一章 『博愛』

一章 『博愛フラジャイル



 1


 釉漆ゆうるし高校。通称、ゆる校。

 創立してから約八十年。そこそこに長い歴史を持っているけれど、おととしにあった大規模な改修工事のおかげで、外装は汚れなく、同じように校内にも汚れはない。四階建ての校舎にはエレベーターがつき、教室には冷暖房完備、下駄箱の掲示板は電子へと変わるという最先端高校だ。

 総生徒数が千人を超える、昨今の少子化を感じさせないほどのマンモス校。部活動では全国出場を果たしているものがいくつもあるし、有名企業のご嫡男、財閥のお嬢様、そんな人たちが素性を隠して通っているとまで言われている。そんなこんなで元来有名な高校ではあったのだけれど、『大衆的天才フレックス』の入学が決まってからはその名前は世界にまで知れ渡ったらしく、今年に入って留学生の受け入れまでやりだしたんだとか。『大衆的天才フレックス』本人はただこの高校に入っただけだし、本人も何もやっていないというのだろうけど、存在するだけで他に影響を与えるような人物がいることくらい、高校二年にもなれば嫌でも分かる。僕もそんな存在になってみたいとは思うものの、自分がそうなったイメージすらも出来ない僕は「凄いなあ」なんて言う頭の悪い、それでも僕らしい平々凡々な感想を吐くことしか出来ないのだった。

 そんな高校にどうして僕のような平々凡々が入学できたのかと言えば、一度は落ちたものの、合格辞退者が出たとかで滑り込み合格を果たしたというこれだけは平々凡々でない理由だ。入る努力こそしたけれど、そんなものは皆やっている。平々凡々だ。

 家族には人生の運をすべて使い果たした、なんて言われたけれど、『大衆的天才フレックス』と親交を持てている今を思えば、運というのはなかなか無くならないのだなと思わされる。しかし、というより、こんなものはただの『大衆的天才フレックス』の力なのかもしれない。

 ともあれ、平々凡々の体現者である僕こと、邑神ゆうがみ夕暮ゆうぐれは、今日もゆる校に登校する。

 長い歴史を持ち、世界的にも有名ではあるものの、時代の流れに柔軟に対応しているゆる校は、指定の制服こそあるものの、カッターシャツとゆる校の生徒である証明のためのバッジさえ身に着けていれば他は大体なんでもいいという、放任主義すれすれの高校で、ピアスだのアクセサリーだのネイルだのスマホだの髪を染めるだのは基本的に許可されている。

 授業には出ましょうね。授業中にスマホを触らないでね。くらいの最低限のものは制約が課されているけれど、他が自由な分、こうした基本的な事柄は案外守られるのだ。学校の治安だって悪いわけじゃない。むしろいい方だろうと思う。

 マンモス校と呼ばれるこの高校のすべてを把握できているわけではないから、僕が知らないだけで、実は治安の悪い場所もある、と言われれば、それを否定は出来ない。

 ちなみに、ゆる校の基本理念に、「実力で黙らせろ!」というものがある。

 少し前に、現生徒会長である『絶対民政グランドメイカー』が組み込んだらしいその理念は、生徒手帳にも記載があり、ゆる校のあり方を決定づけ、そして、よく表している。

「おはよう、夕」

「ん、おはよう」

 自由な校風と言えど、一年生の頃、入学したてからこの校風に合わせられる人は少ない。それがひと月経つにつれて何となく馴染んでいき、僕のように二年生にでもなれば、最早一年生の頃の初々しさはどこへ行ったんだと言いたくなるような、最早誰だったか思い出すことに苦労するような人が増える。

 制服を着崩すことなく、アクセサリーをつけるわけでもなく、髪を染めるわけでもない。四十人程度のこのクラスにおいて、そんな稀有な存在は、僕の後ろの席で、眠そうな声に開いていない瞳で僕とあいさつを交わす足利あしかがかしと僕くらいのものだった。

「樫、今日は遅刻しなかったんだな」

「……奈良ならが起こしてくれたんだ。それが無かったら遅刻してたよ」

 欠伸を終えて机に座った樫は、腕を組みそこに顔を埋める形で顔を伏せた。

「また寝るのか」

「どれだけ寝ても寝足りない。それに、今日は雨だ。雨の日は頭が痛くなる」

 樫の言う通り、窓の外には雨が降っている。

 低気圧の片頭痛もちは大変だろうとは思うものの、仮に今日が雨ではなく雲一つない快晴だったとして、樫は似たようなことを言う。

 天気のいい日は、日が暖かくて眠くなる、とかなんとか。

「昨日は何してたんだ?」

「昨日は、家帰ってから、すぐに寝た。眠くて——というわけで、夕。昨日の課題を見せて欲しい」

 顔を伏せたまま、もごもごとした声で樫は言う。

「あとできれば写してほしい。提出もしておいてほしい。まずは、鞄からノートを出してほしい。今日いっぱいの面倒を見て欲しい」

「せめて一つくらいやれよ」

「遅刻もしないで出席したんだ。今日の俺はもうよく頑張ったよ。拍手喝采、スタンディングオベーションが聞こえる。眠れないから静かにしてほしい」

 樫は眠いという割に、そして実際眠いだろうに、よく喋るのだ。

 もともと話すことが好きな方ではあるのだけれど、あまりの眠さにそれもままならず、分かるような分からないような言葉をひたすらに口から垂れ流す。

 高校一年で同じクラスになり、なんの縁か二年でも同じクラスになった。

 僕がゆる校の校風に染まらないのは、なんだか恥ずかしいという平々凡々な理由だけれど、樫が染まらないのは、つまりはこういう理由だ。そんなことする暇があるなら寝るのである。

「一限、なに?」

「古典」

「こてん………今の、俺」

「………」

 眠くて頭がこてん。

 擬音として使っているのだろうと思う。

「五点」

「十点中?」

「百点」

「高得点だな……俺は謙虚に生きているから」

「謙虚に生きているやつは、謙虚に生きているとは言わない」

「謙虚に生きたいと思っているから、高得点だということにしよう。それに、夕、そんなに細かいことばかりを気にしていると、俺みたいに眠れなく——はあ……」

「疲れるなよ、話すことを途中で」

 すでに落ち切った樫の身体がさらに机に体重を乗せる。

 仕方のないこと、そして、慣れきったことではあるとはいえ、面倒だと思わない僕も僕だった。

「眠い。今日は一段と」

「昨日も言ってたぜ、それ」

「日々記録を更新し続けている。これがオリンピ——はあ……」

「さっきより記録落ちてるぞ」

 記録が落ちているというより、この場合記録が向上しているのだろうか。

 大真面目に考える必要はないのだろうけど、もごもごと喋っている樫の言葉が聞き取れなくなってきているあたり、どうやらそろそろ限界らしい。

「もうちょっと頑張れ、樫」

「……ぁんで?」

「授業の始まりの起立と礼くらいはしておいた方がいい。なぜかいつも僕が怒られているんだ」

「ぉぇん……」

「謝るならもうちょっと頑張ってくれ」

「ん………」

 樫はゆっくりと身体を持ち上げる。

 ふらふらと椅子から落ちそうな具合ではあるけれど、頑張ろうという意思を感じる。

「会話をしていれば、眠らない。俺は、そう思った」

「じゃあ、話をしようぜ。盛り上がるようなやつ。トークテーマはそっちで決めていいぞ」

「テトロドトキシンの話をしよう……」

「なぜ」

「理由を、求めないことだ……少なくとも、今の俺に……」

 目を閉じたまま、ぼやぼやと樫は言う。

 眠りかけの人間に対しては、確かにその通りだった。

「まあ、いいや。で、テトロドトキシンが何? フグの毒だよな?」

「ハコフグだけは違うらしい」

「そうなんだ。なんて毒なんだ?」

「パリトキシン」

「へえー」

「……」

「……」

「……」

「盛り上がらねえー」

「眠りかけの人間に、そんなことを求めるな………」

 フグの毒にも種類があったのか、という驚きにはギリギリならないような雑学。

 その話題を持って、どうこの場を盛り上げろと言うのだろうか。

「パリトキシン、ハラスメント……」

「何言ってんだ、お前」

 確かに、昨今いろんなことにハラスメントという言葉が組み込まれ、新語が次々に作り上げられているけれど、そんなハラスメントがあってたまるか。

 というか、ハラスメントをされたのは僕だし、それを言うなら、今のこれだって睡眠ハラスメントとでも言ってやる。

 スイハラ。甘いものが食べたくなってくる。

「パリハラって略すと、パリコレみたいだ……パリトキシン・コレクション」

「無理があるだろ。それと、それ水族館のイベントだろ」

「夕、水族館のこと、水族館って言うんだね」

「やめろ、分かりづらすぎる」

 すいぞくかん。

 すいぞっかん。

 僕がどちらで言ったのかは、想像に任せることにする。

「洗濯機と、洗濯機みたいな」

「読み仮名をつけろ」

「体育と体育みたいな」

「同じ文字が二つ続くと読まなくなる風があるよな」

「パラライズとか?」

「パラライズは違う。ちゃんと発音する。それと、馴染みが無さ過ぎる。文字が続いて読まなくなるとかじゃなくて、そもそも頻繁に口に出す言葉じゃないだろ」

「サプライズは?」

「お前、実は眠くないだろ」

「サプラーイズ」

 なんだか元気そうに思えるけれど、目は開いていないし、身体はふらふらと揺らしている。

「授業、開始まで、あと何分……?」

 言われて、僕は正面を向き直し、時計に目をやる。

「大体、二十分くら——」

 振り返ったとき。

 樫が机に顔を伏せて倒れていた。

 事件性を感じるくらいに唐突なそれだったけれど、耳を澄まして小さな寝息を聞かなくたってわかる。

 寝たのだ、樫は。

「……まあ、今日は持った方か」

 いつもなら、特に会話をすることもなく、そもそも会話が成り立つこともなく樫は眠ってしまう。

 樫が眠ったところで樫の鞄に手を伸ばし、古典の教材を机の上に出してやる。

 さすがに課題を写すようなことはしない。一時期やっていたこともあるのだけれど、さっき樫が言っていた、奈良、という僕らの一つ下で、僕らと同じくゆる校に通う、樫の幼馴染の女の子に怒られるのだ。

