幼なじみ
夜。空也は空也母と夕飯を食べていた。父親は今日も帰りが遅くなるようだ。
「アンタ久しぶりにうちでご飯食べてる気がするわね」
「そんなことないだろ。母さんの勘違いだよ」
確かに夜を石原家で食べることは増えたが、当然毎日でもないし、朝や昼は今まで通り家で食べている。
「まあ、息子の将来がかかってるからお母さんとしては何も言うことはないんだけど、やっぱり1人で夕飯ってのは寂しいわね」
「なるべく今後は家で食べるようにするよ」
今後は石原家で夕飯を食べることもなくなるだろうが、正直に言っても何かあったのかと心配されるのも面倒だ。角の立たない言葉でお茶を濁すことにした。
「涼佳ちゃんをうちに呼んでもいいのよ~?」
つい動揺してしまい、箸でつまんでいたご飯をテーブルの上に落としてしまった。
「どうしたの?」
「いや、勉強のし過ぎで手がつったみたいだ」
落としたご飯を手でつまみ、口に運ぶ。
「そういえばアキコから聞いたんだけど」
「ああ」
アキコとは唯の母親で、今は夫婦で大阪に住んでいる。どうせ自分にはあまり関係ない話だろうと思ったものの、
「唯ちゃんも大阪に呼ぶことにしたらしいわね」
「え」
今度は箸を落としてしまった。
「え、聞いてないの」
「聞いてない」
「そんな大事なことを聞いてないなんて、喧嘩でもしたの?」
空也は答えることなく箸を再び手に取ると、茶碗に盛られたご飯とおかずを一気に掻っ込む。
「ごちそうさま。ちょっと唯のところに行ってくる」
「え、もう夜よ?」
呼び止める声を無視して空也は外へ飛び出すと、唯の家に向けて自転車を走らせた。
汗だくで現れた空也に、玄関に出てきた唯は目を丸くした。
「こんな時間にどうしたのー?」
「大阪に引っ越すって本当か?」
唯の問いに答えず、質問をぶつけると、
「あー、ついにバレちゃったかー」
唯はいたずらがバレた子供のようにタハハと笑う。
空也は唯の後ろ、廊下に段ボール箱が積まれていることに気づいた。どの箱にも引越し業者のロゴが印刷されている。
「どうして黙ってたんだよ」
「切り札は最後まで取っておいたほうがいいかなーって」
「いつ、行くんだ」
唯の軽口に付き合わず、思い詰めた口調で尋ねる。
「3日後」
「すぐじゃねえか。なんでそんな大事なこと黙ってたんだ」
唯の他人事のような物言いに、声を荒げてしまう。さっき聞いたことをまた聞いてしまうほど取り乱していた。
「でもこれでくーくんにとって私は『忘れられない女』になったよね?」
ふざけんなと言いたかった。しかし、唯がこのような行動を取ったのは自分自身にあると思うと、言えなかった。
「ずるいぞ」
「くーくんにだけは言われたくないなー」
空也は言い返すことができなかった。
そう、自分は卑怯者だ。自分の都合で唯を傷つけ、唯を追い詰めてしまった。
タイツが芸術品だとか、関係が壊れるのが怖いだとか、どれも自分勝手な理由で、唯のことをまるで考えていない、自分本意な理由ばかりだ。
言葉が出てこなかった。頭の中の日本語辞書が全ページ白紙になってしまったかのようで、頭の中には確かに『何か』があるはずなのに、それを表現できる言葉がなかった。
何も言うことができず、この場を立ち去ることもできない。
自然と視線が下がる。意味もなく転がっていた石ころに視線を向けていると、
「ここで幼なじみから大事なお願いがあります」
声からは改まった話をするように聞こえ、空也は顔を上げる。
そこには手を後ろで組み、背筋を正した唯がいた。
「なんだよ」
なんとなく何を言われるか分かっていた。
「くーくん、わたしと付き合ってください」
これで通算6度目。
沈黙が訪れる。
今までは答えが決まっていた。しかし今回は決まっていない。そしてどちらを選ぶかは、この状況においても即断することはできなかった。だが、今回ははぐらかすことは許されない。答えを出さなければならない。
