21-狂気に呑まれたモノ

「天文学者は虚に恋する一人相撲。天候は凪。神棚には能面を被った教皇が鎮座し、溺れる魚を見て笑う。

急ぐことはない。彼女はきっと、ドレッサーに血を塗りたくるから」


シャルルの頭を鷲掴みにしたジル・ド・レェは、相変わらず部屋の奥を向いたままで音の羅列を紡ぐ。

直前に凶器を振り下ろしできた相手だというのに、ちらりとも見ていない。


どうやってギロチンや体が近づくタイミングを測ったのかは謎だが、事実として前者を殴り飛ばし、後者の頭を鷲掴みにしてアイアンクローを決めていた。


ジル・ド・レェの体は、病的に痩せ細っていてひ弱そうではある。しかし、身長自体は200センチを軽く超えているので、華奢なシャルルからすると十分に脅威だ。


あまりにも得体がしれない白衣の狂人に、ギシギシと頭を握り潰されかけている処刑人は、堪らず悲鳴を上げる。


「ぐあぁぁッ……!! テメェ、どこに……!! その柳みてぇな体のどこに、こんなパワーがあるんだよッ……!?」


フランソワ特製のコートによって、手足や胴体はほぼ完璧に守られている。だが、頭は流石に外に出ているので、鷲掴みにされた頭は見るからに悲鳴を上げていた。


骨のような指は、長い白髪に埋もれてより不気味な雰囲気を醸し出し、ミシミシという音が聞こえてくるようだ。

シャルルも激しく手足をバタつかせて脱出しようとするが、あまり効果は出ていない。


身長2メートルもある男の腕は長く、足は彼の体に届くことはないし、手で殴りつけても腕は見た目以上の耐久力を見せて体を持ち上げ続ける。


「やや白血球に不足。狂気的な英才教育はがん細胞を増やすも、決して防人を用意したりはしなかった。

飽くなき悪性カラスが覗き込むのは、毒入りサンドイッチのティータイム。踊り出す足は河原を横断するか?

しかし、思い悩むことはない。加速する脳は、何度でも君を起動するだろうから」


シャルルは苦痛に叫び、ジルは安らかにつぶやく。

処刑人に力尽くでの脱出方法はなく、回収人に自主的な言動も期待できないだろう。


いつの間にか軟体動物達も2人を避け始めており、暗闇が満ちたこの部屋には叫び声だけが響き渡り続けていた。


「ぐ、うぅ……!! おいテメェ、これはいつまで続くんだ? 一度くらい、こっち見ろよジル・ド・レェ!!」

「裁判官はいずれ立つ。肉の塔を細切れにして、月夜の光で苛烈に焼くのだ。であれば、医者は人間の刺し身を満足気に提供することだろうよ。いと恐ろしき、宇宙。

ありがとう」

「深淵を覗く時深淵もまたこちらを覗いているのだッ……!!」

「……」


視線がブレ始めていたシャルルは、目元から下が隠れていてもわかるくらいに苦悶の表情を浮かべながら、必死にジルに呼びかける。


彼は音の羅列を紡ぐだけで、鷲掴みにしている頭を強く握り潰す以外にろくな反応は示さない。しかし、最後に絞り出された言葉を聞くと、急に黙り込んで振り返った。


「ギャハハハ!! よーやくこっちを見たな、バカが!!」


延々と部屋の奥を見つめていたジル・ド・レェは、果たして本当に深淵を覗き込んでいたのだろうか。

どちらにせよ、振り絞られた言葉を聞いた彼はシャルルの方を振り向き、黒々とした目で見つめていた。


そんな、白衣の狂人に。処刑人はぐいっと口元を隠していた襟を下げると、初めてその顔の全体を覗かせる。

露わになったのは、口を凶暴に歪めていながらも間違いなく綺麗だと感じさせられる顔だ。


シャルル・アンリ・サンソンは滅多に素顔を見せないので、この行動は驚くべきことである。だが、今までずっと騒動を無視していたジル・ド・レェが、反応することはない。その冷静さが、仇となった。


「ッ……!?」


何の感情もなくその美貌を見つめる彼に、シャルルは凶暴に歪めた口からつばを吐きかける。弾丸のように飛ぶつばは、真っ直ぐにジルの顔へ向かっていくと、その目に直撃した。


これまでは無反応だったが、目という急所に液体がかけられてしまうと流石にそうもいかない。


持ち上げていた処刑人の頭をパッと離すと、懐にいれていた本を落としそうになりながら、珍しく苦しんだ様子で目元を押さえ始めた。


「荒れ狂う溶岩は被験者の絶望。回線はどこへ?