 甘やかさんでくださいよ、とか言って。

「あれ、足利君寝ちゃったの?」

「寝た。記録は三分と持たなかった」

「今日はお話しできると思ったのになあ……」

 そんな風に言うクラスの女子。

 樫の活動時間があまりに短いために、樫が起きているうちに十の言葉を交わすと願いが叶うと言われているらしい。それを知った樫が、誰かの願いを叶えるために奮闘していたこともあったのだけれど、ねぼったい声で何を言っているかもわからない樫と言葉を交わすことは到底できたものではないと、樫と話すと願いが叶うという噂は、なぜか信ぴょう性を増している。

 ちなみに、僕は願いを持っているわけではないから樫と会話が出来るのだと女子に言われる。無欲になれば案外願いは叶うと、そんな矛盾した金言があったような無かったような。

「よく寝ろ、樫」

 多くの人から願いを受け、それを叶えてあげようと、眠い体を押してまでいろんな人と話をしようとした樫。

 誰が言い始めたのか、以来、樫は博愛主義だと言われるようになった。しかし眠がりの樫と会話できる人は少なく、会話しようにも途中で樫が眠ってしまうこともしばしば。

 樫は、『博愛』であるけれど、眠がりのために会話が長く続かない、成り立たない。博愛が長く続かないように、壊れやすいのだと、誰かが連想した。

 足利樫。

 人は彼を、『博愛フラジャイル』と呼ぶ。


 2


「あ、エクステセンパイじゃないっすか。ちーっす」

「辞めろ。僕をエクステと呼ぶな。やったことないし、やり方も知らないし、詳しく説明しろと言われたら説明できない」

「でも、違うことは分かってるんすね」

 くひひ、と意地の悪い笑みで、彼女は言う。

 長そでのカッターシャツを肘の辺りまで乱雑に折り曲げ、少しだけ日焼けした健康的な肌をし、黒く長い髪の一部を赤色に染め上げ、くりくりとした丸い目を細めて憎めない笑みを向ける彼女。

 名を亜鉛あえん奈良という。

 樫の幼馴染であり、僕らの一つ下だ。しかし、一つ下というにはいささか小さすぎるくらいの矮躯をしており、たとえ二年の廊下でなくとも、声を掛けられなければ身長の低さで気が付けなかったろうと思う。

 そんな彼女と、廊下でばったり。

「でもいいじゃないっすか。エクステじゃなくてエスコンって略されたら、それはそれで卑猥な意味に聞こえません? エスとはS、つまりはサドとして、サディストコンテストって言うことも出来たんすよ?」

「それはお前の想像力が豊かなだけだ」

「卑猥と言えばっすよ、センパイ」

「その言葉で話題を広げようという精神が僕にはわからないが……まあ聞いてやる。なんだ」

「卑屈って言葉あるじゃないっすか。あの言葉って、「卑しいことに屈する」って書くわけじゃないっすか。卑猥って言葉よりもエロいと思いません?」

「話の続きを促したことを後悔してるよ、僕は」

 ため息がちに、僕はそう返す。

「そもそも、卑猥の猥の字には、乱れるって意味があるんだ。卑しいことに乱れてる「卑猥」という言葉の方がエロいんだよ」

「卑猥はサドで、卑屈はマゾって感じっすか?」

「その理解でいい」

 いいわけないと思うけれど、今は休み時間、つまりは他の生徒もいる。

 こんな人通りの多いところで、後輩とこんな話題で和気あいあいとしているところを見られるわけにも、聞かれるわけにも、いかないのだ。

 そんなこんなで、乱雑に会話を終わらせる。

「じゃあ、センパイは卑猥コンテストってことっすね」

「ことっすね、じゃない。終わらせようとしたんだから、話題を広げるな。とんでもない不名誉だ」

「なんすか? 照れてるんすか?」

「お前にはない恥じらいの感情を僕は持ってるんだ。見習え、敬え、僕という先輩を」

「敬ってるっすよ。見て分かんないんすか? ほら」

 言って、奈良は、カッと大きく目を開く。

「……」

「……」

「……」

「分かるわけないだろ」

「かーっ、そんなんだから、センパイは『彼誰時エクストラコンテンツ』って呼ばれるんすよ。ウチの心を分かってくれないんだから」

「そういう意味で言われていたのか」

 そもそも彼誰時というのは夕方や明け方、日がぼんやりとしか存在していない時間帯のことだ。薄暗くて、相手がだれか分からない時間帯。だから彼誰時、という名前がついている。

 僕というやつは、相手の感情に鈍感がゆえに、そう名付けられたらしい。

「……嘘だよな」

「お、それは分かるんすね。適当なこと言いましたよ」

 奈良はまた、くひひと笑った。

 さっき奈良は僕のことをサド、だなんていう風に言ってくれやがったけれど、相手をからかって遊ぶという部分を見れば、奈良の方がずっとサドっ気がある。それでも憎めないのは、単純な人柄の良さだろうと思う。

 人が嫌がることをやってくるけれど、本気で嫌がることは絶対にやらないのだ、奈良は。

「そもそも、僕は卑猥じゃないんだが」

「自分で自分のことをそうじゃない、っていう人ほど、信用ならんもんすよ。男子高校生なんか、むしろそうあった方が健全なんすから。牽引していったらいいっす。仲間に会えんなら、いいじゃないっすか」

「いや、僕は卑猥じゃない。未だかつて卑猥であったことはない」

「かつて卑猥であったことを堂々と誇られたら、さすがのウチでも困るんでいいっすよ」

 ひきつった笑みを見せる奈良。

 そもそも言い出しっぺは奈良のはずだし、僕は優しい先輩として後輩の冗談に乗ってあげたつもりだったのだけれど、奈良の顔を見るに割とマジに引いているらしい。

 ため息を一つついてから。

「しっかし、夕暮センパイが『彼誰時エクストラコンテンツ』って呼ばれてると知ったときは、ウチもかなり笑ったっすよ。言い得て妙だなって」

「そんなことないだろ。そもそもどの辺が言い得て妙だと思うんだ」

「それを分かってない辺りもいいっすね」

 くひひと、彼女はまた笑う。

 噂話みたいなものだ。

 誰が言い出したかもわからず、誰から聞いたかもわからない。誰から聞いたのかを覚えていたとして、それをその人に訊いても、その人が覚えていない。

 結局、噂の始まりはいつも不明なのだ。

 僕の『彼誰時エクストラコンテンツ』も誰が付けたのか、いつから呼ばれるようになったのか、名前の正確な意味が何なのか、実のところよく知らないのだ。しかし、僕は勝手に、僕自身の平々凡々さ、個性の無さから、「あの人誰だっけ?」的な意味合いでつけられたものだと思っている。

 誰の記憶にも残らないけれど、確かにそこにいる。

 それでも僕は、そんな風に中二心をくすぐられるだけの平々凡々だ。

「ただ、長いんすよね『彼誰時エクストラコンテンツ』って。『博愛フラジャイル』とか『大衆的天才フレックス』は言いやすいんすけど」

「仕方ないだろ。別に僕が言い始めたわけじゃない。いつ付いたのかも誰が付けたのかも分からないんだよ」

「でもいいっすね。そういう異名があるってのは、ウチも欲しいっす」

「最近の小学校じゃあ、あだ名は禁止されてるのにだぞ? 最先端のゆる校が時代に即してなくてどうするんだ」

「そんなことをウチに言わんでくださいよ。そもそもうちは高校ですし。それに、あだ名っつーのは創造性と親和性、ここだと、神話性って言った方が的を射ている感じがするっすけど、そういうことを問われているとうちも思ってるんすから」

