2章 祭り上げられる富士登山

第9話 思いもよらない最初の登山

 俺は一体何をやっているんだろう。ちんどん屋というのはこんな気分なのだろうか。

 空は青く明るく晴れ渡り、のどかな雲がぽかりぷかりと浮かんでいる。7月とはいえ、やけに涼しいのはそれなりの標高があるからだろう。

 ここは上吉田かみよしだ御師町おしまちだ。富士登山の参拝者に祈祷や案内をし、宿泊所を提供する多くの御師の家がある町。町の中心を東西に貫く水路に沿って設えられた街道に対して、垂直に多くの枝道が交差しその枝道沿いにたくさんの家々が立ち並んでいる。そしてその水路に沿ってまっすぐに目を上げると、その先には富士の山が青々とそびえ立っていた。

 富士に登るのは初めてだ。

 東京の坂道から遥かに眺めた景色の中に飛び出る突起とは全く異なり、目の前の富士は視界いっぱいに広がる巨大さで、まさに天へと至る柱といわれてもそうであろうと頷ける威容を誇っていた。

 そのように思ってなるべく心を無にしようとしても、宍度の朗々とした声が耳に障る。そして増え続けるこのたくさんの視線が居た堪れない。

 何故こんな顛末になっているのか。いや、きちんと事前の説明はあった。だからそれはいい。そこは鷹一郎よりよほどマシなのだ。だけどなんというか、あってもなくてもかわらないような、だから鷹一郎は一々俺に説明したりしないんだろうか、それにしても。ううむ。顔の温度が上昇していくのを感じる。

「この山菱哲佐君は現在、かの官立東京大学で学ばれているのです。つまりこの国の未来を作り舵取りをしていく方なのです」

「おお」

 眼の前の数十人の人間から再びどよめきが巻き起こり、思わず目を逸らす。

 そんなたいしたもんじゃないような。いやまあ同輩には日の本を牽引するような輩はわんさといるがよ、全部が全部そういうもんでもねぇような。俺は官僚は向かんから官僚になったりはしないぜ。

「そしてこれまで信仰はお持ちでなかったそうですが、夢で神女が現れ修行をするように告げられました」

「おお~」

「そのお導きで富士講社の戸を叩かれましたが、その神女こそが木花咲耶姫このはなさくやひめに違いありません」

 そしてまたでかい歓声が上がり、ヒソヒソと小さな声が聞こえてきた。居た堪れない。

「すんげぇな」

「お会いしてぇ」

「やっぱ別嬪さんなのか?」

「これはすなはち、神々がこの国の先を祝福されており、まさにこの富士講社こそが正しき道を指し示していることに他ありません。今回山菱さんが同行されることで皆さんにも更なるご利益があることでしょう!」

 大きな拍手が巻き起こる。

 その音で数十の人間の視線が更に俺に集まった。この上吉田からは富士講社以外にも多くの人間が富士山に登る。富士講社と無関係な多くの白装束も何事かと俺の方を見、更に寄ってきてなぜだか人だかりは膨らんでいく。この伝染を続けるざわついた空気はいつまでも収まらないどころか増え続けている。真に居た堪れない。

 眼の前で朗らかに力強く俺の紹介、というより祭り上げを続ける宍度が恨めしい。

 俺はそんな立派な者じゃ全然なくてよ、そもそもこの登山だって博打ですっからかんに擦っちまったからなんだよ。だからまぁ、金のためといえば金のためなのだが、鷹一郎の所業とはまた一風異なるヤベェことに首突っ込んじまった感が溢れるのだ。そんな心の声をこぼすわけにもいかず、歯を食いしばる。


 俺は鷹一郎に1日1円やるからといわれて富士講社に潜り込んでいたが、それは基本的に後払いだ。後払いというか、鷹一郎とは会ったときにその日までの報告をしてそれまでの日当をもらう、そんな関係だった。

 それで月曜に会えるからいいかと思って日曜に気軽に博打で擦った月曜、鷹一郎がいるはずの教室に向かうと今日は休講届けが出ているという。いつまで休みかはわからない。

 困った。心底困った。

 けれども俺は食い扶持に当てがあった。宍度の所に行くと事務仕事と引き換えに普通の日雇い日当より少しだけ上乗せされたバイト代をもらえる。大学の講義が終わった後の時間となると夕方になり、そこからの日雇の仕事など探しようもない。実際の所あまり気は進まなかったが、それがあれば糊口ここうが凌げる。

 そう思って富士講社に向かうと、宍度は唐突にこう告げた。


「山菱さん、いつもありがとうございます」

「いえ、こちらこそありがとうございます」

「ところで私は明日から不在になります」

 ちょっと待て。それは困る、困るぞ。俺の資金源額からたらりと汗が垂れた。

「……そうなんですか?」

「急の予定が入りましてね。ですからしばらくはお願いするお仕事がありません」

「何日ほどです?」

「そうですね、十日ほどでしょうか」

 頭が凍りついた。

 ここのバイトは多少割がいいとはいえ、今日はまだ月曜だ。今日の日当だけで今週5日、いや、終業日を考えるとあと4日か? それでも過ごせるはずがない。主義として金はなるべく借りたくない。どうしたものか。

「静岡に行かねばならないのです」

「静岡? 富士詣でですか?」

「いえ、県庁との交渉です。急な案件ができまして、これは私が行かねばならない」

「そう……ですか」


 静岡といえば往復でも5日はかかるだろう。そうすると真剣に金策に走らねばならない。何でも屋、行きつけの居酒屋の給仕、それからええと何が有る?

