20 ショウメイのこと

 マドレーヌはしっとりしていて、とても美味しかった。

 先生のことだ。

 どうせ、どこかの評判の店にわざわざ買いに行ったんだろう。

 「ぱさぱさじゃないでしょう?」

 先生が自分で作ったかのように自慢してくる。

 「多少長い話になるかもしれないから、美味しいうちに食べてしまってください」


 以前、先生が呟いていた「ショウメイ」という言葉の意味を教えてもらった。

 ショウメイは召命と書く。

 漢字で書いてもらっても、わたしには最初よくわからなかった。


 「最近はシャーマニズムとか古典的なネタをやる人少ないから、しょうがないですね」

 先生はそう言って立ち上がると、わたしの正面に見える扉の一つを開けた。

 先生が明かりをつけると部屋の中が見えた。先生の書斎らしかった。

 正面に見える机の上は整理されていてキーボードとモニタ、デジタルフォトフレームぐらいしかなかったが、壁に並べられた本棚にはびっしりとノートと本が並べられていた。

 先生が本棚の前で背表紙とにらめっこをしているときに、わたしはデジタルフォトフレームに映し出されては消えていく写真を眺め続けた。

 眺めてはいけないと思いながらも目を離せなかった。


 先生の背中が振り返ろうとした時にわたしはようやく流れ行く写真たちから目を離す。代わりにテーブルの下でにぎりしめた自分の拳を見つめる。

 「お待たせしました。これなんか、わかりやすい入門書ですね」

 先生が一冊の文庫を手に戻ってくる。

 にぎりしめた拳を開いて、受け取る。

 少しだけ手が触れる。

 先生がびくっと手を引っ込めた。

 どうしてそこで引っ込めるの?

 手が触れたぐらいで、びくりとするなんて、この人はわたしを避けているの?

 どうして、わたしの心にはこんな疑問が浮かんでくるの?

 今までだって手が触れることぐらいあっただろうに。


 先生はわざとらしい咳払いで、一瞬の気まずい沈黙を破ると説明をはじめる。

 「シャーマン自体はご存知ですね。超自然的存在と交信して力を発揮する霊能者です。たとえば、沖縄のユタや青森のイタコといったものがわかりやすいですね。さて、僕は霊と交信したりするわけではないので、シャーマンではない……いや、そこのところは厳密には今後もう少し定義から考えていかないといけないところなのですが……」

 先生は講義口調で説明を続ける。

 先生の副業である祓い屋は、シャーマンではないが、その成り方には似ているところがあるという。

 「シャーマン、漢字であらわすと巫女の最初一文字でカンナギとあらわします。どうやって、巫になるか、一つにここでお話する召命というものがあるのですね。これは、何かしら霊的存在に選ばれ、命を受け召されるというものです。この場合、基本的に巫には拒否権はありません」

 先生は机の上に置いた紙に「巫」という文字を書く。

 ゼミで話をふるときと同じようにこちらを見つめる。ゼミだと思うと気分が楽になる。

 先生はわたしが話についてきていると判断したのか、「巫」のうしろに「病」と書き足す。

 「巫病ふびょうというのは、召命を受けた者に起こる心身の不調です。これを拒否しても、待つのは狂気か死です。僕たちの場合は、カミに襲われるということですね。通常の巫病と異なるのは、誰かが、この場合、師匠でも弟子でもどちらでも同じでしょう――そう、誰かが召命を断ると、再度抽選がおこなわれることもあるところです」

 ここで先生は少し黙った。

 「この前、師匠と話したときに聞いたんですけどね、師匠の師匠は召命をうけた弟子筋を三度認めなかったのだそうです。そして、四度目の召命を受けたのは師匠で、この道に入った、と」

 先生が伝えたいことがわかった。

 わたしが弟子にならなければ、エリちゃんに弟子筋が回るということだ。エリちゃんも「召命」を受けた状態になっているが、まだどちらを祓い屋にするかは定まっていないらしい。

 ここで、わたしが嫌がれば、エリちゃんに再び何かが起こる可能性もあるということだ。

 「僕は嫌なんです。どちらも選びたくない。今、楽しいでしょう? これからも、もっと楽しくなります。怠惰な学生生活、恋愛、どれも楽しいもので、僕だって散々楽しみました。でも、あなたたちは若すぎる。孤独に過ごすには若すぎるでしょう?」

