膝枕

 膝枕。膝枕。膝枕。

 涼佳の膝枕を知って以来、空也の頭の中はそればかりだ。ノートにシャーペンを走らせながらも、気がつけば「膝枕」と口に出してしまいそうになる。

 しかし自分から『家に行っていいか』と連絡するのも気が引ける。

「ええい」

 ついに完全に集中力が切れてしまった。シャーペンを放り投げ、背もたれに背を預けると、ベッドの上に置いていたスマートフォンが鳴った。

 空也は素早く立ち上がるとベッドに向かい、通知を確認し、そしてため息をつく。

 以前利用していたクリエイター支援サービスのアプリからだった。

 黒須タイ子が無期限活動中止を宣言して以来一度も使っていなかったので、休眠ユーザー向けのメッセージが届いたようだ。

 思わずため息が出てしまい、すぐに何を落ち込んでいるんだと自分に呆れる。

 スマートフォンをベッドに放り投げ、勉強に戻ろうとしたところで再び通知音が鳴った。

 どうせまた、と思いながらも期待をゼロにすることはできず、スマートフォンを手に取る。

『今からうちに来られる?』という涼佳からのメッセージで、見た瞬間、まるで電流が走ったかのような刺激が脳を襲う。

 答えはもちろん決まっている。

 空也はメッセージに返信するのも忘れ、石原家へ向かった。


「撮った写真をSNSに上げてみたいんだけど」

「は?」

 涼佳の部屋に案内されるなり、思わず空也は困惑の声を漏らした。

 現代では一定の年代以下において、自分の写真をインターネット上にアップすることへの抵抗は薄れつつある。

 しかし、中学生の頃からSNSで顔を真っ赤にしてレスバを繰り広げ、叩き上げでインターネットリテラシーを身につけてきた空也からすればありえないことだった。

 仮に生の自撮り写真ではなく加工アプリを用いた画像をアップしたとしても、加工の及ばない背景などから身バレしてしまうだけでなく、デジタルタトゥーとして残り続けてしまうリスクもある。それがたとえ足だとしても、絶対に問題ないとは言い切れない。

「ダメかな?」

「ダメだ。一生ネットのおもちゃにされたらどうするんだ」

 被せ気味に即答する。

「そうかな? 足だけだし大丈夫だと思うけど」

 涼佳は椅子に座ると、髪の毛をつまみ、下へと引っ張るのを繰り返しながら言う。

「なぜ足だけなら大丈夫だと言えるんだ? 確かに顔と比べて個人差は少ないかもしれないが、少ない情報から来栖だと特定する人間が現れるかも分からないんだぞ?」

「東京なら確かにそのリスクもあるかもしれないけど、ここくらい田舎だったら大丈夫じゃないかな? そもそも人いないし」

「それは……たしかにそうだが」

 涼佳の言うことも事実だ。空也の住む町のような片田舎では、そもそも特定しようとする人間もいないだろう。

「でしょ? なら大丈夫じゃないかな」

「うーん」

 空也は首を縦にはどうしても振れなかった。

 確かにリスクは限りなく低い。しかし、自撮りを上げるという安易に承認欲求を満たそうとする低俗で、かつ自分の常識ではタブーな行為を涼佳にしてほしくなかった。

「もちろん、ただとは言わないから」

 涼佳は太ももの3/4程度の長さのスカートをわずかにめくりあげた。

 思わず空也は見るからに柔らかそう……ではなく間違いなく柔らかいあの太ももに膝枕されたときのことを思い出し、時が止まったかのように固まった。

 空也の中で信条と膝枕への渇望が激突する……かに思えたが、信条がワンパンでKOされてしまった。

「……分かったよ。ただし、1枚だけだ」

「うん。大丈夫。ありがとね」

「……」

 涼佳が見せた笑みに、空也は相槌を打つのも忘れ、見とれてしまっていた。

 外から聞こえるセミの鳴き声も、部屋の風景も消えてしまい、脳が涼佳以外を認識することをやめてしまったかのような感覚を抱く。

『まさか自分はこの少女に惹かれているのだろうか』という考えが芽生えたものの、

「ああ」

 幻惑を振り払うように頭を横へ振り、涼佳から視線を外した。


 空也は自分のノートパソコンを取りに戻ると、過去に撮った写真をすべて取り込み、涼佳に選んでもらうことにした。

 涼佳が選んだのはベッドの上で横になり、無造作に足を投げ出している写真だ。

 空也としても、足の透け感が程よくありつつ、軽く膝を曲げた『くの字』ラインのおかげですねの『反り』と、ふくらはぎの『起り』の両方を堪能できる芸術点の高い1枚だった。タイツの網目がバッチリ写っているのも高ポイントだ。

