は部屋を出て行く。

「すまない夕暮。小筆を手伝ってやってくれないか? 背が低いからね、棚の上の方は届かないだろうと思う。私はここの整理があるし、綴を待たなければいけないから」

「はい、わかりました」

 言って、僕も小筆君の後を追うようにして、準備室を離れる。

 図書室に入ると、硯先輩の心配通りに、小筆君が背を目いっぱいに伸ばして、棚の最上段に本を入れようとしていた。

 後ろからその本を取って、棚に入れる。

「あ……ありがとう、ございます」

 頭を下げて、きちんとお礼を言う小筆君。

 手にはいくつも本を持っている。なかなかに分厚いものを重ねているから、小筆君、細い腕だけれど、見た目よりもずっと力があるのかもしれない。

「あ、そうだ。さっきは硯先輩が僕のことを紹介してしまったので……字原小筆と言います」

「初めまして、邑神夕暮だよ」

 言って、小筆君の腕の中にある本を何冊か貰う。

「これは、どこに返せばいい?」

「あ、えっと……著者名があると思うので、それでまとめてもらえると。持ってきた本は全部この辺りに固まっているので」

「うん、分かった」

 背表紙にある著者名を確認し、本棚から同じ名前を探す。

 あいうえお順になっているから、探しやすかった。

「あの、邑神先輩」

「うん? どうした?」

 おどおどとした様子の小筆君を怯えさせないように、出来るだけ穏やかに僕は言う。

「その、失礼なんですけど……邑神先輩の身長って、どれくらいなんですか……?」

「身長? 一七〇くらいだな。高校二年の男子らしい平々凡々だぜ」

「高校二年生の平均って、一七〇なんですか?」

「僕の調べ、自信の無い記憶だとそのくらいだったな」

「ち、ちなみに……その、全然気にしているとか、そんなことはないんですけど、高校一年生の平均って、分かりますか……?」

「高一の? そう変わんないはずだ。一七〇よりちょっと低いくらい」

「………」

 手に持っていた本を取り落とし、呆然とした表情を浮かべる小筆君。

 気にしているんだろうと思う。

「……ちなみに、小筆君の身長はいくつくらいなんだ?」

「……ぅです」

「うん?」

「一五〇です……」

 ぼそりと、僕から目を逸らすようにして呟く小筆君。

 僕の身長から鑑みるに、多分一五〇はギリギリ越えていないくらいだ。どうやら鯖を読んでいるらしい。

「高校生なんて成長期の代名詞みたいなところがあるし、気づいたら小筆君も身長が伸びてるだろうよ」

「両親の身長は、二人とも一六〇を超えていません」

「………ま、まあ、突然変異とかあるだろうし」

「な、何を食べたら身長が伸びると思いますか!」

「ええ……」

 突然変異という言葉に希望を見出したのか、小筆君はずいと僕に顔を寄せる。

「食べ物もそうだけど、生活習慣とか、ストレッチとか、そう言うのが大切だって聞いたな。これだけ本があるんだから、それに関連した本もちょっとはあるだろ?」

「すべて読破してますし、実践中です……効果、出ますかね……」

「出るよ」

「ほんとですか?」

「多分」

「多分?」

「保証はない」

「な、ないんですか……」

 小筆君のご両親は二人とも身長がそう高くないらしいけれど、遺伝的なものを、食生活、生活習慣、毎日のストレッチでどうにか出来るという話もしばしば聞く。

 それに、突然変異的に成長する可能性だってある。

未来は不確定だと、高校二年にでもなれば分かるのだ。

「でも、そんなに背を伸ばしたいのか?」

「さ、さすがにこの歳でこの身長は、コンプレックスにもなりますから……」

「僕は愛らしいと思うぜ?」

「それが嫌なんです」

 むすっとした表情をする小筆君。

 男子の成長は女子より遅いとはいえど、確かに僕も背の低かったころに女子に弄られていたような気がする。その女子も今では僕より背が低いのだろうけど、親交が無くなってしまったことを思えば、あの時身長を越していなければ意味がないということでもあるのだ。

 この表情も頷けるし、発言が軽率だった。

「特に委員長ですよ!」

 むすっとした様子を少し強めて、小筆君は言う。

「さっきのなんですか! 邑神先輩への紹介の仕方!」

「あはは、的を射ているとは思ったけどな」

「邑神先輩まで言うんですか!」

「ごめんごめん」

「雑です……」

 言いながら、一つ息をついて、小筆君はまた棚の最上段に手を伸ばす。

 届いていないその動作に、僕はまたその本を取り、小筆君が狙っていた場所に差し込む。

「背が高くなりたいと思うのはいいが、頼ることとは別問題だ。怪我するぞ」

「す、すみません……」

 小筆君が持っている本はなかなかに分厚い。それだけ重たいのだろうし、もし、取り落として頭にでもあたろうものなら、相当な怪我になってしまうだろうと思う。硯先輩に任された以上、この場における監督責任は僕にあるのだ。

「……委員長にも、同じことを言われました」

 ぽつりとつぶやくようにして、小筆君は言う。

「頼れって話か?」

「……はい、「やろうとする精神は買うが、明らかに自分に出来ないことを周りにいる人間が出来るのなら頼れ」と」

 多分あの人は怒ったのだろうと思う。

 委員長として委員の面倒を見るということもあるのだろうけど、小筆君、なんだか少し危なっかしいところがあるのだ。今の例が分かりやすいもので、他にも、小筆君が準備室に来た時の、「委員長が来ているのに……」というセリフもそれをよく表しているだろう。

「苦手か? 頼るのは」

「自分が迷惑をかけているんだって思うと、余計に、です」

「ちょっと残酷なことを言っておくと、頼られない方がめんどくさいぞ。それとも、何かあってからじゃ遅いって、それを言える立場になりたいのか?」

「……委員長は、一人でなんでも出来てしまう人なんです」

「……?」

 なぜここで硯先輩の名前が出てくるのかと、露骨に首を傾げてしまう。

「でも、それでいつも無理をしているから、ちょっとでも力になれればって、そう思うんです」

「無理してるやつから、「貴方は無理をしてるから休んでください」なんて言われたところで、素直に聞く耳持たないだろ、あの人」

 大人びた雰囲気以上に大人びた中身をしていると感じさせられる人だ。

 あの人がいつも助けているであろう小筆君にその指摘をされれば、「ふむ」とか言いつつも、多分言うことを聞きやしないだろう。

「じゃあやっぱり、委員長に休んでもらうためには、委員長の仕事を肩代わりできるような人に、僕がならないと」

「他の委員じゃだめなのか? 二人でやっているわけじゃないんだろ?」

「そう、なんですけど………」

「………あー」

 口ごもるようにうつむく小筆君。

 その仕草と、若干赤らめた頬で、なんとなく察した。

 まさか綴、こういう理由で僕を連れてきたのか?

