第5話 御一新の愚痴

 道玄坂どうげんざかには小売の店が立ち並んでいた。この坂は宮益坂みやますざかにある青物市場の帰りに農家が買い物をする風情の街で、その中にある山吉講やまよしこう講元の吉田よしだ家の豪邸には立派な門構えがあり、入ると百人単位で集まれそうな広場がでんと広がっていた。そしてその邸内には富士登山に使用するのだろう、多数の提灯や旗が堂々と立てかけられ、諸所に祈祷文のようなものが垂れていた。

 この山吉講は江戸で最も栄えた富士講の1つだ。富士講とは富士参拝のための互助組合で、金銭を出し合って持ち回りで選ばれた者が代表として富士登山をする。そして講元はそのための準備やら手配やらを行う。山吉講は多くの枝講支部を有する東京一番の講なのだそうだ。富士詣にここから講が出発するときは、それは盛大に祝われた。少し前までは。

「おお、わかってくれるのかい」

「勿論です。わたくしも陰陽師ですので」

「ハァー。そういや土御門つちみかどさんて仰ったなァ。お互い大変だねェ」

 声の主はぺちりと額を打ち、嘆息する。

 今は山吉講の屋敷に上がらせてもらい、現先達代表の吉田某の歓待を受けている。太い眉の体の大きな男だ。知った仲でもないだろうに、既に鷹一郎は吉田と打ち解けていた。

 そしていつも通り、話はわけのわからない方向に向く。

「こちらの山菱やまびしさんは富士で修行を希望なのです。それで富士の現在の様子をお伺いしたく。最初は一人で登るのは厳しいでしょうしお力添えを頂ければと」

「おい」

「へぇ、本気の富士登山かぁ。今どき珍しいねぇ。なかなか体格も良さそうだしね」

 山田某は俺を見てウンウンと頷くが、修行など俺は全く聞いていないのだが。

「けれど1人で登るのはやっぱり危険だよぉ。でも今から修行ってのはどうかなぁ、タイミングがね」

「やはり廃仏毀釈はいぶつきしゃくですか」

「そうだな。だいぶん落ち着いてはきた気はするが、一時はもう酷いもんさ。突然下浅間冨士山下宮小室浅間神社の仁王門が壊されて梵鐘が鋳潰されたと思いきや、富士山の大掃除だなどと抜かしてよ。奴ら富士山中の仏像を叩き壊して回る始末さ。大日寺の仏像だって頭をぶっこわされたし、お八の地名もかわっちまってわけがわからねぇ」


 それは数年前のことだいう。話の流れがさっぱりわからん、どうやらしばらく前の廃仏毀釈によって富士の信仰事情もだいぶかわってしまったらしい。思えば俺の実家の東北の方でも多くの寺が打ち壊されたのだ。富士の山とて同じなのだろう。

 吉田某は憤懣ふんまんやるかたないといった風情で不満を並べ立てるが、対する鷹一郎はどこかニコニコと受け流している。

 俺は実家の習いで気楽な浄土真宗だが、宗教事情も御一新明治維新とともに大きく変化したと聞く。そうすると左文字の村で古い風習が残っているのは確かに奇跡にも等しく、そして33年後には失われているのだろうなという気はした。

 生贄を捧げなければ、どうなるんだろうか。聞いた限りでは生贄は長い年月継続された儀式のようだ。それが突然中止されればどうなる?

 ひょっとして、富士の噴火?

 まさか。噴火というのは自然現象だ。神霊が引き起こすものではない。そうだよな。


「ええ、本当に。酷いものです。けれども村山修験の方々は未だ残って居られるのでしょう?」

「残っているったってほんとど活動してないんじゃないかね。今川いまがわ様の時代には山全域を自由にしてたもんだが、入会権の許可が降りてどの宗教も自由に入れるようになってからは縮小の一途でさ。それから宝永ほうえい噴火だよ。大事な村山登山道がやられちまった。そんで止めはお上の修験道禁止令。今村山は30戸くらいだがみんな還俗しちまってさ、その中で御師おんしをやってる家は1戸くらいしかいないんじゃないかねぇ」

「それはご災難ですねぇ。こちらも3年ほど前に富士講禁止となりましたでしょう?」

「富士講は徳川様の時からちょくちょく禁止されてっからな。けど前は禁止っつってもたいしたおとがめはなかったけどよ、今は捕縛されるやつが出てるからなぁ」

 急に吉田某は声を顰める。

「それに富士塚も次々打ち壊されてる。富士講だけじゃなく地蔵尊や道祖神も同じだけどよ。そんなわけで兄さん、修験に出るなら今じゃないほうがいいぜ」

 そうして心配そうに俺を眺め上げた。

 富士塚というのは東京にもそこかしこにある富士山を模した小山だ。御一新前は女人は富士は登山禁止だったものだから代わりにと登っていたのと、そうでなければ気軽に登れることから人気があったのだが、そういえば最近はあまり見ない気もするな。

「やはり目が相当厳しいのでしょうか。そうすると富士のお八頂上で修行なんて難しいのでしょうねぇ」

「修行、修行ねぇ」

 吉田某は頭をぐるりとまわして俺に目を向け、上から下まで眺め下ろす。

「兄さん、そんなに登りたいのかい?」

「いえ」

「そういえば食行身禄じきぎょうみろく師は33回登られたでしょう? みなさんも生涯33回登られることを悲願にされておられる」

「あんたよぉ、33回なんてマジで生涯を通じてやるこったぞ」

 吉田某はぽかんと大きく口を開き、そこから呆れた声が飛んできた。

 俺は33回も富士に登るのか? それは勘弁してもらいてぇ。それじゃ本当の修験者じゃないか。

「その33回というのは何か特別な理由があるのでしょうか」

「はて、俺らは先達にあやかって登ってるからな。あのな兄さんよ、必ずしも33回登らなきゃならねえもんでもねぇし、そんなに登るのは大変なこったぞ。願掛けでもあるのかい?」

 そう言って吉田某は心配そうに俺の目をジッと見た。

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