 インストールしてある画像編集ソフトで写真を開くと、『映える』ように彩度や明度を調整し、毛玉や埃のような不必要な情報を消していく。

 その様子を、空也の横に座っている涼佳は興味深そうに見ていた。

「へえ」並んで座っていた涼佳がディスプレイに顔を近づけ、自然と2人の肩が触れ合う。「須藤くんってこういうのできるんだね。プロみたい」

 ふわりと甘い香りが漂ってきた。それが涼佳から発せられていると思うと、いい匂いだというのになぜだか頭が熱くなってくる。

「べ、別に、このくらい使い方を覚えれば誰だってできる」

 ちなみに空也がこのようなことができるのは、家にある下半身のマネキンの写真を少しでも本物っぽく見せるためにと悪戦苦闘した結果だ。

 それにしても近い。視線を横に向けると涼佳の目を彩るまつ毛の一本一本を視認できるほどで、涼佳との距離を意識すると冷静になれなくなってくる。

『煩悩退散』と何度も脳内で唱えながら作業に集中していると、空也自身としても納得できるレタッチ写真が完成した。

「どれくらい反応があるか楽しみだな〜」涼佳は写真を期待に溢れた目でSNSにアップすると、顔を上げて空也の目を見た。「じゃあ、また膝枕してあげようか?」

「む」

 もちろん即お願いしたかった……が、がっついてるようで格好悪い。

 空也がすぐに答えずにいると、涼佳はフッと微笑む。まるで「お見通しだ」と言っているかのようだ。

 空也は意地を張るのをやめた。

「頼む」

「うん。じゃあベッド行こうか」涼佳は立ち上がると、首を動かして流し目で空也を見る。「須藤くんの素直なところ好きだな」

「なっ――」

 現代において『好き』という言葉はモノに対しては抵抗なく使われるが、人間に対しては恋愛的な意味以外で『好き』を用いるのは難易度が高い。

 別に使ってはいけないわけではないが、とくに異性相手には誤解を招く危険を負ってまで使うメリットはない。多感な空也たち十代ならばなおさらだ。

 空也は今回の『好きだな』発言は『いい心がけだと思うよ』と同義だと断定したが、『好き』という発言にはつい心が乱れてしまう。

 しかし涼佳は狙ってそのような発言をしているはずだ。あえて何事もなかったかのように、すでにベッドの上で足を伸ばして座っている涼佳の横へ移動すると、左側を下にし、顔を涼佳の足側に向けて頭を載せた。

「ああ……」と思わず声が漏れる。頭が戻るべき場所へ戻ってきたことで、太ももが「おかえり」と言っているような気すらしてくる。

 涼佳は足の指を無作為に動かしながら、「私の足そんなにいいの?」と尋ねてきた。

「無論だ」

 即答すると、涼佳の内心を表すかのように指の動きが止まる。

「そう、なんだね。そんなにいいなら私も自分の足に膝枕してもらいたいな」

 空也は「それは無理だ」と言おうとしたものの、涼佳も当然承知の上での発言だろう。口を噤み、沈黙が訪れる。聞こえるのはエアコンの音と、外から聞こえてくるセミの鳴き声だけだ。

 無言で涼佳の膝からつま先にかけてを眺めていると、手持ち無沙汰に指先が動いていた。

 太ももに頭を載せた状態からの眺めに、不思議な感覚を抱く。

 なんでこんな頭の近くに足があるんだ? と冷静に考えると当然なことを考えてしまう。

 それ以外にも不思議なことばかりだ。お隣さんであるという接点はあるものの、知り合ってから日の浅い女の子にこうして膝枕をしてもらっているのだ。これが物語のワンシーンなら『作者の願望ダダ漏れしてるだろ』とツッコミを入れたくなっていたに違いない。

 ふと、涼佳が頭の上に手を置いてきたかと思うと、子供をあやす母親のように頭をなで始めた。

 気持ちいい。今にも軟体動物になってしまいそうなほどに体の力が抜けていく。とはいえ、無言でなすがままというのもどうかと思ったので、「何してるんだ?」と尋ねる。

「丁度いいところに頭があったから。嫌?」

「いや……ではない」

 最初は「いや」で切るつもりだったが、「やめろ」という意味にとられそうだったので慌てて「ではない」を足す。

 意識が空気中に拡散していきそうなほどリラックスをしていながらも、空也は涼佳が自分のことをどう思っているのかを考えていた。

 写真は置いておいて、どうでもいい相手に膝枕なんて普通しない。しかし、涼佳の行動・発言は最初から変だった。真実と仲直りできたら足の写真を撮らせてくれるだなんて、おそらく普通ではない。