「と、というわけでなんですけど………僕も、まずは異名持ちを目指そうかと………」

「う、うん?」

 これまた露骨に首を傾げてしまった。

 自分の内面を変えたいと思うその想いは認めるし、目指すべきところとして間違っていないような気はするのだけれど、かといって、正解とも言い切れない。

「異名持ちは、なろうと思ってなれるものじゃないぜ? 僕だって、いつの間にかついていただけだし、自分から狙ったわけじゃない」

「や、やっぱりそこも才能なんでしょうか………」

「異名持ちは才能というより個性だけどな。まあ、個性も一つの才能か」

 入学して三か月と少し。そんな中で異名を持っている一年生は『大衆的天才フレックス』である、物部綴と、現段階で僕が知っているのは、綴が教えてくれた二人。

 『悪役令嬢オブジェクション』、加々良柄かがらがらかがり

 『伏魔殿ティツィアーノ』、音霧おとぎり畢生ひつき

 なんとも危険な香りの漂う女の子二人。「篝さんの方は面白い子なんだけど、畢生さんはね………かなり気を付けた方がいいかも。私も時々、」なんて、綴にそんなことを言わせる相手に興味を持ちつつも、危険視はしている。

 男の子の異名持ちがいるかどうかは知らない。

「異名を持つことが出来れば、少しは対等にいられるんじゃないかと、そう思うんです」

「的外れな努力のような気がするけどな………」

「そ、そう思いますか………?」

「異名を持っちゃってる僕が言えたことじゃないけどさ、別にそう良いもんじゃないぞ? さっきの小筆君みたいに、異名を持っているというだけで畏怖の対象になったりするからな」

 それ自体を嫌だと思うことはないけれど、一線を画した相手であるように扱われることが多い。自分のことを平々凡々と称する僕としては、中二心をくすぐられるとはいえ、嫌でなくともやりづらくはあるのだ。

「じゃ、じゃあ、髪を染めます」

「んん……?」

 内面を変えることが出来ないのなら、外見を変えてみようという考えだろうか。

 形から入るという言葉があるように、見た目を変えることによって自分の中身を変えることを余儀なくされるような状況を作る。

 悪くない考えではある。

「ちなみに、染めるとしたら何色だ?」

「それはやっぱり、目標である委員長のような、深い藍色じゃないかと」

 硯先輩は腰まである真っ黒い長髪に、インナーカラーとして深い藍色を入れている。

 あの人の持つ宵の闇のような雰囲気を大きく手伝っている一つの要素だ。

「髪全部を染めるのか?」

「いえ、委員長みたいに、髪の内側だけを……」

「多分、小筆君の髪の長さだと無理だぞ」

「………」

 呆然としている。

 考えなくとも分かることだろうに。

「僕はどこを目指せばいいんでしょうか……」

「さっき言ったろ。まずは小筆君が頼ることを覚えることだな」

「い、委員長を、頼る……」

「頼ってこない相手に誰も頼ろうとは思わないし、繰り返すけど、無理してるやつの言葉なんか聞きやしない人だと思うぜ。だから、とりあえずそのプライド捨てな」

「………」

 どうにも小筆君は大人になろうとしている風がある。

 心がけとしては褒めてあげたいのだけれど、それゆえの空回りは普通に危険なのだ。しかし、僕にしてみれば、小筆君のこれは硯先輩にも責任の一端があるだろうと思う。

 相手は、『良酔宵チャルダッシュ』。

 少し話しただけで分かったように、こっちが何を言ってものらりくらりと酔わされるだけだ。そうさせないためには、小筆君があの人の仕事の肩代わりをできるくらいにならなければいけない。大言壮語に聞こえるのは、あの人の雰囲気にのまれているのだろうか。

 なんにせよ、相手は強大、という感じだ。

 伊達に異名持ちじゃないよなあ、やっぱり。


 4


「この間は、本、借りられたのか?」

「ルールは一度につき三冊までだからね。また借りに行かなくちゃ」

 ほくほくと嬉しそうにしながらグランドピアノの鍵盤に指を走らせる綴。

 美少女、『大衆的天才フレックス』のソロコンサートを一人、特等席で聞けるというゆる校の生徒どころか、綴のことを知っている人からすれば随分羨ましく映る光景だろう。

「なんて曲だ? 今弾いてるの」

「夕暮さんも絶対知ってる名前だよ」

 クラシックだとは思うし、何処かで聞いたことのあるような曲ではあるけれど、聞いたことがあるというだけで曲名は出てこない。

 有名なのだろうということしか分からない僕の知識は平々凡々だ。

「結局、なんて名前の曲なんだ?」

「なんでしょう」

 どうやら答える気が無いらしい。

 ゆったりとした始まりかと思いきや、その途中で聞こえる鍵盤の音は早い。同じように、鍵盤の上をすべる綴の細い指が、テンポに合わせて早くなったり遅くなったり。

 と思えば、突然テンポが上がり始める。

 なんだかふわふわしている思えば、明確に速くなってくる。

「……ひょっとして、チャルダッシュか?」

「お、その通りだよ」

 硯先輩につけられた異名、『良酔宵チャルダッシュ』。

 チャルダッシュというのは曲の名前だ、というくらいの知識は持ち合わせていた。

「なんか、硯先輩っぽいような、そうじゃないような感じだ」

 ゆったりとした中にある音の早さは硯先輩っぽいのだけれど、テンポが上がった今はその限りでは無いように感じる。

「グラディオーソだよ」

 ピアノなんか弾いたことのない僕。

 とても僕との会話をこなしながら出来るような曲ではないように聞こえるし、綴の指の動きも会話しながらできるとは思えない。

 しかし相手は『大衆的天才フレックス』。

 そんなものは一蹴できるだろうと思う。

 そして、グラディウスだがなんだか知らないがよく分からない。なんか音がわーっとし始めたことくらいしか分からない。

「本は、何借りたんだ?」

 チャルダッシュの曲調同様、楽しそうに弾く綴に僕は言う。

「えっとねー……「必見! オオトカゲ大解剖!」とか」

「………」

 なんだか思っていた回答と違う。けれど繰り返す。相手は『大衆的天才フレックス』だ。いろんなことに興味を持って、それを当たり前のように吸収していく存在だ。

 オオトカゲさんも本望だろう。

 この場合は著者か?

「夕暮さん、改めてありがとね。本の整理手伝ってくれて」

 若干テンポを遅くして、綴は言う。

「後半は小筆君と一緒にいたけどな」

「図書委員でもないのに手伝わせちゃったしね。何かお詫びとかしなくちゃだ」

「あんまりお詫びとか言うな。変な気分になる」

「そういうことを、本人の前で言うべきじゃないと思うな……」

「言わせた綴が悪い」

 こちとら健全な男子高校生だ。

 美少女天才女子高校生にお詫びとか言われれば邪な想像くらいする。

「ま、冗談は置いとくにしろ、気にしなくていい。どうせ僕は暇なんだ」

「それなら良かった。でも、暇って言うなら、夕暮さんはどうして部活とかやらないの?」

「べつに強制じゃないんだからいいだろ」

「そうだけど、部活も委員会もやっていないのに、暇だと謳うのは青春の無駄遣いだよ」

「美少女と音楽室で二人きりというこの状況以上の青春があるのか?」

「はいはい、どうもね。それで、なんでやらないの?」

 軽くあしらわれてしまった。

 しかし実際、部活も委員会もやらないのに特に理由はないのだ。

 やるもやらないも自由だと言われればやらないという、平々凡々な理由だ。

「ていうか、綴だって何もやってないだろ」

「私は生憎、忙しい身分でして……」

 そうだった。僕なんかと同義にしてはいけない相手だった。

 有名ミュージシャンに音楽を提供したり、海外に絵画を飾ったり、小説を書いたりと、それはもう僕のような平々凡々には想像できないほどに多忙だろう。借りた本だって読んでいる暇がないんじゃないだろうか。

 オオトカゲさんもきっと心配している。

「お前、よくゆる校に来ようと思ったよな」

「うん? どういうこと?」

「いや、ゆる校も凄いとこだとは思うけどさ、綴の能力、才能なら、もっと上の高校に行く選択肢もあったわけだろ? なんでここを選んだんだ?」

 噂に聞く話。綴には海外の高校やら大学やらから、入学しないかという声がかかっているらしい。ゆる校も平々凡々なんて言えないほどに優れた高校ではあるけれど、綴がもっと能力を発揮できるような、磨き上げられるような学校だってあるはずだ。

「ゆる校にしたのは、家から近かったからだよ?」

 チャルダッシュを弾き終わったのか、鍵盤から手を離し、きょとんと首を傾げるようにして、綴は言った。

 なにを当たり前のことを聞いているの? とでも言いたげな顔だった。

「家からの通学圏内にゆる校って言う素敵な高校があったから、ここを選んだんだよ?」

「え……い、いや、そんな理由で選んだのか?」

「高校選びなんてそんなものじゃない? 夕暮さんみたいに言うなら、平々凡々な理由だよ?」

「で、でもゆる校よりすごい高校だってあるだろ? 部活とか、勉強とか、文武両道に力を入れてるとこ」

「うーん……でも、高校選びだよ? 大学ならもうちょっと考えるけどさ、高校は家から近いとこにするでしょ」

「………」

 まあ、そうなんだろうし、その通りだと思うが。

 『大衆的天才フレックス』たるこいつが、そんな理由で?

