告白

 空也は首をコキコキ鳴らしながらバスを降りた。

 13時間の長旅を終えた後で肩も首も痛いし、尻も痛い。最後は唯に蹴られたのが原因の可能性が大だが。

 唯と別れた後、空也は夜行バスに乗り東京へ来ていた。目的は涼佳と会い、そして松子のところへ連れて行くことだ。

 電車に乗るため案内に従って道を歩きながらも、ついあちこちへキョロキョロと視線が向いてしまう。

 まだ朝は早いが、すでに街が動き始めている時間だ。通行人は決して少なくない。

 空也の目からは誰も彼も迷いなく脇目も振らずに歩いているように見える。無性に周りから「こいつ田舎者だな?」と思われているのではないかと感じてしまい、なるべく脇見をしないように意識しながら道を歩く。

 PASMOを購入し、改札を通り抜けてホームへ上がるとちょうど電車がやってきた。

 大人になるまで1人で電車に乗ったことがないという人は、田舎だと意外にいる。

 空也もその1人で、ドアの横ではなく降りる人たちを塞ぐように真正面に立ってしまった。

 ドアが開くと、空也を邪魔そうに乗客が降りていく。

 もしかして、自分って邪魔なのではと思いながら後ろを見ると、他の客はドアの左右で待っていた。

 顔が熱い。鏡を見ずとも顔が赤くなっているのがわかった。顔を見られないよう視線を下げて電車に乗り込む。

 涼佳の家の住所と最寄駅は聞いていたし、駅内案内も乗換案内もある。1人でも余裕だと思っていたが、前言撤回。無事涼佳の家までたどり着けるか不安で仕方なかった。


 空也が涼佳の家に向かい始めてから1時間後。

 髪の毛を後ろで一つにまとめ、Tシャツ姿というラフな格好で涼佳は外を歩いていた。

 用事が特にあるわけではない。ただ家にいるのが落ち着かなかっただけだ。

 視界に入る光景は約1ヶ月ぶりとはいえ見慣れた光景。のはずなのだが、なんだか情報量が多く思えた。予想以上に田舎になじんでしまっていたようだ。

 夢を見ていたような気分だった。あっちにいた頃と今では、目に映るものが同じ国とは思えないほど異なっているからだ。

 最初は田舎でやっていけるか不安だったが、松子と真実、そして空也のいる生活は思った以上に心地よかった。

 しかし、最後はまともに別れの言葉も言えず、こうして東京に戻ることになってしまった。

 これも因果応報。仕方がないことだ。

 ただ、それでも空也のことが気になっていた。今どうしているのだろう。彼と一緒にいると自分が必要とされていることが実感できて、もっと必要としてもらいたいと思えた。

 この気持ちは何なのだろう。好意なのだろうか。確かに話していて楽しかったのは間違いないが、よく分からない。

 離れ離れになってしまったのもあるかもしれないが、もう一度空也に会いたかった。


 逆方向の電車に乗ってしまったり、駅構内で迷ったりしながらも、なんとか空也は涼佳の家の最寄り駅へたどり着いた。ただし迷わずにたどり着けた場合よりも、30分余計にかかってしまっている。

 それでも所要時間としては1時間程度なのだが、途中通勤ラッシュに巻き込まれてしまいすでにヘトヘトだ。

 改札を出ると、道行く人達や町並みを落ち着きなく見回す。

 一般的な都民ならば住宅街と認識するエリアだが、一通りの店は充実しており、比較的栄えている空也が住む市の隣の市でも勝負にならない気がした。

 改めて地元と東京の格差を痛感しながら涼佳の家へ向かおうとしたところで腹が減ってきた。

 この辺でも東京にしかない店はあるだろう。せっかく来たのだし……と思ったが、システムをよく知らない。コイツ田舎もんだな、笑われてしまう可能性すらある。

 結局日本全国どこへ行っても大きく変わらないであろうコンビニかスーパーを探そうとしたところで、向かいから見覚えのある女の子が歩いてきていることに気づいた。ポニーテールにTシャツというラフな格好をしているが、間違いない。

