真実
空也は真実に連れられて、松子のお見舞いに来ていた。
「今日も涼ちゃんは来られないのかい?」
ベッドの上で上半身を起こした松子が真実に尋ねると、
「涼ちゃんは夏風邪引いちゃって」と真実が松子に嘘を伝える。
空也は真実から『涼佳が東京へ帰ることを伝えるのは先にしたい』と聞かされていた。確かに松子はただでさえ不安を抱えているのだ。今は伏せておくのがいいだろう。
「涼ちゃんに会いたいねえ」
松子は外へ視線を向ける。
入院してまだ数日なのにも関わらず、少しずつ元気がなくなっている気がした。
松子に本当のことを伝えない理由は、涼佳が会いに来たらそのつもりはなくてもバレてしまう可能性があるからだ。
涼佳の父親、大吾は石原家に居着いてしまっており、空也と涼佳が会うことを禁止していた。さらに引っ越しも間近に迫っているという事情もある。
昨日空也は意を決してメッセージを送ってみたのだが反応はなかった。父親からやり取りすらも禁止されているのかもしれない。
真実や涼佳がやってきてから、松子が若返ったように見えていた。しかし今は以前より老け込んでしまったようにも見える。
空也にとっては松子はどちらかといえばすごく年上の友達のような感覚だ。このままいなくなってしまうのだろうか、と思うと望んでもいないのに目から涙が滲み始めた。
「なんだい、何泣いてるのさ。そんなんじゃ涼ちゃんに嫌われちゃうわよ」
「な、なんでそこで来栖が出てくるんだよ」
涙を拭い、動じていないことを強調するように荒い口調で言う。
「アンタ、涼ちゃんのこと好きでしょ。見てれば分かるわ。それとも、唯ちゃんだったりするかい?」
今の状態でその話を振られるのは辛かったが、「な、何言ってるんだよばーちゃん」と作り笑いを浮かべてごまかす。
「空也」
「なんだよ」
「男女平等だとか言うけどね、やっぱり最後は昔ながらの男らしい男が一番だよ。昔は女は一歩引いて歩けとか言われたけどね、ありゃ違うんだよ。女を守るために男が一歩前を歩くんだよ。大事な女の子を守れる男になりな」
「……」
返事の代わりに空也は唇を歪める。
最近の主観的にも客観的にも男らしくない言動・行動を咎められたようで耳が痛かった。
「ま、アンタにゃしばらくムリだろうがね」
「うっさいわ!」
思わず大声を出してしまったもの、久しぶりに松子の楽しそうな表情を見た気がした。
病院を後にすると、真実が「ドライブにいかない?」と提案してきた。
「いいよ」
このまま帰って1人で家で勉強するのも気が乗らない。断る理由もない。
特に希望もないので真実に行き先を任せると、高速道路に入った。低回転ではくぐもったエンジン音だが、回転数を上げると肉食獣の咆哮を思わせる音に変わる。
決して心地よい音ではないが、身震いとともに気分が高揚してくる。速度メーターは120㎞/hを指していた。
「最近こうやってかっ飛ばすことなかったから気持ちいいなー」
真実はさらにアクセルを踏み込み、前を走る車を追い抜いていく。
「ちょ、ちょっと飛ばし過ぎじゃない?」
無意識のうちに空也は窓の上側にあるアシストグリップを握りしめていた。
「大丈夫大丈夫。高速道路なら+20㎞/hまでは切符来られないし」
真実はスピードを下げることもなく、上機嫌で先行車を追い抜き続けている。
「いやいやもう+20ってレベルじゃないって」
「大丈夫大丈夫。このメーターマイル表記だから」
「絶対嘘だ~!」
どう見てもメーターには『㎞/h』と書かれている。
ふと、以前松子の運転するバイクの後ろに乗せてもらったことを思い出した。
真実と同様に、松子もハンドルを握ると妙に性格が開放的になっていた気がする。きっと血筋なのだろうと納得しつつも、助手席で小さくなっていた。
ちなみに1マイルが約1.6㎞なので真実の言ったことはデタラメである。
気がつけば隣の県に入り、2人はパーキングエリアで休憩していた。
自販機で飲み物を購入し、その場で飲み始める。