「私を過大評価しすぎなんだよ、夕暮さん。どんな才能を持っていたって、天才と呼ばれていたって、『大衆的天才フレックス』なんて異名がついていたって、私はただの女子高生。考え方もその分子どもなんだ」

 その通りだとは思うけれど、その限りでは無いから『大衆的天才フレックス』なのだろうに。

 綴は過大評価だというけれど、それを言うなら綴自身も自分のことを過小評価している。

 頭がいいから頭が悪いと分かるように、天才だから天才でないと分かるということなのだろうか。平々凡々な僕には一生理解できなさそうなジレンマだ。

「そう言えばさ、綴って、姉弟とか姉妹とか、いるのか?」

「兄弟? なんで?」

「べつになんてことない、誰だってするような平々凡々な会話だよ」

「あー……………いる、かな? 多分」

 思考のための沈黙なのか、しばらくのそれの後で綴は言う。

「多分ってなんだよ」

「パパのさ、愛すべき友人さんに年の離れた弟さんがいてね。その子、私の二つ下、今中学二年生なんだけど、よく懐いてくれてるから。弟みたいだなって」

「あー、なるほどな」

 愛すべき友人さんと言う表現に若干ひっかかったけれど、さておき、なるほどそれなら綴が迷う理由も分かる。

 ……うん?

 なんだか今の話の中で、見逃してはいけない重要な事実があった気がするのは気のせいか? なんか、つじつまが合わないというか、違和感というか……。

「その子は、綴が、世界的有名人だってことは知ってんのか?」

 考えても分からないだろうと、僕は諦めた。

 分からないなら仕方ないと、平々凡々だ。

「どうだろうね。私名前は知られてるけど、顔は知られてないじゃん? 私からは言った覚えがないし、パパの愛すべき友人さんが言ってるかもしれないけど、訊かれた覚えはないかな」

 名前が知られているけれど、顔は知られていない、なんていうものの、知っての通り、綴はこのゆる校で、『大衆的天才フレックス』という異名を与えられている。しかも、ゆる校内で自身の持っている才能をいかんなく発揮しているから、自身が世界で有名な物部綴であり、同姓同名の赤の他人ではないと自ら証明しているのだ。

 当人曰く「まあ、隠す意味もないしねー。顔が大々的に割れていないから、それでいいのさ」とかなんとか。かの物部綴が、圧倒的な才能を持ち合わせているうえにこんな美少女だと世界が知ったら、ただでさえとんでもないことになっている現在の評価が一体どうなってしまうのだろうと、平々凡々な僕には想像もできないのだった。

「まあ、ともかく、せっかくなら夕暮さんも何かやったら?」

 硯先輩と違って、綴は優しく話題を戻した。

「年下からそんなことを言われるとはな」

「いろいろやっている私にはどうしてももったいなく見えちゃうのさ」

「そうは言っても僕だって、『大衆的天才フレックス』の懐刀的な役割は担ってるだろ?」

「懐刀って……さすがにそんな風には思ってないよ」

「うん? てっきりそういう理由で本の整理とやらを一緒にやろうって依頼してきたんだと思ってたけど、違うのか?」

「…………はて?」

 少しの間、僕の発言の意味を考えたようで、わざとらしく言っているものの、どうやら本当に意味を測りかねているらしく、綴は首を傾げた。

「え、恋の話?」

 しかし一言目は的を射ていた。

「………」

「うん? え? 誰と誰? 誰の話?」

「そういうことには首を突っ込まないんじゃなかったのか?」

「ぐぅっ………」

 唇を噛む綴。

 人様の恋愛感情に首を突っ込むのは不誠実だと思いつつも、やっぱり気になるものは気になるらしい。首を突っ込むのと、誰かが誰かに向ける恋愛感情を知るというのはちょっと物が違うような気もするし、話してやらんこともないとは思いつつも、そう簡単に口外するわけにもいかないのだった。

「まあ、何となく察したけどさ……そうだったんだ、ほんとに知らなかった。小筆君がね……」

 綴は目を閉じて何度か頷いていた。

 僕が接していたのは、小筆君がほとんど。

 『大衆的天才フレックス』でなくとも予想くらい付けられるし、そもそも図書室の話題を出したのだから、もう答えを言っているようなものだった。

「綴、小筆君とは知り合いなのか?」

「ううん。初めて会ったよ。さすがに同じクラスじゃない子のことまで覚えられないよ。まだ入学して三か月なんだから」

「でも、向こうは綴のこと知ってるんだろうな」

「かもね」

 理由は言うまでもない。

「ま、今回に関しては、本当に見守るだけだな。樫と奈良の件みたいな事情もないだろうし」

「でも、出来れば近くで見守りたいなあ……」

「首突っ込む気しかないじゃんか」

「そんなことないよ。どのみち図書室には本を借りたり返したりで、これから通うことになるんだし」

 ふふと、綴は怪しく笑んでいた。

 人の恋を知ると、どうしてか見ていたくなる。

 干渉はしないし首を突っ込まないのも綴と同じだけれど、実は近くで見守りたいという部分も同じなのだった。

 小筆君と『良酔宵チャルダッシュ』。

 どちらかと言えば、見守りたくない、見ていたくないと思う方がおかしいと思うような、そんな二人だ。


 5


「おや?」

「あ」

 移動教室への移動中、ばったりと硯先輩、『良酔宵チャルダッシュ』と出会う。

 普段なら樫も一緒にいるところだけど、今日の樫は健康的な寝坊だ。今朝がた奈良が怒っていた(なぜか僕が怒られる)から知っている。

 しかし、朝日の差す一限の休み時間ながら、なんでこの人はこんなに黒っぽいのだろう。この人が持つ黒さなんて、髪と瞳だけだろうに。

「この前はありがとうね、本の整理」

「いいですよ、お気になさらず」

 先日の小筆君との身長の話もあってか、改めてこの人と相対すると、この人の身長がやたら高いことに気づかされる。

 一八〇くらいは多分優に越している。そのくせ足は長いし、顔は小さいしで、綴とは違った意味で完成されている人だ。

この人本当に僕の一個上か?

「綴とは仲良かったんですか?」

「本好きの綴と、委員長としてほぼ図書室で過ごす私。仲くらい勝手に深まるさ」

「『良酔宵チャルダッシュ』と『大衆的天才フレックス』がいる図書室って、僕はあんまり近づきたくないですけどね」

「君だって異名持ちだろう『彼誰時エクストラコンテンツ』?」

「異名持ちの中にも序列があると思っているんですよ。お二人はトップ層で、僕は底辺です」

「さしずめ頂点は『絶対民政グランドメイカー』か?」

 『絶対民政グランドメイカー』、枢火くるるび鍵音かぎね。三年、ゆる校の現生徒会長。

 一年時の生徒委員会の選挙でいきなり生徒会長に立候補し、その演説で「私が生徒会長になったら、みなの学校生活の幸福度を倍にしよう!」と、どこかの政治家のようなことを声高らかに宣言し、その年度中に学校の建て替え工事、普段から要望のあった屋上に入ること、もとより許されていた染髪と服装のさらなる自由、それらを叶え、選挙公約を確かに達成させることで生徒の心を掴み、以降生徒会長を三年間やり続け、国民ならぬ、校民の願いは絶対に叶えるという異名持ち。

