12 夜の散歩

 夕方一七時半、ポムにハーネスをつける。

 ふさふさの尻尾がぶんぶんと揺れて、わたしの頬をたたく。

 そういえば、どうしてあのときポムは公園に行きたがったのだろう。

 布津先生はいったい何者なのだろう。

 わからないことがたくさんだ。


 公園に入ると、ポムは再び蓮の咲いていた池に向かう。

 もちろん、今の時期はもう花は咲いていないし、恐ろしい噂話も消えた。

 思い出すこともあるが、不思議と恐怖を感じない。

 

 池のほとりに長身の人影が見えた。

 先生は昨年の初夏の晩のような狩衣姿ではなく、大学で会ったときの服装そのままだった。

 暑さのせいか、白いシャツの袖をまくっていた。

 血管の浮き出た、意外にも鍛えられた腕が見える。

 ポムが尻尾を振り回した。


 「奇遇ですね」

 さも偶然会ったかのような口ぶりで先生が挨拶をすると、ポムを撫でた。

 犬を撫でたいというのは、本心だったようで、ものすごく嬉しそうにポムを撫でている。

 「犬、好きなんですか?」

 「ええ、大好きなんです。でも、父は転勤が多くてね、飼ってもらえませんでした。この仕事も出張が多いから、犬を飼う日はいつになることでしょう」

 それにね、と先生が続ける。

 「秋田犬というのは、一種の禍除け的な力を持ちます。僕のやってること、あなたが知りたいことにもぴったりですよね」

 秋田犬の原型ができたのと前後して、盗賊除けのお守りとして犬の細工を飾る行事ができたと先生が説明をした。


 「先生は何者なんですか?」

 単刀直入に聞いてみた。

 先生は池の横のベンチを手で示す。わたしが会釈をして座ると、横に座った。

 「ただの研究者ですよ」

 「……」

 「ひょんなことから祓い屋めいたことをやるようになってしまっただけです」

 「ひょんなことって?」

 先生は質問には答えない。

 「さて、志佐さん。まずは復習からはじめましょう」

 先生は教師っぽいことばをくりだした。まぁ、先生なんだから当たり前といえば、当たり前だ。

 「怪異がどうして具現化すると思いますか? あるいはこう質問しても良いかもしれません。怪異というのは、そもそも何なんでしょうか?」

 わからないからこそ、怪異なのではないだろうか。

 先生の説明は、以前にきいていたけれど、それでも実感はわかなかった。

 それなのに、わかりますとはなかなか言えない。

 

 「……わかりません。どうして、実際に現れるか……それがわからないから怪異なんではないでしょうか。やっぱり、わたしにはそうとしか思えないんです」

 正直に答える。

 「そう、そのとおりです。ところで、志佐さんは何か信仰をお持ちですか?」

 わたしは首をふる。もちろん、お寺にお墓があるが、その宗派になにかしらの信仰をもっているわけではない。

 この先、結婚することがあって、相手の家の宗派が異なると言われても、大抵の場合、気にならないだろう。

 結婚相手が見つかるか、それ以前に誰かを好きと言えるかのほうが気になる。

 

 「神や仏は人々の思いの結晶です。人々の信仰があるからこそ、奇跡めいたものが観測される。怪異もまたそうだと僕たちは考えています。ほら、一つ目小僧は神の零落した姿というでしょう。もちろん、民俗学の文脈とは違うのですが、やはり怪異は一種のカミなのですよ」

 一種の「カミ」というとき、先生は両手でピースサインのようなことをする。「いわゆる」、つまりカッコつきの発言だということだ。

 

 「でも、わたしは怖いものを信仰したりしていない。それに信じてもいないです。先生の説明はわかるけれど、実感が……わきません」

 怪異に襲われた今でもそのような気持ちはあまり変わっていない気がする。蓮の女、あれは悪夢でも見たのではなと思うことが今でもある。

 眼の前にいるこの人、怪異を斬り、わたしを救ってくれた人もどこか夢の中の存在のような気がする。

 美しい祓い屋がすんでのところで救ってくれる。それはなんだか昔読んだ漫画の一場面みたいだ。

 漫画を思い出したところで、美しい祓い屋と結ばれるヒロインのポジションに自分が居座っていることを思い出し、顔が熱くなった。

 この人は本当にきれいな人だけれど、ずいぶん年上のはずだし、そもそもわたしは彼に恋愛感情みたいなものをもっていない。同じ学科の女の子たちの一部みたいにキャーキャーいうような気持ちすらなかった。

 なのにどうして? ありえない。 でも、もしかして……。

 

 「そんなことはありえない。でも、万が一。そう思いませんでしたか?」

 「えっ、まさかわたしが先生となんて……」

 自分の心の声を見透かされたような返答にわたしはしどろもどろになる。

 先生はわたしのしどろもどろの原因がわからずにきょとんとしている。わかられたら困る。

 「あの、万が一ですよね、万が一。たしかに怪異が襲ってくるなんてありえない。でも、もしかしたらって気持ちはどこかにあると思います」

 「そう、ありえないことだとわかっていても、どこかで僕たちは恐れや不安をいだいてしまうことがある。普段は一切気にならなくても、時間帯、場所、それまでの経験、様々なものを総合して、恐れる、気味悪がる。それらがカミにとっての信仰となり、彼らを顕現させるというのは先にも言ったとおりです。実は、詳しいメカニズムはわかりません。結局のところ、カミは我々が捉えきれないからこそ崇めたてられ、畏れられるわけです。先日、この池のほとりに現れて、あなたを襲ったカミは、人々の噂の中で育まれ、皆の恐れの中で力を増し、あなたの恐れを喰らい、さらなる力をつけようとしていた。人々の無意識的な『信仰』をときほぐし、カミの力を弱めたり、さもなければ斬ったりするのが僕たちのやっていることなんですよ」

