15 青いブローチ

 後日、ゼミのあとに先生に呼び止められた。

 「この前、君が話していたテーマに関する本、僕、持っていました。当分、使わないと思うので、しばらくお貸ししますよ」

 本が入っているとおぼしき茶封筒を手に先生は言う。茶封筒はわざわざ糊付けまでしてある。

 廊下に出たところで、同級生がわたしの茶封筒を見て言う。

 「サイモンのラブレター?」

 「んなわけないじゃん? お勉強しろって、分厚い本渡されたのよ。仏じゃなくて鬼、ドS」

 わたしは答えながら、耳を触る。少し熱くなっているかもしれない。

 真っ赤になっていたらどうしようと思うと気が気でなかった。

 年上が好きというわけでもないし、先生は美形かもしれないが、好みでもない。いや、そもそも自分の好みの男性像というのもよくわからない。

 そんなわたしだから、今、彼氏が欲しいとかも思ってもいない。

 なのに、どうしてわたしはどきどきしているのだ。

 これじゃ、わたしが先生に恋しているみたいだ。

 でも、もしかしたら……やだ、わたし、バカみたいじゃないの。

 万が一にもありえない。

 今日はもう講義もない。

 はやく帰ってさっそく貸してもらった本を読もう。

 走るようにして、いや、走って家に帰った。

 飛びついてきた大きな毛玉を引き連れて、自分の部屋に駆け上る。


 茶封筒を開ける。

 もしかしたら、本以外になにか入っていたりするのかもしれない。

 でも、本だけだった。

 

 「なに、期待してるのかしらね、わたし」

 バカだよねといいながら、足元にいたポムに抱きつく。

 ふさふさの毛玉がわたしの顔をなめる。

 「君は本当に女ったらしだね、ポムぅー。わたしは君にメロメロだよ」

 ポムは今度はお尻を押しつけてくる。ふさふさの巻尾が左右に揺れて、わたしの頬を叩く。

 ひとしきりポムとじゃれたわたしは机の上に置いた本を開く。

 せっかく貸してもらったんだから、今度までにある程度は目を通しておかないといけない。

 そこでようやくページの合間からのぞくものに気がついた。

 栞というには、大きすぎる便箋。

 わたしは慌てて取り出す。

 先生の手書きの字なのだろうか。

 きれいな筆跡でお礼の言葉が述べられていた。

 最後に記してあったのは、「今度、お礼がしたいので、一度食事をごちそうさせてください」という言葉と先生の私用のメールアドレスに携帯の番号だった。

 先生の大学のメールアドレスや研究室の電話番号は学内で公開されているから、知っていた。

 でも、こっちは知らない。ゼミ生だって知らされていない。


 反射的にスマホを取り出し、番号を打ち込んだ。

 通話ボタンを押す直前でやめた。

 いきなり電話して、どうするんだって。


 話す内容を考えてから、三度ほど通話ボタンを押すのに失敗して、結局、メールを書くことにした。

 なるべく簡潔に、なるべく事務的に返事を書いた。


 一時間四三分後にメールの返事がきた。

 簡素かつ丁寧な文面でわたしの空いている日程をたずねるものであった。

 わたしは一時間かけて返事を書き、四五分送信ボタンを押さずに寝かせてから、返事をした。四三分で送信ボタンを押しそうになるのを我慢して、四四分では意地でも押さなかった。合計一時間四五分後の返信。


 ポムが散歩に行こうと誘ってくる。

 「ほんの少しだけ待ってね」

 そうささやいてから、わたしはベッドの上でごろごろ転がった。


 ◆◆◆


 さすがにジーンズではいけないと思ったので、数少ないスカートを取り出したら、少しだけよそ行きっぽい格好になった。

 先生はいつもどおりのスーツ姿だった。


 「そこまで気取った店でないから大丈夫ですよ」

 そう言って連れて行かれたのは、ビストロだった。〈アンサンブル・プル・トゥージュール〉というなんだか可愛らしい名前のお店で先生は慣れた様子で前菜、メインと注文する。

 とまどうわたしに先生はいくつかおすすめを教えてくれた。

 結局、先生のおすすめから選んだ。

 レンズ豆のサラダと牛の頬肉の煮込みだったけれど、緊張したせいで味はあまりおぼえていない。

 赤ワインのハーフボトルが出てきたが、こっちは緊張しなくても何もわからなかっただろう。

 「おすすめはできなかったんですが、ここはロニョンも美味しいんですよ。志佐さんは内蔵とかは大丈夫なほうですか」

 先生がそのロニョンとやらを口に運びながら言った一連のことばがいけない。

 「はい」と答えたわたしに先生は「じゃあ、今度、試してみてください」とか言うのだ。

 もう次の話が出てる。次もあるの?