学校内の地位という意味でも、人望の地位でも、トップ中のトップに君臨する人だ。

「しかし、君もそこまで自分を卑下することはない。ここは個性を重視する高校なのだから。その中で異名を与えられることを、もっと誇った方がいい」

「綴にも同じことを言われますよ。でも、自分のことを誇るのって、そう簡単じゃなくないですか? やろうと思ってできないほどには、僕は平々凡々ですよ」

「心がけ次第だ。綴の傍にいる君なら出来ないとは思えない。そもそも、君らの関係の始まりはどこなんだ?」

「気になります?」

「睡眠までの時間を小一時間ほど長くして、下衆の勘繰りに身を窶すくらいにはね」

「決めてるんですか。寝る時間」

「規則的な生活、健康的な睡眠は美容に良い。女子高校生らしく、お肌には気を遣うのさ」

 髪を染めることも、ある程度の服装の自由も許されているゆる校。メイクの許可が下りていないわけもなく、しかし、硯先輩はメイクをしていない。

 メイクの有無を見分けられるほどの目を持っているわけじゃあないけれど、「綺麗だよね、硯さん。あれですっぴんなんだから、もうわけわかんないよ」と、すっぴんの美少女がほざいていたのだ。

「いまどきは男子高校生でもお肌に気を遣うだろう」

「僕が気にするように見えます?」

「良い良い、人それぞれだものな」

 口元に手を当てて、目を細めて、少し口角をあげる。

 もともとそうなのだろうけど、この人普通の笑い方が出来ないのだろうか。

「で?」

 話しの戻し方が怖い。

「秘密です」

「おや、残念」

 べつに隠すようなことでもないのだけど、言うようなことでもない。

 特別の事実があるというわけでもないけれど、話そうにも人との出会いをどう話せというのだろうか。本当になんでもない出会いだったのだ。

 特別な何かがあった方が話しやすいくらいだ。

「まあ、話さないなら良い良い。だが、気を付けることだよ。彼女は人気者だからね、どこで誰が見ているか分からない。『特報中毒パノプティコン』とかね」

「『特報中毒パノプティコン』……初めて聞く方ですけど………」

「新聞部部長だよ。スクープ大好きっ子だ。『大衆的天才フレックス』なんて注目の的だろうし、警戒しておくことだ。あることないこと書かれるよ」

 あることないこと書くことが特報中毒とは。

 マスコミの鏡だな、と思ったらさすがに顰蹙を買うだろうか。

「まあ、それは置いとくにしろ、もう少し話を戻すが、あのショタはどうだった?」

「辞めてあげてくださいよ、その呼び方。本人嫌がってましたよ」

「愛らしくてね。私は一人っ子なもので。君は?」

「妹が一人」

「良い良い。大切にしなよ」

 また妖しく笑む。

 前にも思った通り、何か企んでいるような顔だけれど、そう言う顔しかできないのだろうというのは、もう分かった。

「小筆のこともありがとうだ。あの子、少し無理をする癖があるだろう」

「確かにそうですね。ちょっと危なっかしいところもありました」

「その理由を何か聞いてないか?」

「理由?」

「無理をするなと言い聞かせてはいるし、私を頼れとも言っているんだが、どうにもその辺りの言うことは聞いてくれない。言い方は悪いが、他の委員より扱いづらいんだ、あの子」

「苦手ですか?」

「苦手というか………まあ、その言い方をされれば否定が出来ない程度ではある」

 硯先輩は顎に手を当てる。

 一人で大体のことを成し遂げてしまうらしいこの人。その分頼られることも多かったのだろうし、頼ることは少なかったのだろう。そんな人が小筆君のように、守りたい側の相手とぶつかったときにどうすればいいのか分からなくなるというのは、そこまで難しい想像じゃない。

「で?」

 話しの戻し方が怖い。

「理由なんか知りませんよ。誰かがショタとか呼ぶから、反抗心でも生まれたんじゃないですか?」

 理由は知っているけれど、言わない理由もまた明白だ。

 綴にはバレてしまったけれど、他でもないこの人には絶対にバレてはいけない。それも、第三者である僕のような平々凡々に。

 というか、誰であっても。絶対に。

「あの子を頼らせるには、どうすればいいと思う?」

「それを僕に聞くのはなぜです?」

「『彼誰時エクストラコンテンツ』」

 今度は明確に怪しく笑んで、指を鳴らしてから、硯先輩は僕を指さす。

「………僕にだって、分からないことがあります」

 硯先輩が、今どういう理由で僕のことをそう呼んだのかは分かったし、僕にその異名が与えられた理由も、なんとなしに理解できた。

 しかしだからって、出来ることと出来ないことがある。

「頼っちゃいけない範囲じゃないですか?」

「しかしどうにも、私には手の打ちようがないというものだ」

「出来なくてもやらなければいけないことがある。分からないからと考えるのを辞めたら、頼らないことよりも、問題だと思いますよ」

 言った僕に対して、硯先輩は肩をすくめていた。

 そうしてまた、妖しく笑む。

「良い良い。君ならそう言うんじゃないかと思ったよ」

「………乗せられたんですか、僕」

 腰に片手を当て、また笑う。

 笑うというか、笑われている気分だった。

「じゃあ、何に乗せられたのかを教えてもらってもいいですか? 貴方の背を押した気になっていないんですが」

「……もうすぐ、授業が始まるね」

 一歩ずつ、硯先輩は僕に近づいてくる。

「君に貸してもらった力は、他でもない」

 すれ違いざまに、『良酔宵チャルダッシュ』は、僕の肩に手を置いて、耳元で囁いた。

「この感情に、どういう名前を付けようかと、ね」


 6


「あ、小筆君。やっほ」

「ど、どうも……」

 小筆君は少し目を伏せていた。

 夕暮さんから小筆君と硯さんの関係を聞く以前から、私は図書室には通っていた。それでも小筆君と会うことは少なかったわけだけれど、意識してみると、貸し出しの受付に小筆君が座っていることは多かった。

 意識すれば人のことは記憶に残るし、気づくんだなあと、そんな感想。

「これ返却の本」

「はい、ありがとうございます」

「……」

「……」

「……」

「……ど、どうしたんですか………?」

 閑散とした図書室。

 もとより何の音もしないこの場所では、私たち二人の間に流れる沈黙も、より確かなものとなる。

「ちょっとお話ししたいな、なんて」

「ど、どうして僕と……?」

「私よく図書室来るから、図書委員の人とは仲良くなっておきたいんだ。そうしたら硯さんみたいに、普段は許可されていないことを特例で許してもらえるかもしれない。そんな下心だよ」

 あとはちょっとした出来心だろうか。

 内容は伏せる。

「僕には、そんな権限はありませんよ……?」

「でも、この図書室にある本のことは、それなりに知っているでしょ?」

「たくさんは読んでません」

「敬語じゃなくていいんだよ、小筆君」

 受付の前においてあった椅子に座って、カウンター越しに小筆君と向き合う。

「ど、どうして座るんですか……」

「お話しようって、さっき言ったと思うけど」

 敬語を使うのには一つ、相手と距離を置きたいからという理由もあった気がする。出来れば目を逸らしておきたい。

 しかしなんだか怯えられている。

 聞いた話によると、小筆君は異名持ちの人を恐れているらしい。

 仕方のないことだとは思うけれど、小筆君の恋の相手は異名持ちで、それでいて年上だろうに。

ひょっとして、硯さんよりも私の方が怖い?