 頭の中を急ぎ回転させて、これまでの短期バイトを頭に思い浮かべる。来月の富士登山でしばらく空ける。だから長期のバイトは入れづらい。色々と条件が悪い方向に転がっている気がする。

「山菱さん、どうかされましたか?」

「い、いえ。特には」

「そういえばそろそろ大学は終わりでしょう? いつまででしたっけ」

「7月15日の木曜までです」

 今日は11日だ。大学の年度は9月に始まり7月に終わる。

「後4日ですか、ふむ。確か8月頭に大学の都合で富士に登る予定なのですよね」

「はい。俺らは下調べと下働きを兼ねますから7月下旬には前乗りする予定です」

 そちらの計画は上手くいっていて、俺たちはメンデンホールの登山に紛れ込むことができた。

 メンデンホールは大学が終わった後に日光に休暇に行くそうで、その後に富士に登る予定と聞いている。俺と左文字は工学科在籍で、メンデンホールと鷹一郎の所属する数理星学科とは所属が異なる。だから鷹一郎の伝手で下働きとして紛れ込む予定だ。

「もし山菱さんがよろしければ、私と同行されますか?」

「えっ?」

「それで試しに一度、登ってみる。私は同行できませんが、月末までの日当はお出ししますし、交通費や入山料、富士にいらっしゃる間の宿泊代やら諸々の費用はお出ししますよ」

 宍度のイイ感じの笑顔に、経験則上、嫌な予感が頭をよぎる。

「何故、そこまで?」

 富士登山にはカネがかかるのだ。本来旅とはそのようなものだ。俺たちの旅費は経費として大学が出すことにはなっている。けれどもそれより俺は明日の飯代が欲しい。そのような空気を読み取ったのか、宍度はカラリと笑う。


「面白そうだからです」

「はい?」

「いえ、そりゃぁまぁ、学業のご予定を少し変更頂くことになりますし、何よりもとよりお願いしたいと思っていたことです」

「お願い?」

「ええ。本当は先今月頭に出立した富士講に同行頂きたいと言ったでしょう? 大学がおありになるので断念いたしましたが」

 富士の山の雪が溶けるのはようやく7月になったころだ。だからそれにあわせてこの富士講社でも大々的な集会と盛大な祈祷を行い、多くの人間を霊峰富士に送り出した。それが丁度先週の半ば頃。その後、講は途中で高尾山たかおさんを詣でたり諸国漫遊をしながら、明日ごろに上吉田につき、明後日早朝から登る予定だと聞いている。

 ゆっくりな行程なので急げば吉田で追いつく。宍度の予定はそれから静岡に回れば間に合うらしい。


「お願いと言われましても、俺は富士登山などしたことがないのですが」

「登山自体は御師の方々が先導されますし、荷物も強力が運びますから初めてでもご心配にはおよびません。代わりに山菱さんの夢の話をさせて頂ければ結構です」

「俺の夢、ですか?」

 押しが強すぎる。聞いている限り、良い事ずくめだ。しかし嫌な予感がする。宗教家というのは金の、というか金が無い匂いに敏感なのだろうか。

 鷹一郎はいつ帰ってくるのだろう。それがわからない。

 1日か2日大学を休んで日雇いをしなければ飯にありつけないのではないかというところに飯付き宿付き登山付きだ。どうせ大学を休むのならば、この話しに乗ったほうが得な気がする。そう思って予感を振り切り了承し、休みの連絡を入れに大学に向かうと鷹一郎とばったりと出くわした。

「まじかよ」

「おや、哲佐君。私を訪ねて来られたようですが、さては文無しですね」

 鷹一郎は実に朗らかな笑顔でそう言い放った。

「なんでてめぇらは何でそんなことがわかるんだ」

「てめぇら?」

「お前がいないと思って明日から宍度について富士に行くことにした。現地で合流でもいいんだよな?」

「それは素晴らしい」

「素晴らしい?」

「ええ。私も富士のお山には行ったことがありませんので好都合です。どのような感じか教えてくださいね」

 鷹一郎は実に喜ばしいとでも言うように眉尻を下げた。

 わざとか?

 全部わざとでこいつらはグルなのか?

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