第66話:二人だけの海 その3
まるで足跡一つ無い新雪が降り積もった平原を思わせるような彼女の背中。
水着のストラップが僅かにあるだけで、この視点からはほとんど裸と変わりがない。
「では、いかせてもらいます……!」
ポンプを押して、白濁色の半液体を手に取り、両手のひらに広げる。
いつも自分が使っているものとは違う、甘い花の香りが鼻腔を擽った。
「うん、よろしく~! でも、なんで敬語?」
「いや、なんとなく……」
なんでもないように笑ってみせたけれど、内心は心臓が破裂しそうなくらいにバクバクと音を立てていた。
それでも、ここまで来て引いてしまえば男が廃る。
意を決して、両手を彼女の背中へと置いた。
「んっ……」
くすぐったかったのか、それとも別の感覚があったのか。
光の口から微かに色気のある声が漏れた。
何か気遣う言葉でもかけたかったが、俺の方もそれどころじゃなかった。
肌が……肌の触り心地が良すぎる……!
スベスベで……柔らかくて……なのにハリが合って、ほんのりと温かい……。
ボディソープ越しだっていうのに、しっとりと吸い付いてくるような感覚もある。
本当に自分が触っていても良いものなのかと、罪悪感を覚える程に心地が良い。
「……洗ってくれないの?」
背中に手を置いた状態で固まった俺を不審に思ったのか、光が様子を伺うように尋ねてくる。
「あ、いや……ごめんごめん。肌触りが良すぎて、ちょっと感動してた」
「大げさだなぁ」
「ううん、全然大げさなんかじゃなくて……触ってて気持ちいいし、ほんとに綺麗だから」
「………………ばか」
俺の率直な感想に、光は長い間を空けて短く“嬉しい”と答えてくれた。
「じゃ、洗うから……くすぐったかったり、気持ち悪かったら言って」
「ん……」
喉を鳴らすような短い了承を得て、手を動かし始めた。
ヌルっとボディソープが広がる感覚から一瞬遅れて、その肌の触り心地が伝わってくる。
肩甲骨の周辺から順番に、まだ触れていない未知の領域を開拓していく。
「ん~……他の人に背中を洗われるのって結構気持ちいいね」
言葉通り、気持ちよさそうな声で光が言う。
「分かる。自分で背中を洗う時って結構体勢がきつくて雑になりがちだけど、そこを全く気にしなくていいから楽っていうか」
「うんうん、目視で満遍なく洗ってもらえるしね。何か病みつきになっちゃいそうかも……んっ……はふぅ……」
トロンと言葉尻を蕩けさせている光。
この完璧な背中に、僅かな汚れも残せないと更に石鹸を広げていく。
「……なんか上手くない?」
「そう? 自分じゃ全然分からないけど」
「うん、上手い。もしかして、前にやったことある? 水守さんにとか……」
「いやいや、あるわけないから……」
「ほんとにぃ~……?」
「本当だって。光が正真正銘の初めて」
「へぇ~……そうなんだぁ……。私が黎也くんの初めてなんだぁ~……」
正直に答えると、前面の方からむふーっと満足気に息を吐き出す音が聞こえた。
見えていないけど、すごく嬉しそうな表情が浮かんでいるのがよく分かる。
「だから、そうだって」
「えへへ~……そういうの、なんか嬉しいね」
「よく分かんないけど、喜んでくれたのなら何より」
「じゃあ、これ以外にも実は初めてだったことってある?」
上機嫌さを隠すこともなく、身体を左右にリズムよく振りながら尋ねられる。
「初めて……女子との体験は大体全部そうだったんじゃないかな……。ゲームしたのも……一緒に買い物行ったのも……泊まったのも……告白されたのも……」
「手を繋いだのも?」
「ん~……多分そうかな。中学の時のフォークダンスの授業はなかったし」
「ふ~ん……じゃあ、チューも初めてだった?」
「……もちろん」
最初は頬に、その後には唇同士で。
あの初めての感覚を、克明に思い出しながら答える。
「ふ~ん……じゃあ私、黎也くんの初めていっぱい奪っちゃったんだ」
「奪うって……」
