09 恵利元道子の受難

 部室でノートパソコンを広げていたら、随分と遅くなってしまった。

 涼くんは同窓会があると言って帰省している。

 ゴールデンウィーク中は実家にいるらしい。

 さすがに彼もおいでよとは言ってこないし、あたしも行きたいとは言えない。

 お互いのアパートとそれぞれの実家は違う。

 まだ、あたしたちの関係はそこまで深くなっていない。

 といっても、お互い一人暮らしだと、どうしても半同棲みたくなりがちだ。

 だから、たまにはこういうのもいいかもしれない。

 ゼミの課題レポートに追われまくったから、そして、そのときの穴埋めとして涼くんとたくさん過ごしたから、サークル活動がおろそかになってしまった。

 あんまり熱心な部員ではないけれど、それでも部誌に出す作品ぐらいは書きたい。

 文芸部のおとなしい女の子がつきあいはじめた彼氏と情欲に溺れる話みたいなのを書いたらどうなるかな。

 作品と作者を切り離せない読者が妄想にふけることだろう。

 三行ほど書いたところで、ファイルごと削除する。

 作品と作者を切り離せていないのは自分だ。何も思いつかない自分を棚に上げて、八つ当たりしているようなものだ。

 ……ああ、もう今日はだめだ。

 帰ろう。ぐっと背伸びをした。

 

 スマホを見ると、すでに二二時を過ぎていた。

 女子大生が一人でこんなところにいるような時間ではない。

 早く帰らなくちゃ。

 明り取りの窓からのぞくと、サークル棟の廊下は電気こそついているけれど、他の部室はほとんど真っ暗だ。

 どういうわけか気味が悪い。

 手早く荷物をまとめると、戸締まりをする。

 階段を駆け下り、一階入り口近くの集合ポストに鍵を放り込む。

 外に出ると少しだけほっとする。

 気味悪くなったのはどうしてだろう。

 ああ、最近、嫌なウワサが流れているからだ。


 ◆◆◆


 毎年、ゴールデンウィークあけにキャンパスから人が減る。

 不謹慎なウワサでゴールデンウィークは、自殺が増えるというものがある。

 キャンパスの外で、キャンパスの内でキャンパスライフに苦しみを抱えてしまった人々が命を断つのだ。

 布津先生、民間信仰と流言ウワサの関係をメインの研究テーマとしているイケメン先生にこの前質問したことを思い出す。

 あの頃は、まだ嫌なウワサは流れていなかった。


 非業の死を遂げた者が幽霊となるのは学校の怪談系の話でもそこそこ出てくる。

 「大学でも、そういう話が怪談になったりはしないのってなんででしょう?」

 先生は腕組みをしてから少し考え込んでから話し始める。 

 「大学は……そうですね。むしろ、小学校や中学校よりも死が身近だからなのかもしれません。多感な年頃ですし、大学院生や修了者ポスドクの置かれた環境は過酷です。実際、僕も身近な……」

 先生は言い淀んでから、「音信不通まで数えると、もっと多いですしね」と言葉を継いだ。

 「妙な話ですが、ブラック企業や反社会的勢力といったコミュニティを舞台にした怪談は案外ないものです。大学もまた案外、死が身近にある場所、当たり前だからという仮説をたてることもできるでしょう」

 先生は微笑んだ後に、独り言のようにつぶやいた。

 「でもね、それは案外ただの幸運の積み重ねなのかもしれません」


 嫌なウワサが流れ始めたのは、それからしばらくしてからだ。

 幸運は続かなかったんだ。

 

 「今年は本当に出たらしいよ。それもすでに三人」

 どこから出たのだろう、その数字は。

 「今年は立て続けに起こるらしい。それも場所が近いんだって」

 広大な原野に建てられたような大学ではないのだ。さほど広くないキャンパスで場所が近くなるのは、十分あり得るじゃない?

 あたしは、その手の話を聞く度に心のなかで、時には実際に口に出してツッコミをいれてみたが、反応は芳しくなかった。

 「やっぱり呼ばれるんだって」

 なにが「やっぱり」なんだろう。

 「女の子がさ、手招きをするんだって。で、着いていくんだけど、風が吹いたときに気がつくんだって。首筋に真っ赤なロープの痕がついていることに」

 「あれ、屋上から落ちてきた人が、這ってくるって。足が折れちゃってるから、肘で必死に身体を進めて、それで足首をつかむんだって」

 「うわ」

 「まじやばい」

 「寂しくなるから呼ぶんだって」

 「会ったら最後、自分の手が勝手に動いてロープを」

 「足が自然と屋上に」

 

 なんか嫌だ。

 