何度も悩んだ末、空也は心を決め、口を開く。
「分かった」
通算6度目にして、空也の答えが変わった瞬間だった。
「……」
「唯?」
間違いなく『回答』を口に出したはずなのに、唯は固まってしまっていた。まるで唯だけ時が止まってしまったかのようだ。
不安になり空也が唯に手を伸ばそうとした次の瞬間、唯の目尻から涙が流れ始めた。
「あれ、おかしいなー。私嬉しいはずなのに。なんでかなー」
動き出した唯は笑いながら涙を拭い始めたかと思うと、鼻をすすり、泣き始めた。流れ落ちた涙が玄関のコンクリートに黒いシミを作っていく。
「すまん」
本来ならば、泣くのではなく喜ぶところだ。しかしこうして唯が涙している原因が自分にあるのだと思うと胸が傷んだ。
「いいよ。最後の最後にOKくれたしチャラにしてあげる」
唯は涙で濡れた顔で、無理に表情筋を動かしたような笑みを浮かべる。顔は涙でひどい有様だったが、表情だけで唯が心から喜んでいることは断言できそうだった。
翌朝。
「アンタ唯ちゃんと『いまさら』付き合い始めたんだって」
空也母に唐突に尋ねられ、空也は茶を吹き出しそうになった。
「な、なんで母さんが知ってるんだよ?」
「アキコから聞いた」
きっと唯からアキコ(唯の母)、そして空也母という流れなのだろうが、それよりもそんなことまで母親に話すのかと突っ込みたかった。
「やっぱり地元の女が一番よ。価値観も近いし」
「気が早すぎるわ」
思わず顔が引きつる。
「それで、今日はデートなんでしょ? 初々しくていいわねえ。あ、今までやきもきしてた分一気に進んじゃったりしちゃダメよ? せいぜいキスまでにしときなさい」
今度は本当に茶を吹き出してしまった。
唯と空也はお昼を食べに来ていた。
場所は隣町との境目にあるお店で、デートという雰囲気の店ではなく、どちらかといえば定食屋だ。周りの客も、作業服やクールビズスタイルを着た、お昼休憩中の大人ばかりだ。
今日の唯はメイクをしていた。空也はその手のことはさっぱりだが、物心ついた頃から唯を見てきたのだ。普段と違えばすぐに分かる。
メイクを施したことで普段の健康的な雰囲気が一転。妙に艶めかしかった。
服装も淡い色のワンピースで、大衆食堂では浮いているように感じる。凝ったデザインのカフェでコーヒーでも飲んでいる方が似合いそうだ。この田舎にはそんなものはないのだが。
「本当にこんな店でよかったのか?」
空也は水を一口飲むと唯に尋ねた。別人のような唯を視界に入れるのが照れくさくて、視線が壁に貼られたポスターや壁の汚れなど、あちこちへ転々としてしまう。
「もちろんだよー。この町におしゃれな店を求めても仕方ないからね」
「そういうもんか」
「そういうもん」
デートと言いつつも、特に話題もなく沈黙が訪れる。
涼佳が相手ならば、空也は焦り始めていただろう。しかし唯が相手だと会話が途切れてしまったこと自体が意識にのぼってこなかった。
「おまたせしました」
店員のおばちゃんが空也の割子そば(4段)と、唯のカツ丼を運んできた。
「おいしそー」
唯は湯気立ちのぼるカツ丼に目を輝かせ、そんな些細な仕草にも空也の心臓は敏感に反応していた。
心を落ち着かせようと無意識のうちに頭を左右に振っていた空也に、唯が「どうしたの?」と尋ねる。
「いや。なんでもない。と、とりあえず食べるか」
「うん」
2人「いただきます」と手を合わせて食べ始める。
「んー、おいしい」
デート向きの店ではないし、そもそも頼んでいるものもデート的ではないが、唯は満足そうだ。『やっぱり地元の女が一番よ。価値観も近いし』という言葉がフラッシュバックする。
食べ始めてからは一層2人の間から会話が減っていたが、空也は意識すらしていないし、唯も不満を抱いているようには見えなかった。
