持つ者の苦悩(1)

フィル・フレンケルは抱きしめていた。

「ほっぺがぷにぷにだねえ。」

抱きしめた甥っ子を離し、もう一度両手を広げる。

「モニ、もう一回ぎゅってして。」

「ぎゅー。」

そう言いながらモニが再び首に抱き着いてきた。

「可愛いねえ、おなかがぽんぽこりんだねえ。」

そう言って、抱きしめた甥っ子を離す。もう一度両手を広げる。

「モニ、もう一回ぎゅってして。」

「ぎゅー。」

そう言いながらモニが三たび首に抱き着いてきた。

「可愛いねえ、おめめがぱっちりだねえ。」

にっこり笑って、抱きしめた甥っ子を離す。再度両手を広げる。

「モニ、もう一回ぎゅって……。」

「お願いだから。」

姉が食いしばった歯の隙間から死にそうな声を出す。

「お願いだからもうやめて。何時間もそれを聞かされると気が狂いそうになる。」

「ぎゅー。」

抱き着いてきたモニを抱きしめたまま、フィルは食卓に座る姉の方を向いた。

「作業には単調な雑音が効果的だって、姉さんが言ったんじゃないか。ラフスケッチに集中しなよ。折角僕がモニをみてるんだから。」

姉が鉛筆をへし折る勢いで握り、人を呪い殺しそうな表情でこちらを睨む。しかし、それ以上文句は言ってこない。フィルがモニの遊び相手となっている間、自分の仕事ができるのは事実である。

「……雨でなければ公園に追い出したのに。」

「残念ながら、止みそうにないね。」

フィルは窓に目を向けた。午前中からずっと、しとしとと降り続けている。

「今日は公園、行けないと思う。モニ、残念だけど、お部屋でゆっくり遊ぼう。もう一回ぎゅって……。」

「よし、休憩にしよう。」

「ぎゅー。」

般若のような顔の姉が立ち上がったのを、モニを抱きしめながら眺める。

「気分転換に何か飲もう。できるだけ強いやつ。確かアブサンがあったはずだ……。」

「紅茶を淹れるよ、僕がやる。姉さんはモニと遊んで。」

モニを抱えたまま急いで立ち上がり、姉の腕に押し付ける。

「ミルクティーでいいね。」

お湯を沸かしながら言う。姉がモニを抱いたまま、どすんとソファに座った。ごにょごにょと素敵な言語を喋るモニの髪を、ぼんやりと撫でている。ポットに茶葉を入れ、お湯を注いで食卓に持っていこうとしたが、途中でやめる。熱いものはできるだけ台所に置いておこう。カップに注ぎ、ミルクを入れて食卓に持っていく。姉はモニの謎の主張に相槌を打っていた。

「ここ、置いとくから。」

「ありがとう。」

姉が言った。モニを床に下ろし、積み木を三つほど積む。モニが喜んでそれを倒した。倒した積み木をいそいそと積み、三つ重ねて再び倒す。

「モニ、ちょっと積み木で遊んどきな。」

「あい。」

こちらを見ずに積み木に夢中になっているモニを残し、姉が食卓についた。椅子を引き、フィルの向かいに腰を下ろしながら言う。

「何か、モニと天気以外の話をしよう。面白いこと話してよ。」

「ええ、面白いこと……。」

フィルは眉根を寄せる。面白いことか、正直ありすぎて困る。姉がカップを吹いて冷ましながら言う。

「そうだな、大学はどうなの?楽しい?」

「楽しいよ。友達もたくさんできたし。」

「だろうな。お前は昔から、一瞬で場の全員と仲良くなる人間だから。」

「そんなことはないよ。恐る恐る話しかけてるよ。」

けっ、と姉が舌打ちする。ミルクティーを一口飲み、再びこちらを向いた。

「大学は個性的な人間が多いらしいね。面白いやつはいる?」

「みんな面白いよ。」

「じゃあ、面白い話なんていくらでもできるんじゃない?」

「面白い話……先月、暗号解読の専門家と仲良くなったんだけど、その話聞きたい?」

「なにそれ、大学って暗号も教えるの?」

「教えない。彼の趣味の範囲内に暗号があっただけ。」

麻薬組織のことは表に出さないよう、エリオットに教えてもらった暗号の解読方法を簡潔に説明する。姉は感嘆の表情で時折頷きながら、それを聞いていた。

「なるほど。面白いね。とっておきのアイデアを手帳に書くとき、私も使ってみようかな。」

「僕が解き方を知ってるよ。」

「同業者に解かれなければいい。」

「やめた方がいい。脆弱な暗号を使用するくらいなら、往来で素のまま叫んだ方がましだよ。」

「何それ。」

「暗号解読者からの助言。僕もそう思う。」

姉が首を傾げる。外見は全く違うが、その仕草がどこかエリオットに似ていて、フィルは思わず笑ってしまう。暗号についてもうしばらく喋り、ミルクティーを飲んでフィルは言った。

「彼、とてもいい人なんだ。優しいし、思慮深いし、可愛いし。彼と数学の話をするのはすっごく楽しい。無口だから近寄りがたい印象だったけど、他の同期にももっと話しかけたらいいのにな。」

「沈黙は金だ。無口な人間は、それだけで信頼度が上がる……気がする。うちの職場はおしゃべりな人間ばっかりだからそう思うのかも。」

「なんか刺さるね。」

「あんたは喋るけど、他人の話を聞ける人間だよ。喋る割に失言もしないし。」

「これは褒められているのかな。」

ミルクティーに少しだけ蜂蜜を垂らそうと席を立つ。

「勿体ないじゃん。大学で一緒になったのも何かの縁だよ。できるだけ大勢と仲良くしたい。暗号の彼だって、関わるまではこんなに面白いとは思わなかった。他の連中にも彼の人の好さを知って欲しい。」

姉は黙ったまま聞いている。食卓に戻り、フィルはふと思い出した。

「そうだ。姉さん、幽霊っていると思う?」

「急に話が変わったね。どういうこと?」

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