18 打ち合わせ

 「ゼミ幹さん、今日はこのあと、お時間ありますか」

 ゼミの後、布津先生が声をかけてくる。

 今日はこれでおしまいですと答えると、先生はゼミ旅行の相談がしたいのでと告げる。

 「いいよ、あたしはこのあと部室行くし、サイモン先生とお仕事頑張ってらっしゃい」

 エリちゃんがにんまりと笑う。

 どうも、この子はわたしが布津先生に恋愛感情を持っているみたいな話を作りたがっている。

 わたしに彼氏がいないのは、別に布津先生に惚れているからではなくて、そもそも恋愛をしようという気が今はないだけなんだと言っても聞いてくれない。


 「行く地域と旅館は決めてあるのですけれど、他に色々なことを頼みたいのです。少し長くなりそうですから、ご飯でも食べながらというのはいかがですか?」

 新しく入れてくれたコーヒーの湯気の向こうで、先生がにこやかに笑う。

 ただ、にこやかではあるけれど、赤みがかった目には少し緊張したような表情が見えた。

 ただのゼミ合宿の打ち合わせというわけではないだろうなと思いながら、着いていった。


 「毎回、同じところで申し訳ありません」

 そう言われて連れて行かれたのは、何度か連れてきてもらっているビストロだった。

 先生がいつかおすすめしてくれたロニョンはいつもあるというわけではなく、わたしはまだ食べたことがない。

 ただ先生が毎回色々と教えてくれるので、少しだけ選ぶのがうまくなった気がする。

 キッシュを前菜に舌平目のポワレをメインに頼む。

 「今日は魚の気分ですか?」

 迷っていた先生は、わたしにつられるようにスズキのパイ包み焼きを頼んでいた。

 ワインはソムリエの人に勧められたのを白を頼んでいた。

 「先生、ワインも詳しいんですか」

 「いえ、まったく。だからね、プロにお任せです」

 気取らず、わからないことはわからないと言うのが、大人っぽくてまぶしくなってしまう。

 たぶん、同世代の男の子だと背伸びしてしまうに違いない。

 最近はこの人は素敵だと思ったら、それを否定しないようにしている。

 そのほうが、わたしの心臓ははりきらないということに気がついたからだ。

 ああ、この年上の完璧美男子に食事に連れて行かれてると、同世代の子とデートできなくなってしまうのではないか。

 わたしが将来、年上好みになってしまったら、それは絶対に目の前の人のせいだ。

 だいたい、|Ensemble pour Toujours《ずっと一緒に》なんて名前のビストロに女の子連れてきて、しれっとしているのだ、この人は。

 初めて連れてきてもらった帰りの電車で店名の意味を調べて赤面したことは今でも憶えている。


 先生はエビとアボカドのサラダを平らげると、美味しいですねと微笑んだ。

 「ゼミ合宿、行く場所は決めてあるのです。泊まる場所もまぁ、話がついています」

 先生がフィールドワークをおこなった地方の街にある知る人ぞ知る旅館だという。

 「高くないんですか」

 「高くないんですよ。知り合い価格というかタダなんです。君たちには申し訳ないのですが……」

 申し訳ないという言葉は、この文脈で普通、わたしたちに向けられない。

 向けられるということは……。わたしは、先生が言葉を続けるのを黙って待つ。

 「タダより高いものはないといいますが、今回は副業絡みなのです」

 そういうことか。

 ただ、そのような場所にわざわざ学生を連れていきたがるというのも変な話だ。

 「わたしたちを連れて行かないといけない事情があるんですね」

 「そうなのです。あなたたち、というか、あなたに来てほしいんです。僕たちの今後に関わる大事なことがあるので」

 ワインを口にしていなくてよかった。口にしていたら、どこか変なところに入って息ができなくなっていただろう。

 いや、なにも口にしていなくとも息苦しくなっている。

 この人は、たまにわたしをからかっているのじゃないかと疑ってしまうところがある。

 自分の顔の威力を知っているのならば、もう少し誤解されない言葉遣いをすればよいのに。