 ショックかもしれない。

「怖がらなくてもいいんだよ? 取って食ったりったりしないからさ」

 そうは言うものの、ちょっと楽しくなってきていたりもする。

 加虐心というやつかもしれない。

可愛い子は袋叩きにしろと、パパの愛すべき友人さんの言葉だ。準ずる気は当たり前ながらない。

「図書委員のお仕事には慣れた?」

「……そんなにやることも多くないです」

 私が強引だったからだろう、小筆君も会話を選んでくれるようだった。

「図書委員って普段何してるの?」

「こうやって、本の返却を受け付けていたり、本の整理とか、図書室でやるイベントを考えたり、掲示物を張り替えたりです」

「楽そうに見えて案外仕事が多いよね、図書委員って」

「委員長も言ってました、目に見えない部分が多い委員会だぞって」

 やることが多くないと自分で言ったのに、とは思わない。

 それだけ緊張しているのが伝わってくる。

「小筆君はどうして図書委員に? 委員会に入るのも強制じゃあないよね」

「本が好きなんです。それで、せっかくならと思って……」

「小筆君は凄いねえ、夕暮さんなんか、部活動も委員会もやらないんだから、青春の無駄遣いだよ」

「……仲がいいんですね。お二人は」

 おどおどとした様子は残したままで、小筆君は言う。

 仮にも同学年。『大衆的天才フレックス』という親しみやすい名前も賜っている私。

 なんだか、なにがなんでも打ち解けてやろうと、逆に火がついてくる。

「夕暮さんとはね、不思議と縁があるんだよ。縁がちょなんだよ」

「………」

 くう……ツッコんでくれない……。

 まあまあ、ほぼ初対面みたいなものですから。さすがに仕方がない。

 私は挫けない。

「縁ってさ、よく糸で表されるよね」

「は、はあ……」

「絆とか、続くとか、さっき言ったみたいに縁とか。それで最後も終、結び、だよね。他にも赤い糸とか、言うよね」

「………」

「それで私の綴って名前にはどんな縁、どんな意図があるのかなって考えてたんだ。どんな糸かな、ヌヌヌヌって」

「………」

「………」

 渾身の綴さんジョークがかすりもしていない。

 苦笑いももらえていない。

 戸惑われている。愛想笑いをされるよりも心に来るものがある。

「小筆君の筆って字も竹冠で、竹も一つの糸だろうからさ」

「………」

 不思議な顔をされている。

 『大衆的天才フレックス』と言われていれど、時折変なことを言う子であるという評価も受けている私だ。多分この手の話題はその部分が出てしまっているのだろう。

 しかして、綴さんジョークはパパにも好評だったのだけれど。

 ちょっと無理やりだったかな。

「最近とっても暑くなっているよね」

「……それ、脱いだらいいと思いますけど……」

 私が腰に巻いている裏起毛のパーカー。そこに視線を送って、小筆君は言う。

 確かにこれを外したら、今より幾分かは涼しくなるだろうと思う。

「これはね、目印なんだよ、小筆君」

「め、目印……?」

「このパーカーを着ているだけで遠くから見ても私だってわかるでしょ? 何かと声をかけられることが多いからさ、目印を作っておくのはいいことなんだよ」

「そ、そうなんですか……」

 嘘とは言わないにしろ、気分としてはそうだ。そんな理由で着ているわけじゃないから。

 しかし、だからと言って、本当の理由はもっとわかりにくい。

 ただちょっと安心するというだけだ。

 ちなみに毎日着ているけれど、ちゃんと洗濯はしている。洗濯してすぐに乾燥機にかければ毎日着ることも難しくない。

 汚くなんかないのだー!

「あの、物部さん」

「下の名前で呼んで。苗字は私のことを示さないから」

 怯えている子に対してやってはいけないだろうけど、ぴしゃりと私は言い切る。

 名字で呼ばれるのは好きじゃないのだ。

「えっと……つ、綴、さん」

「出来れば敬称も取って欲しいところだけど……まあいいや、どうしたの?」

「綴さんって、委員長と、仲がいいんですよね……」

「うん、そうだね。図書室にはよく来るし、自然とね」

「委員長って、どんな本が好きなんでしょうか……」

「本?」

 小筆君が硯さんに向ける思いは、夕暮さんから聞いているので知っている。

 図書委員らしい距離の詰め方、画策の仕方だ。

「たまに本の話はするけど、あんまり特定のジャンルに限らなかったはずだよ? 面白そうだと思ったら絵本も読む人だし」

「え、絵本ですか……?」

 人ごとのように言っているけれど、私も同じだ。というより、パパがそうだからそれに影響されただけ。

 絵本は驚きの展開が多いし、設定への導入が乱雑な割に没入させて来るから、結構面白いのだ。

 絵本だからと言って馬鹿には出来ない。それがたとえ、幼児向けのものであっても。

 むしろそういうものこそ面白かったりするのだ。

「だから好きなジャンルとかは明確にはないと思うよ。好きな作家さんとかはいるかもしれないけど、だからってその人しか読まないってこともないだろうし。取り方によっては、なんでもいいと取れる」

「………」

 生憎ながら、私の持っている情報では力になれそうにもない。

 頼られたなら力にはなってあげたかったし、面目なくはあるし、忸怩たる思いでもあるけれど、そう簡単に力になれる方がおかしいと、自分を納得させておく。

「硯さんのこと気になるの?」

「あえぇっ……!」

 なんとなく言ってみただけの言葉に、小筆君は顔を真っ赤にして返してきた。

 見ているこっちが赤面しそうになるくらいの、お手本のような動揺と赤面。

 憂い子だ。

「美人さんだもんね、委員長さん」

 やおら足を組んで、頬杖をつく私。

「……好きなの?」

「——!!!!」

 どうしたらこんなに顔を赤く出来るんだとツッコんであげたい。体調不良を疑うようなくらいだ。

「ど、どう思いますか……?」

「どうって?」

 白々しく、しらを切ってみる。

「その、僕が——」

「ダメって言うと思ったの? それとも、そう言ってほしかった?」

 ちょっと意地悪をしたくなってしまった。

 意地悪と、ちょっとしたアドバイスを。

「ダメだと思うならダメなんじゃないかな。少なくとも、自己卑下の酷い人を、あの人は傍に置きたがらないだろうと思うよ」

 少し残酷かもしれないけれど、この子に対して優しい言葉をかけることは、私には出来ない。

 人を好きになって、その人のことを思う気持ちがあるのなら、憂いのすべてを自覚しておくべきだろうと思う。

 それに、相手にしている人が人だ。一筋縄ではない相手だということくらい、私じゃなくたってわかる。

「僕は、どうすれば、あの人の隣にいられるでしょうか……」

「知らないかな」

 断定して、私は続ける。

「硯さんは硯さんだ。私には決められないよ、あの人の感情を。ただ、隣にいてもいいのかを迷うんだったら、辞めておく方がいいと思うよ」

 半端な言葉は作らない。

 きちんと考えて、誠実に、私が出せるだけの回答を。

 それがどれだけ残酷なものだろうと、不誠実で適当な物言いだけはやってはいけないことだ。少なくとも、私は私にそう言い聞かせている。

「自信を持ってとは言わない。ただ、を持てないなら、辞めておいた方がいい。それは多分、硯さんにも、小筆君自身にも、冒涜になりうるものだから」

 これが、今の私にできる最大限の譲歩なのだった。


 7


 自分の感情に向き合ってこなかったというつもりはない。むしろ、人よりそうする瞬間は多かったろうという自覚、それなりの自信を持って言うことが出来る。

 案外人というやつは、自分と向き合うことが少ないらしい。

 特に私たちのような世代。若い若いと己の若さを無駄にすることしか出来なかった経験から人の若さを憂うという平々凡々にすらなれない者から言われ続けるような年頃は。

 皮肉を並べたところで、所詮私も彼らからすれば憂いの対象である若人。若気の至りというだけで、おそらく耳を貸してもらえることもない。自身が持ちうる、早く産まれた、というだけのアドバンテージで、憂いの対象よりも頭を使わない馬鹿の言葉にはこちらも耳を貸す気は毛頭ない。

 恥に恥を重ねて面の皮が厚くなっているのか知らないが、口を閉じろと、私は言ってやりたい。

 これもまた、私が言ったところで意味はないのだろう。

 反面教師として捉え、お前たちのようにはならないと、そう思いながらこの先も過ごすほかない。そしてならば、そんな若人の反抗心を志した私が、私のような者を必要とする相手をそれとなく導くほかない。