 あだ名が禁止される理由も何となく知っているし、同じようになんとなく納得してしまっている部分はある。しかしだからと言って、初めからすべてをダメだとして、呼び方をことごとく統一してしまっては、奈良が言ったようなことを後から気づけなくなってしまう。

 相手への敬意という曖昧で、教員の指導できる範疇外のことを子どもに求めるなら、最初からダメにしてしまえと言う気持ちも分かるけれど………、そこに言葉を当てられない以上、僕は何も言ってはいけないのだろうと思う。

 自分が嫌だと思うことを、嫌だ嫌だと騒ぐのは子どもより子どもで、言うなればただのガキだ。

「ま、センパイも『彼誰時エクストラコンテンツ』ってのが嫌だったら、嫌って言わないことにはウチも辞めんすよ?」

「いや、いいんだ。僕だって気に入っている。日本語に英語の当て字をするのは好きなんだ。まさか自分がそれをされるとは思っていなかった」

「『邑神夕暮サディスト』みたいな感じっすか?」

「そうだ。——違う、そうだけどそうじゃない。僕の名前にそんな当て字をするな」

 そういうことをするから世の中のあだ名文化が失われていくのだ。

 文化の衰退を嘆いている人間が、衰退を助長するような言動をしてどうする。

 しかし、こういう人が実は多いというのは目をそらしてはいけない事実。

「センパイとウチの間柄だからやるんすよ。さすがに他の人にはやらんすよ?」

「そうはいってもな、奈良。この会話をどこの誰が聞いているかもわからないんだ。勝手に自分に言われていると勘違いして騒ぎ立てるやつだって少なくないんだよ」

「それはそれで、ウチのと同じくらい顰蹙を買いそうっすけどね……」

「まあ、それはいい。それで奈良、どうしたんだ?」

 話をそこそこに切り上げて、僕は言う。

 さっき言ったように、そもそもここは僕ら二年の教室が連なっている場所だ。一年生である奈良と出くわすなんてことはないはずなのである。

 そうは言いつつも、その理由が実は想像ついていたりもする。

「樫兄がちゃんと活動できてるかを、確認しに来たんすよ」

 奈良は樫の幼馴染である。

 家が隣のために家族ぐるみで仲がよく、今朝樫が言っていたように、眠がりの樫を奈良が起こしに行くこともしばしば。昔は奈良の方が樫に面倒を見られていたらしいけれど、今では見る影もない。

 その関係で、一年の頃に樫と仲良くなってから、半年もしないうちに奈良とも知り合うことになり、奈良がゆる校に合格したというニュースは僕の元へも届くくらいの仲になった。

「まあ言わんでも何となく察する部分もあるっすけど、寝とります?」

「ぐっすりだよ。すでに僕は二回も怒られた」

 僕は二回も。僕が二回も。

 樫と僕の仲がいいことを知っている先生は、樫が寝ているとなぜか僕を怒る。もうちょっとちゃんと管理してくれとかなんとか。

 あだ名の規制よりもよっぽど理不尽だとは思う。とはいえ、僕が好きで樫に構っている以上仕方がないし、僕のクラスの名物だと言われる始末だけれど、別に気にしてもいない。

 当事者であるはずの樫だけは、その名物を知らないのだった。

「ほんと申し訳ないっすよ、樫兄が迷惑かけて」

「別に気にしてない。ほんとに嫌だったら、僕は嫌だって言うしな。好きで構ってるんだから、ほんとに気にしなくていい」

「センパイも大概変わっとるっすよね」

「異名が与えられるくらいだからな」

 異名が与えられると言っても、勝手についていただけ。

 しかし、そういう名前が付けられているゆる校の生徒は、決まって特殊な何かを持っていることが多い。樫で言えば、いつも眠っているような特徴であり、『大衆的天才フレックス』、物部綴に関しては、繰り返して言うまでもないだろうと思う。

「会えんなら、と思ってきたっすけど、寝とるなら帰ることにするっすよ」

「いいのか? 寝てるって言っても活動の確認をしに来たんだろ?」

「寝てる相手に活動も何もないじゃないっすか。センパイが大丈夫だっていうんなら、ウチはそれを信用するっすよ」

 くひひと笑う奈良だけれど、その表情にはどこか物憂げな様子が見て取れる。

「一応様子を見に来てもらえるか」

 くるりと僕に背を向けようとした奈良に、僕は言う。

 生憎ながら、そんな表情を見せられてその背中を見送れるような性格ではないのだ、僕は。わざわざ二年の廊下にまで無事を確認しにきたわけだし、僕の言葉一つで信用しないでほしいという思いもあるけれど、顔を見せてやった方が安心するだろう。

 しかし。

「いや、いいっすよ、ほんとに。会えんなら、って思っただけなんで」

 奈良は拒絶した。

「次、ウチのクラス移動教室っすからね。あんまのんびりと——」

「数学」

 奈良の言葉を遮って、僕は言う。

「奈良のクラスは一年四組。次の授業は数学で、移動教室じゃあないはずだ。先生が休みというわけでもないから、授業変更でもない。だから、樫に会う時間はある。違うか?」

「な、なんで、そんなこと知ってるんすか………?」

「樫が知っているから」

 樫は記憶力がいいわけじゃない。悪いとも言えないけれど、いいとも言えないくらい。しかしだからこそ、樫は記憶することが得意なのだ。

 普段ずっと眠っているから、覚醒している間に取り入れた情報をほとんど失念しないのである。

 奈良のクラスや時間割がそうで、先生が休みじゃないというのは、僕があてずっぽうで言っただけ。奈良の様子を見るに、どうやら当たりとみて間違いないらしい。

「会いたいなら会っとけよ。事情は知んないけどさ」


 3


「……寝とるっすね」

「ぐっすりだよ、いつも通りな」

 いくら学年が違うとはいっても、そしてマンモス校だとはいっても、所詮は一年違うだけだ。一年生は二階、二年生は三階、三年生は四階。一階層昇って誰かに会いに行くことくらい、一分もあれば可能だ。

 つまりは、ちらと顔を見るくらいなら、次の授業が移動教室だろうが別にどうということはないのである。

「喧嘩でもしたのか?」

 僕の席に座って樫を見る奈良に、僕は言う。

 他のクラスに入ったらいけません、という、生徒の管理のための校則もあるにはあるけれど、このクラスの人間である僕が許可しているんだから、別にいいと、そう言っておく。

 けれど、先輩として、友人として、教室に入れたものとして、責任は持っているつもりだ。

「べつにそういうわけじゃないっすよ」

「ならなんで、気まずそうにしてるんだ?」

「上級生のクラスに入るのは、いくら許可があるからって落ち着かないんすよ」

「別にいいんじゃな——」

「邑神君、何? 友達?」

 会話に割って入ってきたのは、クラスの女子。

 失礼ながら、記憶力が無いわけではなく、記憶する努力を怠っているだけの平々凡々の僕には、彼女の名前をすぐに思い出すことは出来ない。

 川上さんだか、川中さんだか、川下さんだか。

 山かもしれない。

 ひょっとしたら山川さんかもしれない。

「樫の幼馴染だ」

「あ……ど、どもっす……」

 なぜだか僕の影に隠れるようにして、奈良は言う。

「へえー、後輩?」

 スリッパに視線を送って、何とかさんは言う。

 二年の僕らは青、一年の奈良は赤色。

「ちっちゃくて可愛いね。何ちゃんって言うの?」

「あ、えっと……な、奈良、っす……」

「悪い、今ちょっと樫について激論を繰り広げてるから、二人にしてくれ」

 目を泳がせる奈良に助け舟を入れるようにして、僕は二人の会話に割って入った。

「ふうん……分かった」

 分かるわけがないだろうに、物分かりはいい何とかさん。

 今度ちゃんと名前を記憶します、ごめんなさい。

 僕は謝罪を心の中だけでしかしない平々凡々だ。

「奈良、人見知りする方なんだな」

「そ、そりゃあ、センパイと違って、年が上というだけで相手は大人びて見えるんすよ……」

「僕に攻撃したつもりなら、効いてないぞ」

 僕の発言に、やっとのことで絞り出したらしい反論は、少しずつ小さくなっていく声で、正確に聞き取ることは出来なかった。様子を見るに、聞き取れていたとしてもその攻撃、口撃が効くことは無かったろうと思う。

