24 呪的逃走
「呪的逃走譚ってご存知ですか」
布津が問いかけると、比較民俗学の講義でバーリー先生から習って、本も読んだという。講義だけですませないところが、この子のいいところだ。いや、ちょっとしたことばのあやというもので申し訳ない。うちのゼミ生は皆、真面目でいい子なのだ。布津は心のなかで他の教え子たちに言い訳めいた謝罪をする。
それにしても、バーリー先生か。名前と顔を出さなければ、日本語ネイティヴで通ると評判の准教授の名前に布津は笑う。布津が博士前期課程に進学した頃、この日本語と日本文化にやたらと詳しい碧眼の先輩はポスドクをやっていた。落語を聞いたことがないという布津に憤慨した彼が寄席に連れていってくれたことを思い出す。
「バーリー先輩の背中にはチャックがついていて、中をあけると長屋のご隠居が出てくるんだって学生時代の僕らも言ってましたよ」
布津のことばに教え子は笑う。
今でも、この子に副業関係を手伝わせるのは気が引けるところがある。
自分のような者に懐かなくとも、同世代で人気者になれるぐらいの快活さもあるし、なによりも周りの男が振り向くぐらいには愛らしい顔をしているのだ。
それなりに異性の視線にさらされてきた経験からか、人の視線に敏感になった布津だ。学内で彼女に向かう視線、ときに恋い焦がれるようなそれにも気づいていた。
だいたい、こういうものは普通は女性の方が敏感になるものではないのだろうか。
そのようなことを考えていた布津は自分が彼女の笑顔に見とれていること、つられて笑っていることに気がつく。ぎこちなく視線を外して、手元の
「三枚のお札、ですね」
昔話の名前を出した教え子のことばに布津はうなずく。札から視線をそらさないままに説明を続ける。
「そう、お札の呪力で小僧さんが山姥から逃げるやつですね」
怪物から逃げる際に何かを投げると、投げられた呪物が足止めをするという話は古今東西枚挙にいとまがない。
我々人類が共有する強力な物語である。
伝承という信仰装置で固められた物語は、この場合は祓い屋にとっての強力な武器となる。
「当然、この札はカミにも効くわけです。あなたに差し上げますから、必ず肌身離さず持っていてください。何かあったら、これを使って時間稼ぎをしてくださいね。僕が必ず助けに行きますから」
説明を終えた布津はようやく視線を教え子のところに戻す。
教え子は、頬にほんの少し朱をさして、それから不思議そうに布津を見る。頬を染めるのを知的好奇心の発露ととった布津の頬が自然に緩む。布津はだまって教え子の質問を待つ。
「それぐらいに、効果のあるものならば、普段から常備しておけば良いんじゃないんですか?」
「それがね、あしがはやいんですよ、この札」
布津はデスクの引き出しをまさぐる。
「サバみたいに言わないでください」
突っ込んでくる教え子に「血が出ますよ」と注意して、小刀を見せる。
指先を切って、札に血をこすりつけながら、小声で祭文を唱える。
少し青ざめた教え子が「痛くないですか?」と問いかけてくる。
「痛いですよ。だから、たくさん作りたくないし、それに血がこすれてかすれてしまったら、もう効果がない。というわけで、フダもサバも生き腐れというわけです」
冷蔵庫に入れなくても大丈夫ですからねという布津の冗談に教え子は笑ってくれなかった。布津は自分が彼女の笑顔を見たかったことに気がつき、自分のジョークセンスのなさを嘆く。
◆◆◆
夏休みは貴重だ。
秋になると入試が始まるから、論文なんて書いていられないよ。
先輩たちに言われたことを思い出して、布津はぶるっと身体をふるわす。天井を仰ぎ見てうめき、しばらくして立ち上がる。研究室のホワイトボードにアイデアを書きなぐる。
何かがひらめいたと思ったが、どうもそれはただの幻だったようだ。
ため息をついた布津の目に光が入る。
ただし、その光は学問に関係するものではなかった。
教え子に持たせた札、それと連動させるようにしておいた札が燃え上がっていくところだった。札の横に置いてあった大学近辺の地図の一点が黒い染みが広がっていく。
彼女の家のあるあたりだ。
どうして、こんな昼間から。
このような時間帯ならば、よほど不味い場所に行かない限り、昼間から脈絡もなくカミが現れたりはしない。昼間は人の時間だ。自分たちの時間ではない。
となると……。
今は考えているときではない。
布津は頭をふる。
足元に転がしておいた竹光に血を塗り込む。
鞘に納める。
大急ぎで居合刀袋に刀を突っ込むと、布津は外に飛び出した。
彼女の家は大学のそばだ。
一度送っていったことがあるから、知っている。
大きくはないが、しっかりとした造りの一軒家。
家の中に人がいたら、どうしようか。鍵がかかっていたら、蹴破ってでも中に入るのか。そんなことしたら、通報されやしないか。