 思えば、結局——結局、なのだろう。

「これはどうすればいいですか? 委員長」「これどうしますか?」「こっちにしてみようと思うんですけどどうです?」「こんな要望がありましたけど、どうしましょうか」

 とか。

 頼られることは嫌いではなかったし、別に頼られ切りというわけでもなく、任せる部分は任せていた。私一人ですべてを行っていたわけでもない。それでは周りが育たないことも分かっていた。

 しかし。

 いや、だからこそかもしれない。

「い、委員長は、何か困ったことないんですか……?」

 入学して間もない、このゆる校にまだ馴染み切ってもいない一年生からそう言われた時は、表情にこそ出なかったものの、我ながら困らされた。

 頼られることは多かった、というか、頼られることしかなかった身だ。

 頼って欲しいという旨のことを口にされて戸惑うのも、納得のいくことだった。

「べつに何もないよ。小筆が仕事に慣れることが最優先かな」

 困っていなかったのだ、私は。

 周りを頼る方法、たまには頼ってあげた方がいいということも心得ていた。

 しかし、思えば確かに、心得ているというだけで、私は自分から誰かを頼ろうとはしなかったなと、そう気づかされた瞬間だった。

「自分の身は自分で守ろうと思っていたんだがね、そんなことを言われたのは初めてで、ついつい落とされてしまったよ。私も乙女なのだなあと同時に気付かされた」

「………その話を、なぜ私に?」

 ご丁寧に、綴は本を物色する手を止めて、私の方へ身体を向けた。

「聞きたいかなとね」

「……代わりにってことですか?」

「いや、そんな気はないよ。ただの私の話として聞いてくれればいいし質問があるならしてくれればいい」

 肩をすくめる私に対して、綴は一つ息をついた。

 私の正面に座って私を見据えるその瞳。天才でなくとも、一つの芯を感じさせる澄んだ瞳。

 この眼は、私ですら若干委縮してしまうようなものだ。

「でも、それ以上聞くこともないですよ。硯さんも恋をするのだなと、その驚きでお腹いっぱいですよ。情報処理にも手いっぱいです」

 実際、表にこそ出していないものの驚いているのだろうと思う。

 私だって驚いているのだ。『大衆的天才フレックス』にも驚きだろう。

「小筆だって私のことを好いているのだろう」

「……知っていたんですか」

 しかし年相応に、やはりこの子にも抜けたところがある。

 私の言葉をあっさりと肯定するような返答をするというのは、この子の持つ誠実さに少し触れてしまうものだろうに。

「私だってそこまで鈍くはない。思いを向けられている当人なわけだしね」

「想いあっていると気づいたわけですね。どうするんです?」

「どうもしないよ。想いあっているからと言って、状況が先に進まないことがあるとそれくらいは分かっているだろう」

「小筆君が、自分は硯さんにふさわしくないと思っている、という理解でいいですよね」

「良い良い。話が早くて助かるよ」

、ですよね。多分」

「だろうね」

 小筆自身が、私には釣り合わないと思っている。

 しかしそれは、まだ、そう思っているという意味だ。

 いつか自分を納得させられるまで、私の方へ踏み込んでくることはないだろう。

「じゃあ硯さんはそれまでのんびり待つんですか?」

「どうしようかなと思ってね」

「……?」

 綴は首を傾げる。

「結局のところさ、私は私で完結していると思うんだよ」

「……確かに、そう思います」

 要は、目的の問題だ。

 小筆は私を守れるような存在になりたいと願っていて、しかし私は、正直そんなものを必要としてはいない。小筆に落とされてしまったものの、小筆の願いを叶えてやることは私に出来ない。

「別に小筆がどうとかではなく、私自身にも問題があってね」

「問題なんですか、それは」

「障害にはなっているだろう。恋心の前提にあるのは、互いに互いが、必要であることだと思っている」

 私は小筆を必要としていない。

 もちろん好意の感情こそあれど、私が単体で完結してしまっているばかりに、小筆のことを必要としてあげられないのだ。

 それは、小筆が嫌がる——というよりは、小筆が自身に課した「釣り合う」という思い、願いを、叶えられない、叶えさせてやれないという意味でもある。

 その考え方自体に言いたいことが無いわけじゃあないが、まあなんにせよだ。

「私はおそらく、恋をするのにあまり向いていない」

「でも、好きになってしまったんじゃないですか?」

「そうなのだよなあ………本当に厄介だ」

背もたれに深く身体を預ける。

 相談を持ち掛けられることこそあれど、告白を受けることこそあれど、まさか私がこちら側の立場に来るとは思ってもみなかった。

 愉快愉快と言いたいところだが、そうもいっていられない懊悩だ。

「私はやはり、君とは違って誠実ではないのだろうな」

「……なぜ、そう思うんですか?」

「『良酔宵チャルダッシュ』」

「腹を割って話すことを、誠実でないとするんですか」

「誠実とは真実を持って向き合うことではないだろう。時に嘘を交えようと、相手を想うが故の行動にその言葉があてられる。酔いが回って本音を吐くのは、誠実とはかけ離れている。分かっているだろうに、わざわざ言わせるとは」

「買いかぶりですよ。分かっていたところで、硯さんの口から聞かないことには、合っている保証はない」

「だが合っていただろう?」

「的外れである可能性も捨てきれませんから」

 綴は肩をすくめる。食えないやつだ。

 おそらく夕暮は分かっていないだろうが、綴の持つ『大衆的天才フレックス』という異名。その最も大きな力はここにあるだろうと思う。相手に合わせて自らを柔軟フレックスに変化させる。それでいてぶれない芯も持ち合わせているから『大衆的天才フレックス』たりえる。

 ここで出会えてよかったと思わせるほどの、人格者。

 いったい彼女は、何を持ちえないのかと、そう考えてしまいそうになる。

 が。

「綴と夕暮は?」

「………は、はい?」

 脈絡なく私は言って、綴は少し遅れて反応する。

 こういうことをするのは、私の得意分野、専売特許。

「二人のきっかけは何だったんだい?」

「……ひょっとして、隠れて付き合っているとか思ってますか?」

「思っている」

「違いますよ」

 ため息がちに、綴は否定した。

「男女仲睦まじくてもいいじゃないですか。そもそも私、男女間の友情の成立の話は全然好きじゃないんですよ」

「なぜ?」

「他人の友情の形に口を出してくるからですね。私と夕暮さんの友人関係は、誰に口を出されるものでもない。貴方では成り立たないかもしれないけど、私たちは成り立つんですと、その言葉で納得しない人も多いんですよね。硯さんは、違うと思ったんですけど」

 綴は少し目を細める。

「良い良い、私もあると思っているクチだ。『大衆的天才フレックス』と男との関係に興味が湧いているだけだよ。それに——」

 私は続ける。

 本命、本題へ。

 分かりきった会話を一度挟むというのは、話術としてはよく知られているだろう。

「君は、男は苦手なんじゃなかったのかな?」

「………」

 動揺した様子を、綴は表情に出さない。

 それでも、私から少しだけ視線を外していた。

「別に、小筆君とは話しましたよ」

「あの子はショタだろう」

 私は言い切る。

 冗談抜きの言葉だ。二つの意味で。

「………なんで知ってるんですか?」

 息をついて、綴は肯定と疑問を同時に放った。

「綴と仲のいい男を知らないというだけだ。時折君を見かけるのだけど、男と一緒にいるところは、夕暮を除いて一度もない」

「それだけの理由ですか?」

「私のこういう勘はよく当たるんだ。実際、当たったようだしね」

「………」

 バツの悪そうな顔をする綴。

 その顔を見ながら笑んでみると、綴は大きく息を吐いた。

「笑わないですか? 夕暮さんと一緒にいる理由を言っても」

「私はいつだって笑っている」

「私と硯さん二人の秘密でお願いしますね」

「ああ、分かったよ。約束しよう」

 一つ息をついてから、綴は口を開いた。


 8


 邑神先輩は僕に、委員長を頼るべきだと教えてくれたけれど、委員長はそんなことを許さないほどに先回りをしてくる人だ。棚に本を戻す時だって、僕が届かないような場所にある本は絶対に渡してこないし(委員長は図書室の本のすべての位置を把握している)、掲示物で画鋲を触らせたりしないし、刃物を扱う時だってそれを絶対に渡そうとしない。

