第7話 生贄という奇習
翌日、俺は早速富士講社を訪れた。
芝区神明町にある富士講社の
1時間ほど前に意を決して敵地と思って忍び込めば予想外にも愛想の良い小男が現れ、本日は何かご用でしょうかと語りかけられた。
「山吉講の吉田殿より紹介を受けてお伺いしました」
「吉田殿にでしょうか。はて一体」
「
「ほう? それはありがたいことです。少々お待ちください」
鷹一郎に絶対持っていけと言われた経歴書と吉田の紹介状を男に渡すと、最初は道場のような広い畳張りの間に通された。おそらくここで教導をとっているのだろう。そう思われる、宗教施設らしいどこか静謐さを感じる場所だ。
このあたりは旧来武家屋敷が多い場所で、目の前の宍度がいうにはこの太祠も旗本
敷地全体に多くの木が植えられていた。おそらく桜だろうか、黒い幹には青々と葉が茂り、木陰を作って爽やかに揺れている。その一角に石碑を組み上げた10メートルを超える真新しい黒山がどんとそびえ立つ。富士塚というやつだろう。その更に上にはぽかぽかと青い空が広がっている。
そういった事象から感じたなんとなくの印象は、『金を持ってそうだ』だった。富士講というものは信徒から金を集めて運用していると聞く。そう考えると相応に信徒は多く、羽振りは良いのだろうか。
ところがしばらくして、本日は管長がおりますのでと応接に案内されてこの始末である。
「あなたが山菱哲佐さんですね」
「はい。よろしくお願いいたします」
「思ったより精悍な方でいらっしゃる」
奇妙な緊張とともに顔を上げると、目の前の男はギラつく視線で俺を観察していた。そのこちらを探るようなその目線は鷹一郎と似たような違うような、そんな妙な居心地の悪さを感じる。宗教家、というほど鷹一郎は宗教家然とはしていないが、ひょっとしたらそういう者に共通の視線なのかもしれない。
眼の前の男、宍度は日に焼けて彫りの深く、目力の強い風貌をしている。そして予想に反して随分と若かった。おそらく30すぎではないだろうか。宗教家というと真っ白な髭と髪の爺を想定していたものだから、随分と拍子抜けだ。そしてカラリと朗らかに笑う。けれども目の奥は笑っていない。宍度はそんな男だった。
思えばこの太祠も随分垢抜けていた。今いるここもいわゆる欧風の応接室で、どこかハイカラな香りがする。眼の前には上等な漆塗りの盆の上にふわりと芳しい日本茶と精緻に動物などが形取られたカラフルな干菓子が並べられている。和洋折衷。
ここは印象が違うものばかりだなと戸惑う。
「その私、御教どころか富士にも疎く」
「ほう、ではどうしてこちらへ?」
「病快癒を願いたい儀がございまして、諸々の伝手を頼っても効果がなく、霊験あらたかな富士の霊水に頼るほかないと思いました」
先程からやけに仔細を聞かれる。
予め鷹一郎と打ち合わせた寺社の名や土御門の名を出して、どこに詣でても効果がなかったと告げる。宍度はそれでも視線の内に何か疑うような素振りをみせながら、手元の俺の経歴書を見ながら質問を続ける。
「拝見したところ東京大学理学部に所属されているのでしょう? 大変優秀であられる。なのに神の奇跡を信じられるのですか?」
「は?」
その意味を一瞬測りかねた。
「あの、こちらは富士講ではないのですか?」
「いえ、失言でした。そうですね、率直にお尋ねすると、こちらにお越しになった他の理由があるのではないかと思いまして」
困った。ここまでド直球に聞かれるとは想像もしていなかった。
俺がここに来た理由は俺にもわからん。だから鷹一郎と昨日打ち合わせた内容を思い出す。
山吉講からの帰り、丁度宮益坂を登ったところにあったオレンヂ色の提灯を掲げた居酒屋の前を通ったところで不意にみりんの焦げるよい香りが漂い、気づけばその端っこの席に居座っていた。
みりん干しと田楽をつつきながら徳利で3合ほど空けた頃合いだったから、徳利を持つ手はやや赤くなっていたような気はするが記憶は鮮明だ。俺は眼の前でうまそうに盃を傾ける鷹一郎に尋ねた。
「それで俺はその富士講社とやらで何をすればいいんだ?」
「さて、どうしましょう」
「おい」
「そうですねぇ。当面は良好な関係を得られればそれでいいのです。そもそもの私たちの目的はなんでしょう?」
「秋月が生贄になるのを何とかすることだ」
言ってみて、その『何とか』の意味がさっぱりわからないことに気がついた。
秋月は生贄になるのをやめるつもりはなさそうだ。
振り返って俺の生贄っぷりと比べてみる。俺のイメエジするものは正しく生贄で、化け物に食われかけたり亡者に殺されかけたりと、俺はこれまで何度も鷹一郎のせいで死にかけている。その分金はもらっているが、危険には違いない。
一方で左文字の言にとりたてた危機感は見当たらなかった。鷹一郎が坂の上で語った富士は恐ろしい姿だったが、それとて昔のことだ。今においては生贄行動の中に生命を脅かすような危険性が見当たらない。だからだろう。つまりこれまでの人生で培った人間関係を全て断ち切って断るほどの理屈が左文字の中で立たない。
けれどもこれまでの言い伝えでは、生贄に捧げられた者は記憶が混濁するらしい。それにしたって左文字の認識としては本当かどうか疑っているようで、せっかくの大学を辞めるのは嫌だから何とかならないものかなと思っている、だけのような?
随分な温度差を感じる。
「ええ。その通りです。けれども何とかしようにも、何故富士に人を捧げているのか、その理由がわかりません」
「奇習とかそんなんじゃないのか?」
「奇習といってもですね、それが始まった切っ掛けや理由というものがあるはずです。例えば通常、人を捧げる場合は豊穣を祈ってとか祟りを恐れてとか、何らかの理由をもって何かの対象に捧げられるのです」
「『何らか』ばかりだな」
「今は分かりませんから。でもその『何らか』がなければただの人殺しです。そんなものが共同体の中で続くはずがない」
そういわれりゃ確かにそうだ。
富士に豊穣を祈る、というのはなくもないような気はしなくもない。噴火すると考えれば噴火といった祟りを恐れて、というのもありそうな路線だろう。
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