涼佳の父親

 その日の午前11時過ぎ。空也は着信音で目を覚ました。

 ディスプレイには『石原真実』と表示されている。

「……しもし」

 ベッドの上で横になったまま電話に出る。

「空くん。落ち着いて聞いてほしいんだけど」

「何だよ急に」

「おばあちゃんにガンが見つかった」

「ウソだろ?」

 氷の棒を脳に差し込まれたかのように一瞬で空也の脳は覚醒し、上半身をベッドから起こす。

 わざわざからかうために電話してきたのだろうか。しかし冗談にしては笑えない上に、真実の声は冗談には聞こえなかったし、そのようなことを冗談でも言う人ではない。

「本当だよ」

 空也の心を読んだかのような声がスピーカーから聞こえてくる。

「今すぐ行く」

 空也は通話を終了するとベッドから飛び出した。


 空也と涼佳は真実に連れられて病院に来ていた。

 高齢ということもあって松子は定期検査を受けており、そのときにガンが見つかったようだ。

 ベッドの上の松子は空也たち3人に視線を向けると、

「ごめんねえ、涼ちゃん。すぐよくなってまたおいしいご飯つくってあげるからね。真実はその辺さっぱりだから。見た目ばっかよくなってもこれじゃ嫁の貰い手がないわ」

 心配しているというよりは、軽口を叩いているような口調だ。

 明るく振る舞ってはいるが、やはり不安を抱えていることは伝わってくる。

「私は料理ができなくても大丈夫だよ。だっておばあちゃんいるしね」

「まったく。年寄りをいつまでこき使うつもりなんだか」

 ため息をつく松子。とはいえ、真実の意図が伝わったようで顔には笑みが浮かんでいた。


 自販機の並ぶ食堂兼談話室。

 空也と涼佳が真実と向かい合う形で4人掛けの席に座り、自販機で買った飲み物を飲んでいると、

「おばあちゃんはどうなんですか?」

 涼佳は真実に尋ねた。

「正直、まだわかんないって」

 真実は手にしていた紙コップをテーブルの上に静かに置く。

「おばあちゃん……」

「でも、大丈夫だよ。あのおばあちゃんだよ? いくらガンでもケロッと治ちゃうって」

「……はい。それもそうですね」

 真実の励ましに、涼佳は小さく頷く。大抵のことはクールに流す涼佳にしては珍しく暗い表情だったが、当然のことだろう。

 真実の発言にも根拠があるわけではない。涼佳に元気を出させる以外にも、自分に言い聞かせたいという意図もありそうだった。

「だ、大丈夫だって。今はいろんな治療方法があるんだろ? それにばあちゃんだってガンが見つかったって言ってた割には元気だったろ?」

 場の空気を少しでも軽くするため、空也は意識して明るい声で涼佳と真実の顔を見る。

「そうだね、空くんの言うとおりだよね。きっと大丈夫」

 真実はぎこちなさが残っていたものの、笑みを浮かべ、涼佳も「そうだね」と表情を柔らかくした。

「じゃあ、今日は私が夕飯を作ろうかな。空くんも食べに来るよね?」

 真実は立ち上がると、空也を見た。

「お姉ちゃんって料理できるの?」

 先ほどの松子の発言のせいか、不安になってくる。

「私東京では一人暮らししてたんだよ? それくらい余裕だよ」

「あれ、真実さんって東京住んでた頃は自炊なんて全然しなかったって言ってませんでしたっけ?」

「ちょっと涼ちゃん」

 真実の顔に焦りが浮かび、なんだか急に不安になってきた。

「じゃあ3人で協力して準備しよう」空也も立ち上がる。「レシピをちゃんと守れば失敗もしづらいだろうし」

「須藤くんに賛成」

 涼佳も立ち上がる。

「じゃあ、これから買い物に行こうか」

「私なんだかワクワクしてきました」

 涼佳と真実の表情は、食堂兼談話室に来た直後より元気になったように空也には見えた。

 今は2人だけにしないほうがよさそうだ。これが今自分にできることでやるべきことなのだと、空也は自分に言い聞かせた。


 病院を後にした3人が石原家で遅めのお昼の準備をしていると呼び鈴が鳴った。

「私出るから2人は準備してて」

 真実が玄関へ向かった後、「来栖さん?」と困惑の混じった声が聞こえてきた。

 空也の記憶では『来栖』なんて名字はこのあたりでは聞いたことがない。しかも涼佳と同じ名字だ。

 涼佳にも聞こえていたようで、空也と涼佳は玄関へ向かう。

 そこには、神経質そうな印象を感じさせる40半ばと思われる男が立っていた。

「お父……さん」

「涼佳。帰るぞ」

 涼佳の父、来栖大吾は冷たい目で涼佳を見た。


 唯は自転車で石原家に向かっていた。

 目的は空也に会うためだ。最近はメッセージを送っても返ってこないときはだいたい石原家にいるので、しばらく待っても返信がないときは石原家へ向かうことにしていた。

 唯は空也が涼佳に惹かれていることを心の中で確信していた。

 しかしまだ付き合っていないはずだと勇気を振り絞って迫ってみたが、拒否されてしまった。

 もう自分は気にしていないのに、空也は昔のことをいつまでも引きずっている。真実とは仲直りできたのだから、自分との過去も振り切ってほしい……とは思うのだが、それだけ大事に思われているという証左にもなっているのが辛いところでもある。