 「詳細については、後でお話をしますが、とりあえず、ゼミ幹としての仕事は発表順の調整と旅程表の作成といったところになります」

 二泊三日で着いた日は散策、二日目の朝から昼過ぎまで発表、その後、夕方まで自由行動、三日目チェックアウトというのが先生の希望だった。

 けっこうタイトなスケジュールだ。

 「自由行動や散策をなしにしたら、もう少しゆっくりとできるんじゃないんですか」

 「散策はフィールドワーク入門みたいなのも兼ねているので、外せません。自由行動も外せません」

 自由行動が外せない理由については答えてくれなかった。

 その後、しばらくはゼミ合宿とは関係のない話が続いた。

 ウェブサイト上には現れてこない先生の物語を聞くのはとても楽しい。

 それがたとえ、高校二年生のとき、アキレス腱を切ったという話であってもだ。

 先生の血液型がO型であること、「だから、ノリが良いんですね」と言ったが最後少々ムスッとした顔になって、「血液型と性格は結びつくものではなく、一つの俗信として見ると面白いかもしれませんが……」と講義めいた口調になるところも、ウェブサイトでは知り得ない先生の物語だ。

 講義口調になった先生をじっと見ていると、それに気がついて赤くなるところは、今、目の前にいるわたしだけに<語られる>愛おしい物語だ。

 デザートはクレームブリュレを頼んだ。先生が以前頼んだときの真似をして、上のカラメルを割る。

 先生が微笑む。

 彼の笑顔を見ると、なんだかとても穏やかな気分になった。

 

 その穏やかな気分は長続きしない。

 「少し言いにくいことなのですが……」

 デザートのあとのコーヒーを飲んでいるときに先生が切り出したのがいけないのだ。

 「このあと、僕の部屋に寄りませんか」

 心臓が口から飛び出したら、どうしてくれるのだ。

 わたしは当然のようにコーヒーを吹き出した。

 「いや、わかっているんです。このようなことを言えば誤解されかねないことは」

 先生もさすがに動揺するらしい。

 ただ、その動揺はどういうわけか、少し嬉しい。

 大学ではけっして見せないであろう姿、わたしだけにしか見せないあなたの姿。

 わたしは一人で誤解して嬉しがっているだけかもしれない。

 でも、今はそれでいい。

 先生の姿を見て笑う。

 笑っているのだから、涙がすこし出てもそれは不自然でもなんでもない。

 わたしは涙目でうなずく。


 ◆◆◆


 「実はね、僕、この近所に住んでいるんです」

 古くもなく、新しくもないマンションの三階に先生の部屋はあった。

 「先生のことだから、もっと見るからに格好良さそうなデザイナーズマンションとかに住んでいるかと思いました」

 「あなたは、僕のことをなんだと思っているんですか。この前まで食うや食わずやの生活をしていたやつがそんなに良いところに住めるわけないでしょう」

 先生が笑いながら、鍵をあける。


 2LDKらしい間取りの一室の居間はものが少なかった。

 ただ、キッチンには一通りの調理器具がかけられていたし、それは使い込まれたものであったから、いつも外食というわけでもないらしい。

 どこの家にもあるはずのテレビがある場所には講義室のようなプロジェクタスクリーンがかかっていた。

 「殺風景な部屋でごめんなさい」

 簡素なダイニングテーブルの前にしつらえられた椅子をわたしのためにひきながら先生がいう。

 今、この人、ごく当たり前にわたしのために椅子をひいてくれたよね。

 わたしの脳内がざわめく。嫌味なく普通にこういうことやれてしまう人なんだよなぁ。

 

 「先程飲んだばかりですが、もう一杯いかがですか」

 わたしの脳内でのざわめきなんか当然きこえない布津先生はカウンターに向かうと豆を挽き始めた。

 良い香りがこちらにも漂ってくる。


 「実はですね、今度、ゼミ合宿に行くところ、僕の副業の師匠の住んでいるあたりなのです。志佐さんには師匠に一度会ってほしいのです」

 コーヒーとマドレーヌを前に先生が話しはじめた話は、たしかに外ではできないような話だった。

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