虹色の魚

増田朋美

虹色の魚

寒い日であった。これで当たり前というべきなのかもしれないが、暑い日に代わって、寒い日も不快に思うから困るものであった。そんな日の中、杉ちゃんと蘭は、のんびりとお昼食を楽しんでいた。のであるが、

「失礼いたします。あの、杉ちゃんさんと、蘭さんはいらっしゃいますか?」

誰だろうと思ったら、低い老人の声だった。

「はいはいここにいますけど、何かあったの?」

杉ちゃんがでかい声でそう言うと、

「実は、ちょっと、協力してほしいことがありまして。特に、伊能蘭さんにご協力頂きたい。ちょっと、上がらせていただきますよ。」

と言いながら、入ってきたのは、弁護士の小久保哲哉さんであった。

「ああ、小久保さん一体どうしたの?そうやって来たと言うんだったら、やっぱり事件?」

杉ちゃんが急いでそう言うと、

「はい。私が来たからには、殺人事件の弁護に決まってるでしょう。それにお二人はニュースも新聞も見ないんですか?」

小久保さんは、すぐに言った。

「ええ、あいにく、うちのテレビは、ちょっと壊れておりまして、まだ買い替えて無いんです。新聞もとってないし。」

と、蘭が言うと、

「そうなんですか。では、濱口実花という女性をご存知ではありませんか?彼女の背中に、虹色の魚というキャラクターの刺青がありましたが、それを入れたのは、彫たつ先生だと彼女は仰っておられました。」

と、小久保さんは言う。

「濱口実花?そうですね、虹色の魚というのは、多分誰かの童話ですよね。」

と、蘭は思い出そうとしたが、なかなか思い出せなかった。

「旧姓は、永山実花さんです。」

小久保さんがヒントを出すと、

「永山実花?あ、思い出しました!確かに、彼女が、虹色の魚のような生き方をしたいと言ったので、その誓を後押しさせるために、背中にそのキャラクターを彫ったことがありました。その彼女がどうされたのでしょうか?」

蘭はしばらく考えてやっと思い出せた。

「ええ、もし、お二人がテレビや新聞などを取っておられましたら、多分すぐわかってくれると思いますが、実はその濱口実花さんが、殺人容疑で逮捕されました。なんでも、一歳になったばかりの息子の隆くんを、包丁で滅多刺しにして殺害したそうです。彼女のご主人が通報したそうですが、彼女はすぐに息子さんを殺害したことを認め、警察も検察も彼女の犯行であることは間違いないと結論づけました。しかし、彼女は殺害した理由については、私が接見しても全く喋りません。なんとか話をしたいといったところ、彫たつ先生と話をすると言いましたので、お宅へこさせてもらったというわけです。」

小久保さんはそう事情を説明した。

「はあはあ、、、なるほど。しかし、蘭が知っている名前は永山実花さんで、小久保さんが言っている名前は、濱口実花さんだよな。なんで名字が違うのに、同一人物なんだろう?」

杉ちゃんがそう言うと、

「ええ、蘭さんが永山実花さんの背中に虹色の魚の刺青を入れて、その翌年に、実花さんは見合いで結婚したのだそうです。結婚することによって、長年離れたかったお母様と、離れて住むことになることができて嬉しいと言っていました。」

小久保さんは、事情を説明した。

「はあ。それは親戚とか、そういう人が用立てた見合いかな?」

杉ちゃんがそうきくと、

「はい。実花さんのお母さんのご兄弟が、企画してくださった見合いだったようです。実花さんは、引きこもり生活を送っていて、そこから脱出したいのと、お母様から離れたかったために、見合いに応じたということでした。そこで相手になった、濱口正晴さんと結婚して、二人で生活していたときは、万事うまく行っていたそうですので、もう問題は解決したのかと、周りの人から思われていたそうです。」

と、小久保さんは答えた。

「そうなんだね。それで、永山から、濱口になったわけか。そのけっかとして生まれた子孫が隆くん。」

杉ちゃんが言うと、

「しかし、その実花さんが、実の息子さんを包丁で刺して殺すということはあり得るのでしょうか。僕は信じられません。なにかの間違いしか考えられない。どうして、そんなことに。」

蘭は、驚きを隠せない様子で言った。

「そうかも知れないけど、事実としてそういうことが起きているわけだからなあ。それでは、それに対してどう考えていくしか無いだろう。」

杉ちゃんが言うと、

「そう、、、だね。だけど、虹色の魚のお話に感動して涙を流して、そのような生き方をしたいと嬉しそうに言っていた彼女が、どうして殺人を犯すのでしょうか?少なくとも、あのお話で殺人をするように言い含めるような場面はありませんでしたよ。」