 つまり簡単に言えば、僕に対して、どこか過保護な部分があるように感じてしまう。

 子ども扱いされているのだ、僕は。

 邑神先輩からも同じようなことを言われてしまって、その認識は確定的なことのようになってしまった。というか、なるべきだと言われたような気分。

 プライドを捨てな、という邑神先輩の言葉に反抗心が芽生えなかったわけじゃないけれど、それでも的を射た発言だったような気がしてならないし、実際にそうなんだと思う。

異名持ちの先輩はやっぱりすごいなと、僕なんかには目指せないなと。

 この感覚は、綴さん、『大衆的天才フレックス』さんに、たしなめられたことだった。

 まだ一年生の僕が、この先異名を持てる可能性が無いわけじゃないけれど、それでもやっぱり、異名を持っている人はどこか達観しているというか、僕なんかとは違うんだなとそう思わされる。

「………」

 僕の隣で本を棚に戻す委員長、『良酔宵チャルダッシュ』も。

 時折本を開いて、何かを確認したのか、棚に入れる。

「何かあったかい?」

「あ、いえ、何もです……」

 見続けていたことがバレてしまった。

 僕の方に視線を送っていなくとも、僕が視線を送っていたから気づいたんだろう。委員長にはそういう部分がある。妙に視線に敏感というか、なんというか。

「……」

 図書委員になったのは、本が好きだとか、せっかくなら何かやっておきたいとかそんな理由だけれど、それと同じように、僕が委員長のことを好きになった理由は、多分今まで委員長に告白をした人と何ら変わらないような理由だと思う。

 綺麗な人だと思った。眼差しとか、所作とか、そもそもの存在感だとか。

 目を奪われて、それで気づいたら、好きになってしまっていた。なんだか嘘みたいで、それでも、この人相手なら納得できるような、そんな理由。

 委員長は一人で何でもできる人だった。

 効率のいい仕事の進め方とか、先に済ませておくべき作業をきちんと把握していて、しかし、人に作業を任せることも、同様にきちんと行う人だった。一人で出来てしまうからこそ、その作業を誰かに任せることの大切さを理解しているんだと思う。

 だから、僕が昔言った「委員長は何か困っていることはないのか?」という言葉も鼻で笑えてしまうようなものだったろうし、その後で委員長は優しく笑ってくれたけれど、それだけ相手にされていないということでもあるのだろうと思う。

 結局、僕程度ではこの人の隣にいられないのだろうと。

 それでも——それでもなのだから、本当に、厄介だった。

「これ」

「……?」

 僕の思考を遮るように、委員長は言う。手には一冊の本。

「この作家さん、確か好きだったね」

「は、はい、好きです。でも、どうして知っているんですか?」

 確かによく読んでいる人だ。

 推理小説しか書かない人で、それでもその道において右に出る者はいないと言われているくらいに優れた作品を作る人。

 けれど、僕は委員長にそんなことを話した覚えはなかった。

「誰もいないときにカウンターに座ってよく読んでいたじゃないか。よく読んでいるというか、その人を読んでいる時しか知らないだけだけどね」

「………」

 それを覚えるほどに自分のことを見てくれていたのかと、喜んでしまいそうになる。

 委員のメンバーのあらゆる作業における得意不得意、どんなメンバー同士を組ませれば軋轢が起こらないかとか、そういうことを見分けるために、普段から誰に対しても観察を怠っていないという、ただそれだけなのに。

「私は観察が得意でね」

 その本を棚に入れながら、委員長は言う。

「だから、誰かが誰かに向ける思いというのがなんとなく分かってしまうんだ。あの人はあの人をあまり得意としていない、とかね」

「……そう、ですね。そんな感じがします」

 どうやって言葉を返せばいいか分からなくて、それでも思ったことを口に出す。

「だからね、小筆」

 硯先輩は、真正面から僕に向き合った。

「小筆のそれも、私は分かっているんだよ」

「………」

 本を抱えたままの僕は、僕よりもずっと高くから僕のことを見る委員長のその目から、目を逸らせなかった。

「申し訳ないが、答えてあげられそうにない」

「………」

 口を開きそうになって、結局何の言葉も出せないまま、僕はうつむいた。

 僕が言う前に、口にする前に、拒絶を——いや、拒絶じゃなくて、委員長なりの肯定なんだと思う。委員長のやり方で、向き合ってくれたんだと思う。

 だから。

 だから——泣くな。

 そんなことが出来るほど、僕は委員長に何も出来ていなかっただろう。決意なんて出来ていなかっただろう。そもそも、僕なんかじゃダメだって、分かっていたんだろう。

 だから。だから。

「生憎私は、小筆のような感情が向けられたことは無くてね」

「……?」

 棚に本を入れる作業を再開した委員長。その言葉の意味を図りかねた。

 告白なんて、委員長は数えきれないほど受けてきただろうに。

「頼らせてくれと言われることはあったんだが、頼ってくれと言われたのは初めてだったんだ。正直どうしていいか分からなくてね。面目ない話だ」

 肩をすくめるように、委員長は言う。

「私は多分、誰の力が無くとも成立する人間だ。自分ひとりで大抵のことはやってのけるし、自分ひとりでダメならば誰かを頼るという方法も取ることが出来るだろう。この先私が困っていれば手を差し伸べてくれるような相手にも出会うことだろう。しかし、それをやってきたのはね、小筆。君が初めてなんだよ」