8月も半ばに突入していた。18時を過ぎてもまだ外は明るいが、徐々にではあるが日が短くなっている気がする。夏ももうすぐ終わりなのだと思うとさみしさを感じてしまう。
真実は遠くに見える山々に視線を向けながら、
「まさか涼ちゃんのお父さんが居着くなんて予想外だったなー。涼ちゃんが帰るのもすぐにされちゃったし」と苦笑を浮かべる。当然だが大吾が家にいることを快く思っていないようだ。
「……たぶん、俺のせいだ」
言うべきか迷ったが、正直に言うことにした。
「え? そうなの?」
空也が真実にこれまでのことを話すと、
「なるほどね。なかなかマニアックな趣味してるんだね」
真実は引きつった笑みを浮かべていたが、それ以上は特に何も言ってこなかった。
「だから、来栖がすぐに東京に帰らなきゃならなくなったのは俺に責任があるんだ」
手にしていた缶に力を込める。が、スチール缶なのでびくともしなかった。
「涼ちゃんのお父さん……大吾さん礼儀は正しいけど、いくら叔父とはいえ他人が家にいると落ち着かないね。このへんデリバリーサービスもないから私が食事を用意してて、その分ちゃんとお金も出してはくれるんだけど、こんなこと言うんだよ。『やはり田舎は不便ですね』って。不便ならとっとと帰ればって思っちゃう」
真実は空也の責任については言及せず、愚痴り始めた。
不思議な感覚だ。真実から愚痴を聞かされるようなことは今までなかった気がする。
空也にとって真実は年上の大人の女性で、自分が抱くような小さな悩みで不安になるようなこともなく、誤解を恐れずに言うと違う生き物のように思っていた。
だからこそ、真実の口から愚痴が出たことに戸惑いを抱いてしまう。
しかしそれは間違いで、人間である以上何かしら悩みを絶対に持っている。ただ大人は隠すのが上手いだけだ。
そう思ったら、今まで聞けずにいた事を尋ねたくなってきた。
「そういえば、なんで帰ってきたんだ?」
「なんていうか『住ませてもらってる』感がずっと消えなかったからかな?」
「どういうこと?」
言いたいことは分かるが、抽象的過ぎていまいちしっくりこない。
「仕事で遅くなった日に狭い真っ暗な部屋に帰ってきたときふとに思ったんだよね。『ああ、私って東京に昔から住んでいる人たちのために働いてるんだな』って。そしたら毎日満員電車に耐えながら仕事に行くのがバカバカしく思えてきちゃって」
空也は無言で缶の穴を見つめながら、話の続きを待つ。
「で、地元に帰ってきて、やっぱりここは私がいていい場所なんだなって思っちゃった。涼ちゃんは予想外だったけど妹ができたみたいで楽しかったし、改めて私の居場所はここなんだ、もっと早く帰ってくれば……って思ってたのに、おばあちゃんはガンになっちゃうし、涼ちゃんはいなくなっちゃうし。私、どうしたらいいのかな」
最初はカラッとした口調で話していた真実だったが、徐々に弱々しい声に変わっていく。
真実は空也たちを不安にさせないよう『大人』を演じていただけだったのだ。
空也の身長はすでに真実を追い越しているが、子供の頃大きく見えた真実が一層小さく見えてくる。真実も涼佳や唯と同じ、ひとりの『女の子』なのだ。
何も言えなかった。というより、何を言ったらいいのか分からなかった。
ふと、空也の手を柔らかい感触が包んだ。
「空くん」
真実が空也の手を握っていた。
今までは空也が甘える側だったのに、今真実は潤んだ目で空也を見ている。
この前の唯との一件がフラッシュバックし、今度はうまくやらなければならないというプレッシャーが生まれてきた。だが頭の中にあるどの選択肢を選んでも失敗しそうな気がしてくる。
自分はどうするべきなのだろう。空也から見て真実は大人の女性だが、世間から見ればまだまだ若造だ。今の状況で冷静になっていられるほどの人生経験は積めていない。
それならば、今は真実のしたいことをさせるのが男としての務めなのではないだろうか。という考えが一瞬脳裏によぎったものの、
――いや違う。
「俺の知ってる真実さんはそんな子供みたいなこと言う人じゃない」