 先生は一息つくと、「さて、このようなコンテクストにおいて近代化と……」と続けたところで苦笑いした。

 「なんだか、講義みたいになっちゃいますね。いけないいけない。とりあえずは構内にカミは顕現してしまっているわけです。ウワサの再生産はカミのための供犠を捧げているようなものです。だから、怪力乱神を語らずということになるのですよ」

 先生はそう言うと、ポムを再び撫で回した。

 「これから公園の中を散歩ですか。僕も一緒に少し歩きましょう」

 散歩の再開を理解したポムがぶんぶんと尻尾を振った。

 

 ◆◆◆


 恐怖やウワサはカミの糧となる。

 そのような話を聞いてからは、構内に現れるという「招く人」の話には極力関わらないようにしていた。

 話題を振られても、「研究対象として面白い」、「小・中学校でもないのに学校の怪談とかね」と答えるようにしていた。

 先生も半世紀以上前にフランスで社会問題化したウワサ話の流行とその後の研究について解説をしながら、ところどころでウワサを解体しようと試みているようだった。

 

 「たとえば、オルレアンのうわさでは真っ向から否定してもそれが聞き入れられないことがあったわけです。となるとうわさ話を収束させるにはどうしたら良いでしょう?」

 先生は講義室でわたしたちに問いかける。

 とはいえ、誰かを当てたりはしない。

 講義は淡々と進めるタイプだった。

 去年の代講で、この人が仏の一人であることは皆が知った。

 出席もリアクションペーパー一枚に一行感想ですんでしまう。まず、仏を求めてさまよう学生たちが消えた。

 結局、講義室にいるのはゼミ生と真面目な学生と先生の(容姿の)熱心なファンだけである。

 ゼミでは親しみやすくとも、講義のときは(自分から質問に行かない限り)そっけない先生なので、「サイモンは観賞用」という扱いになっている。

 先生の容姿を見飽きた学生もいたようで、出席者はさらに少しずつ減っていった。


 ウワサのほうもじわりじわりと減っていけばよかったのだが、そうはならなかった。

 それどころか、ゴールデンウィーク後に長いこと姿を見せない学生は実はもう「招かれてしまっている」などという話まで出てきた。


 先生とはその後もたまにS公園で出会うことがあった。

 どうもS公園を散歩するのが好きらしい。

 ある日、先生はポムを撫でながら言った。


 「やっぱりねぇ、斬るしかないんですけど……僕、自信ないのですよ」

 先生は暢気そうに言う。

 「だってねぇ、講義でもお話しましたけど、人々が物語を受け入れたからこそ、ウワサは流れていくわけです。そして、人々に好まれる物語を別の物語で消すのは至難の技です。打ち消すための物語は、大抵の場合、面白くない。人々に好まれないですからね。カミと信仰って観点から語ると、信仰を得たカミは顕現するのが当たり前なんです。僕たちがやっていることは大河の流れに必死に抗っているに過ぎない。局地的に勝てることはあっても、ただ、それだけ」

 「怪異を退治できなかったら、どうなるんですか?」

 「まぁ、とり殺されちゃうでしょうね。志佐さんに骨でも拾ってもらわないといけませんね」

 「縁起でもないこと言わないでくださいよ」

 「まぁ、でも僕がとり殺されちゃったら、カミの物語はさらに悪い方に続いてしまうはずですから、骨なんて拾いにこないほうがいいですね」

 先生は笑いながら言うと、ポケットから小さなノートを取り出した。

 ペンを走らせたあとに、破ると、わたしに渡した。

 「これ、僕の師匠、もちろん、本業のほうではなくて、祓い屋のほうの師匠の連絡先です。僕が行方不明になったら、『招く人』の話と僕が失敗したって伝えてくださいね」

 わたしが黙っていると、先生はポムの額をマッサージしながら続けた。

 「万が一、万が一ですよ。もう少し様子を探ってみるつもりだし、ボーナスももらっていないうちに死んだりできませんって」

 人生で初のボーナスなんですよと先生は子どものように笑った。


 ◆◆◆


 ウワサ、「招く人」の物語が語られれば語られるほど、カミは力を増し、恐ろしい力をもって顕現する。

 物語が続く限り、カミの饗宴は終わらない。

 物語、物語、物語。

 そう、物語という言葉になにかのヒントがあるんだ。

 縁起でもない言伝を頼まれてしまったせいで、わたしはウワサが頭から離れなくなった。

 といっても怖がったりするわけではない。

 怖がることがカミに力を与えるわけで、少なくとも怖がりさえしなければ、そして夜中まで大学に残るような怖くなってしまいそうな状況に自分を置きさえしなければ、今のところ、招く人に招かれる危険性はなさそうだ。


 蓮の女は先生が斬ったあとに、姿を消した。

 姿を消したというのは正確ではないかもしれない。

 物語がかわった。

 蓮の女に出会っても、呪文を唱えれば逃げていく。

 だから、怖くない。怖いけど、怖くない。

 わたしたちが、どこにでも現れる口裂け女に怯えないで済むのは対処法を知っているから。

 蓮の女というカミも対処可能なものとして封じられた。

 物語を変えてしまえばいい。

 斬るというのは、一つの物語の変え方なのだろう。

 祓い屋が祓いましためでたしめでたしという物語。わたしが救われた物語。

 人々の信仰を集めたカミガミが相手で斬りすてるのが難しいのなら、どうすれば良いのか。

 わかりそうでわからない。

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