蘭は、まだ受け入れられなさそうに言った。

「まあお前さんは人がいいからな。でも、若い女だし、それくらいの感性を持っているんだったら、子供のことを嫌だと思う気持ちが、余計に強く感じられちゃって、犯行に及んだんじゃないのか?」

と、杉ちゃんがでかい声で言う。

「そうかも知れないけど、でも、殺人なんて凶行に及ぶとは。それに、一歳になったばかり、そして自分で産んだ息子さんを包丁で滅多刺しにするなんて、彼女のすることだったんだろうか?」

「まあ、お前さんが、そういう事を言うのは、しょうがないけれどさ。事実は事実だから、そのとおりに受け取って行動しようね。人間だから、どうしてもそれに感情が発生してしまうのはしょうがないけれど、それをなるべく感じないでそのままつたえるのも、大事なことだよ。」

杉ちゃんが蘭の肩をぽんと叩いた。

「それでは、来ていただけますか?今から、濱口実花さんに接見する予定ですが、よろしければ、蘭さんも一緒についてきてください。」

「実花さんは、今でも拘置所に?」

小久保さんがそう言うと、杉ちゃんが聞いた。

「はい。それが、言動がおかしなところがあるということで、只今警察病院におります。」

「病院、、、。」

蘭は更に心配そうな顔をしてそういったのだった。

「彼女、そんな病気になるとは、思わなかったけどなあ。」

「まあまあまあまあ。もうブツブツ言うな。人間なんて、機械みたいに、油をくれれば動き出すと言うもんじゃないだよ。だから、弁護士さんとか、そういう人間がつくんでしょ。蘭も、なっちゃったものは受け入れるくらいの覚悟で、その濱口実花さんのところに行って来いや。」

「でもさ。だいたい刺青をしにやってくる客は、そのなっちゃったものを受け入れて、自分に言い聞かせるために、体に花や吉祥文様を彫ってくれと頼むもんだけどなあ。」

杉ちゃんに言われて蘭は考え込んでしまった。

「まあ、そういうことは、言わなくていいから。とにかく行って来い。実花さんは、きっと一人で寂しいんだろう。誰も味方がいないっていうことは、寂しいことだと思うぞ。」

杉ちゃんに言われて蘭は、決断したらしく、

「わかりました!行ってきます!」

と言って、小久保さんと一緒にタクシーに乗って警察病院まで行った。

二人が警察病院に行くと、影浦千代吉先生が待っていた。なんでも、濱口実花さんの担当医になったという。精神科医の影浦先生が居るということは、実花さんは精神関係でおかしくなったということか。

「それで、濱口実花さんの様子はどうですか?」

小久保さんがそう言うと、

「はい。僕たちも、実花さんに、話を聞いているのですが、事件のことやその理由などは一切話してくれません。なぜ、隆くんを刺殺してしまったのか。僕も遺体を見たわけではないのでわかりませんが、何でも、隆くんの遺体には、13箇所刺し傷があったそうですから。ああいう残忍な殺し方が、女性にできるか、というのも疑問です。ただ、最近では、うさぎケージに子供を閉じ込めるなどのケースもありますけれども、、、。」

と、影浦先生は言った。そして、二人を病室の前まで連れていき、

「もし、彼女が暴れ出したりするといけないので、守衛を一緒に用意させます。」

と、制服の護衛さんを病室の入り口につけた。そして、病室の入り口を叩いて、

「濱口実花さん、入りますよ。今日は、あなたの話をどうしても伺いたいという方がいるので、連れてきました。」

と、入り口を開けた。それと同時に、小久保さんと、蘭は病室の中に入った。確かにそこに居るのは、蘭が見たことのある、永山実花さんだったが、なんだか、茫然となっているというか、正気を失ってしまっているような顔をしている。でも、実花さんは、蘭が誰であるのかすぐわかってくれたらしい。