その大胆すぎる言葉の選び方に苦笑いする。
「違うの?」
「違わなくはないけど、それって普通は男が言う側じゃない……?」
「え? どういうこと?」
「いや、初めてを奪うとか奪わないとか……どちらかといえば、男の方が意識することな気がするけど……」
「ん~……そうなのかな。でも確かに言われて見れば、私からしても黎也くんに初めていっぱい奪われちゃってるよね。デートもお泊りもチューも……」
その時の記憶を思い出すように、光は視線を上げている。
自らの発言が、どんどん危険域へと踏み込んでいることに全く気がついていないらしい。
「あ、ああ……そうなんだ……」
「うん、嬉しい?」
「まあ、嬉しいというか……光栄というか……」
「あはは、なにそれ~。もっと普通に喜んでよ~」
屈託なく笑っている光の後ろで、弾けそうな何かを理性で抑え込む。
「でも、黎也くんにはこれからもどんどん貰われちゃうんだろうなぁ~……私の初めて」
「光……それはまじでやばいって……」
そんな俺の孤独な戦いを知る由もなく、彼女は次々とラインを踏み越えていく。
「ん? やばいって……何が?」
「何って……それは……」
ナニを想像して、ナニにリビドーが溜まるからなんて流石に答えられない。
一方の光は本気で意味が分かっていないのか、キョトンと首を傾げている。
「じゃあ、もう貰ってくれないの? 私の初めて……」
そのどこか寂しそうな甘い声に、感情の袋が限界寸前まで膨れ上がる。
「いや、もちろんこれからも出来れば全部一緒に体験したいとは思ってるけど……今ここでそういう話をするのは……」
「もしかして、黎也くんは初めてじゃないことがあるとかそういう話……?」
「いやいや、俺もバッキバキに初めてだから……むしろ初めてだからこそ、浮かれ気分のままにするんじゃなくて……もう少し慎重に、大事な思い出にしたいっていうか……」
「ん~……何、その謎掛けみたいなの……? ていうか、手止まってるんだけど~……」
「いや、それも……今、肌に触れるのは本当にやばいから……」
これ以上、ほんの僅かな刺激でも受けてしまえば止まらなくなる。
そう思ってあらゆる行動を制止していたが、それが逆に光の不信感を生んでしまった。
「も~……ちゃんと洗ってくれないと海の練習にならな――」
彼女が上体を捻って、こっちへと振り返ろうとする。
今は彼女の身体を見るのも、こっちの身体を見られるのもまずい。
こうなったら……南無三!
光が振り返るよりも先に、シャワーの温度調整レバーを一気に回した。
「きゃっ!」
急に出てきた温水に、光が声を上げて驚いた。
「ちょっと黎也くん、お湯にしたら海じゃなくなっちゃうじゃん」
振り返ろうとしていたのを止めて、光がシャワーヘッドを見上げながら言う。
「ごめんごめん。でも、身体を冷やし過ぎるのはダメかなと思って」
「も~……せっかくの海気分だったのに~……」
と、言いながらも少し顔を赤らめている光。
どうやら、互いにようやく思い出したらしい。
ここは海なんかではなく、俺の部屋の浴室であることを。
「でも髪の毛も洗いたい気分だったし、ちょうどいっか。後は本番で満喫すればいいし」
「じゃあ、俺は先に出るから後は自分で洗ってもらえれば……」
「ん……」
空想の開放感に浮かれていた反動か、少し恥ずかしそうに頷かれた。
ほっと安心したような、けれど少しもったいなかったような気分で浴室を出る。
脱衣所で身体を拭いていると、磨りガラス越しに肌色のシルエットが見えた。
さっきまで自分がそれに触れていたと思うと、妙な感覚がむずむずと鎌首を擡げる。
……とりあえず、しばらくネタには困らなさそうだ。
よく耐えてくれた自分の分身を、海パン越しに見ながら内心で呟く。
こうして、初めての夏で浮かれに浮かれた一日は俺の戦術的勝利を以て幕を下ろした。
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