 ◆◆◆


 夜の構内は最低限の照明しかつけられていない。

 仄暗い中、歩いている最中に、あの嫌なウワサを思い出してしまう。

 やだ、本当に嫌。

 文学部棟の横を足早に歩き去ろうとするとき、カンカンという音がした。

 文学部棟の脇には非常階段がついている。

 昔はタバコを吸う人たちのたまり場になっていたというけど、今は構内全面禁煙なので、普段から人なんていない。

 ましてや、今は夜だ。人がいるなんておかしいのに、非常階段を駆け上っている男の人がいた。

 真下に来た時、自分の名前を呼ぶ声がきこえた。

 「オーイ、ミッチャーン」

 嫌いな呼ばれ方、小学生の頃、有名なわらべうたを集団登校の時に歌われ続けて嫌になった呼ばれ方。

 ここで、あたしのことをみっちゃんと呼ぶ人はいない。

 嫌だ。気持ち悪い。

 そう思いながらも反射的に見上げてしまった。

 見知らぬ男の子が上でにこにこしながら手をふっている。

 彼は非常階段の柵によじのぼり……ぼとりと落ちた。

 悲鳴をあげることはできなかった。

 駆け寄りながら、カバンにいれたスマホを手探りで探す。

 はやく連絡しなくちゃ。

 指が震える。

 暗くてよく見えないけれど、男の子の足は明らかに変な方向に曲がっていた。

 「大丈夫っ?」

 大怪我しているのに大丈夫なわけない。それに痛くてたまらないときに、返事なんて返ってくるわけがない。

 それなのに、男の子は返事をした。

 「ダイジョーブ。サァ、イッショニ、トボッ」

 男の子が陥没した頭をこちらに向け、目から何かを流しながら笑う。

 スマホを取り落とす。

 今度は悲鳴をあげられた。

 でも、悲鳴に応えてくれるものはいない。今、目の前に迫ってきている男の子以外は。


 落としたスマホを拾おうとしたのがいけなかったのだろう。

 我ながらバカだと思う。

 足首をものすごい力でつかまれた。

 引きずられていく。

 あたしはどちらかというと小柄な方だけど、それにしてもすごい力だ。

 スカートがまくれるのも気にせずに蹴りつけたけど、ずるずると非常階段のところまで引き寄せられていく。

 「サァ、ノボロウヨ」

 登らなくてはいけない。

 登って、それから柵を乗り越えて跳ばなきゃいけない。

 どうして、あたしはこんな簡単なこともわからなかったのだろう。


 スカートをきれいになおすと、非常階段に歩みを進める。

 彼が手をひいてくれるから安心だ。

 それなのに、彼の手が目の前でぽとりと落ちた。


 どこかで見た気がする顔がよくわからない詞を唱えながら、刀を構えていた。

 あたしを優しく導いてくれる彼の顔が苦痛にゆがむ。

 彼が可愛らしく陥没した頭を振ると、目がぽろり、愛らしく飛び出した。

 彼が叫ぶ。

 「オマエナンカシンジャ……」

 彼は話し終えるまもなく、首をはねられた。

 塵のように、あるいはモヤのように薄れていく。


 ああ、あたしは何に手を引かれていたの。

 もう一度悲鳴があがった。


 布津先生はあたしの頭をそっと挟むと「大丈夫。もう恐ろしいものは消えましたよ」とささやく。

 あたしは先生に抱きついて泣いた。

 先生はあたしに謝り続けた。


 先生はタクシーを呼ぶと、あたしを乗せた。

 運転手に何事か告げてから、タクシー代をくれた。

 「本当にごめんなさい」

 どうして謝るのかは、やっぱりわからないけど、家には帰れた。


 先生がくれた御札みたいなものをドアの内側に貼る。

 熱いシャワーを浴びる。

 鏡にアレが映ったりはしない。御札をはったから大丈夫。

 でも、あたしの足首には指でつかまれた痕が残っている。

 あたしは部屋から出られなくなった。


 ◆◆◆


 「大丈夫。気にしないで」

 「あなたが原因ではないの」

 涼くんにメッセージを送る。

 自分が嫌われたとか思ったりしないでほしい。

 彼にも嫌われたくない。

 でも、今は会えない。

 あんなことは話せない。誰にも話せない。

 怖い。

 布団をかぶったとき、ドアホンが鳴った。

 外には友だちのふみちゃんがいた。

 後ろに痩せた男の人がいる。

 ふみちゃんに彼氏はいないはずだ。


 「ふみぃと……後ろの人はだれ?」

 ふみぃは後ろを向いて何かを呼びかける。

 ケーキの箱のようなものを下げた人がカメラを覗き込む。

 長髪のきれいな男の人、あたしたちのゼミの先生、先日、わけのわからないものから救ってくれた人がそこにいた。

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