第4話 その山の眺め

 それで茶屋の前で左文字と別れた帰り。

「鷹一郎、これは一体どういう話なんだ? 秋月は狐につままれた様子だったぞ」

「そうですねぇ。哲佐君はどう思われますか?」

「俺にわかるわけがないだろ」

「私にもわからないことが多いです。富士は紛れもなく霊山ですし」

 霊峰富士。

 東京からでもよく見えるその堂々たる姿は力強く美しい。そしてこの神田明神のある神田山かんだやまからも富士を眺めることができる。そもそもこの神田山のある駿河台するがだいという地名の由来は色々あるが、駿河国の富士が見えたこともその1つと聞いている。

 けれどもその大きさは遠すぎてよくわからぬ。

 神と言われれば神のような気もするが、あまりにもあけっぴろげな気がするな。

「そういえば哲佐君はお生まれが東北でしょう? そうすると霊峰といえば出羽三山なんでしょうね」

「まぁ、そうだな」

 郷里にいた頃はその裾野を駆け回っていたわけだ。わずかに懐かしく思い浮かぶ。

「富士というのは他の霊峰とは少し異なるのです」

「ふうん? どう違うんだ?」

「さて、なんとご説明すれば良いか。富士山というのはね、しょっちゅう噴火するのです」

 鷹一郎はそう言いながら丘から見える富士山を指さした。この駿河台からは本当に富士がよく見える。今日は少し曇っているが、遥かな山並みの向こうにぽこりと富士の山が突き出ていた。


「最も近くはおよそ170年前の宝永ほうえい噴火です。その際は山の形が変わるほどで、江戸の町全体に灰が降り注ぎました」

「聞いたことがあるな。凄ぇ地震もあって津軽藩邸の壁が壊れたと聞いた」

「そう。そしてあの山の頂きの少し下くらいから半月以上に渡って朦々と煙を上げ続けたのです、天に」

「天に?」

 つられて空を見上げれば日は僅かに傾いたといえど、まだ中天近くから俺たちを眺めおろしている。

「そう。富士の頂きは天に繋がっている」

 駿河台は日本橋に向かって掘削され、眼下には東京の町がなだらかに広がっている。そしてその先にある富士の上空にはなにもない。そこに一筋の煙が延々と天に向かって登っていく。ずっと遠くまで、空の果てまで。

 その光景は想像するに、確かに異様だった。

「そして富士の山が噴火するのはこれが初めてではありません。特に平安の時代の活動は苛烈で、延暦えんりゃく、特に貞観じょうがんの時代には更に上回る噴火がありました。その記録が残っております」


 延暦19800年6月6日

 駿河の国の国守がいうには駿河国言3月14日から4月18日まで自去三月十四日迄四月十八日

 富士山が噴火し、その噴煙で昼でも暗く富士山嶺自焼,晝則烟気暗瞑

 夜はその光が天を照らし夜則火光照天雷のような音が響き渡り其聲若雷

 火山灰が雨のごとく振り灰下如雨山から流れる川の水は紅色に染まった山下川水皆紅色也


 延暦21801年1月8日

 駿河国の富士山が再び噴火し駿河国富士山晝夜燎

 砂礫があられのごとく降り注いだ砂礫如霰者


 延暦21801年5月19日

 相模国へ至る足柄道を廃して廃相模国足柄路箱根道を開設した開筥荷途

 富士からの砕石が道を塞いだからだ以富士焼砕石塞道也


 鷹一郎は立て板に水を流すが如くすらすらと述べたてる。目の前遠くに空色にけぶる富士が、わずかに暗く見えた。

 あの富士がもうもうと煙を上げ続けてあたりは昼なお暗く、その雲は風と共に大量の灰を今自分の立つ江戸全域にもたらした。あれほど小さく見えるのに? ここら一帯にまで?