「来栖?」

「須藤くん? どうしてここに?」


 2時間後。

 空也は改めて涼佳と合流し、並んで新宿を歩いていた。

 辺りは人、人、人で、一応世間は平日なのが嘘に思えてくる。

 地元では絶対に見かけないような奇抜な格好をしている人や、空へ向かって伸びるビルに物珍しさから首があちこちへ動いてしまう。

「そんなに珍しい?」

「い、いやっそんなことはないぞ?」

 慌てて首を戻し、動かないように首に力を入れる。

「別に気になるなら見てもいいと思うけどな」

「べ、別に珍しくもなんともない。こんなの見ようと思えば動画サイトでいつだって見られるし」

 ついムキになって言い返してしまう。

「私はあっちにいてそうは思わなかったかな。風や匂いは現地にいなければ体感できないし、何気なく使ってた『自然』って言葉の意味がちょっと変わったような気がしたっていうか。だから田舎暮らしも悪くないなって」

「フ、フン。たったあの程度で田舎で暮らした扱いになるわけないだろ。本当の地獄はこれからだ」

 涼佳の口から自分の住む町を気に入ったと聞けたのは少しうれしかったが、喜んでいる所を見せるのが恥ずかしくて、上から目線の物言いになってしまう。

「ふふ。まあ、そうかもね。でも、おばあちゃんがいて、真実さんがいて、須藤くんがいる毎日、私は結構心地よかったんだよね」

 しかし涼佳のほうが一枚上手だったようだ。

「そ、そうか。それなら……よかった」

「……でも、もう戻れないかもね。まあ、天罰か」

 涼佳の顔が曇る。これ以上この話を続けるのは得策ではない気がした。

「そ、それよりお昼食べに行かないか?」

「そうだね、じゃあ、行きたいところがあるんだけど――」


 いかにも都会的な店に案内されるかと思いきや、涼佳に案内されて入った店は雑居ビルの3階にある大衆的な雰囲気の豚丼専門店だった。ある意味都会的なのかもしれない。

 涼佳の前には、もはや丼というよりはたらいサイズの器に盛られた豚丼が置かれており、周りの客も「マジで食うのか?」という視線を涼佳へ向けている。

 空也も涼佳のことを知らなければ、SNSにでも上げるために食べられない量を注文した不届き者と思ったかもしれない。

 涼佳は自慢の黒髪を後ろでまとめ、

「いただきます」と手を合わせ、箸を手にした瞬間。

 コマ送りでもしているかのような勢いで豚丼を食べ始めた。

 周りの客もスタッフたちも、手を止めて涼佳の食べっぷりに目を奪われていた。

 結局涼佳は一番少ない量を頼んだ空也とほぼ同じタイミングで食べ終えてしまい、

「ごちそうさまでした。須藤くんも食べ終えたし出よっか?」

「あ、ああ」

 集団幻覚を見てしまったような雰囲気の店内を尻目に、2人は店を後にした。


 最上階にいる人は怖くないのだろうか。

 店を出た後も、空也は気がつくと高層ビルに視線が行ってしまっていた。

 今まで意識したことがなかったが、地元は空が広い。田舎の空がドームなら、新宿の空は縦長の直方体の一面だ。これでは東京タワーも見えなさそうだ。

「そんなに気になる?」

 涼佳は首を傾げながら笑みを浮かべる。

「いや、ビルには興味ない。なんていうか、東京タワー見えないかなって」

「うーん、このへんからは多分見えないと思うな」

「あ、いや、別に東京タワーなんて行きたくないし」

 東京タワーに行きたいなんてミーハー丸出しで恥ずかしい。本当は少し行きたいけど。

「じゃあせっかくだし行こうよ。なんだかんだ言って名所だからね」

 涼佳は方向転換し、反対側へ歩き始めた。

 なんだか癪で空也はその場にとどまっていたものの、

「どうしたの?」と涼佳に声をかけられ、結局は空也も後を追う。

 別に行きたいわけではない。好意を無下にするのもよくないからなだけだ、と自分に向かって言い訳をしているとふと思った。

 これってデートなのではないだろうか?