「ああ、彫たつ先生来てくれたんだ!ありがとうございます。先生来てくれて本当にありがとう!」

と、呂律が回らない顔でそういったのであった。

「すみません。そういうことでしたら、事件の事をもう一度話していただけませんでしょうか?」

と小久保さんができるだけ優しくそう言ってくれたのであるが、

「あの、彫たつ先生と二人で話をさせてもらえませんか?」

実花さんはそういった。小久保さんとしては、せっかく事件のことを話してくれると思ったので、高チャンスと思われたのであるが、

「わかりました。それならそうしましょう。ただ、症状を観察する必要はありますので、僕は部屋の外ですぐ来られるところに居ることにします。」

と影浦先生に促されて、小久保さんは部屋の外へ出た。部屋に残ったのは、蘭と、実花さん、そしてもし何かあったら行けないと思ったのか、護衛さんが入り口を塞いでいた。

「実花さん。」

と蘭は、できるだけ彼女の目をしっかり見つめていった。

「僕が、あなたの背中を預かったとき、あなたはこう言いましたね。虹色の魚は、自分の虹色の鱗を、周りの人に分け与えて幸せにした。だから、自分もそういう生き方がしたい。それをいつまでも忘れないように、体の一部にしたい。そう言ったんですよ。覚えていらっしゃいませんか?」

「ええ。覚えています。そうならなければ行けないとなんども思いました。ですが、そうなれない自分に、本当に嫌な気持ちになるんです。」

実花さんは小さな声で言った。

「それはどういう意味ですか?あなたがしたことは、虹色の魚がしたこととは正反対です。それに、これから羽ばたいていく子供さんの命も奪ったんだ。どうしてあなたがそういう凶行に及んだんでしょう。どうしてでしょうか?」

蘭は、実花さんに一生懸命言った。

「結婚したときは、万事うまく行っていたそうですね。小久保さんからそう聞きました。それなのになぜ、あなたはそんな凶行に走ってしまったんですか?」

蘭はそうきくが、

「そうですよね。私も自分ではよくわかりません。ですが、隆が生まれてから、もうなんでこんな悪いことばっかり続くんだろうって思うくらい、悪いことが続きました。」

実花さんはやっとそれだけ言った。

「それはどういう意味ですか?なにか、隆くんが生まれて、変わったことでもお有りだったんでしょうか?」

蘭は、すぐに聞いた。

「はい。女の人が出てきて、隆に毒を飲ませようとするんです!あたしは、それを止めるには、隆を亡き者にするにしか無いと思ったんです!」

実花さんは金切り声で叫んだので、入り口のところにいた護衛さんがすぐに駆けつけて実花さんの体を抑えた。そして、影浦先生がやってきて、実花さんの腕に安定剤を注射した。それのお陰で、実花さんはそれ以上何も言わずに眠ってしまったので、影浦先生は実花さんをベッドに寝かせてやって、掛ふとんをかけてやった。

「実花さんの女の人が出てきてどうのという下りは、幻覚でしょうか?」

小久保さんがそう言うと、

「ええそうとしか考えられません。実花さんはおそらく統合失調症があります。」

影浦先生はそういった。

「いつからでしょうか?もしかして、僕が彼女の背中を預かったとき、彼女は正常な判断が下せなかったのでしょうか。それで、口からデタラメを言って、僕に虹色の魚を彫ることをお願いしたんでしょうか?」

蘭はとても悲しくなってしまって、そういったのであるが、

「そう取ってしまう人もいるかも知れませんが。」

影浦先生が、蘭にいった。

「僕は違うと思いますね。精神疾患のある人は口からでまかせに嘘や洞話をしていると取られがちですけど、その洞話は、現実があまりにも苦しいために、洞をふくしかなかったと解釈するべきだと思います。もしかしたら、現実を超えた、現実ということだと思うんです。事実は確かに一つしか無いかもしれませんが、それを噛み砕いて、何十通りに解釈して受け入れるのが人間。そしてそれができないから、別の事実を作って苦しんでいるのが精神疾患だと思うんですよ。」

「それ、僕もわかります。」

蘭は眠っている実花さんの顔を眺めながらそういったのであった。

「僕も、刺青を施術するとき、色んな人から、その人の苦労話をきくのですが、刺青というのは、激痛を伴います。更に、機械彫りはしていないので、えらく時間もかかる。そういうわけだから彫っている間に、嘘や洞を吹くという余裕は無いのです。だから、彼女たちは正直に自分の事を語ってきたんですよ。だから、実花さんも同じことだったんでは無いでしょうか?」