「人見知りする方だとは思ってなかったな。僕と初めて会った時もそんなことはなかっただろ」

「その時は樫兄が傍にいたんすから」

「今だっていると言えばいるし、なんなら僕だっている」

「年上の女の人は怖いんすよ」

「どうしてだ?」

「すぐ人の悪口言うっすから」

「偏見だ」

「身体を使って男をたぶらかすから」

「花魁だ」

「大人びて見えるっすから」

「卑見だ」

「樫兄に近づいたら噛みついてやるっす」

「番犬だ」

「さっさと成仏してほしいっす」

「なんまいだ」

「ともかく、あんまし得意じゃないんすよ……」

 むすっとした様子を見せる奈良。

 確かに、奈良が僕や樫以外の年上と話しているところを見たことはない。結局のところ僕は樫を通してしか奈良とは親しくないわけだし、仕方ないと言えば仕方ない。

 とはいえ、その様子は以外で、なんだか面白かった。

「悪い人じゃないぜ、あの人も」

「なにさんなんすか?」

「………」

「覚えてないんすか?」

「川中島さんだ」

「武田さんすか?」

「伊達さんかもしれないだろ」

「川中島は、武田さんと上杉さんすよ」

「甘粕さんかもしれないだろ」

「そんなコアなとこ誰も分からんすよ」

「そんなことない。景虎さんだってわかる人もいる」

「景虎は上杉っすよ。景持っすからね、甘粕さんは」

「つまり分からないってことだ」

 そこそこ話す仲ではあったりするのだけれど、新しいクラスになって三か月。改まって貴方の名前は何ですか? と聞くのも忍びない。だからバレないようにうまく凌いでいるのだ。

 申し訳ないと思っている。

 思っているだけだ。

「じゃあ、そういう理由でさっきは、樫に会いに来ることを拒んだのか?」

「まあ、それもそうっすけどね………」

「なんだ、違うのか? でも、二年の廊下まで来てたってことは、そういうわけでもないんだろ?」

「………ウチは、夕暮センパイのこと結構信用してるんすよ」

「ありがとう、凄く嬉しい。それで?」

「……」

 なんだか辺りを警戒するような様子を見せ、最後に樫が眠っていることを、つついたり叩いたりして入念に確認した後、奈良は僕に手招きをする。

 耳を貸せと言っているらしい。

 僕は耳を寄せる。

「誰にも言わんでくださいよ」

「その前提をされたことは守ると決めてる」

 そう言った僕に、少しの躊躇いを見せて、それでも奈良は言う。

「ウチは樫兄のことが……その——す、好きなんすよ」

「………」

 ゆっくりと、僕は奈良から耳を離す。

 腕を組んでしばらく。

「なんでここに来るのが嫌だったんだ? それなら拒む理由は、むしろないと思うが」

 誰にも言わないでほしいと言った言葉を守るように、僕は出来るだけの平静を装って、奈良に問いかける。

「い、嫌じゃないすか……なんか、噂されたり」

「んー………」

 人の噂も七十五日、という。

 しかし、その噂が伝達する速度は光よりも早く、光よりも不明瞭だ。

 それでいて光より輝いてみえるのだから、余計に厄介なのだ。

「バレたくないのか?」

「………」

 俯いて、こくんと首を振る奈良。

 後輩らしく可愛らしい様子だった。

「樫は?」

「言ったことないっす。それに、別にいいんすよ。ウチはこの関係が気に入ってるんで」

 眠る樫の机に頬杖をついて、奈良は眠る樫を見つめる。

 恋する乙女の顔というやつなのかもしれないけれど、生憎僕にその手の表現は出来ないのだった。

「じゃあ、何も言わないことにするよ」

 人の恋路に不用意に首を突っ込むべきではない。

 人というのはつまり他人のことだと僕は理解しているけれど、友達のことを他人だと言い切れるほど、僕は人間関係に価値を感じていないわけじゃない。だとしても、それでいいと奈良が言うのなら、僕は何も言わない。

 頼られるまで、と思うものの、頼られることもなさそうだった。


 4


「やっぱり恋は素敵だな」

 満足げに鼻歌を混じらせて、『大衆的天才フレックス』、物部綴は言う。

 前に会った時は、音楽準備室でアコースティックギターを弄っていたけれど、今回は美術室でキャンバスを前にしている。パレットと筆を持つこともなく、それでもピンク色のエプロンをしているけれど、やっぱり色あせたパーカーはその中に着ているのだった。

 もこもこして動きづらそうだし、腕こそまくっているものの、暑そうだった。

 ちなみに、混じらせている鼻歌。

 トランペット吹きの休日。

「それは鼻歌をするような曲じゃないだろ」

「そう? 私は好きだよ?」

「好き嫌いじゃなくてな。そう言うのって、もっとテンポの遅い曲をやるだろ。聞いてる僕の方が落ち着かない。そもそも、休日らしくない曲だしな」

「花形だもんね。トランペット吹きに休みはない。将来の私たちみたいだ」

 果たしてそれは、花形という意味なのか、休日が無いという意味なのか。『大衆的天才フレックス』がどうなるのかは知らないけれど、少なくとも、僕のような平々凡々は後者だろうと思う。

「じゃあ、曲目を変えようかな」

 言って、少しだけ考えるようにした綴。

 次の曲。

 エル・クンバンチェロ。

「疲れるだろ」

「えへへ」

 悪戯っぽく、綴は笑ったのだった。

 一つ息をついてから。

「恋が素敵って言うけど、僕はまだ何も言ってないだろ?」

 僕は話題を元に戻した。

「夕暮さんがどこかで恋を見てきたという事実は、夕暮さんが爛々と輝かせるその瞳で分かっちゃうものなのさ」

「それも才能か?」

「そうかもしれないね。ただし、私だけじゃない、女子が持っている才能と思ってもらって問題ないよ」

 何やら真っ赤に染まった毛玉のようなものを水に溶かしている。水に溶けたその色を指に乗せて、キャンバスではなく、机の上に置いてあるスケッチブックへと色を落とす。

 色の確認をしているのかもしれないし、美術館になんて遠足でしか行ったことのない平々凡々の僕には想像もつかない何かをしているのかもしれなかった。

「どんな恋を見てきたの? と、聞きたいところだけど、様子を見るに、誰にも言わないで、とか言われたのかな」

「信用している相手にしか明かしたりしないだろ、そう言うのは」

「うんうん。それでいいよ。だけど、実は私もちょっとだけ知ってるって言ったら、話が盛り上がったりするかな?」

「? どういうことだ?」

「黒髪に赤色のメッシュ、一年四組の亜鉛奈良ちゃんは、夕暮さんと同じクラスであり、幼馴染の足利樫さんに恋をしている。なんて」

 スケッチブックの上で動かしていた指を止めて、綴は僕の方を見る。

 怪しく笑んでいても悪い気がしないのは美少女の特権である、というのは、どこで聞いた言葉だったろうか。ひょっとしたら僕が自分で作った言葉なのかもしれないけれど、美少女は美少女だと言うだけであらゆる分野において特権を得られるのは事実だろうと思う。

 綴にないものは何だろうと、そんなことを考えてしまう。

「なんで、知ってるんだ?」

「夕暮さん、私のクラス知らないでしょ」

「……一年四組なのか?」

「そうだね。そして、奈良ちゃんとは私も仲がいいんだよ。どれくらい仲がいいのかは、もう言わなくても分かってくれているかな」

 ふふと、また怪しく笑む。

「奈良ちゃん可愛いよね。少女的ロリィな身体で、クラスでもマスコット的人気だよ」

「あいつ、自分の背の低さとか気にしてないのか?」

「クラスの子に頭を撫でられてるときは嫌がってるように見えるけど、本人は多分まんざらでもないんじゃないかな。あ、でも、髪を染めたのは大人ぶりたいっていう可愛らしい理由だったかな」

 綴の身長は多分一五五かその辺り。少なくとも一六〇には達していないだろうと思う。対して、僕は一七〇という平々凡々。

 奈良の身長をはっきり聞いたことがあるわけでもないけれど、多分一四〇と少しくらいだろうと思う。それに見合った肩幅の狭さや顔つきは、確かに、綴の言ったように少女的ロリィだ。

「それで、綴は首を突っ込むつもりなのか?」

「いやいや、そんなことしないよ。私は求められていないし、奈良ちゃんが現状を良しとしている以上、本当に何もしない。奈良ちゃん楽しそうだし、それでいいんだ。でも、樫さんが奈良ちゃんのことをどう思っているのかは気になるかな。私が樫さんに、いいんだけどね」

「それが分かったらどうする?」

「樫さんの持っている想いによる。私は奈良ちゃんの友達であって、樫さんの友達じゃない。奈良ちゃんが大切に思っている相手を私も大切に思うけど、直接的な感情が向いているわけじゃないから、いざとなったら奈良ちゃんを優先するよ」

「僕は、樫だってあいつのことを好きでいると思うぜ」

「恋愛感情として?」

「恋愛感情として」

 そうした判断能力が僕にあるなんて、『大衆的天才フレックス』でもないんだからそんなことを傲慢に言えやしないけれど、友人が誰かに向ける感情の種類くらいは分かるつもりだ。

 樫は明らかに奈良に対して、他多数、例えば僕に向けるそれとは別種の感情を向けている。

 それが恋愛感情だと断定できるわけじゃないけれど、でなければなんだというだけだ。

「例えば、妹のように大切に思っている、とかは?」

「その言葉は恋愛感情の裏付けだと聞く」

「世間はそうかもね。でも、樫さんは夕暮さんにとって「世間」ではないでしょ?」

 このゆる校で二つ名を持っている人間は少し特殊である。

 樫の『博愛フラジャイル』だってそうだ。樫が世間とずれている風があるから、そういう二つ名がつけられている。仲が良くなればなるほど、相手が世間からずれていることを実感させられるとは言うものの、仮に僕と樫が仲良くなかったとしても、僕はそういう評価を下しただろう。

 『大衆的天才フレックス』をいくらと呼んだって、結局のところ、という理解の範疇外から綴を捉えていることが前提にあるのだ。

 ならば僕の『彼誰時エクストラコンテンツ』は? と聞かれても、僕は自覚が無いタイプだ。

綴と違って。

樫と同じで。

「それでも、あいつは奈良のことを好きだと思うよ」

「じゃあ、娘のように大切に思っている、とかはどうだろう」

「娘?」

「長い付き合いなんでしょ? 奈良ちゃんと樫さんは。昔は樫さんが面倒を見てくれていたってそれは夕暮さんも知っているんだったね」

「綴、どこまで聞いてるんだ?」

「人様の恋愛感情、恋愛事情は、不用意に明かさない」

 にっこりと。

 今まで話していたことは綴の予想に過ぎないことで、奈良から聞いたことではないのだろうと思う。確かに、奈良の恋愛事情に関しては、全く話していないのだった。

 そうはいっても、そもそも奈良と樫の事情を先に出してきたのは綴だ。

 僕が知っていると知っていたからその情報を出したのだとして、今渋られている情報は一体何なのだろう。

 奈良は、僕に何を話してくれていない?

