06 怪異を斬るヒト

 気がつけば、肌をぬらりと光らせた女が池のほとりにうつぶせになっていた。

 長い黒髪で顔はほとんど隠れている。

 ただ、大きく開けた口だけ赤く光った。不自然なまでの赤い口。まるで血に濡れたかのような真っ赤な口。


 「ネェ、タスケテ」

 顔を隠すようにかかった髪の隙間から私を見つめる黄色い瞳。


 女が悲鳴のような甲高い声をあげながら、身体を起こした。

 ところどころに傷跡のある白い身体。

 顔はよく見えないのに、どういうわけか、汚れた長い爪が地面に刺さりはがれるところは、はっきりと見えた。

 女は悲鳴を上げながら、四つん這いで走ってくる。


 ポムがわたしの前で背中の毛を逆立てながら激しく吠え立てる。

 わたしは彼の首をしっかりと抱きしめる。

 いくら、君が強くてもあんなのに向かっていったら殺されちゃう。そんなのはイヤだ。

 逃げることもできない。かばうこともできない。

 ただ、ポムにすがりつきながら、座り込む。

 四足で泣きわめきながら疾走してくる女から目を離すことができない。

 赤くぬらぬらと光る口と髪の合間からのぞく黄色い目だけよく見える。

 できの悪いアニメのようにぎくしゃくと不自然な動きでこちらに近づいてくる不気味な女を見ることに耐えられず、ポムの首に顔を埋めようとする。


 そのとき、人影がすっとわたしたちと女の間に割って入ってきた。

 人影は「バサラダイショ、バサラダイショ」からはじまる奇妙な呪文を唱えながら、形代のようなものをばらまいた。

 走り寄ってくる女の動きが少し遅くなる。

 わたしたちの前にすっとたった黒い狩衣の人は腰に帯びていた刀のようなものを抜いた。

 長い刀身が青く光った。

 狩衣姿は蓮の女に走っていくと、長い刀をすくいあげるように振るった。

 悲鳴のような叫びがとまり、女の首は中へと舞った。

 黄色い目の輝きが失われていき、塵のように女の首は消え去った。

 地面に目を戻したとき、蓮から這い出てきた女は跡形もなく消え去っていた。


 「大丈夫ですか?」

 狩衣姿の人がわたしに声をかけてきた。

 姿だけではわからなかったが、男性の声だった。

 男が振り返る。

 淡く輝く刀身をもつ刀を下げた男と目があった。

 

 闇夜に溶け込むかのような黒髪と対照的な真っ白い肌、切れ長の目の中は髪とは異なり赤みを帯びている。

 やや長身で痩せた体と細長い手足は執事の服でも着せたら、さぞかし人気がでることだろう。わたしは同級生の顔を何名か浮かべる。みんな、絶対通い詰めるに違いない。

 でも、男が着ているのは三つ揃えのスーツではなく、黒い狩衣かりぎぬだ。

 わたしが動けないのはさきほどまで眼前にあった恐怖のせいか、それとも眼の前の怪しくも美しい男に魅了されてしまったせいなのだろうか。


 「森の王?」

 わたしはこの前の講義で聞いた話を思い出した。

 抜き身の剣を片手にネミの森を徘徊するディアナの司祭。

 彼はわたしが見たこともないディアナの司祭のようだった。


 狂気に満ちた美しい司祭の化身はわたしの言葉に微笑む。


 「もし、僕の力が弱ったら、あなたが私を斬ってくださいね」


 愛犬のポムが尻尾をふって答えた。


 ◆◆◆


 狩衣姿の男の人はわたしとポムを公園の外まで連れて行ってくれた。

 彼はよくよく見ると、以前、学食で話した美しいけれどおかしな印象を与える人だった。

 公園の入口までの道のり、彼は一言もしゃべらなかった。

 ただ、わたしの手を引いてしずしずと歩いた。

 ひんやりとした細長い指がわたしの手を握っていた。

 不思議とどきどきしたりはしなかった。ただ、わたしは安心していた。

 公園の入口で彼は振り返った。

 

 「今日はあなたたちは何にも出会わなかった。でもね」

 狩衣姿の人は美しい顔に柔和な笑みを浮かべる。

 「この先、蓮の上の怪異に出会うことがあるかもしれません。そのとき、バサラダバサラダと唱えれば、怪異は逃げていくでしょう。なぜなら、怪異は昔そのような呪文を唱える祓い屋にひどい目にあわされたことをおぼえているからです」

 よくわからない話だった。

 蓮の女と出会ったのは今夜のことだったし、それを今しがた目の前でこの男の人が斬ったのだ。

 疑問をうまく言葉にできないでいると、男の人はウインクしてわたしたちを公園の外に送り出した。わたしはロボットみたいなかくかくとした動きで会釈をすると、ポムと家に向かって歩き出す。振り返ると、男の人が闇の中に歩み去っていくのが見えた。

 帰り道はポムは普段通りのいい子に戻っていた。


 ◆◆◆


 不思議なことに、あの後、少しずつS公園の怪奇現象にまつわる話は収束していった。

 蓮の女に出会ったらバサラダバサラダと唱えろという対処法をひろめたのはわたしではないと思う。そんな話をどこかで聞いたよくらいは言ったかもしれない。けれど、本当に蓮の女に襲われたこと、そのとき助けてくれた人がいたこと、そんなことは一言も話していない。そんなことを話したら、みんな、わたしのことをおかしくなったと思うに違いない。

 でも、いつのまにか、対処法はひろまっていたし、蓮の女は、口裂け女のような怖いけれど、大学生が本気で怖がったりはしない存在に変わっていた。

 夏休み直前の熱に浮かされたような怪談話が嘘のようだった。

 そして、夏休みが終わる頃には、蓮の女自体が語られず忘れ去られていった。


 ◆◆◆


 夏休みの間に、民俗学の先生が一人亡くなった。

 電子版のシラバスが直前に差し替えられること、代講の非常勤講師が担当することが学内メールで通知された。

 一番前列で並んで座っていたエリちゃんとわたしは入ってきた講師の姿を見て、顔を見合わせた。

 布津斎文という読めない名前の先生はきれいな黒髪を無造作に触ると無駄に爽やかに自己紹介をした。女の子たちがため息みたいなものをもらすのが聞こえた。わたしたちはたぶんため息をもらしていない、と思う。

 「フツトキフミです。大抵の場合はサイモンと読み間違えられます。だから、自分でもそう名乗ることもあります。どちらでもどうぞ」

 若く爽やかな美形の青年講師として、後期の講義室に女子学生の見物客を集めたのは、わたしを蓮の女から救ってくれた狩衣の人だった。

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