 メインデッキへ向かうエレベーターが動き始める。

 空也は小さくなっていくビル群を見ながら、もし今地震が起きたらどうなるのだろうと考えていた。

 確か東京タワーは70年前に建てられたはずだ。いくらメンテがされていると言っても限度がある。つまり……。

 急に怖くなってきた。空也がエレベーターの端で小さくなっていると、

「あれ、もしかして怖いの?」同じように外を眺めていた涼佳が笑みを向けてきた。「まあ、こんな高いところに行くこともそうそうないだろうしね」

「ち、違う。単に見とれていただけだ」

「私に?」

「自惚れの強いやつだ」

 呆れてため息が出るが、うっかり涼佳の横顔に見とれそうになっていたのは本当だ。

 白い肌、日頃より手入れを心がけているのが見て取れる光沢のある黒髪、青空を閉じ込めたような目。改めて思うが、冗談のような美少女だ。

「……なあ、さっき言ってた『天罰』ってどういうことだよ」

 空也は少し前に涼佳が発した言葉が気になり続けていた。

「……」涼佳は顔を動かさずに目だけを動かして空也を見た。「私のこと軽蔑しない?」

「しない」

 答えは決まっていた。空也が即答すると、同じタイミングでエレベーターはメインデッキに到着した。

「とりあえず出よっか」

「ああ」

 涼佳に続いて外に出る。大きな窓から見える光景に、空也は思わずため息を漏らしていた。

 まるで林に生える木のような間隔で、ビルが空へ向かって伸びている。

 これが日本の首都東京。自分が育った地元と同じ国にあるなんて信じられなかった。これは現実だと分かっていながらも、実在しない世界に迷い込んだかのような感覚がしてくる。

 涼佳と並んで窓へ向かって歩き、ふと、下を見た瞬間。

「ひぇ」

 足元から寒気が上ってきて、思わず飛び退いた。

「あれ、須藤くんって高い所苦手なのに東京タワー行きたかったんだ。おもしろいね」

「こ、これは感動のあまり震えているだけだ。いやーいい眺めだなあ」

 腰に両手を当てて顎を反らし、むしろ楽しんでいることをアピールする。

「へえ。それならもっと上まで行ってみる?」

「え? ここで終わりじゃないのか?」

「ううん。もう100メートル上の『展望デッキ』があるよ。高い所が好きな須藤くんなら満足してもらえると思うな」

 涼佳は目を細め、ニヤニヤと笑っている。

「い、いや、行きたいのはやまやまなんだけどな、これ以上の出費は避けたいかな〜ハハ」

 空也としてはごまかせているつもりだったが、声は妙に高く、芝居がかった仕草は「自分は嘘をついてます」と言っているようなものだった。

「ふ〜ん。それなら仕方ないかなぁ」

 涼佳は口元に笑みを浮かべ、横目で嗜虐的な視線を向けてくる。どうやら本心を見抜かれてしまっているようだ。それにしてもこういう態度を見ていると、涼佳と真実はやはり従姉妹なのだなと改めて思う。

 涼佳にからかわれたりしつつも、空也は涼佳とのひとときに充足感を抱いていた。そして東京タワーだけでなく、もっと涼佳と一緒にいたいという願望が芽生えてくる。また一緒に登校したい。一緒にどこかへ遊びにでかけたい。一緒に勉強したい。できるなら一緒の大学も行きたい。

「……楽しいね。須藤くんとこうしてるの」

 会話が途切れた後、ふと涼佳がつぶやいた。

 楽しい。ありふれた言葉なのに、耳に入った瞬間、空也は胸の奥から多幸感のある温かさが湧き上がってくるのを感じていた。同じことを思っていると知っただけでこんなにも嬉しくなるなるのはなぜだろうと思い、一つの結論にたどり着いた。

