第109話:大人の誕生日 その6
「お、大人の……?」
「うん、大人のチュー」
その言葉を光がもう一度、口にする。
これまで俺たちが何回もしてきたキスというのは、唇と唇をくっつける行為だ。
世間一般的にキスといえば、大半の人はその行為を指して言うだろう。
しかし、そのアップグレード版……まさに大人の扉を開いた向こう側の行為が存在するのも皆が知っている。
「それって……あれ……? 舌と舌をこう……」
指と指でそれを表現する俺に、光が深々と頷いて答えてくれた。
それこそが大人のキス――ディープキスとかフレンチキスとも呼ばれている。
「んっ……!」
光が目を閉じて、キスを待つように顔を突き出してくる。
小さくて透き通るような薄い桃色をした唇。
薄くグロスが塗られているのか、透明感のある光沢を纏っている。
その閉じられた唇を俺の舌でこじ開けて、中に侵入しろと命じている。
「いや、いやいやいや……ダメだって……」
「なんで……?」
俺の拒絶に、光が目を開けてムッと不満げに眉を顰める。
「そういうのは、ちゃんと準備ができてから……するって……」
そう、ほんの一週間前に約束したはずだ。
そういうことをするのは、俺がしっかりと光の人生を支えられるようになってからだって。
「……チューじゃん」
「え?」
「チューで妊娠するの……?」
更に眉間にシワを寄せて、不機嫌そうに光が続けていく。
「確かにエッチはまだしないって決めたよ!? 黎也くんが私のことを気遣ってそう言ってくれたのはすっごく嬉しかったし、その覚悟を尊重して私も頑張って我慢することにしたよ!!」
「が、我慢してたん――」
「でも、チューじゃん!」
チューじゃんチューじゃんチューじゃん……。
光が叫んだ言葉が、頭の中で残響する。
「チューで私の身体には何も起こりませーん! 今どき、幼稚園児だって知ってますー!」
「そ、それはそうだけど……」
「チューしたいチューしたいチューしたいー! 大人のチューしたいー! 私、れーやくんよりも一つ大人なんだけどー!」
更に酔いが回ってきたのか、ベッドの上で子供のダダを捏ね始めた。
確かにキスで妊娠したりするわけがないのは分かってる。
もう子供じゃないんだし、コウノトリやキャベツ畑も信じていない。
でも、光がしたいと言ってるのはただのキスじゃない。大人のキスだ。
互いの舌と舌を絡めて、ねぶり回すようなキスだ。
そんなのはほとんど本番へのゲートウェイ行為と言っても差し支えがない。
初心者をL◯Lの沼にハメるために、先に見せるArc◯neに相当する。
いくら身体的にはリスクがないとはいえ、それを特大の我慢をしている最中にするのは劇薬以外の何物でもない。
「チューしてくれないんだ……今日、私の誕生日なのに……」
駄々を捏ねても通じないと見たのか、今度はいじけて泣き落としにかかってきた。
確かに、せっかくの誕生日がこのまま終わるのは忍びない。
俺は彼女に最高の誕生日をプレゼントするために、今日この日に望んだはずだ。
だったら――
「……分かった」
「え!? チューしてくれるの!?」
俺の言葉を受けて、光がベッドから跳ね起きる。
「する……!」
「ほんとに!? じゃあ、早速――」
「でも、その前に一つ条件がある!」
身体を寄せてきた光の言葉を遮って、彼女の眼前に指を一本立てる。
「水を飲もう!」
そして、もう片方の手で水の入ったコップを掴んで差し出す。
もしするにしても、酔って判断力が鈍ってる今の彼女にするわけにはいかない。
酔いを覚まして、平常に戻った彼女がそれでもしたいというなら……俺も覚悟を決める。
「水……? 私、全然酔ってなんてないのに……」
「いいから! こっちが要求を飲む代わりに、そのくらいは聞いてくれないと……」
「んぅ……飲んだら本当にしてくれるの……?」
「する……! 男に二言はない……!」
「分かった……けど、ほんとに酔ってないのに……」
渋々ながらも俺の手からコップを受け取った光が水を一口飲む。
「……どう?」
「どうって……だから、別に酔ってなんか……」
そう文句を言いながらも、光がもう一口水を飲む。
「酔って、なんか……」
朱色に染まっていた頬が少しずつ、元の肌の色に戻っていく。
「落ち着いてきた?」
「お、落ち着いてきたっていうか……も、元々酔ってない……し……」
肌の色が元に戻っていくに従って、声もトーンダウンしていく。
「じゃあ、今の気持ちは?」
「き、気持ちって……?」
「大人のキスをしたいのか……! したくないのか……!」
「お、大人のキス……!? ええっ!? す、するの……!?」
自分から言いだした言葉に、光が身体を仰け反らして慄く。
「いや、光が言い出したことじゃん……」
「そ、それはそうだけど……さっきのはちょっと頭がフワフワしてたっていうか……」
「それはやっぱり、酔ってたってこと……?」
「よ、酔ってはなかったけど……!?」
何故かそこは譲れない一線なのか、尚も強情に認めようとしない。
「じゃあ、あれは素面で出た言葉で、本心からしたいと思ってるってこと?」
「え、えっと……それはまだ別の問題で、いざとなると心の準備が……」
「だったら、しなくてもいいってこと……?」
「も、もし私がまだしたいって言ったら……黎也くんは――」
チラッと流し目で、こっちの様子を確認するように尋ねてきた光に――
「普通にするけど?」
既に覚悟を決めていた俺は即断で答えた。
「す、するの……!?」
「男に二言はないから。それに今日は光の誕生日だし」
彼女の薄い肩を掴んで、その目を見据えながら告げる。
何か変なことになってる気がしないでもないけど、向こうの酔いが覚めてきてるならこれは一転攻勢のチャンスに違いない……!!
「そっか……私、誕生日だもんね……」
「……で、酔いはちゃんと覚めた?」
俺の質問に、光は顔を伏せて微かに頷く。
「じゃあ、最後にもう一回聞くけど……する? しない?」
「……すりゅ」
そして、さっきまでよりも更に顔を真赤にしながら呟いた。
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