「ま、突っ込まないと思うのは簡単でも、そうするのは結構難しいよね。やらないようにと気にしてしまえばしまう程、意識って向いちゃうからさ」

 色の溶けた水からその色を指ですくい取り、すでに下書きがされたキャンバスへと色を落とす。

 黒と赤の中間くらい。深い赤と言えばわかるだろうか。

 生憎、僕は色彩表現も出来ない平々凡々なのだ。

 色を吐く毛玉が何なのかもよく知らない。

「綴はどうやって干渉しないようにしているんだ?」

「自分の中に、ただ一つの揺るがない芯があればいい」

 放課後、美術室に差し込む茜色の夕日が綴の横顔を照らしている。

「揺るがない芯に、柔軟フレックスな肉をつければいい。そして——」

 美少女はずるい。

 何を言ったところで、言葉の持つ重みが、ただそれだけで圧倒的に変わってきてしまう。

誰が言うのか、何を言うのか。

偉人の残した言葉、そのほとんどが格言としてもてはやされてしまうように。

 しかし。

「人の繊細さが分かっていれば、それでいい」

 そんな言葉で、『大衆的天才フレックス』を、物部綴という人間を測るのは愚かしいと、そう思わされる。

「でもまあ、恋愛感情でないなら一つだけ。これは、知っておいた方がいいこと、知っておくべきこととして」

 綴は、指についた絵の具をエプロンで拭い、真正面から僕と向き合って、真面目な表情で言った。

「樫さん、ちょっと眠りすぎだと思わない?」


 5


「物心、ついたころには、奈良がそこにいたんだよ……」

 先日の雨は曇りへと、昨日の曇りは晴れへと、そうして、今日の晴れを運んでいる。

 しかし、樫は相も変わらず眠そうなのだった。

「もともと、親が同じ学校出身で仲良かったとか……だから……うん……うん」

「おーい、起きろ」

 だんだんと傾き始めた樫の身体を支えるようにして、椅子に座り直させる。

 昨日は遅刻しなかった樫。今日は遅刻していた。

 なんでも、奈良が部活の朝練で樫を起こしに行けなかったんだとか。

 奈良は陸上部。短距離走の選手で、結構早いらしい。

 覚えていたというのもあるけれど、放課後の教室の窓から、長い髪を後ろで一つに結って走る奈良の姿が見えるのだ。黒髪に赤メッシュは、目が良くなくたってすぐに分かるくらいに目立つのである。

「ぁんで……今更、そんなこと……?」

「こないだ久々に奈良と話したんだよ。そんで、そう言えば二人っていつから仲いいんだったかなと思って」

「こないだ……?」

「お前が奈良に起こしてもらった日。三日くらい前」

「うーん………うん……」

「寝るな。もう帰るんだぞ」

 放課後の誰もいなくなった教室で何をしているのかと言えば、眠いらしい樫が覚醒するまで待っているのだ。ぼやぼやと、それでも起きている時に家まで連れ出してもいいのだけれど、帰りには樫が電車に乗ることになる。僕は電車通学ではないから、樫が電車内で眠ってしまった時に終点まで連れて行かせてしまうことになるのだ。

 だから結局、覚醒するまで待つか、奈良の部活が終わるかの二択になる。

 今までのところ奈良の部活が終わるのが九割だ。

「ほっといて、くれてもいい……」

「普通に心配なんだよ。寝てるやつを教室に一人残していくって」

「そんなに、治安悪くない……我らがゆる校。緩くゆこう」

「僕だってさっさと帰らなくちゃいけないわけじゃないし、まあいい」

「律儀」

「それで結構。その代わり、奈良の部活が終わるまで話に付き合え。もしくは課題をやれ」

 樫と机をくっつけて、僕は課題をやっている。

 樫がやっていないのは言うまでもない。課題提出がことごとく悲惨なことになっている樫には、いい加減、それくらい完遂してほしい。

「奈良はお前の妹って感じか?」

 綴と話したことを、僕は訊いてみる。

「妹……」

「じゃあ娘?」

「娘……」

「世話係?」

「あー」

「そこで納得するなよ」

 実際お世話されているみたいなことを樫は言うし、お世話していると奈良も言う。

 昔は逆だったという話は、その話をするときにはセットだ。

「そもそも、いつからお世話される側になったんだ?」

「俺の親が離婚してから」

 やけにはっきりとした口調で樫の放ったその言葉に、課題に落としていた眼を、僕は上げた。

 頬杖をついた樫は、久しく目を開いていた。

 眠そうな顔をしてはいるけれど、確かに覚醒していると、見ただけで分かるそんな瞳。そんな表情。

 そんな、雰囲気。

「中二の冬。親が離婚したんだよ。父親がいなくなった。そん時以来、まあ、正確には少し経ってからだが、俺は奈良に世話され——」

「待て、樫」

 遮る。

「それは、そんなに簡単に話してもいい話か?」

「……」

 多分、生半可な覚悟で聞いていい話じゃないし、その場のノリで話していいことでもない。

 人の恋愛事情は他人に言いふらさないなんて、そんなものが生易しく聞こえるくらいの、重大な話であるはずだ。

「別にいい。お前とは仲いいと思っているし、話したところで誰に言いふらすわけでもないだろ」

「そうだけど……い、いいのか?」

「聞きたくなきゃ話さない。でも夕は、俺と奈良の事情に興味があるみたいだ」

「………」

 僕は少しだけ目を閉じてから、運動場の奈良に視線を送る。

 マネージャーらしき人物と何かの紙を見ながら話していた。

「……いいよ。聞くことにする」

「夕、ナルコレプシーって分かるか?」

 返す言葉は素早く、樫に躊躇いは感じられなかった。

「ナルコレプシー………過眠症か?」

 ナルコレプシー。過眠症の一種。

簡単に言えば、眠りすぎてしまう病だ。

 日中の強烈な眠気だったり、意識を失ったような突然の入眠、常に眠気に襲われる。他にも症状はあれど、僕が知識を持っているのはこれくらいだ。

 としては。

「親の離婚は結構ショックでな。その時に発症して、それ以来ずっとこうだ。整理がついていない、精神が、その事実を受け入れようとしていないんだな」

「………」

「平気そうに見える、だろ?」

「今の樫の様子はな。でも、それが繕ったものだって言うのは、伊達に樫と友達をやってないんだ、すぐわかる」

 淡々と話す樫だけれど、大丈夫だと言われたとして、信用はできない。

 樫をよく知らない人は、いつも眠っている怠慢な人程度の評価を与えるのだろうけど、友人として付き合っていると、樫が明らかにおかしいという事実に気づかされる。

 誰がつけたか、『博愛フラジャイル』という樫の二つ名は、普段から樫の傍にいる僕からすれば、あまり笑えないのだ。

「奈良には迷惑をかけてる。起きていようと思っても、身体が言うことを聞かない。中途半端な眠りで、父親の幻覚まで見る始末だ。今こそ落ち着いてるが、奈良に当たることもあった」

 視線を運動場の奈良に送った樫に、促されるようにして、僕も奈良の方に視線を向ける。

 マネージャーとの話し合いが終わったのか、スタート位置まで移動する奈良。教室の角度的に、スタートの瞬間は見えないのだった。

「俺は結構、家族が大切だったんだ。壊れる想像なんかしてなかったし、いつまで仲良く何の問題もない家庭だと思ってた。時折言い争いはあったが、どこの家庭でもそう言うのはあるんだろ? 次の瞬間には何事もなかったように、にこやかにしてたよ」