 間違いない。自分は、涼佳のことが好きなのだ。

 自分の気持ちを確信した瞬間、空也の心拍数が跳ね上がり始めた。しかし。

「――いいのかな、私楽しんでて」

 涼佳の一言ですぐに平常時に戻る。

「さっきの『天罰』と関係があるのか?」

「私はね、悪い子なんだよ」

 諦観を滲ませ、遠くのビルを見つめながら涼佳が言う。

「どういうことだよ」

 人間である時点で聖人君子にはなれっこない。とはいえ、そこまで卑下するほどのことを涼佳はしてきたとは空也には思えなかった。

「実は私も唯ちゃんと一緒でずっと陸上やってたんだよね。まあ、私は短距離だったんだけど」

「え? ああ、そうなのか」

 懺悔が始まるのかと思いきや、予想外の発言になんと言ったらいいのか困ってしまった。

「これでも私って都大会でも注目選手だったんだよね。でも、ある日怪我をして、治るには治ったんだけど、以前みたいな成績は出せなくなってやめたの」

 ずっと続けていたスポーツを続けられなくなってしまった。重い話のはずなのに、涼佳の口調はなんとなく試してみたコスメが失敗だったくらいの軽さだ。

「もしかして足の傷って……あ」

 涼佳本人から聞いたわけではないことに気づき、とっさに口を押さえたものの、すでに言葉は放たれてしまっていた。

「誰から聞いたの?」

「唯、唯だよ」

 とっさに唯の名前を出してしまったが。実際唯から聞いたのは本当だ。

「なるほどね。あのときか。でも話が早いかな」

「早い?」

「もともと私は太めの足がコンプレックスだったんだよね。陸上をしていたときはまだ自分に言い訳できたけど、陸上もやめて、傷まで残っちゃったら、もう無理だよね」

 涼佳は自分の太ももに手を当てる。いつも履いているタイツは、コンプレックスを隠すためだったということだ。

 それなのに、初めて会ったときからこれまで何度も称賛し、話題としても、物理的にも触れまくっていたのだ。空也の胸に罪悪感が一気に押し寄せてくる。

「……もしかして、引っ越してきたのも関係あったりするのか?」

「そうだね。やっぱり精神的にくるものがあったみたいで」

「すまなかった」

 居ても立ってもいられず、涼佳に向かって頭を下げる。

「え? 何か謝るようなことしたっけ?」

 しかし頭上から聞こえてきたのは、困惑する涼佳の声だった。

「いや、だって」

 当然だろ。と思いながらも頭を上げると、得意げにも、自虐的にも見える笑みを浮かべた涼佳がいた。

「須藤くんは勘違いしてるよ。私は須藤くんを必要としてたから」

「必要? え?」

 逆に必要としていたのは自分じゃないか? と空也は思った。だいいち、涼佳が自分を必要としてくれる理由が分からない。

「須藤くんが私の足を絶賛してくれたの、実はとても嬉しかったんだよね。写真を撮ってもらったり、膝枕をしてあげたりしてあげてたのも、全部私を必要としてくれたから。それに、私の言葉一つで焦ったり喜んだりしている須藤くんを見てると、私の存在を認めてもらえたみたいだった。こういうのって承認欲求っていうんだよね?」

「承認欲求……」

 思いもよらぬ言葉に、ついオウム返しをしてしまった。

 空也からすると涼佳には無縁の概念だと思っていた。他人にいかに認められるかなんてどうでもよくて、ただ自分が今の自分でいることに疑いを持たない。そう思っていた。いや、そう思っていてほしかった。

「唯ちゃんって陸上で期待されてたでしょ。でも、陸上を捨てて、足も唯ちゃんほど細くないのに、私は唯ちゃんより須藤くんに必要とされていた。その事実が、私のちっぽけな自己肯定感を高めてくれた。しょうもないよね? くだらないよね? がっかりしたよね? でも、私はそういう人間なんだよ」

 空也は涼佳の今までの行動が腑に落ちた気がした。思った以上に涼佳という少女は心に闇を抱えていたようだ。しかし、だからといって涼佳を非難しようという気は毛頭なかった。人間なら誰しも抱く感情だからだ。

「そんなこと言ったら俺も同罪だ。昨日唯に付き合うことはできないとはっきり答えたけど、散々振り回しておいてよりによって昨日言うなんて、一生恨まれても不思議じゃない」

「昨日何かあったの?」

「そうか、来栖は知らなかったか。唯は両親と一緒に住むために大阪に引っ越した」

「そう……なんだね」

 涼佳はか細い声で相槌を打つ。

「だから、来栖だけが抱え込む必要はないんだ」

「よくないよ。どうして断ったの?」

「それは」

 空也の言葉を詰まらせたのは『恐怖』だった。頼んでもいないのに脳内では涼佳に断られたビジョンが再生され、声帯が凍りついたかのように声が出ない。

 以前の空也ならば恐怖から逃げ出してしまっていただろう。

 しかし、もう逃げないと決めていた。

「来栖のことが好きだから」

 涼佳に体を向け、思いを告げる。

 空也の告白に涼佳は一瞬目を大きくし、視線を落とす。

「……私なんか選んじゃダメだよ。今はよくても、これからも好きでいてくれる自信がない」

「そんなものいらない」

 即座に否定されたからか、涼佳は驚いた表情で顔を上げ、空也は話を続ける。

「誰かに必要としてもらえるために一生懸命で、笑顔は見とれてしまうほどきれいで、何でも美味しそうに食べて、足は一生膝枕してもらいたくらい素晴らしくて、話していると調子狂うけど、なぜだか一緒にいると満たされた気持ちになってくる。もっと一緒にいたいと思ってくる。そんな来栖を好きでなくなる自信がむしろないわ」