「ということは、実花さんも、なにか事件を起こすきっかけのような事を話していたのでしょうか?」

と、小久保さんが蘭に聞いた。

「もし可能であればお話しいただけますでしょうか?」

「ええ。」

蘭は、言ってもいいのかわからないという表情をしたまま、こう切り出したのであった。

「彼女は、僕のところに来たとき、お母さんがうるさいとか、そればかり喋っていたんです。お母さんは、自分の進路に介入してくる、自分は、頑張って、行きくない高校に行った。確かに、安全装置みたいな高校ではあるけれど、お母さんの言う通りにしているという思いがいつもあって、何も楽しくなかった。大学も、就職した会社も、みんなお母さんが用立てたものだ。そうじゃなくて、自分で進路を決めたい。そう話していました。でも、何をするにもお母さんの言う通りにしなければ、みんな自分の事を相手にしてくれなくなる。だからそうするしか無いって、いつも辛そうに話してました。」

「そうですか。それで、親戚が彼女に見合いを勧めたというわけですな。」

と、小久保さんが、蘭に言った。

「そうですね。きっと物理的にお母さんと離れさせようと思って、それで見合いを提案してくれたんでしょう。それで結婚してしばらくは万事うまく言っていたのですが、先程実花さんは、隆くんが生まれてから一度もいいことが無いといいました。それはどういう意味でしょうか?」

蘭が、小久保さんにいうと、

「ええ。多分きっと隆くんという存在が現れてくれたお陰で、お母さんの態度が変わったのだと思います。ご主人の話によりますと、実花さんは、隆くんを無事に出産することはできたものの、そこから、立直ることがなかなかできなくて、お乳を飲ませることもできなかったようです。そういうことで、ご主人が、お母さんに来てもらって、実花さんと隆くんの世話をしてもらっていたとか。」

と、影浦先生が蘭に言った。

「そうだったんですか。それは男である僕たちにはわからないことでもありますが、でも、実花さんにとっては、本当に大変だったということだったのかもしれません。隆くんが生まれてきて、もしかしたら、隆くんの進路にまで介入しようとするのではないかと実花さんは怯えたかもしれない。」

蘭は、考え込むように言った。

「ええ、蘭さんの言うとおりかもしれません。実花さんの話が事実であるとすれば、実花さんのお母さんがご自身の進路に介入してきたことは、計り知れない大きな衝撃だったのかもしれない。それは、いくら論理で責めたって解決できないことでもあるんですよ。僕はこの仕事をずっとやっているからそれがわかります。」

「ちょっと待ってください。」

影浦先生がそう言うと、小久保さんが言った。

「でも、実花さんのお母さんを悪役にしてしまうのはいかがと思いますが。だって、私に、実花さんの弁護をしてくれと頼んできたのは実花さんのお母さんだったんですよ。申し込みに来たとき、お母さんははっきり言っておられました。私の力が足りなかったんだ、今度は、実花にもう一度やり直そうと思ってあげさせられるような母親になりたい、と。」

それを聞いて影浦先生も、蘭も黙ってしまった。しばらく、シーンとした時間が立つ。聞こえてくるのは実花さんが眠っている音だけである。

「そうだったんですか。では実花さんのお母さんは、決して、変な方向に走っているとかそういうわけじゃなかったんだ。」

と、蘭がその沈黙を破るように言った。

「ええ、だから、実花さんのお母さんは決して悪い人じゃないんですよ。ただ、切ないくらいすれ違っているんですかね。多分二人だけでは、解決できない問題かもしれません。実花さんも、お母さんも悪い人じゃないです。それをしっかり抑えておかないと、我々も間違えてしまうのではないですかね。これから、二人の人生を預かっていかなければならない立場でもあるんだし。まだ事件はこれからですよ。実花さんが虹色の魚になるまで、我々も頑張らないといけませんな。」

小久保さんが、そう言うと、影浦先生も、

「そうですね。医者というのは、難しいなと思うこともありますけど、その連続ですよ。それに精神科では、病原菌をなんとかするのではなくて、それが生きている人間だから難しいんですよね。でもそういう事を是正していかないと、二人はいつまでも解決しませんからね。」

と言った。多分、小久保さんや影浦先生のようないわゆる「専門家」と呼ばれる人は、そういうことができるのだろう。素人の蘭にはそれがちょっと難しかった。でも、実花さんや、実花さんのお母さんのような人が二度と発生しないように自分もなんとかしなければと思うのだった。

もしかしたら、人が生きているのは人のために何かをするために居るのかもしれない。虹色の魚だってそうなることで幸せを掴んだ。

生きている限り。

生きている限り。



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虹色の魚 増田朋美 @masubuchi4996

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