第111話:大人の誕生日 その8

 最初は二人ともに、所詮ただのキスだろうという侮りがあった。


 接触した時間はほんの一瞬で、面積は極小。


 なのに舌の先に、まだ感覚が強く残っている。


 触れただけでこんなことになっているのに、更に舌と舌を絡めたりなんてどんな風になってしまうのか想像もできない。


 心臓はずっと、破裂しそうなくらいにバクバクと高鳴っている。


 これまで俺たちがやってきたことは、まるで子供の戯れだった。


 大人のキスは、俺たちがこれまで立っていたよりも遥か大人の域にあった。


「す、すごかったね……」

「う、うん……すごかった……」


 互いに顔を見合わせながら、心からの感想を述べる。


 すごかった。


 それ以上の言葉が見当たらないくらいにすごかった。


 例えるなら、これまでファミコンで満足していた世界に突如として現代のハイスペックゲーミングPCが投げ込まれたようなものだ。


 そんな高次の刺激を急に与えられたら、人はおかしくなってしまう。


「そ、そろそろ料理食べないと……冷めるかもだし……」


 だから、ここは一旦休戦協定を持ちかけることにした。


 光にとってもあれは流石に想像以上の刺激だったのか、首肯で応じてくれる。


 俺の膝の上から降りて、テーブルを挟んで座り直す。


 シチューとホタテは熱し直して、更に念入りにアルコールを飛ばしておいた。


 そうして、気を取り直して誕生日の豪華な夕食を再開する。


 ここでようやく自分の作った料理を初めて口にしたが、なかなか美味しくできていた。


 自画自賛ではあるが、これなら店に出しても大丈夫かもしれない。


 光も先刻と同じようにパクパクと美味しそうに食べてくれているが――


「「……………………」」


 せっかくの誕生日だというのに、互いに口数がまるで少ない。


 これなら葬式の会食の方がまだ賑やかだ。


 どうしてこんなに静かなのか? 理由は分かっている。


 さっきのあれの感触が、まだ身体の内で悶々と渦巻いているからだ。


 それは時間が経つに連れて消えるどころか、更に大きくなりつつある。


 頭の中は、もうそのことしか考えられない。


 まるで薬物中毒者の離脱症状でも体験させられているような気分だ。


「そ、そろそろケーキも食べよっか……!」

「う、うん……食べたいかも……」


 どうにか頭の中からそれを追い出すために、次の提案をする。


 キッチンに移動して、冷蔵庫の中から取り出したケーキを切り分けていく。


 光のは少し大きめに、チョコレートのネームプレートも載せる。


 それ彼女のところに持っていって、フォークと一緒に渡す。


 もう一度、テーブルを挟んで座り、今度は一緒にケーキを食べるが――


「「……………………」」


 やっぱり、自然と口数が少なくなってしまう。


 無言のまま、二人でケーキをもしゃもしゃと食べているとまるで何かの儀式みたいだ。


「お、美味しいね……」


 向こうもそう思ったのか、普段の1/10くらいのトーンで無理やり話しかけてくる。


「うん、美味しい……甘くて……」

「甘いよね……すごく……甘い……」


 しかし、やっぱり禄に会話が続かず、すぐ無言に戻ってしまう。


 すごく甘くて美味しいはずのケーキも、あまり味が感じられない。


 だって、俺たちは既にもっと極上の甘さを知ってしまっているから。


「あっ……そうだ……。あれも渡しておかないと……」


 ケーキを半分ほど食べ終わったところで、すっかり忘れてしまっていた別のサプライズの存在を思い出した。


 ヘッドボードの棚から綺麗にラッピングされたそれを取り出す。


「これ、俺からの誕生日プレゼント」

「えっ……? プレゼントまでいいの? もう、こんなにしてもらってるのに……」

「もちろん、誕生日おめでとう」


 そう言って手渡すと、ギュッと大事に抱え込むように受け取ってもらえた。


「開けてもいい?」

「うん、せっかくだから目の前で見てもらえると嬉しい」

「何が入ってるのかなー……」


 逸る気を抑えながら、光が丁寧に包装を剥がしていく。


「わぁ……! リストバンドだ……! しかも、ピコの刺繍が入ってる! かわいい~!」


 中の箱に入っていたリストバンドを取り出した光が目を輝かせる。