「………」

「日々は続かないものなんだな。中学生ながらに分かってたつもりだったが、所詮はつもりだったな。中学二年の子どもに出来ることはなかった」

「それで、過眠症に……?」

「自己防衛機能というべきか、眠っていれば時間は経つ」

 学校にいる時間はだいたい九時間。

樫はその半分以上の時間を眠って過ごしている。

眠っていれば時間は経つという言葉はあまりにその通りで、自己防衛機能という言葉も、その通りだろうと思う。

「奈良は、多分俺のことが好きだよな」

「………それは、れんあ——」

「他に何がある」

 ほんの少しだけ語気を強めるようにして言った樫。

 細めた目は、眠気のせいではないのだった。

 視線はまた、運動場へ。

 百メートルのトラックを走り切ったのか、膝に手をついて息を切らす、彼女へ。

「俺は、俺の大切なものを、どうやって守ればいい?」

「………」

「寝ても果報は来やしない。現状は変わらない。ただ無駄に時間を消費するだけだ」

「……その思いを、奈良には伝えたのか?」

 僕は、やっとの思いで口を開いた。

 樫の抱くその感情への干渉の許可が、今降りたのだろうから。

「告白しろってことか?」

「分かりやすく言えばそういうことだ」

「俺は今のところ、あいつに迷惑をかけている気しかしない」

「だけど、奈良は樫のことを——」

「迷惑だとは思っていないだろうな。それくらい分かる」

「だったら——」

「ああ。分かる。お前の言いたいことも」

 樫が『博愛フラジャイル』と呼ばれている一つの所以は、その言葉の通り、樫が博愛的であることが由来だ。誰かを贔屓することは無いものの、それでも明確に奈良のことは好いている。

そんな博愛的な樫が、最も信じていた、そして、最も愛していただろう家族が壊れたのだ。その喪失感や空虚感は、およそ言い表せるものではないだろうと思う。

 ナルコレプシーという病すら発症してしまうほどの、その悲しみを。

 崩壊を恐れないなんて無理難題だと、そう言い切ってもいいほどだろう。

「博愛は、やはり壊れやすいのか?」

「でも、何か一つを、奈良一人を大切にすることが出来るわけでもないんだろ?」

「そのうえで、大切にする方法もよく分からない」

「それでいて、壊れるのも怖い」

「我儘だな、俺は」

「……そうだな、そう思う」

 明確に大切だと感じるものを大切にする方法も分からないまま、それが壊れたときの喪失感だけを病として身体に刻みつけた。

「もとからそんな風があったが、その時以来だな。何も大切にしなくなる、何にも興味を持たなくなったのは」

樫は言う。

「すべてを、大切に、することは、出来なくても……すべてを、平等に………ないことは…………出来る……な」

 ふらりと身体が動いたかと思えば、樫はまた、唐突に眠り始めた。

 樫は分からなくなっているのだろうと思う。さっきは大切なものがあると言い、今は何も大切にしなくなったと言っているのだ。すべてを平等に愛することを、何に対しても興味がないと、何も大切にしていないと、そう捉えてしまうほどに。

 こんな状況でも、人は恋をする。それを愚かだとは思わないけれど、『大衆的天才(フレックス)』のように、素敵だということも、僕には出来ない。

 大切なものを大切にする方法が分からないと樫が言うのなら、僕はそんな樫に何をしてあげればいいのかも、何を言ってあげればいいのかも、分からないのだ。

 そんな懊悩を数十分繰り返したところで。

「樫兄、おまた——あれ、夕暮センパイじゃないっすか。なんか話してたんすか? 男二人で」

 部活が終わった奈良。

 僕が許可されたのは樫に対しての干渉だけで、奈良に対してはどんな干渉も許されないだろうし、僕が僕にダメだと言う。

 だからこそ、乱れる思いのままに、僕は平然を装って言う。

「ただの猥談だ。男子高校生らしい、健全なやつだ」

 奈良はひきつった笑みを浮かべていたのだった。


 6


 翌日。僕は奈良のクラスまで来ていた。

 教室を覗いたときには、先日綴が言っていたように、奈良はたくさんの女子に頭を撫でられていた。恥ずかしそうに手をはねのけたりしていたけれど、なるほど、まんざらでもなさそうだった。

 そこにはもちろん綴もいるわけで、僕が来たことに気付き、僕が視線を奈良に送ると、意を汲み取ってくれたようで、奈良を呼んでくれた。

 瞬間、一斉に注がれる奈良を撫でていた女性陣の目。

先日奈良が僕らの教室に来ていた時に「年上の女性が怖い」と言っていたのは、奈良と樫が噂にならないように隠していたい、という理由だったのだろうけど、しかし実際、他学年の教室というのは緊張するし、ちょっと怖いくらいだ。

年下は年上に怯え、年上は年下に怯える。社会の縮図なのかもしれないのだった。

「どうしたんすか? センパイ」

 窓枠越しに話す僕と奈良。

 改めてみると、相当背が低い。

「ちょっと樫のことについて聞きたかったんだ」

「樫兄のこと……? い、いや、ウチはそういうことをあんまり聞かんでほしいと……」

「いや、そのことじゃなくてさ」

 若干声を落として頬を赤らめた奈良に、僕は言う。

「あいつ、ちょっと眠りすぎだと思うんだけど、何か知らないか? 普通に、友人として心配になってきたんだ」

 昨日樫に聞いた話。

 僕はそれを隠して、樫の事情なんて何も知らないかのように装って、奈良に問う。

 について、奈良がどう思っているのかを、聞き出したかったのだ。

 思えば、僕が二人の事情に干渉するだろうことを、そしてこの方法を取ることを、すでに『大衆的天才フレックス』は分かっていたのだろうと思う。なんだか複雑な気分だった。

「あー……放課後でもいいっすか?」

「構わないが、奈良は部活じゃないのか?」

「部長には遅れるって言っとくっすよ」

 困ったように笑んで奈良はそう言った。

 そして、放課後。

 教室で一人眠る樫を残して、僕は奈良の教室に来ていた。

 誰もいない教室。綴もそこにはいない。しかし、相手は『大衆的天才フレックス』。どこかで聞いているような気がしてならないのだった。

「センパイ、どこまで気づいてます?」

「どこまでって言われてもな………眠りすぎだなと。徹夜をしていたんだとしても、あれはちょっと異常だ」

「本人に聞こうと思わなかったんすか?」

「病気を疑ってる。それをそのまま本人に聞くのもどうかと思ったんだ。奈良にも話せない、話したくないんだったら別にいい」

「…………」

 少しの沈黙の後、憂いを帯びた表情で、奈良は口を開く。

「樫兄って、中二の頃に親が離婚してるんすよ」

「……」

「樫兄、家族のことは大切にしていたっすから、樫兄がどういう感情だったのかは、想像するのも難しくなかったんす」

「それで、あれだけ眠るようになったのか? 自己防衛、みたいな」

「そうっすね、多分そうだと思います。ナルコレプシーって名前の病気みたいで……なんか、してあげたいんすけど、どうしようもないみたいで………」

 奈良は視線を下げる。

「だから夕暮センパイにはほんとに感謝してるんすよ。教室で樫兄のことを見ていてくれるし、樫兄のことも、こうしてウチに相談しに来てくれるし」

「べつにいい。友人なんだ。それくらい当たり前だ」

 奈良が樫に対して迷惑だなんて思っていないのと同じように、僕だって樫のそれを迷惑だとは思っていない。

 あだ名の話じゃあ無いけれど、嫌だったら嫌だと言うし、『大衆的天才フレックス』じゃあないけれど、嫌だと思う相手からは距離を置くのだ。何も気にしてなくていいし、同様、気にしてほしくもない。

「奈良は、どうするつもりなんだ?」

「どうするって、何がっすか……?」

「………」

 本当に、ことごとく、『大衆的天才フレックス』の思い通りに動かされているという気がしてしまう。

 こんな話になったら、奈良の恋愛感情に干渉するほかなくなる。

「奈良は、樫の、どこが好きなんだ?」

 直接的に訊かない、言わないというささやかな反抗心か、僕はそう切り出す。

「………」

「多分さ、樫のあれを解決できる一番の方法がそれだと僕は思う」

 等しくすべてを愛する樫の博愛。

 もとよりそういう風があったとはいえ、今ほどではなかったという話は樫からすでに聞いている。家族という大切なものが壊れ、自分だけは壊さないようにしたつもりが、結局、『博愛フラジャイル』へと変わってしまった。その状態を、作ってしまった。

 変化するのなら、変化させるのなら、そしてそれが出来るのは、奈良のその思いだけだろうと思う。

 昔から樫と一緒にいた、もう一人のなら。

「いいんすかね、ウチが」

「? なにがだ?」

「なにがって………その、樫兄の、大切なものになっても」

「もうなってるだろ。その杞憂は必要ない」

「……センパイはあの時の樫兄のことを知らないから、そう言えるんすよ」

 あの時の樫。両親が離婚した、大切なものが壊れた時。

 ナルコレプシーという過眠症のそれは、幻覚を見てしまうことすらあるらしい。

常に眠たいがために夢と現実の区別がつきづらくなることがその原因らしいけれど、それによって父親の幻覚を見ることがあったと、そして、奈良に当たってしまうこともあったと、樫が言っていた。

