第1話 蓮の上の首
01 雨の匂いのする教室で
雨がちな六月ももうすぐ終わる。
わたしは雨の匂いのする教室で講義を受けていた。雨の匂いは好きだけれど、大勢の人と雨が重なると、ちょっと嫌だ。地面から立ち上る湿気と人々から立ち上がる湿気が混ざり合ってむせかえるようだ。高校生のとき、男子が着替えてる教室のにおいはこんなふうだった。
人類学講義Ⅰ、「人類学以前から黎明期」という難しげなサブタイトルのついた講義の出席人数は大分盛り返してきた。
というのも試験が近いから。
講義担当の田中先生のあだ名は阿弥陀如来だ。
出家できないではなくて、出席できない者がいても気にしない仏。
そして、お経か真言のように眠気を誘う声で話す仏?
彼のもとには救いを求める者たちが集い、四月の第一回講義のときは大教室で立ち見が出るくらいであった。後々知ったことだけど、どうやら、別の学部にも解放されているらしく、単位稼ぎに最適と言い伝えられているのだという。
「この人数で出席を取っていたら九〇分それだけで終わりますね。リアクションペーパーや出席票提出にしても……ティーチングアシスタントが死んじゃいますし……うーん、出席は目視でとりますね。はいっ! 全員出席」
二週目になるとその数は三分の一以下に減った。
「うん、全員出席」
その後もものすごい勢いで減り続け、この前などは広い講義室にいたのは先生含めて一〇名、諸行無常の響ありと琵琶をかき鳴らしたくなってしまう。変わらぬのは阿弥陀如来の「全員出席」という救いの言葉のみ。
それが今日は五〇名程度まで回復している。今になって何を期待しているんだろう。
仏なのだから、最悪、試験用紙にカレーの作り方書くので単位くださいと言っても通してくれるんじゃないかな。普通のカレーの作り方ではCしかくれないけれど、小麦粉をいためるところから始めるカレーについて詳細に記したらBになったという都市伝説(?)だってあるくらいなのだ。スープカレーの作り方とか書いたら、先生はSとかくれるんじゃないかしら。
それなのに、覚悟が中途半端な者たちは試験近くなるとどこからともなく湧いてくる。
仏に帰依する信仰心がないのか、そう問い詰めてやりたくなる。真面目な受講者なおもて往生をとぐ。いわんやサボりをや。中途半端に出るくらいならば、スーパーに行ってカレーを買うべきなんだ。
わたしは阿弥陀如来に帰依する気持ちはないけど、田中先生の講義は嫌いじゃない。
たしかに声の抑揚などはどうしても眠気を誘うし、少し油断するとかくっと落ちそうになる。
でも話の内容は面白いのだ。
先週までの博物学の話がおわり、今日からは黎明期の人類学者という話をしている。
フレイザーというイギリスの人類学者の書いた本についてはタイトルだけは知っていた。
でも、わたしはまだ読んだことがない。
「フレイザーは金枝篇の中で王の身体と宇宙の連動について論じているのです。すなわち……」
阿弥陀如来が衆世を前に話し始める。
「森の王」、ディアナの司祭は前任者を殺した者がその任につくという話から始まり、世界の王権儀礼にはしばしば王の死を思わせるようなモチーフが盛り込まれていることを独特な抑揚で語り始める。合いの手のかわりに寝息がどこからともなく聞こえてきて、それはいびきへと変わる。
阿弥陀如来は表情をかえずにおだやかに話し続けた。子守唄を歌っているお母さんのようだ。田中先生はおじいちゃんだけど。
「フレイザーの本は原書も翻訳もいくつもあるんです。だから、気になる方は質問に来てくださいね。時間と希望であうの教えますから」
わたしは先生のことばのあと、心のなかで「なーむー」と唱える。なんとか寝落ちしないですんだ。お経だ。お経だけど楽しい。楽しいけどお経だ。あとでおすすめを聞きに行こう。
◆◆◆
阿弥陀如来こと田中先生おすすめの本を図書館に借りて外に出ようとしたとき、同級生のエリちゃんに出会った。
エリちゃんのエリは名前でなく名字、恵利元道子が本名だ。彼女はミッちゃんと呼ばれるのを嫌がる。理由は教えてくれない。
もともとうちの学科は比較的真面目な子が多いが、エリちゃんはその中でもかなり真面目な方で、お互い進学できたら良いねとか話す仲良しである。
エリチャンはわたしがかかえた本をみて、「あっ」と声を出した。
「それ、今日のお経であがってた本? 先に借りられちゃった」
彼女はこの本目当てだったらしい。
「すごい分厚いやつは誰にも借りられてなかったよ」
「ううん、その表紙のやつがきれいでよかったのに」
なるべくはやく読むから、ちょっとだけ待っててね。わたしはエリちゃんに両手を合わせて頭をさげる。
「じゃあ」
お茶していかないとエリちゃんは言った。
言葉のつながりはいまいちよくわからないけれど、美味しいものを食べながら友だちと話すのは好きだ。
そのうえ、最近、大学のそばに新しい甘味処ができて、まだ偵察できていない以上、エリちゃんの誘いを断る理由はなかった。
アンティークの家具を集めた喫茶店、間接照明の中、丁寧につくられた甘さ控えめのフルーツパフェをついばむ。
サークル活動と縁のないわたしとちがってエリちゃんは文芸サークルに入っている。
ただ彼女のサークルの活動は年に二回の部誌くらいしかないのだそうで、こうして大学生にもなって帰宅部なわたしにつきあってくれる。
「ふみちゃんみたく近くに大学すぐ近くに実家があったりしないからね。荷物の置き場所とか空いている時間に休憩する場所って必要なのよ」
と、エリちゃんは説明する。
実際、彼女の所属する文芸サークルには何かを書きたいよりも部室でだらだらと過ごしたいという人もいるのだそうで、彼らは日がな一日、昔のゲームに興じていたりするのだという。
「典型的なモラトリアム学生ってやつね」
結構楽しいのよとエリちゃんは笑って付け加える。
「でも、そうやってモラトリアムしている間に面白いの見つかったりするのよ。うちの男子たちで夏に怪談特集号を出してみたいって言い出してる子たちがいてね……」
「へぇ。小泉八雲か、それとも遠野物語みたいな」
いや、遠野物語を怪談と言ったら怒られちゃうかな。
エリちゃんは首をふる。
「その子たちは実話怪談みたいなのを集めて出してみようって言っててね」
実話怪談、ネットとかでよくあるやつだ。
怖い話があまり得意でないわたしはそれだけで背中がひゅっとなる。
「それがね、最近、この近くで変な噂話があるのよ。蓮の花の上に生首が咲いているって……」
ひっと肩をすくめるわたしの前でエリちゃんは怖い噂話を語り始めた。
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