第36話【ビアンキ中佐のオフィスで①(In Lieutenant Colonel Bianchi's office)】

「そこに座りなさい」


 立っている私に、中佐がソファーに座る様に促す。


「はい」


 言われた通りに座ったが、怒られる事を覚悟して部屋に入った手前、お客様用のソファーに腰掛けることは余計に居心地が悪い。


 特にビアンキ中佐はデスクのままで、私だけがソファーに座ると言う、このシチュエーションは緊張するだけで最悪。


 まだ立たされたままの方がマシというか、そのほうが慣れている。


「報告書は?」


「出来ています」


 一応出せと言われるかも知れないと思い、持ってきてあったので渡そうとして腰を上げかけるが、班長のサインが無いものは見ないと戻された。


 要するにビアンキ中佐は、書き終えているかいないかを確認しただけ。


「メディカルセンターからカルテが届いている。見るか?」


「いいえ」


「何か体調面で重大な障害が発見されているとは思わないのか?」


「思いません」


「不安は?」


「不安もありません」


「どうして?」


「自分の体の事は、医者よりも自分の方がはるかに良く知っていますからです」


「そうか」


 ビアンキ中佐は、そう言うとカルテを封筒から取り出すこともしないで、そのままデスクの横にあるゴミ箱に入れてしまった。


 誰も見ないと言うのは逆に気にならないでもないが、もし任務に支障がある事なら当然診察をした医師から直接上司であるビアンキ中佐に何らかの連絡が入っているはず。


 しかしこうして開封されることなくゴミ箱に入れられるカルテを見ると、可哀そうに感じる。


 もちろんカルテ自体はただの紙切れだから、意思も感情もないのは分かっているがこの世に生まれてきて誰にも気にされることなく焼却場で焼かれる運命を思うと哀れだと思わずにはいられない。


「すみません。やっぱり見ます」


「見る?」


「あー……そのカルテを私に下さい」




 ビアンキ中佐がゴミ箱からカルテの入った封筒を拾い上げ、私に届けてくれるついでに「お嬢様なのね」と軽く嫌味を漏らす。


 “しまった!”自分で取りに行くべきだったのだ。


 上司でもある女性にゴミ箱を漁あさらせてしまったことを後悔する。


 きっと中佐の今の言葉は、部下からの非常識な言葉に対する嫌味に違いない。


「どうぞ」


 中佐は差し出すときに封筒に着いた埃を落とす素振りを見せて丁寧に渡してくれ、受け取る私はまるで卒業証書を受け取る様に起立してお辞儀した状態から両手を前に突き出して受け取った。


 下げている頭の上で、クスっとビアンキ中佐が笑うのが分かる。


 エリートのくせに意外と可愛いのか、それとも屈服したような部下の態度を見てエリートならではの優越感を覚えた証なのか……。


「オルヅォで良い?」


 急にフレンドリーな言葉を掛けられて驚いた。


「あっ、はい」


 オルヅォと言うのは、大麦をじっくりと焙煎したノンカフェイン飲料で、イタリアでよく飲まれるもの。


 香りは日本の麦茶のような感じもするけれど、味は珈琲にかなり近いと言うか珈琲そのものと言っても過言ではない。


 ビアンキ少佐はお気に入りのエスプレッソマシーンで、オルヅォを入れてくれた。


「はい、どうぞ」


 オルヅォが注がれたカップのソーサーには、ビスケットが3枚添えられていた。


「このビスケット、中佐のお手製ですか?」


 フレンドリーな雰囲気に任せて気軽に聞くと、急に中佐の顔が強張るのを感じた。


「下手だが最近お菓子作りにハマっている。嫌だったら残していい」


 青く澄んだ瞳が彷徨う。


 “なんてシャイなの!”まるで子供みたい。


 なんかメチャ可愛い。


「いえ、いただきます!」


 甘いものが嫌いな女子はいない。


 形が微妙に不揃いだから直ぐにお手製だと分かったけれど、味の方はお菓子屋さんも驚くくらい上品でまろやかな甘さでオルヅォによく合う。


 医学博士の称号を持ち、士官学校を首席で卒業した才女にも関わらず、ナカナカ女子力が高くて羨ましい。


 私なんか家を飛び出して寮暮らしをしているのに、得意料理と言えばお湯を注ぐだけで簡単に作れるインスタントラーメンくらい。


 オルヅォを飲みながらビアンキ中佐の方を覗くと、内勤用の制服のスカートから組まれた細くて綺麗な脚が見える。


 頭脳明晰、容姿端麗の完璧美女。


 しかも趣味はお菓子作りで、リリアンなんて名前も可愛すぎる!


 “ねえ、リリアン”なんて気安く呼べる関係ではないけれど、一度でいいからそう呼んでみたい‼


「どうしたの?」


「あ、なんでもないリリ……」


「?」


 危ない、危ない。


 思わず思っていたことを口に出すところだった。

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