 今の樫からは想像も出来ないような状態にあったのだろうと、そんな予想を立てる程度のことしか、僕ごとき平々凡々には出来ない。

 しかし。

「……大丈夫だよ、奈良」

 僕はそう言ったのだった。

「な、なんの根拠があって、そんなこと言うんすか……?」

「僕は樫の友人だ」

「………」

「奈良よりも樫のことは知らない。昔の樫のことも全く知らない。今聞いた程度、多少なり樫に聞いた程度のことだ」

「樫兄に、聞いてたんすか……?」

「ごめん、隠してた」

 隠していたなんてことを言ったうえで何の信ぴょう性もないかもしれないけれど、それでも僕は、精一杯誠実であろうと、頭を下げた。

「僕が知っているのは、今の樫だけだ。でも、それだけなら、よく知ってる」

「それが、根拠になるんすか………?」

「昔の樫を知っている奈良のそれは、根拠になるのか?」

 脅しているような気分だ。

 お互いの言葉に確かな根拠がない以上、立場が上である方、より強く、より声の大きい方が、意見が通りやすくなるという最悪の手法。

 それでも、やらなければ、言わなければ。

「今の樫が壊れやすいフラジャイルなのは奈良も知っての通りだろ? 今でこそ学校には通っているけど、普段の樫を見るに、あれは相当体に負担をかけてる。奈良だって、それが分かってないわけじゃないんだろ?」

「で、でも………」

「奈良以外に、いないんだよ」

 僕は言い切った。

 他人の恋愛事情に干渉しないという誠実さを捨て去って、友人の無事を祈って行動するという誠実さを携えて。

 僕は言う。

 それしかできないから、それをやる。

「樫のことが好きなんだろ? 大切なものが壊れる怖さを僕は分かってあげられないけどさ、樫が奈良のことを大切に思っていて、守る方法が分からないって嘆いているなら、まずは奈良が、間違いなく、疑いようもなく、あいつの大切になってやれよ」

「……い、いいん、すかね………そんなの」

「……これ以上は何も言えない。奈良の勇気の問題だ。でも、後押しはするぜ」

 僕が言えることはそれがすべてで、それ以上の干渉は誠実云々ではなく、やってはいけないことだろう。

 踏み出そうとしている人間の背中を押しはするけれど、踏み出せるかどうかはその人次第だ。そこに干渉してはいけない。

 その勇気、最後の一歩には、絶対に他人が干渉してはいけない。

 恋愛感情よりも、ずっと。

「昔から仲が良かったとか、異性として意識しやすかったとか、信頼している相手とか、そういうものももちろんあるんすけど、ウチはちゃんと、足利樫という人間を好きになったんす」

 奈良は言う。

「樫兄は、自分が大切にしているものを、どうすれば大切に出来るのかって、それを嘆いているんすよ」

「うん」

「大切なものをきちんと自覚して、それを守ることが出来ないんじゃないかって、そんなことを本気で嘆いているんす」

「ああ、そうだな」

「あんないい男、他にはおらんすよね」

 くひひと、樫は笑う。

 嫌になるくらいに『大衆的天才フレックス』の言った通り、思った通り。

 樫が言ったことを素敵だと言い切れない僕ではあったけれど、この時に奈良が僕に見せてくれた表情は、綴の言う通り、確かに素敵で、見惚れてしまうくらいに輝かしく、美しいものだった。


 7


 物心ついたときというのが、正確にはいつなのかは分からない。

 それでも、俺の記憶の始まりには奈良がいたし、奈良にとっても同じだろうと思う。

 親同士の仲が良かった上に、家が隣同士でもあったから、それだけ俺と奈良にも親交があった。たかが一つ上なだけだったけれど、それでも俺は奈良の兄のような気分でいて、奈良のことを俺が守らなければいけないと、自分自身に言い聞かせていた。それもあってか、奈良は俺によく懐いていた。面倒を見ることが嫌になったことは一度もないし、守るべき相手だという自覚があったからか、自分のことを慕ってくれる存在だからか、次第に心を惹かれていく部分もあった。

 妹のように思っているというのは、なるほど確かに恋愛感情につながるんだなと、そんな冷静な分析をしたことを不思議と覚えている。

 その関係が壊れたのは、中二の冬。俺の親が離婚したとき。

 この先も、杞憂の必要もなく、当たり前に続いていくものだと思っていた。

 それが、いとも簡単に、俺の知らないところで、壊れた。

 奈良のことを、上手く守れなくなった。

 奈良が、俺のことを守るようになった。

「………」

 奈良が俺の手を引いている。

 俺が引いていたころよりも大きく、それでも昔から変わらない小さな手で。

 所かまわず訪れる眠気に抗えないから、教室では夕に、登下校では奈良に迷惑をかけている。奈良が手を引いてくれなくても歩くことくらいは出来るけれど、結局のところ、奈良に甘えているだけだ。大切なものが壊れた過去があっても、こうして奈良が手をつないでいてくれることが、壊れていない今を決定づけてくれているようで。

 浅い眠りでも、深い眠りでも、不思議と奈良の声は耳に入ってくる。

二階にある俺の部屋。窓を開けると、そのまま正面に奈良の部屋があって、窓を開けっぱなしにしておくと、奈良がそこから飛び込んでくる。そうして、いつも奈良が俺のことを起こしてくれる。

 でも、だからこそ、今ここにある壊れやすいもの(フラジャイル)を、この先もずっと壊れないものだと、勘違いしているんじゃないかと、そう思わされる。

 家族の崩壊にすら、その兆しにすら、気が付けなかったのだから。

「ねえ、樫兄」

 電車を降りて、家への帰路。

 手を引いたまま、俺の方を見ないまま。俺よりも先を、ずっと先を歩きながら。

 奈良は言う。

「最近、よく眠れてる?」

「いつも寝てる」

「そうじゃなくてさ………うん、そうだね」

 奈良は一つ息をつく。

 俺の言葉に嘘が一切含まれていないからこそ、そして、その事情を知っているからこそ、返す言葉に困ってしまったのだろうと思う。

「奈良は、勉強とか躓いてるところはないか?」

「親戚のおじさんみたいな聞き方やめてよ。困ったら綴に教えてもらってるよ」

 綴とはたしか、物部綴。『大衆的天才フレックス』の異名を持つ、紛うことなき天才。

 学校どころか日本中でも名が知られている、眠ってばかりの俺でも知っているような名前だ。奈良とも仲がいいという話は、なんとなく奈良から聞かされてはいるけれど、そもそも、そいつと仲の悪い人を奈良は知らないらしい。

「樫兄こそ、授業付いていけてるの?」

「問題しかない」

「問題しかないんじゃん」

 くひひと、昔から変わらない笑い方で、奈良は笑う。

 自慢じゃないし、『大衆的天才フレックス』ほどじゃあないけれど、正直な話、俺は授業を聞いていなくてもそれなりに出来るタイプだ。というか、この学校のほとんどがそういう人間だ。

 全員のレベルがなかなかに高いからこそ、自由な校風が守られているのだろうと思う。

「課題提出の件ではよく怒られるな」

「夕暮センパイに迷惑かけてるんでしょ」

「あいつは迷惑かけられるのが好きな風があるから」

「うっそ、夕暮センパイ、マゾだったの?」

「サドだと思ってたのか?」

「そんな話をこの前ちょっとしたんだよ」

「どういう話をしてるんだよ、あいつと」

「『邑神夕暮(サディスト)』って話」

「あいつも不憫だな」

 少し前に奈良と話した、みたいなことを夕が言っていたけれど、もう少し真面目な内容だと思っていた。二人が仲良くなっているなら俺にとっても嬉しくはあるけれど……、複雑だ。

