第100話:するorしない その1

 大きな音が立たないように扉をゆっくりと閉める。


 廊下の向こうの階下から響いてくるカラオケの音に耳を傾けながら、今この室内で起こったことを思い返す。


 多分、俺には彼女を怒ったり蔑んだりする権利があったと思う。


 それを行使しなかったのは、少しでも彼女に共感する想いがあったからだ。


 悪意の有無に拘らず、強すぎる光は時に近くの人の身や心を焦がしてしまう。


 朝日光へと抱く憧れ……転じて嫉妬や劣等感は、同性なら尚のこと大きくなるんだろう。


 もちろん、だからといって彼女のしようとしたことは間違っている。


 もし、光に何か被害が及ぶような事態になっていたら俺も許せなかったと思う。


 けれど、誰にも害が及ばなかったのならこれで良かったんだろう。


 彼女は憑き物が完全に落ちた……というわけではないだろうけど、少なくとも自らの過ちには気づいてくれていたはずだから。


 ふぅ……っと、色んな感情のこもった息を吐き出して廊下を歩き出す。


 とりあえず、皆のところに戻ろう。


 光と二人で過ごして、何をするかしないかという興奮や緊張は完全に霧散していた。


 廊下を歩いて、何もなかったように振る舞う練習を頭の中で行いながら角を曲がろうとしたところで――


「わっ! びっくりしたぁ……って、黎也くん?」

「ひ、光……!?」


 ちょうど同じタイミングで逆側から来ていた光と鉢合わせする。


「何してるの? 二階で」

「え? い、いや……単に散歩してただけだけど……こっちの建物も向こうと同じ構造なのかなーって……。あっ、もちろん部屋には入ってないから……」


 自分でもあまりに嘘が下手すぎると思いながらも、その場凌ぎの言葉を紡ぐ。


「ふ~ん……そうなんだ」

「そ、そういう光はなんで二階に?」


 露骨に訝しまれてるので、話を向こうに振り返す。


「私? 私は京に呼ばれてきたんだけど……話があるから奥の部屋で待ってるって」


 光がそう言いながら、俺の肩越しに奥の部屋を見る。


 なるほど……。


 もしも俺が断れてなかったら、とんでもない地獄が待ち受けていたらしい。


 それはありえなかっただろうとはいえ、想像すると身の毛がよだった。


「あっ、それなんだけど……桜宮さんから伝言が……」

「伝言?」

「桜宮さん、やっぱりちょっと体調が悪いみたいで……」

「え? そうなの?」

「う、うん……それで少し休むから用事はまた後でって……俺から光に伝えて欲しいって、さっきばったり出くわした時に頼まれた……的な……?」


 下手くそなりに、なんとか適当な嘘を作って誤魔化す。


「え~……そうなんだ。大丈夫かな……?」


 疑う様子もなく、本気で心配そうに光が言う。


 その足は僅かに、奥の部屋の方へと進み出している。


 光の立場からすれば、友達が体調不良と聞けば様子を見に行きたいと思うのは当然だろうけど――


「い、今は一人にして欲しいって言ってたから行かない方がいいんじゃないかな?」


 更に嘘を重ねて、その歩みを止める。


 騙している心苦しさはあるけれど、流石に今二人を会わせるのは互いのためによくないと思う。


「でも、しんどいなら誰か付いててあげた方がいいんじゃないの?」

「そ、それは……」


 あまりにも優しくて真っ当すぎる心配に、言葉が少し詰まる。


「た、体調は大丈夫そうだったから……多分、気疲れが溜まってた感じなんじゃないかな? ほら、主催で皆を楽しませなきゃいけないみたいなプレッシャーもあっただろうし……」


