夕暮れを綴る

@minakami-you


 序


「人はどうしても、恋から逃れられないって、私は思うな」

 グランドピアノの椅子の上で胡坐をかき、アコースティックギターの調弦をしながら、彼女はそう言った。

 彼女がブレザーの上から羽織っている裏起毛のパーカーは、随分と長いこと着ているのだろう、毛玉だらけの上に、色あせてほとんど脱色し、それでもギリギリ茶色いと分かる。

季節は夏が近づいてくるころ。明らかに季節にあっていない服装ながらも、彼女は涼しげな顔でそれを着ていた。

進学校ながら校則の緩い我らが釉漆ゆうるし高校、通称、ゆる校は、髪の色を染めることも許可されているけれど、羽織ったパーカーよりは茶色に近い髪を、頭の後ろで編み込んでまとめている彼女、物部もののべつづりのそれは地毛らしい。

「もちろん誰かに向けるものだけを指しているんじゃなくてさ、ほら、誰にも恋をしない、誰に対してもプラトニックな愛しか持たない人だっているわけでしょ? でも、その人は、例えば趣味とか、人間関係に、恋を感じているんじゃないかな」

「それは恋なのか? 僕ならそれを愛って名付けると思うぜ?」

「……そうかも。なんだか納得しちゃった。言いかえるよ。私の例示は愛の方が近い」

 彼女は、頬を少しだけ赤らめて、照れたように少し笑う。

 誰が言い始めたのか、人は彼女を『大衆的天才フレックス』と呼ぶ。

 学校で知らない人はいないというくらいの美少女、と言いたいところだけど、そして、それは実際間違いではないのだけれど、範囲を日本に広げても、彼女の名前を知っている人は多いだろうと思う。

 純粋に頭がいいのだ。というよりは、天才と言った方が近いかもしれない。

 模試の順位が一桁台に乗っているのは当たり前のことで、学年の順位はもちろんトップ。一度は耳にしたことがあるような有名ミュージシャンに楽曲を提供できるくらいの音楽への知識と創作性。描いた絵は海外の有名な美術館で飾られているらしい。小説を書いたと思えば、それは数々の賞を最年少で受賞してしまう。

 そして、彼女の天才性を保証しているのは、その全てを別の名で行っているということだ。

 つまり、すべてにおいて無名の状態で始まり、蓋を開けたら彼女だった、ということがあまりに繰り返されているのである。

 誰にも疑えない天才。しかし彼女は、自分のことを天才だとは称しない。

 私よりも凄い人を知っているのに名乗れるわけないし、知らなかったとしても名乗らないよ。と。

 彼女の知っている天才とやらが誰なのかを僕は知らないけれど、少なくとも、彼女の足元にも及ばず、それでも、そんな天才と二人きりで過ごせる程度の僕、ゆる校二年の邑神ゆうがみ夕暮ゆうぐれではないことは確かだった。

「でも、どちらにせよ、やっぱり素敵なことだと思うんだ」

 言って、ギターの弦を一つ鳴らす。

 音感なんてない僕。ミ、ファ、ソ、多分どれかだろうと思ったけれど、どうやら音が正しくなかったようで、彼女は少しだけ眉間にしわを寄せてから、グランドピアノを一音鳴らし、またペグを触り始めた。

「愛と恋の違い、綴は何だと思うんだ?」

「大切なものを切り捨てられるかどうか、私はそう思うかな」

 視線を手元の弦に落としたまま、彼女は言う。

「大切なものは誰しも持っているんだろうけど、恋の上で愛した相手なら、きっとその人は他の大切なものをないがしろに出来るだけの残酷さを持っている人だよ。それでも素敵なことだと、私は言いたい」

 彼女が『大衆的天才フレックス』と呼ばれるその一端は、彼女の持つ親しみやすさにあるのだろうと思う。

 天才的なまでの才能をいくつも持ち合わせておきながら、人間的な感情を一切欠落しておらず、誰に対しても優しく、それでも怒るときは怒り、苦手な相手にも嫌な顔一つせず、それでも静かに距離を置く。決して孤高ではない、親しみやすい大衆的天才。