「………」

 委員長が何かを言おうとしているというのは分かるのだけれど、何を言おうとしているのかは分からない。

 とりあえずのところ、委員長の初めてとやらを貰えたという事実があることは分かる。

 喜んでしまいそうになるけれど、ぐっとこらえて、委員長の落ち着いた声に、ただ耳を傾ける。

「だからまあ……こういうことを言うのは得意じゃないんだが………私も、小筆と似た気持ちを持っている」

「………………」

 言っていることが分かったような、分からないような。

 やっぱり分かったような。

 分からないような。

「え、っと………それは、どういう……」

 委員長は、一つ息をついた。

「私も、小筆に気があるという意味だ」

 言葉の意味を飲み込むよりも先に、委員長でもこんな表情をするんだなという驚きが先に来た。

 頬を赤らめるようなことは無いけれど、何処か気恥ずかしそうに言葉を紡いでいて、少しだけ細めた瞳と、表情に困ったように少し上がる口角。

 その表情に見惚れている間に、僕の頭の中で委員長の言葉の処理が終わったようで、僕は手に持っていた本を取り落とした。

 分厚い本が数冊つま先に落ちたけれど、痛みは感じなかった。

「本は大切にすること」

 委員長がかがんで、僕の落とした本を取ろうとしたところで、帰ってきた僕の意識が本を拾おうとする。

 僕は、そこで初めて、委員長と目線を合わせることが出来た。

「あ、あの、委員長」

 目線を、視線を合わせたままで、僕は口を開く。

 ここまで心臓がうるさくなったことは生涯一度もないし、この先もないのだろうと、そんな気がした。

「ぼ、僕は、まだ、委員長の隣に、自信をもって、立てません」

「ああ、小筆がそう思っていることも、分かっている」

「で、でも! いつか絶対、委員長の隣に! 立ってみせます! だ、だから——」

 言いかけたところで、委員長は僕の額を人差し指で突いた。

 かがんだままに頬杖をつき、薄く笑んだ委員長は、これまで見てきた中で、見惚れてきた中で、一番綺麗だった。

「私も、小筆の隣に立てるように、頑張らないとね」

 委員長の言葉はいつもどこか難しくて、僕がどれだけ考えても的を射ることはないんじゃないかと、そう思わされる。

 それでも僕は、委員長の正面にいるのだった。


 9


「今回の一件は、これで終わりってことか?」

「終わりも何も、恋心に変に干渉はしないって、それはずっと言ってたはずだよ?」

「そうなんだが……」

 いまいち煮え切らないような思いだ。

 綴の言うことはその通りだし、元来、そういう約束だ。僕だって他人の恋心に干渉してはいけないという綴の想いに共感している。

 しかしとはいえ、という思いが無いわけじゃない。

 変に突っ込んでしまったばかりに、変に手を引けなくなってしまったような。

「でもお前、どうせなんかしたんだろ?」

「どうせってなに」

「僕の知らないところで、ひっそり動いたりしたんだろ?」

「………別に、ちょっとアドバイスしたくらいだよ」

 若干僕から視線を逸らして、綴は言う。

 アドバイスというけれど、綴の誠実さに触れるようなことはしていないのだろうし、それでも、少し間の『博愛フラジャイル』の一件で綴が僕に対してそうしたように、相手の行動を、相手の無意識下で強制するようなことをしたのだろう。

 誰だか分からないし、影響されているかもわからない、それでもそこにいる、暗躍している、という意味では『彼誰時エクストラコンテンツ』という異名は、綴だって持っているような気がする。

 何もやっていないのは、今回に関しては僕だ。

 本当に誰だという話だ。

「想いあっていながら、それでも先に進まないってのは、随分リアルだよな」

 一つため息を漏らしてから、僕は言う。

「変な感想だね。恋心にリアルも何もないでしょ」

「ただ想いがあるだけってか?」

「そういうこと」

 綴はオオトカゲの知識を集積しながら会話をする。

 例えば、してはいけない云々ではなく、そもそも歩きながらスマホを触ることが出来ないくらいにマルチタスクが苦手な僕は、頬杖をついて、会話をするのだった。

「しかし良かったのか? 硯先輩のことを僕に話しても」

「勘づいてる部分くらいあったでしょ。それに、それとなく夕暮さんには言ってあるって聞いたけど?」

「まあそれとなくな」

 僕は言う。

「でも、小筆君の方も空回り気味の努力を重ねそうだったぞ? 異名持ちを目指すとか、髪を染めるとか」

「健気な努力で可愛いじゃん」

「間違っていてもそう言い切れるのか?」

「努力の正誤を決めていいのは当人だけだよ。遠回りの努力はあっても、間違った努力はないって、それくらいのことを言うことしか第三者には許されてないのさ」

「だけど、ちょっと的外れすぎやしないか?」

「いいんだよ。言っちゃあなんだけど、相手は硯さん、『良酔宵チャルダッシュ』なんだから」

「………」

 そう言われるとちょっと弱い。

 異名持ちを相手どるという意味でも面倒だし、『良酔宵チャルダッシュ』、硯先輩を相手にするという意味でも、当たり前の努力ではダメだろう思う。それでも、努力は努力だし、さっきの綴のように否定できるものではない。

 そして、努力が必要だというのは、一つの答えなのだろうと思う。

 それは決して、この恋に対してだけではない。

「相手に好きになってもらう努力って言うか、誰かを好きでいるための、それを自分に認めさせるための努力か。小筆君も大変な相手に恋したな」

「それでも頑張ろうって、素敵なことだよね」

「早く大人になりたいっていうようなことは言ってたけど、小筆君、やろうとしてることと、そこに向けた思いは結構立派に大人びてると思うんだけどな」

「ちょっと危険でもあるんだけどね。自分の未熟さに気付くって言うのは」

「うん? そうなのか?」

 オオトカゲさんに目を落としながら、綴は薄く笑んで息を吐く。

「終わりがないと気づかされるからだよ。どこまでも向上心を持ち続けるのは、疲れちゃうんだ」

 そう言った綴、『大衆的天才フレックス』は、どこか憂いのような表情を浮かべていた。

 天才と呼ばれていれど、綴だってはじめからそうだったわけじゃあないのだろう。例えば目の前でオオトカゲさんの情報を仕入れているけれど、この本に書いてある情報は、この本を読むまで知ることはないという極めて当たり前の事実。

 綴が自信を天才と称しないのは、自分よりも優れた人を知っているからという以外に、こういう理由があるのだろうと思う。

「でも、人は才能を欲しがるだろ」

「そうだね。だから、これ以上私は何も言っちゃいけないんだ」

 綴は言う。

「例えば私は天才と言われてしまっているから、言っていいことと悪いこと、言っても意味のあることないことが、結構明確に線引きされているんだ。何者かになるというのは一つ、誰かへの干渉が出来なくなるってことなんだよ」

「それは………悲しい、ことか?」

「大人の言葉に子どもが反論できる? 天才の思考に凡人がケチをつけられる? 愛されている子に愛されていない子が救える? そういう話なんだよ、結局さ」

 前者二つは分かる。

 けれど、最後の一つの例えは、なんだか綴らしくなかった。

「それでも私は否定したい。誰とだって真正面から向き合って、誰とだって心を通わせたい」「疲れるだろ、それこそ」

「………無理だって言わないんだね、夕暮さん」

「無理かどうかは別の話だ。願うかどうかは自由だよ。仮に、無理と分かっていながら願っていたとして、僕はそれを愚かだとは言わない」

 出来る出来ないじゃない、やるやらないでもない。願うは自由だ。

 それも分からないまま、是か非かで物事をはかってしまうほど、そしてそれを他人に言い放てるほど、僕は落ちた人間じゃない。

 僕は平々凡々なのだ。

「私、夕暮さんのそういうとこ——」

「辞めろ辞めろ。前に言ったはずだぞ? 勘違いしたらどうする」

 遮って僕は言う。

 言われる前に遮ったものの、若干照れてしまった。

「思いは言葉にしなくちゃ伝わらないんだよ?」

「じゃあ、もうちょっと言葉を選んでくれ。その言葉は僕には毒だ」

 綴は斜め上を向いて首を傾げる。

「……私、夕暮さんと一緒にいると安心するよ?」

「………不合格」

「嬉しいくせに」

「んぐっ………」

 好きと言われるよりもダメージが大きい。

 こいつ自分のことを天才でなくとも、美少女であること、僕が綴のことをそう思っていると分かってやがる。綴にいたずらっ子の要素が入ったら、もう誰も勝てないだろ。

「まあ、話は戻るけど、これからはのんびり見守ることだね」

「僕はもう関わることもないだろうな。図書室に行くことなんてなかなかないだろうし、硯先輩とも小筆君とも学年は違うわけだし」

「気にならないの?」

「なるけど、行く理由が無いしな。僕が見に来てるって意識されるのは嫌だし」

「私、夕暮さんのそういうとこ——そういうとこいいと思ってる、だとさすがに上から目線って感じがしない?」

「試行錯誤してくれ。本読んでるなら程よい言葉くらい知ってるだろ」

「私、夕暮さんのそういうところ、変わらないでほしいって思ってるよ」

 小首をかしげるようにして綴は笑んで、僕も少しの笑みを返した。

 ただの友人関係ならばそれでいいし、この上なく嬉しいものだ。けれど、『良酔宵チャルダッシュ』、硯先輩は、綴が僕に対して、恋愛感情でなくとも、何か特殊な感情を抱いていると言っていた。

 綴がそれに、どんな言葉を当てているのかは分からない。

 しかしどんな言葉にせよ、綴の傍にいられるということが、僕には誇らしいのだった。


二章 終


次章 『頭上注意アッパーカット

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