 昔の夜は明かりは乏しい。ここからでも夜に赤く光る炎が見えたのだろうか。

「お前、なんでそんなに詳しいんだ」

「これは日本紀略にほんきりゃく、つまり歴史書の記載ですよ。これが延暦噴火の姿です。それからその後の貞観噴火。こちらは正史の日本三代実録にほんさんだいじつろくの記載です」


 貞観6864年5月25日

 富士浅間大神大山が噴火した富士郡正三位浅間大神大山火

 勢い甚だしく其勢甚熾6百~13百メートルの山を焼き尽くした焼山方一二許里

 炎は60メートルの高さに及び光炎高二十許丈

 雷のような音が響き渡り地震が三度あった大有声如雷、地震三度

 10日以上経過しても火は衰えない歴十余日、火猶不滅

 その北側の海を焦がして峰を崩し焦岩崩嶺砂や石が雨のように降る沙石如雨

 煙と雲が鬱々と山を包み、人は近寄れない煙雲鬱蒸、人不得近

 富士西北の本栖湖に焼石が雪崩れ込み大山西北、有本栖水海所焼岩石

 その流れは長さ20キロ千六百流埋海中、遠三十許里広さ2から2キロ半、高さ6から9メートル広三四許里、高二三許丈

 その溶岩はやがて甲斐国との境にまで達した火焔遂属甲斐国堺


 貞観6864年7月17日

 駿河国の富士が大噴火した駿河国富士大山、忽有暴火

 峰を焼き砕き、草木は焼き殺された焼砕崗巒、草木焦殺

 土石や砕石が流れ出て土鑠石流

 八代の本栖湖と剗の海の両方を埋めた埋八代郡本栖并剗両水海

 湖の図は熱湯となり、魚や亀はみんな死んだ水熱如湯、魚鼈皆死

 民の家も湖と共に埋まり百姓居宅、与海共埋

 残った家も無人で或有宅無人その例は枚挙にいとまが無い其数難記

 この二湖の東に河口湖があるが両海以東、亦有水海、名曰河口海

 炎はそちらにも向かっている火焔赴向河口海、本栖、剗等海

 湖が焼けて埋まる前に大地震があり未焼埋之前、地大震動

 雷と豪雨が響き渡り雷電暴雨雲や霧が立ち込め世界は闇となり雲霧晦冥

 山と野の区別がつかなくなってから山野難弁この災厄が訪れた然後有此災異焉


貞観7865年末の記録に『災異いまだ止まず』とありすし、この噴火は少なくとも2年は続いたようです。そして平安末まで噴煙が上がっていたようですね」

「そんなことが本当にあるのかよ、そんな……」

「地獄みたいな?」

 それがサラリと言う事だろうか。

「……おう」

「けれども今のは両方とも記録されたもので、駿河や甲斐の国守が朝廷に宛てた報告を記載したものです。民間説話にはもっと凄いものもたくさんありますが、これがこの国の富士の姿です」

 思わず絶句した。

 山が炎を吐くという話は聞きはするが、それほど続き、それほど激しいものなのか。これではまるで、焦熱地獄のようではないか。正しく人知の及ばぬ代物だ。

 そういえば左文字も昔は火口に火口湖があって噴煙をあげていたといっていた。その話が伝わっているということは、やはりその平安の頃からその生贄は続いていたのだろう。

 連綿と続く生贄、炎の池に投げ込まれるその恐怖。かつて行われたそれらの恐ろしい行為に身震いがした。なんとなく、自らの行く末が想像できるゆえに。

 けれどもかぶりを振ってその妄想を打ち消す。


「だが今は大丈夫なんだろ? その、火口は石が詰まっていると聞く」

「そうなのでしょう。富士山の特殊性はさまざまな伝承が絡み合っているところでもあります。一体何がその地獄をもたらし、そして何がそれを収めたのか」

「伝承? というか、ただの自然現象だろ? そう言え」

 火山とは、この地球という星の活動の1つなのだ。そう習っている。

「ええ勿論。我々科学の徒にはその解釈で正解です。けれども秋月さんの過ごした村山の地ではそうではない。たくさんの信仰が生まれる荒々しき場所なのです。だから秋月さんの仰るお役目というのが何の話に結びついているのか、調べに行きましょう。ご本人はよく認識されていないようですし」

「行くってどこへ」

 鷹一郎は再び富士の方向を指をさし、歩き出す。駿河台から繋がる池田坂いけだざかを下り、明治2年に建築され最近靖国神社と名を変えた社に繋がる新しく作られた商店街を緩やかに歩く。

「そうですねぇ。最初は富士講にでもいってみましょう。お江戸で最も大きい山吉やまよし講は道玄坂どうげんざかにあるのですよ」

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