 すべてを与えられた少女だと、誰もが言う。

 その「誰も」に、僕を含めてもらって構わない。実際そうだ。

「綴は、何かに恋をしてるのか?」

「何かにってわけでもあるけど、私は誰かにの方が強いかな」

「………」

「あ、夕暮さんではないよ」

「言われるまでもない」

 振られてしまった。

 別に彼女が僕のことを恋愛的に好いていると思っているわけじゃないし、僕だって彼女のことをそういう目で見ているわけでもないけれど、ストレートに言われると心に響く。

 可愛いと思っている相手に「貴方のことを恋愛的には好いていません」と言われると、相手を好いていなくたって気にしてしまうだろう。

「恋愛的感情を、冗談でも冗談に使うなって、私のパパの教えでね。私も納得してるから、私は恋愛感情には誠実でいるんだ。向けるものも、向けられるものもね」

「じゃあ、誰のことが好きなんだ?」

「生憎、そういうことを吹聴する趣味はないんだ」

 彼女はゆったりと笑む。

 美少女による笑顔の拒絶は若干怖いのだった。

「入学して三か月だったか?」

「そうだね。それくらい」

「今まで何人に告白されたんだ?」

「それもまた、吹聴しないことが私の誠実さかな」

「その中には、本気で綴のことを好きでいたわけじゃないやつもいるかもしれないだろ?」

「それは私が私の誠実さを曲げる理由にはならない。たとえ憎まれようと、陰口をたたかれようと、誠実であることを曲げてしまったら私が私を許せなくなる。私を大切に思ってくれている人たちに対して、私自身を誇れなくなる」

「立派だな」

「私が愛している人、私を愛してくれる人のおかげだよ。それに、夕暮さんだって、同じだと私は思うよ」

 調弦を終えたのか、綴はギターをつま弾く。

 耳馴染みのないフレーズなのは多分、僕が知らないからではなく、目の前で作曲が行われているからなのだろうと思う。

「釉漆高校には、面白い人たちがたくさんいるよね」

「綴もそのうちの一人だ」

 言われ、綴はクスリと笑って。

「『博愛フラジャイル』、『良酔宵チャルダッシュ』、『頭上注意アッパーカット』、他にもいろいろ。誰が名付けたんだろうね」

「『大衆的天才フレックス』もなかなかだと思うぜ」

「でも夕暮さんも『彼誰時エクストラコンテンツ』って呼ばれてるよ?」

「マジで誰がつけたんだろうな。気に入ってはいるんだけど」

「考えたひとはかなり柔軟な頭を持ってるね。朝昼夜のどこにも属していない夕方に、そんな当て字をつけるなんて」

「たまにエクステって略されるんだが」

「あはは、意味変わってるじゃん。夕暮さん髪長いわけじゃないのに」

 ふふふと、優しく笑む綴。

 邪気なくしとやかに笑むその姿に心を惹かれる人は多いのだろうと思うし、吹聴しない誠実さを示したことで、誰かに告白されたことはあるという事実を暗に裏付けたさっきの綴の発言。告白した人は、こういう部分に惹かれたのだろうなと思う。

「ていうか、僕に関しては僕の名前から来てるだけだよな? 全然関係ないだろ」

「そんなことないよ。夕方という時間帯の持つ特殊性、日常のエクストラ、その他諸々エトセトラ。夕暮さんにぴったりの二つ名、異名だと思うな」

「お前もなかなかだと、繰り返させてもらう」

 果たして綴のその評価を喜ぶべきなのかは分からないけれど、綴が褒めてくれているということに関しては疑わなくてもいいのだろうと思う。

 綴は天才である前に、善人なのだ。聖人ではない。

 だからこそ、『大衆的天才フレックス』なのである。

「きっと、その人たちも、私と同じで恋をしているんだろうな。異名を持つ人たちも、夕暮さんにそう名付けた人たちも」

「気になるのか?」

「ならない方がおかしいと言わせてよ。どんな風に言われる人でも、そこには恋や愛が存在している。しかもその人たちは、誰かに向けたものだ」

「知ってるのか?」

 ふふと、なんだか怪しく笑って、綴は言う。

「他人の恋路に首を突っ込むのは誠実と呼べないだろ」

「取り扱いの話で、別に干渉するつもりは無いよ。手助けが欲しいと言われるなら何かしてあげたいと思うし、相談を受けたとしても私が動くべきじゃないと思ったら、動かない。「告白しちゃえー」とか、「絶対相手も○○さんのこと好きだよー」とか、私は言わないかな」

「老若男女、恋の話題は好きらしいが、綴もそうなんだな」

「好きの形も様々だよ。私が恋と呼んだものを、愛と言い換えられる夕暮さんがそれを分かってないとは思わないけど、さては、私の揚げ足でも取ろうとしてるのかな?」

「取れるようになったら、いよいよ僕も『彼誰時エクストラコンテンツ』って名前が似合わなくなるな」

「んー、板についてくる、なんて見方もできると私は思っちゃうけどな」

 綴は、ギターのボディに、組んだ腕を乗せ、そこに頭を乗せた。

「途方もないほどに連なった愛や恋がこの世界を作ってるんだって思うと、なんだかドキドキしない?」

「それは綴が人を好きな証明だ」

「誰かを嫌いになったとしても、人を嫌いにはなりたくないからね」

「そんな努力、綴には必要ないだろ」

「そんなことないよ。恋や愛は、人を好きでいる一つの基準なんだから。それが好きでなくなるって言うのは、危険なことだと私は思ってる」

 僕の言葉に、小首をかしげるようにして、綴は穏やかな笑みで答えた。

「いつか、もし、夕暮さんも恋をしたら、私に教えてね」

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