「何にするか色々考えたんだけど、やっぱり普段から使えるものがいいかなって」


 生まれて初めての女子へと誕生日プレゼント。


 何を送るべきなのか、本当に悩みに悩んだ。


 インターネットの知恵を借りて、化粧品やファッション用品にすることも考えた。


 でもやっぱり光と言えばテニスだろうと、最終的にはこれを選んで正解だったようだ。


「うん、これならいつでも使えるもんね! 早速、着けてみてもいい?」

「もちろん、せっかくだから俺も着けてるところが見てみたいし」

「じゃあ、お言葉に甘えて……じゃーん! どう?」


 光がリストバンドを手首に通して、軽くポーズを取って見せてくる。


「おー……すごく似合ってる」

「ほんとに?」

「うん、こんなに白のリストバンドが似合う女子も他にはいないんじゃない?」

「それは言い過ぎ~……でも、すっごく嬉しい! これ、大事にするね!」


 右腕に着けたリストバンドを、左手で大事そうに抑えながら光が言う。


 自分の選んだものがここまで喜んでもらえて、俺も同じくらいに嬉しかった。


 身体の内に溜まっていた悶々とした気持ちが、純粋な感情で上書きされていく。


 俺って本当に光のことが好きすぎるんだなと再確認する。


「そろそろ、ゲームの方も再開したら?」

「いいの?」

「うん、俺も光がやってるところ見ていたいし」

「じゃあ、やらせてもらおーっと! えーっと、どこまで進んだんだったかなー」


 コントローラーを手にした光が、腰を浮かして隣に座ってくる。


 俺からも同じように近づいて、肩が触れ合う程の距離で隣り合う。


 そのまま真横で、光が新作をプレイしている様子を見守るが……


「あっ、やられちゃった……」


 再開してすぐに、光がステージの道中であっさりとやられてしまった。


 普段なら初見でも道中くらいは簡単に熟すのに珍しいな……。


 そう思いながらも余計な口を挟んだりせずに、ただ隣で画面を見守る。


 それからも光は何度も何度もやられ続けた。


 まるで頭の中が別のことでいっぱいになっていて、全く集中できていないように。


「ん~……ビルドが悪いのかな~……」

「ちょっと変えてみたら? ビルド幅はめちゃくちゃ広いから相性もあるだろうし」

「うん、そうしてみる」


 心ここに在らず、と言った風に空返事をする光。


「どうしよっかな~……どれが強いのかな~……」


 インベントリを開いて装備を順番に見ているが、カーソルが無為に動いてるだけでそこに思考はない。


 そう、俺たちは気づいていなかった。


 あの悶々とした感情は上書きされたわけでもなく、ましてや消えたわけでもない。


 単に普通を装って、無理やり蓋をしていただけだったことを。


 そして、押さえつけられたそれは何かをきっかけに噴出してしまうことにも。


 互いに示し合わせたわけでもなく、ふと目と目が合う。


 三十センチくらいの距離で、今となってはそこまで至近というわけでもない。


 でも、それが何故かまるで火薬に直接引火したくらいの衝撃となった。


 気がつくと、俺たちは互いの身体を強く抱き寄せていた。


 そのまま、ほとんど衝突するような勢いで唇を重ねる。


 そこから互いの口内に舌を差し込むのに、大した躊躇も葛藤もなかった。


 だって、俺たちはもうその心地よさを知ってしまっていたから。


「んっ……っちゅ、んぁ……黎也くん、好き……らいすきぃ……」

「俺も……んっ……」

「わはひの方が……んっ……すきらもん……っちゅ……」


 お互いにうわ言のように愛の言葉を交わしながら最も深い口づけを交わす。


 唾液が垂れるのも気にせず、柔らかい舌の感触を少し強く味わおうと少しでも接触面積を広く、表面の襞の一つ一つを感じるように絡ませる。


 これまでのキスよりも遥かにインタラクティブ性の高い行為に、俺たちはまるで新作のゲームをプレイしているかのように夢中になった。


 タガは完全に外れてしまっていた。


 キスまでという厳格なラインを引いたが故に、その範疇ではどこまでも求め合う。


 そうして俺たちは日付が変わって誕生日が終わるまで、互いを貪りあった。


 正気に戻った後、共に凄まじい羞恥と後悔に襲われたのは言うまでもない。

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