「そばちょっともらってもいいかなー?」
「ああ」
空也が漆器を差し出すと、唯はそこから一口分すすった。
「うん、いい香りがするねー」唯はうんうんと頷くとカツの一切れを箸で挟み、空也の顔の前に突きつけた「はい、あーん」
「え?」
「くーくんがくれたんだから、私もあげないと不平等だよね?」
困惑する空也に、唯はカツをさらに近づけてくる。
「いや、でもさ、これする必要あるか?」
「私たち付き合ってるんだから必要あるよ」
そうだった。
周りの目が恥ずかしかったが空也は口を開け、カツを迎え入れた。出汁の香りが鼻を通り抜け、しっとりした衣を纏ったカツが舌の上に乗った瞬間確信した。これは間違いなくうまい。
その予想は正しく、一度噛んだ瞬間脳が悦んでいた。20回咀嚼し、飲み込む。
「おいしい?」
「おいしい」
「よかったー」
嬉しそうに目を細める唯を見ていると、この選択は間違っていなかったと思えてきて、涼佳と出会う前になぜできなかったのかとつい考えてしまう。
「へえ、ここおかわり自由なのか」
ふと視界に入った張り紙には『定食をご注文のお客様はご飯おかわり自由』と書かれていた。
「うーん、私はちょっとごちそうさまかなー」
唯は背もたれに体を預け、苦笑を浮かべながらお腹に手を当てる。
ふと、涼佳だったら喜びそうだなと思い、
「く……」
来栖、と言おうとしたところで言葉を止める。今唯の前で涼佳の名前を出すのはいいことではないと思ったからだ。
「く?」
空也は両拳を握りしめると、
「悔しい。おかわり自由なら定食頼んどけばよかった」
拳を握りしめ、悔しがっている感をアピールする。
「あれ、でもくーくんってそんなに食べる方だっけ?」
「いや、それは、今日は朝から何も食べてなくてな。ハハハ」
今度は体を反らし、ごまかし笑いを浮かべる。
「なのに割子そばたった4段なんだー」
「いや、ダイエット中なんだよ」
「栄養不足は脳の敵だ! って前言ってたのに?」
「う」
なんとか誤魔化そうとしたが、行き止まりに追い込まれてしまった。
いつの間にか食べ終えていた唯は水を飲むと、
「まあ、嘘で逃げようとしたのは減点だけど、気を使ってくれたところは合格かなー」
さすが幼なじみ。どうやら心を読まれてしまっていたようだった。
空也と唯は半分こしたパピコを食べながら川沿いの公園を歩いていた。気温は高いが、風が吹いていて思いの外過ごしやすい。
公園、と言っても整備にお金がかけられているわけではなく、黒ずんだベンチがあるくらいだ。対岸には猿でも住んでいそうな森があり、少なくともデート向けの場所ではないだろう。
「この公園の周りを中学の頃にマラソン大会で走ったよねー」
なんでこんなところでと空也が思っていると、唐突に唯が言った。
ランニングコースが公園を囲うように作られており、空也たちが通っていた中学校では恒例行事なのだ。
「あったな。俺は走り終えて死にそうになってたのに、唯はケロリとしていてバケモノだと思ったわ」
「あ、女の子捕まえてバケモノ呼ばわりはどうかと思うけどなー」
不満を口にする唯だが、空也にはこの些細なやりとりも楽しんでいるように見えた。
最近は上手く行ってなかったが、唯とは自然に話せる。肩ひじを張る必要もない。『あのこと』をいつまでも引きずって意固地になる必要はなかったのではと思えてくる。
2人は川辺に向かう。聞こえてくるのは川の音と、風の音だけだ。周りに人もおらず、2人だけの世界になったかのようだ。
「ねえ、くーくん」
横に立つ唯の甘えた声が聞こえてきた。
「なん……」
最後まで言い終える前に、空也の言葉は途切れてしまった。
唯は目を閉じ、顎をわずかに上に向けていた。何を求めているかは一目瞭然で、言葉にするまでもない。