 先生が絞り出すように言った。

 書斎の机の上で光を放っていたデジタルフォトフレームの写真と絞り出すような声がわたしの中でつながった。

 一枚一枚切り替わっていく写真の中にはわたしと同じ年頃の先生がいた。

 講義室の隅の方で笑っている先生、酒瓶の転がる中で友だちと転がっている先生、白い剣道着と袴姿の先生、顔はわからないけれど、多分試合中の先生……美男美女としか表現しようのない男女、もちろん、男性は若い布津先生だ。

 フォトフレームの中に封じ込められているのは、先生の楽しい思い出なのだ。飲み会の時に笑いながら言っていた「一人酒」、「ここ数年ずっと独り身」といった言葉が頭の中で再生される。

 先生は副業を始めてから、孤独になってしまったのだろう。人ならざる者と命を賭して対峙する。身近なものにどこまで伝えられるのだろうか。身近なものを危険に巻き込まないでいられるだろうか。そのような思いの中で一人で生きることにしたのではないか。

 だからこそ、わたしたちを孤独にしたくないと思ってくれている。

 それなのに、わたしが抱いていたのは嫉妬だ。

 先生の昔の彼女とおぼしき素敵な女性に嫉妬している。先生がなくした大切な思い出に嫉妬している。

 わたしは、本当に嫌なやつだ。

 ぱちんと自分の両頬をはった。ゆっくりと息を吸い込む。

 中高と、トラックに入る時にいつもやっていたこと。

 音が消え、少しずつ頭の中がクリアになっていく。

 

 「先生、大丈夫。わたし、先生の弟子になるから」

 「でも、あなたはまだ……」

 わたしは先生の言葉をさえぎる。

 「若い、でしょ? だから、なんだっていうんですか?」

 「だからっ! これは一生にかか……」

 「だから、一生相棒でいてあげますよって言ってんですよ」

 「シマツというもの……」

 「始末に負えないってなんですか、わたしみたいな可愛い子前にしてっ!」

 わたしは先生が何かを言おうとする度に言葉を被せ続けた。

 内容なんてほとんどない。

 ただ、先生が最後までことばを紡がないように、邪魔し続けた。

 先生がことばを発するのをあきらめると、わたしも口を閉じる。

 次の言葉は邪魔できないくらいに短かったし、邪魔する必要もなかった。


 「ありがとう」

 先生はわたしの手を握った。

 ひんやりとした細長い指がわたしの両手を包む。

 顔が熱くなる。


 「どうして、あなたは真っ赤になっているのですか?」

 先生の形の良い薄い唇が言の葉をつむぐ。


 「……真っ赤になんかなっていません」

 わたしのことばに先生は答えない。

 目を覗く、すいこまれそうな……その瞳。

 ことばには出せないけど、ずっと心のなかで繰り返す。

 大丈夫。わたしが横にいてあげる、と。

 先生のことは、異性として好きだ。

 でも、今、そんなことを言ってはいけない。

 わたしは弟子として横にいてあげるから、先生には今みたいに笑っていてほしい。

 ただし、わたしのことはあまりからかわないでほしい。


 「……セクハラサイモン」

 ようやく繰り出せたことばに先生はまったくひるまずにやりと笑う。

 「あっ、先生、泣いてる」

 笑っていたドSが慌てて袖で顔を拭う。

 「うそ、です!」

 彼は美しい眉を少しだけ寄せる。

 からかうなら、やりかえしてやるから。


 ◆◆◆


 わたしは大学の近くに家がある。

 「ああ、大学に書類を忘れてしまいました」

 先生はそんなことを言って、家の近くまで送ってくれた。

 師匠は過保護気味かもしれない。

 でも、今はその過保護気味がとても嬉しい。

 そういえば、先生いや師匠のお師匠様というのはどういう人なんだろう。

 すっかり聞くのを忘れていた。

 真千子が喜びそうな渋いおじさまだったら、どうしよう。

 湯船の中でわたしは一人ニヤニヤする。

 先生の指の感触を思い出す。

 湯船の中で潜ってわたしは誰にも聞かれないことばを放つ。

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