「樫兄も、ちゃんとお礼を言わなきゃダメだよ? お世話になってるんだから」

「そうすることにする」

 たしなめられてしまった。

 こういう部分でも、奈良には面倒を見られるようになってしまったと、そう感じる。

「………ねえ、樫兄、今眠たい?」

 奈良は足を止める。手はつないだまま。

 奈良が止まったために、俺も足を止めることになる。

「……別に、いつも通りだ」

「眠たいってこと?」

「いつも突然眠くなるが、まあ、家までは頑張るよ」

「………じゃあ、今だけは、眠らないで」

 奈良は手を離して、俺と真正面に向き合った。

 頬が染まっているように見えるのは、茜色の西日が、奈良の顔を照らしているからだろうと思う。

 そんな風に思考を逃がしても、決意を固めたような表情は、この次の言葉を、いとも簡単に俺に予想させた。

「帰るぞ、奈良」

 だから、奈良が何か言うよりも早く、俺は奈良の隣を抜けた。

 聞きたくない言葉が、何の保証も出来ない言葉が、奈良の口から放たれる前に。

「か、樫に——」

「日が昇っている時間が長くなっているとはいえ、すぐに暗くなる」

 遮って、そう言った。

「聞いてよ……樫兄……」

 服の裾を小さく掴む奈良。

「いつでも話せるだろ。どうせ、家がとな——」

「私、樫兄のこと好きだよ」

 遮って、奈良は言った。

 言われてしまった。

「一緒になりたいって思うくらいに、好きだよ。ずっと面倒を見てくれていたとか、お兄ちゃんだと思ってるとか、そう言うのもあるけど、足利樫という人が、私は好きだよ」

「………」

 振り返ることは出来なかった。

 どんな時でも、眠くたって、眠っていたって、奈良の声は耳によく入ってくるから。

「……樫兄は? 樫兄は、私のこと、好き?」

 俺の背中、低い位置から声が聞こえる。

「辞めた方がいい、俺をそうい——」

「そんなことを、聞いてるんじゃないんだよ、樫兄」

 今度は、さっきよりもずっと明確に、はっきりと、奈良は言った。

 少しだけ怒っているようにすら感じる、そんな口調で。

「こっち向いてよ、樫兄。逃げないでよ……」

 トスンと、奈良の頭が俺の背に預けられた。

 制服の裾を掴んでいた手は両手になり、強く力が込められた。

「怖いのは分かるよ……でも、樫兄が向き合ってくれれば、私は壊れたりなんかしないよ……なのに、樫兄が私のことを壊そうとしないでよ………」

 すすり泣くような声が聞こえる。

 中途半端に守っているような気分になって、中途半端に奈良のことを大切にして、それが、奈良の首を絞めていることくらい、分かっていた。奈良を苦しめていることくらい、分かっていた。

 それでも、ずっと踏み出してこなかった。

 何も、決断してこなかった。

 形があるから壊れる。

 だから形が無ければなんて、吹けば飛ぶような我儘のせいで。

「樫兄が傍にいてくれれば、それでいいんだよ。私が壊れそうになっても、樫兄がいてくれたらいいんだよ……でも——」

 奈良は一層声を震わせた。

「樫兄が壊れちゃうのは、嫌だよ………」

「………」

 情けないよなと思う。

 何も守れなくなったくせに、守られることすら出来なくなったのか、俺は。

 自分の異常に気付いておきながら、奈良の想いに気付いておきながら、向き合おうとしているふりだけを繰り返して、自分を壊そうとしていることに気付けていなかった。

「………」

 何も言わないまま、ゆっくりと俺は振り返った。

 奈良は、涙でぐずぐずになった顔をあげる。

「……俺は、奈良のことを、どうやって大切にすればいい?」

 何を言えばいいのか分からない。

 なにを言ってあげればいいのかも分からない。

 それでも、言葉を重ねて、奈良と話をするほかない。

「傍にいて。いなくならないで」

「保障が出来ない」

「私だって。樫兄が出来ないことも、知ってる。だけど、保証なんていらない。将来なんて分からないって、樫兄が一番分かってるでしょ……?」

「それでも、奈良は俺の傍から離れたりしないか?」

「しないよ。壊れそうなときは、ちゃんと言うよ」

「……俺で、いいのか?」

「樫兄が、いいんだよ」

 どの懐かしさも該当しないほどに強く、奈良は俺を抱きしめた。

 いつの間にか成長の止まった小さな身体。下を向けば、頭のてっぺんが見えるくらいの背。

「……大きくなったな、奈良」

 俺も、奈良のことを抱きしめた。

 兄弟としてではなく。

 家族としてでもなく。

 家族に、なりたい相手として。


 8


「お前の思い通りって言うのが、正解か?」

「……夕暮さんの優しさを、ちょっと借りただけだよ」

 『大衆的天才フレックス』は言う。

 読んでいた本を置いて、きちんと僕と視線を合わせて、彼女なりの誠実な姿勢で。

「結局、他人の恋心に干渉する気だったんだな、初めから」

「そんなつもりは無かった。これは断固として言わせてもらう。結果としてそうなることを予想出来ていなかったわけじゃないけどね」

「それは、そんなつもりじゃなかったって言えるのか?」

「………言えない。ごめん、逃げだね」

 綴は少し目を伏せる。

 本当に申し訳なさそうな様子を見せているし、実際、本気でそうなのだろうと思う。他人の恋愛感情に干渉しない姿勢を取ったものの、僕にその方法を取らせてしまったという事実。最善策だったにしろ、友人である奈良のことを思ってのことだったにしろ、それは綴が自身に課す誠実さに反するもので、それを他人に取らせてしまったのだから。

「樫さんのことを知らない私には、出来ないことだったんだ。だから——うん、だから、夕暮さんを利用させてもらった。ごめんなさい。本当に」

 立ち上がってまで、深く、丁寧に綴は頭を下げた。

「別にいいよ」

 僕は言う。

「綴なりに誠実であろうとした証だろ。上手くいったんだし、二人の関係も、樫の症状も改善するきっかけになるだろうしさ」

「………結果論だよ、夕暮さん」

 顔を下げたまま、綴は言う。

「そうだな。でも、その結果ってやつが上手くいった。それに、上手くいかなかったとして、僕は綴を責めたりしないよ。綴の願いも思いも、分かってるつもりだからな」

「………私、夕暮さんのそういうところ好きだよ」

「やめろ。勘違いしたらどうする。僕は健全な男子高校生だぞ」

 顔をあげた綴は小首をかしげるようにして、穏やかに笑んでいた。

 恋愛感情ではないと分かっていても、真正面からそんな笑みとともにそんなことを言われてしまうと照れるのだ。実際、少しだけ目を細めてまっすぐに僕の目を見てくれた綴と違って、僕は目を逸らしてしまった。

 美少女のその表情には、照れることしか出来なくなる。

「でも、実際良かったと思うぜ。どちらも踏み込みきれないような状況を作るよりも、無理にでも踏み込ませたって言うのは。あの二人なら大丈夫だって分かったから、そういう策を取ったんだろ?」

「……そうだね、いつまでも私がうじうじしてちゃダメだね」

 綴は両の手で自分の頬をぱちんと叩いた。

 大きく息を吐いてから、椅子に座り直す。

「『大衆的天才フレックス』って異名も、そのうちなくなるかもな」

「うん? そんなことはないと思うよ?」

 きょとんと、首を傾げるようにして、綴は言う。

「いや、眠ることが無くなれば、壊れやすいフラジャイルなんて思われなくなるだろ。あれは、樫の会話が成り立たないことに基づいているはずだし」

「あれ? 奈良ちゃんから——夕暮さんだと、樫さんから聞いてない?」

「? 何がだ?」

「樫さん、もともと怠慢な人ではあるらしいよ?」

「………は?」

 つまり。

 ナルコレプシーという病によって、あまりにも長い時間を眠りの中で過ごすようになってしまったものの、樫はもともとよく寝るやつだったらしい。高校で樫のことを知ったから仕方がないとはいえ、登校してすぐ寝るような癖はもとよりあったんだとか。

 もちろん、突然眠りに入ってしまうとか、過度に眠ってしまうようなことは無かったらしいけど、それでも、もとの性格がそういう風なんだとか。

「なんだよそれー」

「でも、心配して損したってことはないよ。私も聞いたのは最近。奈良ちゃんに教えてもらっただけだし」

 結局あの異名は変わらいままか。

 もちろん、奈良と樫の関係は変わるのだろうけど、『博愛フラジャイル』の名前を、樫の友人としてはあまり笑えないと思った時の自分が恥ずかしくなってくる。

「二人は、これからうまくやっていけるかな」

 一人赤面している僕の方を見て、綴は少しだけ不安そうにしながら言う。

「心配なのか? 上手くいくと思ったからやったんだろ? そう言うのをうじうじしてるって言うんだぜ?」

「あはは、そうは言ってもどうしてもだ。これ以上の干渉は本当に野暮だろうけどね」

 言って、綴は今度こそ、吹っ切れたように笑んだ。

「お前はこれからも、人の恋に干渉するのか?」

「しないって。するとしても結果としてそうなるってだけで、好んでそんなことはしないよ」

「その時に、別に僕を使ってくれても構わないからな。恋をしている相手に対して、綴は悪戯に干渉しなければ迷惑もかけないだろうし」

「ふふ、ありがとね、夕暮さん」

 綴はまた、小首を傾げるような動作で笑んで見せた。

「お前ほんと、僕に惚れられないように気をつけろよ?」

「申し訳ないけど、私が大好きな人には敵わないかな」

「お前にそこまで言われる相手。そこまで言わせる相手が、ほんとに羨ましいよ」

 この先、綴のことを僕が好きにならない保証はない。

 顔も良ければ性格もいい。度量も気量も人並み以上で、世界に認められるほどの才能を溢れんばかりに持ち合わせている。こんな相手をこの先も好きにならない保証なんて、出来る方がおかしいのだ。

 今はまだ、友人として好きでも、恋愛感情として綴のことを好いているわけじゃない。

 しかし、この先の恋愛感情は簡単に予想出来る。

それでも、綴の大好きな相手とやらには敵わないのだろうと、僕は思った。


一章 終


次章 『良酔宵チャルダッシュ

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