記録された奇跡が飛ばすのは、いずれ来たるカブトムシ」

「ギャハハハ!! 俺の体内には毒が仕込んであんだよ!!

手を離したな!? ギロチンはねぇが、このまま殺るぜ!!」


視界を封じられたジルだったが、それでも口に出すのが音の羅列であることに変化はない。本当にダメージを受けているのか、真面目に心配になるレベルだ。


とはいえ、今が好機であることは確固たる事実である。

ややふらついて見える白衣の狂人に、シャルルは再び構えたナイフで切りかかっていく。


「水たまりにて寿司達は泳ぐ。甘美な誘惑。

えも言われぬ大自然。あくまでも罪は地球の転移」


だが、毒によって目を潰されていたはずのジルは、普通ではあり得ないほどのスピードで体勢を立て直していた。

シャルルは処刑人で、ジルはただの死体回収人。


戦闘においては比較するまでもない立場であるはずなのに、彼は毒に濡れたままの目でナイフを捌いていく。


お互いに骨のように痩せていたり、コート越しでもわかる程に華奢である両者は、しかし身長に関しては圧倒的な格差がある。


長い手足は、どれだけ鋭くナイフを繰り出してもジル本人に届くことはなかった。


「おいおいおい、テメェは死体回収人だろうが!?

なんでそんなに動けるんだよ!? ふざけんなッ!!」

「なるほど、あくまでも君は寿司を食べたいのか。

であればきっとナノマシン。空飛ぶステーキはカブトムシを呼ぶ餌となるのだろう。洗濯機は回したか?

きっと神の回路はドレスアップの侮辱罪」

「うるッせぇッ!!」


シャルルはナイフを防がれる度にそれを手放し、角度や持つ手を変えながら攻め立てる。


それがだめなら、ナイフが空中にあるうちに床に手を付き、体全体を使った蹴りまで放って隙を生み出そうとする。


どれも処刑人としての技を凝縮したような、ただの回収人が見切れるようなものではない。おまけにジルは痩せているのだから、受け止めても吹き飛ぶはずだ。


しかし、彼は音の羅列を紡ぐことをやめることもなく、余裕を持った態度で防ぎ続けていた。ナイフは長い腕を駆使して弾き、蹴りは足で防ぐ。


どれだけ意表を突こうとしても、今までシャルルを気にしてもいなかったはずジル・ド・レェは、打って変わって機敏な動きでそれを見切っていた。


「チッ……!! だが、ギロチンの近くに来たぜ!?