 それでも何とか嘘を吐き切る。


 光は数秒、俺の目をジッと見た後に――


「あー……そっか。そうだよね。なら、後でお礼も兼ねてPINEだけ送っとこっと」


 俺の嘘を信じたのか、それとも何かを察したのか。


 桜宮さんのところへと向かおうとするのは、一旦諦めてくれた。


「じゃあ、下に戻ろっか! まだみんなも遊ぶ気満々みたいだし!」


 いつもの笑顔を浮かべて、俺に手が差し出される。


 その手を握り返して、日常に戻ろうと階段に向かおうとするが……


「ちょ、ちょっと待って……」


 さっきの事で消えていたはずの欲が、俺の後ろ髪を掴んだ。


「どしたの? 行かないの?」


 足を止めた俺の顔を、光が怪訝そうに覗いてくる。


「その……せっかくだし、良かったら二人で夜景でも見ない……?」



 *****



 二階からバルコニーに出ると、広々を開けた視界に満点の夜空が映し出された。


「わー……! きれー……!」


 普段の生活圏内では観られない光景に、光も全身を目一杯に使って感嘆を表現している。


「ほら、見て見て! 海もすっごい綺麗!」


 光に手を引っ張られて手すりの方まで行くと、日中に遊んだ海の姿も見えた。


 昼間と違って真っ黒に広がっている海原は、月や星の光を反射してもう一つの夜空のように煌めいている。


「すっごいきれーだねー……」

「うん、すごく綺麗。海は見慣れたつもりだったけど、これは流石に格別」


 息を呑むような美しい光景を二人で独占していることに、ちょっとした贅沢感を覚える。


 今が一番、『今日は来て良かった』と心から思えた。


 手を繋いだまま、二人でしばらくその光景を満喫する。


「今日はほんとに楽しかったし、ちょっと無理してでも来た甲斐があったなぁ」

「そういえば、練習のスケジュールを空けてきたんだっけ?」

「うん、だからお母さんにはちょっと小言を言われちゃったけどね」


 そう言って光は、少しばつが悪そうに笑う。


「明日は朝にはもう帰るんだっけ?」

「うん、帰って軽くラケットだけでも握っておこうかなって。丸二日も空けちゃうと流石に感覚が鈍っちゃうかもしれないから」

「ほんとに大変だなぁ……」

「大変と言えば大変だけど、好きでやってることだしね。それに今日一日でエネルギー補給は万全だから!」

「補給……普通は遊び疲れて休みたいってなるもんじゃない……?」

「そう? 私は遊んだら明日は練習頑張るぞ!ってやる気が湧いてくるけどなー」


 その無尽蔵の体力を俺みたいな凡人の尺度で測ることが烏滸がましかったらしい。


「特に、黎也くんと一緒に過ごせたら……ね?」


 ギュっと少し熱く、握っていた手に力が込められる。


 薄暗闇の中でも輝く瞳に吸い込まれるように、視線と視線が絡み合う。


 ああ、これはそういう流れだ……と思ったら――


「んっ……」


 案の定、向こうから軽く唇をくっつけてきた。


 寝る前に乾燥対策のリップクリームを塗っていたのか、少ししっとりと柔らかい。


「えへへ、今日のファーストキスもらっちゃった」


 してやったりと、悪戯な笑みを浮かべている光。


「何その概念は……」


 実際はそうでもないはずが、なんだか久しぶりのキスのような気がして照れくさくなる。


「よく考えたら今日はチューしてなかったなーと思って」

「そりゃ、ずっと皆の前だったし……」

「私は皆の前でも全然ウェルカムだけどね!」

「俺は流石にそれは恥ずかしいかな……。てか、ウェルカムってことは俺からしろってこと?」

「もちろん、自分からするのは流石に恥ずかしいし……」

「何それ……」


 そんな軽口を叩きあって、一緒に笑う。


 その人を惹きつける魅力には嫉妬もあるし、天性の才能には劣等感もある。


 桜宮さんに共感できるというのは嘘じゃない。


 でも、その笑顔をこうして側で見ていると、俺はそれ以上に光のことが好きすぎるんだと再確認できた。


「ん~……でも、ほんとに今日は楽しかったなぁ~……」


 夜景を臨みながら光が大きく伸びをする。


「来年も、そのまた来年も……こうして一緒に来られるといいね」

「だね。ここに来るのは俺の懐事情的に厳しいかもしれないけど」

「そこは、ほら……また京に頼んでもらえば……!」

「流石に厳しいんじゃないかな……来年は正式オープンもして、お客さんがいっぱいだろうし……」

「えー……じゃあ、別のとこかぁ……せっかくならここがいいんだけどなぁ……」


 手すりに突っ伏しながら頬を膨らませている光。


 そんな子供っぽいところも本当に愛おしいと感じてしまう。


「まあ……光と一緒なら、場所はどこでも俺は楽しいだろうし……」


 だから少し柄にもなく、そんなことを言ってしまう。


「それは私も、黎也くんと一緒ならどこでも楽しいよね!」


 一方の光はごく当たり前にそう返して、身体を寄せてくる。


「そ、そういえば……今回、日野さんは誘わなかったの? 夏期講習とかで忙しかった感じ?」


 少し気恥ずかしくなって、話を逸らしてしまう。


「ん? あー……絢火は『海行こ! 私が絢火に似合う水着選んであげるから!』って誘ったら『水着? 絶対に嫌』って断られちゃった」

「ああ……まあ、そうだろうとは思った……」


 その後も、しばらく二人で他愛のない話を繰り広げた。


 今日の思い出を振り返ったり、これまで交流の少なかった今日の参加者の女子の話なんかを色々と聞かせてもらった。


 その時もやっぱり光は、みんなのことをまるで自分のことのように自慢気に話していた。


「さて……と、じゃあそろそろ戻ろっか。あんまり長く消えてるとみんな心配するかもしれないし」

「そだね。あっ、でも……ちょっと待って」


 俺が戻ろうかと提案すると、光は立ち止まってスマホを手に取った。


「せっかくだし、最後に夜景をバックに写真撮ろ?」

「あ、ああ……うん、いいけど」

「じゃあ、もっとこっち寄って? ほら、顔も目一杯近づけて……」


 肩が当たるくらいに身体を近づけると、光は頬がくっつくくらいに顔を寄せてきた。


「はい……チーズ!」


 インカメに向かってギコちなくも表情を作ると同時にシャッターが切られた。


 角度を変えたり表情を変えたりで、それが何回か続く。


 そうして撮れた写真を満足気に眺めている光に、今度こそ行こうかと告げようとするが――


「じゃあ、次は黎也くんのスマホでも撮ってあげる!」

「別に撮らなくてもさっきのを後で送ってくれれば、それでよくない?」

「いいの! カメラが違うともっと良い写真が撮れるかもしんないじゃん」

「そう言うなら、まあいいけど……」


 特に断る理由もなかったので、光に渡そうとポケットの中のスマホを掴む。


 しかし、なんだかんだで目的通りに光と二人きりの時間を楽しめた俺は、その中に入れていた別の危険物の存在を完全に忘れてしまっていた。


「あ゛っ……」


 スマホを取り出した際にポケットからこぼれ落ちた物を空中で掴もうとするが、それは俺の手をスルっとくぐり抜けてバルコニーの床に落ちる。


『0.01mm』


 輪っかの形状が浮かび上がったパッケージが、月光の下に曝された。

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