応えるべきだと思った。唯の両肩に手を置くと、一瞬唯の肩が震える。自分から求めてきたとはいえ、やはり緊張しているのだろう。
期待と緊張を滲ませた表情、そして桃色の唇に、唯に対して抱かないようにしていた感情が湧き上がってくる。
「くーくん」
目を閉じたまま、唯が顎をしゃくって急かしてきた。
そうだ。いつまでもこうしているわけにはいかない。
空也は両手を唯の肩に置き、顔を唯に近づけようとした――が、昔のことを思い出し、見えない壁に阻まれるように動きを止めてしまった。
かつて空也が真実に思いを伝えたものの断られてしまった直後のこと。心の傷を抱えた空也が家でふてていると、唯が家にやってきて「なんでもしてあげるよ」と言ってきた。
そして空也は、あろうことか唯の胸を揉んだ。
当時すでに唯の胸は徐々に大きくなり始めていたが、不安そうな表情で怯えていた唯に、「そんなに大きくないな」という最低な一言を言ってしまい、結果唯は泣いた。
すぐにとんでもないことをしてしまったと気付き謝り、唯は許してくれたものの、罪悪感は空也の中に残り続けていた。
あの日以来、唯を異性として見てはならないと自分を戒めることにしたのだ。
しかし日増しに唯は魅力的な女の子に成長していく。関わらないようにしたいとも思った。
だが唯はそれを望んでおらず、罪悪感からこれまでと変わらず唯と関わり続けてきたものの、何度告白されても意地でも断るという中途半端な状態に陥っていたのだ。
ただ、空也が動きを止めたのは罪悪感だけではなかった。キスしようとした瞬間、涼佳の顔が思い浮かんでしまったからだ。
唯を選ぶべきだと思った。自分のことをここまで想ってくれる女の子なんてそうそういない。
しかし、何者かに頭を掴まれているかのように、これ以上唯に顔を近づけることができなかった。肩から手を離し、ゆっくり腕を下ろす。
「どうして?」
目を開けた唯の表情は、今にも泣き出しそうだった。
「すまん」
「あのことはもう気にしてない、くーくんは悪くないって何度も言ってるよね」
空也は「分かってる」ととっさに答えたが、口先だけなことが丸わかりだった。
「涼ちゃんなんでしょ」
「……」
答える代わりに空也が口を一文字に結ぶと、唯は無言で自分のスカートをつまみ上げた。下着はギリギリ見えない高さではあるものの、白い生足が露出する。
「おい、何やってんだ」
「私の脚を見てよ。細くてきれいだよね?」
唯は空也の言いつけを聞くことなく、見せつけるようにわずかに手の位置を上げる。
たしかに、陸上をやっているおかげか締まっていつつも、かといって筋肉質ではなく女性特有の丸みのある、均整の取れた足だ。
「……それは」
空也は肯定とも否定とも取れない返事をした。
唯はそれを肯定と捉えたようで、
「だよね。くーくんは涼ちゃんの足が好きみたいだけど、タイツでごまかしてるだけ。私と比べて太いし、傷があるんだよ」
「傷?」
「そう。涼ちゃんの足には長くて、醜い傷があるんだよ。家に泊まったときに見たの。私の方が、細くて白いのに……あんな汚い足の女の何がいいの?」
「唯」
「分かってくれた?」
唯の表情がパッと明るくなる。
「来栖のことをそんなふうに言うな」
空也は険しい目で唯を見た。
怒りを滲ませた空也の声に圧倒されたのか、唯がスカートから手を離す。
おそらく唯の言うことは本当なのだろう。しかし、自分が絶賛している涼佳の足をけなされたからか、それとも涼佳自信を悪く言われたからかは分からないが、瞬間的に怒りが湧いてきて言わずにはいられなかった。
唯は今にも泣き出しそうな顔になったかと思うと踵を返し、
「わたしバカみたい」
空也の方を一度も見ようとせず、その場を去っていった。
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