 初めて涼佳と出会ったときのように、クサいセリフが理性に検閲されることなく口から飛び出していく。

「……須藤くんってたまに『恥ずかしくないのかな?』って思うこと平気で言うよね」

 涼佳はしばし呆然とした表情を浮かべていたものの、目を細めて笑う。

 これ、どっちなんだ。涼佳の反応を見て空也が抱いたのは困惑だった。

 好意的な反応をしているようには見えるが、直ちに『OK』と断定できる材料にはできない。かといって「つまりどっちなんだ?」と尋ねるわけにもいかない。

 空也が身動きを取れずにいると、

「よろしくね」

 涼佳が手を差し出してきた。つまり……OKということなのだろう。

 自分は夢を見ているのだろうかと思った。そうでなくても妄想に支配されているか、幻覚の類かもしれない。しかし、こんなリアルなのに夢や幻覚とは到底思えなかった。

 現実味がないまま、空也は涼佳の手を取る。小さくて、思ったよりひんやりとしていたが、触れた瞬間胸の奥が暖かくなった。

 涼佳と目が合い、笑みを向けてくる。おそらく現実だとは思うが、まさに夢のようだった。


 1時間後。

 空也は涼佳の家でシャワーを浴びていた。

 来栖家は比較的新しいマンションで、室内のデザインは住宅メーカーのCMで見かけるようなモダンなつくりだ。

 どういう状況なんだこれは。頭を洗いながら、空也は困惑していた。

 あの後空也は本来の目的と松子が会いたがっていることを伝え、涼佳は快諾した。

 確かに季節柄バスに乗る前にさっぱりしておいたほうがいいのは分かる。

 しかし、それだったらシャワーがあるようなネットカフェや、銭湯でもよさそうだ。

 だが、それを涼佳に伝えると「お金かかるでしょ? それに今日はうち遅くまで誰もいないから」とどこかで聞いたことあるセリフの亜種バージョンのような答えが返ってきた。

 もちろん涼佳の言う通り、余裕があるわけではない。なので空也は「ただシャワーを浴びるだけだ」という誰に向かってなのか分からない言い訳を頭の中で繰り返していた。

「……石鹸やシャンプーは庶民的なんだな」

 1人つぶやき、お湯を止めて脱衣場へ出ると、涼佳が飛び込んできた。

「は!?」

「きゃっ!」

 涼佳は空也から視線をそらし、空也はタオルを引き寄せ、前を隠す。

「ど、どうしたんだ急に」 

 動揺を抑えながら涼佳に尋ねると、

「ご、ごめん。お父さんが帰ってきちゃって」

「なんだって!?」

 空也は大吾と出くわしてしまった場合のことを想像していた。涼佳は先にシャワーを浴びており、髪の毛には風呂上がり特有の艶がある。この状況ではどう答えても言い逃れできない。殺されてもおかしくないだろう。

「とりあえず、私がシャワーを浴びてることにするから須藤くんは絶対に喋らないでね」

「お、おう」

 程なくしてドア越しに「涼佳いるのか?」と大吾の声が聞こえてきた。

「うん。今日はこれから友達の家で勉強会しにいくことになってて。泊まりになるかも」

「そうか分かった」

 特に疑う様子もなく大吾がドアから離れていったのを音で察すると、ふたりして安堵のため息をつく。

「早く着替えて」

「そのつもりだけど……」

 しかし涼佳は脱衣場から出ていく様子を見せず、ドアの前に立ち尽くしている。

「私がここいないとお父さんが入ってきちゃうかもしれないでしょ」

「いや、それはそうだが」

「早く」

 恋人同士になった当日に裸を見られた挙げ句、背を向けられているとはいえ、目の前で生着替えをする羽目になった空也だった。

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