第10話 片道1日の道行
鷹一郎と簡単に打ち合わせをした翌早朝、まだ陽も開けきらぬ内に富士講社に向かえば軽装の宍度が門前に待ち構えていた。
「随分な大荷物ですね。必要なものはこちらで用立てますが」
「宍度さんこそ随分軽装ですね。大丈夫なのですか?」
「ふむ。まぁよいでしょう。時間が勿体ないですからね」
そうして宍度の隣にカラカラと引き出されたものに目を見張る。
徳川様のご治世では理由のない移動は基本的に禁じられていた。けれども寺社詣でのためというのであれば比較的許され、手形が発行されたと聞く。だから旅というものは一生もので、富士講ではこれを機会にと時には富士を越えて京都、さらには薩摩の方まで足を伸ばすということもあったそうだ。
もちろん旅には莫大な金がかかるから、それが可能だったのはそれ相応のお大尽だけに違いない。そして今、俺はそれより更に金をかけて甲州街道を爆走していた。人力車で。
「この距離を人力車というのは初めてです」
「そうですか。この
「はぁ? 東照宮まで?」
日光東照宮は富士より遠い。山も険しく難所も多い。休みもなく走り抜け到着するなど、果たしてそんなことが可能なのだろうか。
けれどもこの与吉という男の全身を覆う鋼のような筋肉の躍動を見る限り、あながち嘘とも思えなかった。何より早朝から出発してもうすぐ昼だというのに、その速度は全く衰えていない。
「ハハッ。先生のお供は豪華な宿と飯に有りつけるから約得でさぁ。お給金も破格だしよ」
「急ぎのときは与吉に頼り切りです。いつもありがとうございます。けれども喋っていると舌を噛みますよ」
「どうってことねぇでさ」
明治2年に発明されたばかりの人力車はあっという間に日の本を席巻し、多くの車夫を生み出した。人力車は籠の倍ほどの速度を誇る。だからあっという間に籠は駆逐されてしまった。そして
そして富士登山というのは信仰というより観光なのだなと思い知ったのはその道行だ。
渋谷を出て甲州街道を抜けて
この他にも色々と観光を挟んで5日、富士講社では更に観光を増やして7日ほどかけて富士にたどり着く。けれどもこの与吉はそこを1日で踏破しようというのだから驚きだ。
この人力車は特製なのか、その柔らかなクッションの乗り心地も素晴らしく、というよりカタコトというわずかな振動に揺られながら風光明媚な山や町が風のように飛び去るのを眺めるのは、極めて贅沢なことだろう。
3人がけの人力車の両端に俺と宍度が座っているのだから幅もゆったりもしたものだ。宍度は風景を眺めることもなく書付を読み込んでいた。勿体ないなと思いはするが、ひょっとしたら宍度には既に見慣れた光景なのかもしれない。
「ところで山菱さんは本当は富士に興味はないのでしょう?」
「いや、その」
「態度を見ればわかります。せっかく案内もつけて費用も出そうというのに、大学で登る用事があるから後回しでいいと言う。第一修験をしようという熱が感じられません」
本から目も上げずに問う宍度に核心を突かれ、もはや言い繕っても仕方がないとは思うのだが、建前というものがある。
「学業もありますし」
「別に構いませんよ。山菱さんの本当の目的を知ろうとも思いません。敵対するような利害関係もなさそうですし。それに妄執に燃えるような人間ならこんなお仕事をお願いしたりできません。思ってたように動いてもらえる人間が望ましい。真面目そうなのもいいですね。この間なんて使い込みをされて困りました」
「使い込み、ですか?」
「ええ。私も全てに目を通せるわけではありませんが、まかせていたらそのようなことに」
宍度は
「やっぱり不自然でしょうかね、
祭神を持ってくるという発想がすでに狂気じみている。
「そりゃあまぁ。だって神話では
現在の浅間神社の主神は木花咲耶姫だ。木花咲耶姫であれば長く富士に祀られていて、違和感もないだろう。
俺は宍度に仕事と申しつかって富士についての伝承を色々調べている。俺が調べた木花咲耶姫の話の骨子はこのようなものだ。
まさに猛女だ。
この苛烈さと富士の噴火が結び付けられ、いつしか木花咲耶姫が浅間神社の主神となり、派生するように様々な伝承が生まれた。けれども実際はそれほど古い話でもないらしい。
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