ナイフがだめなら武器を変えるまでよ!!」


余裕でシャルルの攻撃を捌いているジルだったが、もちろん彼は一歩も動かずに捌いていた訳では無い。

飛んだり屈んだりすることもあったので、少しずつ後退していた。


するともちろん、辿り着くのはジルが部屋の奥に殴り飛ばしたギロチンがある場所だ。


2人のいた場所を避けていた軟体動物の壁に弾かれて、位置はややズレているが、それも考慮して誘導済みである。

シャルルは苛立ちを吹き飛ばすように怒鳴ると、床に転がる武器に手を伸ばす。


「32@uemkfv\Zwfe:jpy」

「はぁ!? テメェらリング作ってんじゃねぇのかよ!!」


だが、なぜかしばらく手を出さなかった軟体動物は、ここに来て唐突に動き出した。


ギロチンが転がっている目の前で壁になっていた軟体動物は、それを拾おうとしていることを察したのか、触手を伸ばして先に拾い、部屋の入り口付近に投げ飛ばしてしまう。


これには当然、シャルルも苛立ちを隠しきれない。

いや、普段から戦闘中はよくハイにはなるのだが……ともかく処刑人は、渾身の殺意を込めてナイフを突き出していく。


「原石は磨かれた。私は空飛ぶカブトムシ。掃除は原始時代からの救難信号。コードは3。ミドリムシの風呂は最高の炉」


シャルルの突き出したナイフは、真っ直ぐ腹部を狙って進んでいく。ジルとは身長差がかなり大きいが、それでもかなり狙いやすい箇所だ。


しかし、ずっと完璧にナイフを捌き続けていたジルなので、当然その軌道上にはもう手が構えている。

このまま進んでも、また弾かれるだけだろう。

もっとも、このまま進まなければその限りではないが。


渾身の殺意が込められたナイフは、ジルの腹に弾かれる前に手放された。ふわりと空中を飛んではいくが、手から離れているので深く刺さることはないだろう。


とはいえ、だからといって放置することもできない。

白衣の狂人はナイフを手で弾き飛ばし、その隙にシャルルは彼に飛びついていった。


「毒の影響か知らねぇが、なんかバグってきてねぇか!?

俺からギロチン奪うなら、テメェもその本手放せや!!」


ガシッと抱きついたシャルルは、すぐに離れると手に持ったものを得意げに見せびらかす。その白い手に握られていたのは、暗い部屋に擬態するかのような真っ黒い本だ。


ジルは珍しくすぐに取り返そうと向かってくるが、ひらりと身軽な動きで躱すと、もう1本のナイフでそれを貫いた。


「ギャハハハ!! この部屋は薄暗く、テメェの白衣だけは悪目立ちして注意を引いてやがる!! だが、さっき頭を鷲掴みにされた時に気づいたぜ!? よく見りゃ嫌な気配のする本を持ってるじゃあねぇの!! こりゃ壊さなきゃだよなぁ!?」 


ジル・ド・レェの黒本を破壊したことで、派手に狂笑を響き渡らせるシャルルの周りで、壁になっていた軟体動物たちは溶けるように消えていく。


主が直接狙われてからは動けず、せめて逃さないようになのかリングとして機能していたそれらは、ものの数秒で完全に消え失せてしまった。


キャッチボールの球にされていたギロチンは、受け取る触手がなくなったことでゴトンと音を立てて落ちる。

軟体動物が消えたただの暗い部屋に立つジル・ド・レェは、フラフラと体を揺らしながら音の羅列をただ紡ぐ。


ただし、その本は予想以上に重要なものだったのか、いつもよりも遥かにぶつ切りで、おまけに早口だ。


「虹彩は私を見る。であればきっとヘラクレス。

腕をお食べ、餌皿はこちら? プリンセスはカーニバルを乗りこなしてお越しになった。おや、あれはお山の大将だ。机は何人やってくる? ヒトは何脚?

私はクワガタ? ゾウリムシを履き給え。

ダンボールに包まる私? 天下無双のかき氷、溶けて溺れてセミの殻。……深淵を覗く時、深淵もまた、こちらを覗いているのだ」

「お、おい……何だよテメェ、急に黙られても怖ぇよ」


ピタリと動きを止め、音の羅列を紡ぐこともやめたジルに、シャルルはより警戒を強めて問いただす。


本を奪った時や壊した時にはハイになっていたが、普段から狂気的なジル・ド・レェのさらに異常な反応に、少なからず気圧されているようだ。


遠くて諦めざるを得ないギロチンの代わりに、弾かれてすぐ近くに転がっていたナイフを拾って構えながら、どこか不安そうな目を向けていた。


「ヒュドラは燃えてなお乱世。蓮っ葉の悪夢、仮初の戯言。落花生は砕け、歌詠鳥が涼む深海は恋衣」


動けずにいるシャルルの前で、ジル・ド・レェは相変わらず音の羅列を紡ぐ。すると、その瞬間。白衣の下から覗く彼の腕は、うねうねと枝分かれして蠢き始める。


同じように変化した足によって、背も2倍以上に。

華奢な処刑人の前では、手足を触手に変化させた白衣の狂人が蠢いていた。


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