 ワインがあってよかった。少し顔が赤くなっても、ワインのせいにできる。

 緊張がとけたのはデザートまで食べ終わり、コーヒーを飲んでいるときだ。


 「そういえばね……」

 思い出したかのように先生がこの前の夜の話をはじめたのだ。

 どこかぼうっとしてしまっていた


 「なんで、あんな形代が効いたのですか?」

 布津先生がわたしに質問してくる。

 わたしはカバンからスマートフォンを取り出すと、先生にいくつかのウェブサイトをみせながら、事情を説明することにした。


 スマートホン上では黒と赤基調のおどろおどろしく仕上げたウェブサイト、そこにはS大学の怪談、「招く人」の話が投稿されている。

 「されている」と書いたが、投稿したのはわたし(とエリちゃん)だ。

 実話怪談やウワサを集めたサイトに片っ端から投稿した。大学名をいれるときもあれば、ぼかして書くときもぜんぜん違う大学名をいれるときもあった。

 高校の時の同級生の牧田くんにSEO対策をしてもらって、とにかく、この手の記事が目立つようにした。

 同時に、チェーンメールっぽく、知り合いにばらまいた。

 知り合いや友人のなかにはわたしがおかしくなったと思った人もいたかもしれない。

 でも、仕方がなかった。

 わたしは他にやり方を知らなかった。


 こう説明したとき、先生は一瞬だけだけど、とても悲しそうな目をした。

 ひかれているのだろう。

 うまくいくかどうかもわからず、わけもわからず、ただ暴走したバカ娘が目の前にいるのだ。

 たまたま、うまくいったからといって、自分の行動がひかれるものであることぐらいはわかっている。

 わたしは平静をよそおい、説明を続ける。


 「それで、具体的にどのようにしたかというとですね……」

 

 ここで、投稿された話はすべて対処法が記されている。

 どのようにして「招く人」が誕生し、どのように対処すれば助かるのか。


 「招く人には、どうしても許せない人がいた。自分を騙し、恋人を奪い、仕事を奪った相手だ。ただ、招く人が復讐するには、もはや遅すぎた。絶望した招く人は自分をこの世から消し去ることで悲しみから逃れようとした。しかし、それはうまくいかなかった。怒りや悲しみが招く人をこの世界につなぎとめてしまったからだ。現世で何もかも奪われ、死んでも絶望から逃れられない招く人は、せめて、この苦しみを分かち合おうと、他の人を死へと招く。だから、形代を投げつけ、『ほら眼の前にあなたをここまで追いやった人がいますよ』と教えてあげると良いのだ。招く人は、形代から生まれた影を抱きしめ、消えていくから」


 もともとの話は死を選んだ原因も不明、なぜとり殺そうとするのかも不明であった。

 なにもかも不明な物語はただただ膨張し、暴走する。そして、先生の言葉を借りるならば、「カミとして顕現」するわけだ。

 だから、物語を与え、結末となりうるものをつけくわえた。


 「まぁ、神話にありがちな因果の説明ですね」

 先生がぼそっとつぶやき、そのまま続けた。

 「それに、カミへの信仰を削ぎ落とすためには有効な手段だ。しかし、それにしたって、普通はこうはうまくいかない。うまくいくわけないんです。あなただから、あなたじゃなければ……」