この期に及んで布津はどうでも良いことを考えている。
切羽詰まった状況というのは案外、どうでも良いことが気になるのかもしれない。
どうでもいい心配のひとつは、とりあえず杞憂に終わった。
家の前にたどりついたときにちょうど玄関の扉が開いたからだ。
飼い犬の吠え声が聞こえてくる。
眼の前にいるのは、大きな犬の首にしがみついたワンピース姿の教え子だ。
「三枚めっ!」
彼女が指さした先は二階へ続く階段である。虚空に浮いた札、それに阻まれるようにしてうごめく灰色のぶよぶよとした肉塊。
まるで水死体のようなそれが手足をでたらめに動かすと、札がちりちりと燃えていく。
事態を把握した布津は刀を取り出すと、前に出る。
「バサラダイショ、バサラダイショ、コトワリの前で、シンジンザイのさいもん、リガイのフジョウ、リガイのカミ、リガイのケガレ、水流れるごとくはらいたまう。フルコトのりてねがい奉る。祓いたまえ、オンサンザンザンサク、オンサンザンザンサク、オンサンザンザンサクソワカ」
布津が祭文を唱え終わるのと、札が燃え尽きるのは同時であった。
抜き打ちで斬りつけた一撃が這い寄ろうとするものの左手を落とす。
頭が重いのか、がくりと頭をたれて、カミが転がる。
カミはヘドロのようなものを流しながら手のひらをなくした腕をふりまわす。
逆手に持ち替えた刀を突き刺すと、あたりに灰色の塵が舞いひろがっていく。正装しなくても祓えるレベルのカミで良かった。ほっとする布津に舌足らずな、それでいて生理的嫌悪感を引き起こす声が語りかけてくる。
「ホラショーナ、イーグラガ、ハジマルヨ」
消えかける前に何も入っていない眼窩を布津に向け、ふくれた舌をふるわせながら、カミは完全に塵となる。
刀を鞘におさめた布津はそこではじめて、自分が土足だったことに気がつく。
「ごめんなさい。靴を脱ぐ暇がなかったもので……」
次の瞬間、布津は教え子に抱きつかれていた。
怖かったのだろう。当たり前だ。自分は最初に襲われた時に腰が抜けて動けなかった。
本当に彼女は強い。
「大丈夫、僕がついていますから。でもね、あなたはいつでもこんなことやめていいですからね。すべて大丈夫、何の問題もありませんよ」
布津は口に出したことばと裏腹に彼女にそばに居てほしいと考えていた。
離したくないという自分でもよくわからない思いは、彼女の飼い犬に割り込まれなければ止められなかったかもしれない。
体をねじこんできた大きな毛玉に布津は感謝をし、同時に多少の恨み言を心のなかで繰り出すのだった。
「それにしても、あなたはワンピースも似合っていますね」
何を言っているのだろうか。布津は自分のことばのせいで頬を熱くする。
◆◆◆
幸いといって良いのか、わからないが、この日、彼女の両親は不在だった。
ただ、そこに乗じて上がり込むという行為はいかがなものか。
若かりし頃にやったことを思い出すと布津は赤面してしまう。自分は何を考えているのだ。どうも最近は調子が狂ってばかりな気がする。
彼女の飼い犬のポムはそのような布津の心を見透かしているかのようだ。常に布津と彼女の間に割り込むように動いている。
彼女の部屋はよく整頓されていた。
ベッドの上には大きなくまのぬいぐるみが座っている。小さな机の上には付箋を貼った書籍が数冊とノートパソコンが見える。壁に貼られた何枚かの写真、メダルを首からぶらさげた今よりもかなり日に焼けた教え子のはにかんだ笑顔。壁の上の方にはいくつもの表彰状がかかっている。
どうにも彼女は警戒心に欠けるところがある。
自分の魅力に気がつかずに、相手に近づくのは良くないことだ。
布津がそのような愚にもつかぬことを考えているのは、自分自身の心臓の鼓動を無視したいがためだ。
高校や大学に通っていた頃ならば、この鼓動もあたりまえのものとして受け入れられた。でも今は違う。どうして、自分の心臓はこれほどまでに高鳴るのか。
学生の学修状況を確認するために家庭訪問をしているだけだ。
布津の中ですかさずツッコミがはいる。
どこに家庭訪問をする大学教員がいるのだ。
あたりを見回し、彼女の好きなものを知りたいという誘惑を遠ざける。
犬とパソコンだけに集中する。
ただ、そのようなどこか不純な気持ちも彼女の説明を聞いている間に吹っ飛んでしまった。覚悟はしていたが、ろくでもない事態だった。
カミを操り、彼女を攻撃したものがいるのだ。
「ナルカミか……」
話に聞くだけで実際に対峙したことのない敵。同業者の成れの果て。
師匠の持ってきた案件は、どうにも面倒くさそうだ。
佐田さんには、文句を言ってやらなばならない。
布津はため息をつく。
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