 だけど、こうやって空也に会うために部活をやめたのだ。しばらくしたらまた始める予定だとはいえ、3年間という短い期間では数週間のブランクも痛手だ。

 やはり自分は実りのないことをしているんじゃないだろうか、と考えてしまう。

 いくらうまく立ち回ろうが、恋愛はダメなときは何をやってもダメなのだ。

 頭の中で答えの出ない考え事をしているうちに、石原家に着いてしまった。

 自転車を降りて玄関前まで向かおうとすると、40半ばくらいの男性が出てきた。神経質そうで近寄りがたい雰囲気を持っている。

「こ、こんにちは」

 だからこそ、無視したら面倒くさそうだったのでとりあえず挨拶をすることにした。

「はい、こんにちは。もしかして涼佳の友達かな?」

 訛りのない標準語だった。まるで涼佳みたいだ。

「え? はい、そうです」

「そうか。私は涼佳の父です。いつも涼佳がお世話になっています」

 涼佳の父親だと分かると若干恐怖心は薄れたが、疑問が残る。なぜここにいるのだろう。

「涼ちゃんのお父さんだったんですね。えっと、何かあったんですか?」

「涼佳を東京に連れて帰ることにしたよ」

「いつなんですか?」

 尋ねてから唯は自己嫌悪した。残念がる前にいつ帰るか聞くなんて、まるで涼佳にいなくなってほしいみたいだ。しかし『涼佳がいなければ』と思ってしまったことは何度もある。つい本心が出てしまったようだ。

「すぐに、というのもなんだから3週間後かな」

「そう、ですか」

 思ったより先で、落胆が声にも滲んでしまうが、

「そうか。君は涼佳と仲良くしてくれてたんだね。ありがとう。じゃあこれで」

 大吾は唯の反応を好意的に捉えてくれたようだ。唯の横を通り、道路へ向かって歩いていく。考え事をしていて気づかなかったが、タクシーを待たせているようだ。

「あの、見せたいものがあるんですけど」

 使うなら今だ。唯は大吾を呼び止めた。


 フライパンで肉を炒めながらも、空也の意識は他に向いていた。

 涼佳が東京へ帰る。大吾から突如告げられ、まだ信じられないでいた。

 まだ3週間先とはいえ、その後は涼佳は目の前からいなくなってしまうのだ。この胸にあるこの想いが何なのかはっきりと認識できるには、3週間は短すぎる。

「大丈夫。おばあちゃんが元気になったらまた遊びに来るから」

 空也が暗い顔をしていたからだろうか、横で野菜を切っていた涼佳が声をかけてきた。

 しかし空也はその言葉を素直に受け止めることができなかった。

 もちろん涼佳の言う事を信じたい。しかし、もしかしたらもう会えないのではという疑念は拭いきれなかった。

 このまま松子がよくならない可能性もあるし、涼佳もいざ東京に戻ったらこっちに来る気をなくしてしまう可能性だってゼロではない。

 とはいえ、そんなことを涼佳に言っても仕方がないので「ああ」と短く返す。

 今日が終われば、涼佳と会える日が1日減ってしまう。だから無駄だと分かっていながらも今日が終わらないでくれと、心のなかでつい願ってしまう。

 フライパンの中の肉は程よく焦げ目がつき、十分に熱が通っていそうだ。火を止めて皿に移そうとしたところで再び呼び鈴が鳴った。

「真実さん、今度は私が出ます」

「うんお願い」

 台拭きをしている真実に声をかけると、涼佳は玄関へ向かっていった。

 ついため息が出る。

 これから松子のことで真実も大変だろうから、東京に帰りなさいという涼佳の父親の理屈は理解できる。だが「行かないでくれ」の一言も言えない自分が情けなかった。「帰るぞ」と言われて悲しそうな表情をする涼佳に言葉をかけることもできなかった。

 真実と和解はできたものの、結局自分は昔と何一つ変わっていない、と思っていると玄関から「どういうこと?」と涼佳の取り乱した声が聞こえてきた。

 嫌な予感がして、空也も玄関に向かう。

 そこには帰ったはずの大吾がいた。

「何度も言わせるな。荷造りをすぐに始めなさい」

「ちょっと待ってよ」

 会話の最初を聞くことはできなかったが、涼佳がすぐ帰らなければならなくなったことだけは分かった。

「君が須藤空也くんかな?」

 大吾は涼佳の言葉を無視すると、空也に声をかけた。口調は淡々としていたが、後ずさりしたくなる威圧感があった。

「はい」

 何の話をするつもりなのだろう。そもそもなぜ自分の名前を知っているのだろう。空也には想像がつかなかった。

「そうか君か。涼佳の『不埒な写真』を撮ったのは。今すぐここから出ていってくれ」

 大吾は空也を見つめたまま、外を指差す。

『不埒な写真』とは、今まで撮ってきた涼佳の足の写真のことだと空也はすぐに分かった。

 しかしなぜ大吾が知っているのだろう。確かにSNSにはアップしたが、それだけで大吾が特定できるとは思えない。

 空也がその場を動かずにいると、

「どうした。まさか標準語が分からないなんてことはないだろう」

 大吾は皮肉交じりになおも空也に出ていくよう促す。

「お父さん」

「なぜ彼をかばうんだ。悪い虫から娘を守るのは当然のことじゃないか」

 不埒な写真なんて撮っていない。芸術作品なんだ。涼佳の足をそんなふうに捉えるお前の方が不埒だ。

 言い返せればどんなによかっただろう。しかし、面識のない大人から向けられる敵意による恐怖から言い返すことができなかった。

 空也は無言で靴を履き、外へ向かう。

 大吾と目を合わせないように引き戸を閉めようとすると、

「今後金輪際涼佳と関わらないでくれ」

 声だけで大吾が冷たい目でこちらを見てきているのが分かった。

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