 先生は下を向くと黙ってしまった。

 わたしは泣きそうだ。

 もう一度、同じ状況になったら、まったく同じことをやる。

 そして、やっぱり、泣きそうになるのだろう。


 ただ、先生が下を向いたのは、ひいたからではなかったらしい。


 「本当にありがとう」

 先生はうつむきながら、小さな声で言った。

 「……ひいてませんか?」

 「ひいてませんよ。ここまでしてくれた人にひくほど、僕は人でなしではないです。ちょっと、色々と考えてしまったことがあっただけで……」

 わたしは現金なもので、そのことばを聞いた瞬間、なんだかとても嬉しくなってしまった。

 問題は悲しくても、嬉しくても涙が出てしまうことだ。

 先生があわてて、ポケットからハンカチを取り出した。

 「いや、ごめんなさい。泣かせる気はなかったんです。この埋め合わせをどうにかしないといけませんね……」

 この人を少し笑わせたくなった。

 わたしはハンカチで少し目元をおさえてから、顔をあげる。

 「埋め合わせ? そういえば、先生、ボーナスは?」

 「僕は四月に着任ですから、夏季の賞与はもらえませんよ。だから、冬まではなんとしてでも、しがみつかないといけません」

 先生がにやりと笑う。

 「さぁ、そろそろ出ましょうか」

 先生のことばに、わたしはわざと口をとがらせて、不満なふりをする。

 「そうだ」

 先生が思い出したように、上着のポケットをまさぐる。 

 「お菓子を差し上げようかと思ったのですが、僕は普段からよくゼミ生にお菓子あげているじゃないですか。だから、それではお礼にもならないかなと思いまして、かさばらくなくて、重くないものがいいかなと思いまして」

 そう言って、先生は小さな箱を机の上に置いた。

 「開けてもいいですか?」

 どうしてそんなことを言ってしまったんだろう。

 心臓が指に直に繋がっているようで、なかなか開けられなかった。

 心臓変なとこではりきらないで。

 やっとのことで、開けると今度は心臓は狂ったように私の顔に血液を送り込んでくる。中学、高校と陸上部で鍛えたわたしの心臓はまだまだ高性能らしい。

 中に入っていたのは、おそらく私の顔色とは対称的であろう青色の石をはめ込んだ小さなブローチだった。

 わたしはこの石が何かを知っている。

 

 「きれいなブローチ、ラピスラズリ……」

 「ご存知でしたか。ラピスラズリは今日こんにちのスピリチュアリズムの文脈でも重宝されているように、いくつかの文化で魔除けとして活用されることがあって……」

 「わたしの誕生石」

 ワインを飲んでも白いままだった先生の顔に一気に朱がさした。

 「ごめんなさいっ! 知らずに変なもの渡してしまって! その、変な意味はないんですっ!」

 動揺したところなど見せたことのない貴公子が、今、ものすごく動揺していた。

 多分、ここがチャンスだ。

 先生と話していると、やたらとどきどきしてしまう。

 でも、これは年上の男性に対する憧れなだけだ。

 だから、ここでふざけたじゃれあいという物語にしてしまったほうがいいんだ。

 そうすれば、わたしは心臓の鼓動を気にせずに話しかけられるようになるかもしれない。

 「先生、教え子の誕生石調べて、プレゼントですかぁ。えっ? わたしみたいな若い女性が好み、と」

 メモメモと手帳に書き込むふりをする。

 先生は赤くなったり青くなったりしている。

 「いや、これは偶然なんです。僕はそんな目であなたを……」

 それはそうだろう。少しだけ奥歯を噛みしめる。

 「どうせ、わたしは先生に見てもらえるようなきれいな顔してませんよ」

 赤くなっていた先生の顔がもとに戻った。

 「そんなことはありません。あなたはとてもきれいですよ」

 お世辞だとしても嬉しかった。少し気持ちがほぐれる。

 「先生は格好いいですけど、一回りも年下の女の子を狙う変質者、と」

 教員一覧に最近追加されたばかりの布津斎文ふつときふみ専任講師の紹介ページはここに来る前にしっかり確認済みだ。正確にはわたしより一四歳年上だ。牡牛座、こどもの日生まれの三四才。後期が始まる頃には一三才差になる。

 先生が真っ青になる。

 いい気味だ。

 でも、ちょっとやりすぎたらしい。

 先生は、わたしがふざけていることに気がついてしまったようだった。

 「ああ、そうでしたか。志佐さんは、僕という美男子を前にして、気もそぞろになってしまったのですね」

 それ、自分で言うの? 悔しかったが、「自分で自分のことを美男子なんて言うな」なんて言えるわけがない。

 先生は本当に格好いいのだ。

 眼の前にいる細身の男性はやや赤みがかった瞳でわたしをじっと見つめる。

 「そうそう、ここ、美味しいでしょう。また一緒に来ましょうね。そのうち僕たちの今後についても話さないといけませんしね」

 絶対にわたしの顔は赤くなっている。

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