空也は真実の手を振り払った。
「私は、空くんが思ってるほど大人じゃないよ」
「思ってるほど大人じゃないとかどうでもいい。俺にとってあなたは俺の憧れの人なんだから、カッコよくいてよ」
「私に理想を押し付けないで」空也の耳に飛び込んできたのは、感情を抑えた真実の声だった。「昔は私のことを好きだったんでしょ。だったら、今くらい助けてよ」
その声につい動揺しそうになってしまうが、深呼吸をしてなんとか冷静さを取り戻す。
「助けたいよ」真実をまっすぐ見る。「でも、今のあなたは助けたくない。だけど、楽しそう
に俺をからかってくる『真実さん』を助けるためなら何だってする」
「……」
真実は顔を伏せ、すぐには返答はなかった。
10秒、もしかしたらもっとかかっていたかもしれない。沈黙の後、真実は冷めた表情を浮かべながら顔を上げると、
「はぁ〜7個も年下の子に説教されるなんてなー」自虐的な口調で前髪をかきあげる。表情は硬かったものの、笑みが浮かんでいた。「ごめんね。かっこ悪いところ見せちゃったね」
髪型も服装も違う。それに今はメイクもしている。しかしついさっき見せた真実の笑顔は、空也が知る、そして憧れを抱いたあのときと全く変わっていなかった。
「……まあ、元気が出たならよかったよ」
なんだか柄にでもないことを言ってしまった気がする。自分のキャラじゃない。気恥ずかしさから視線をそらす。
「ふふ。もう子供だなんてからかったりできないね」
「ま、まあそろそろ帰ろう。あまり遅くなると母さん心配するし」
ゴミ箱に空き缶を放り込み、車へ向かって歩き出す。
「そうだね。くーくんはまだ『未成年』だもんね。あ、やっぱりまだ子供か。ふふ」
真実も空也に追いつくと、並んで車へ向かう。
赤の三菱ランサーエボリューションXが視界に入ったところでふと空也は思った。
さっきの話しぶりを聞く限りでは、真実は東京でそこまでいい暮らしをしていたわけではなさそうだ。なのに、中古でもいい値段のするランサーエボリューションXを買うお金はどこから出てきたのだろう?
「そういえば、この車ローンで買ったの?」
空也は車に乗り込むと、シートベルトを締めながら真実に尋ねた。
「ううん。一括だよ?」
「……もしかしていわくつきの事故車とかじゃないよな?」
不安になって車内を見渡す。今の技術では跡形もなく修復できるのかもしれないが、元事故車には見えない。
「誰にも言わない?」
急に真顔になった真実に気圧されつつも、「言わない」とかろうじて答える。
嫌な予感がした。まさか夜の仕事をしていたのだろうか。キャバクラでも少し嫌だが、もし風俗のような類の仕事だったら――
「その、絵やコスプレ写真を売れるようなサイトで、足……の写真を売ってたんだよね」
「え?」
「意外と人気があったんだよね。あ、でもタイツ履いてたし、腰より上は絶対に載せてなかったから。それに、こっちに帰ってきてからはもうしてないからね?」
空也の中で点と点が繋がった気がした。
「黒須タイ子」
独り言のように口に出すと、
「なんで知ってるの?」
真実が体を寄せてきた。
「いや、写真集、全部持ってるから」
合点がいくとはまさにこのこと。偶然見つけたときに不思議と惹かれたのも納得だ。何を隠そう憧れのお姉さんの足で、空也の今の性癖を作り上げたのもこの足なのだから。
「ふーん」真実の顔に意地の悪い笑みが浮かぶ。「知らなかったのに買っちゃってたって、どれだけ私のこと好きなの」
「い、いいだろ別に。もう帰ろう」
恥ずかしくて窓側に顔をそらすが、見ずとも真実がニヤニヤと笑っているのが分かった。
「はいはい。未成年をあんまり遅くまで拘束するのはマズいもんね」と真実がエンジンをかけたと同時に、空也のスマートフォンが震えた。
会話を打ち切るべくポケットから取り出して確認すると、唯からだった。
『明日の18:07に大阪に向かうから』
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