 つい自分にとって都合のいい方向に思考が傾くが、それでは何も考えていないのも同じだと気づき、考えるのをやめる。

 いつしか空也の意識は視界に入り続けている涼佳の足へと注がれていた。

 率直に言えば、涼佳の足を触りたくなっていたのだ。

「なあ」

「何?」

「足……触ってもいいか?」と尋ねると、涼佳の足先が跳ねる。

「うーん。まあ、いいよ」

 快諾、という反応ではなかったが、本人の許可を得ることができた。

 まず空也が最初に触れたのはすねだ。さすがに太ももとは違って硬かったものの、手のひらを上下に動かすとカーブの『反り』とタイツの網目が擦れる手触りが心地よく、不思議と何度も往復させたくなってくる。

 触れるか触れないかギリギリのところで手を動かし始めたときのことだった。

「んっ」涼佳が何かを我慢するような声とともに、体を一瞬震わせた。「ちょっと、くすぐったいかも」

「わ、悪い」

 妙に艶めかしい涼佳の声に、空也は熱いものを触ったかのように手を離す。

「その……敏感だから」

「すまん、気をつける」

 すねを触るのをやめた空也は、膝の上辺りに手を置き、涼佳がくすぐったがらないように気をつけながら弧を描くように擦る。

「触ってて楽しい?」と頭上から声が聞こえてきた。

「楽しいというより安心感があるな。タイツの手触りと、来栖の体温と足の柔らかさが相まって、無限に触っていたくなる。来栖の足は最高だ。誇っていいぞ」

「ええ……」

 下から覗くと怒られるのでどんな表情をしているかは分からないが、少なくともちょっと引いていることは分かる。

 太ももを擦りながら、空也はまだ触っていないところがあることに気がついた。手刀を作ると、太ももの間に差し込む。

 前後から包まれる感覚と体温に、つい手だけなく全身を包まれたいと思った次の瞬間、

「あ……ちょっと……やっ……」

 まるでいやらしいことをしているとしか思えない声を涼佳が上げる。

 まずいと思ったものの、手から伝わってくる快感に抗えず、つい手を前後に動かしてしまった。

「え、ちょっと! す、すどう……くっ……ふっ……」

 音だけではいかがわしいことをしているとしか思えない声を涼佳が上げていると、

「何やってるの!」

 突如部活のジャージ姿の唯が部屋に入ってきた。

「唯!?」

 慌てて空也は涼佳から飛び退き、立ち上がった。確か今唯は陸上部の合宿に行っているはずだ。それなのになぜここにいる、などと浮気している人間のようなことを考えてしまう。

「くーくん」

 唯は2人の前に歩いてくると、空也の名を呼ぶ。

「な、なんだ」

「2人は付き合ってるの?」

「付き合っては……いない」

 事実なのに否定することになぜだか抵抗を感じたが、正直に答える。

「じゃあ。わたしも膝枕する」

 唯は肩にかけていたかばんを床に置いた。

「え?」

「膝枕は付き合ってなくてもできることなら、わたしがしてもいいよね」唯は屈むと、かばんのファスナーを開けた。「着替えるからふたりとも外に出て」

「いこ?」

 涼佳は立ち上がると、スタスタと部屋を出ていってしまった。残された空也も駆け足で涼佳の後を追い、ドアを閉める。

 2人は無言で唯が着替え終えるのを待つ。ドアの左右に無言で立っている様は、まるで門番のようだ。

「来栖」

 沈黙の後、空也はドアの横で無表情でいる涼佳に声をかけた。

「何?」

 首を傾げて返事した涼佳の表情からは、少なくともネガティブな感情を読み取ることはできなかった。

 涼佳は何を考えているのだろう。今まで幾度となく抱いた感情だが、今回は今までの比ではない。

「来栖、お前は一体」

 何を考えているんだ、と言おうとしたところで涼佳の部屋から「入ってきて」という声が聞こえてきた。

 一旦涼佳に質問することをやめ、部屋の中へ入ると唯は制服姿になっていた。夏なので半袖シャツにスカートというシンプルな格好だ。

「本当にするのか?」

「こっちにきて」

 返事の代わりに唯はベッドに腰を下ろした。涼佳が膝枕をしてくれたときは足を伸ばしていたが、唯は椅子に座るように膝を曲げている。

 とうてい拒否できる空気ではない。空也がベッドに向かい始めると、涼佳は空也が座っていた椅子に腰を下ろした。

 唯の横に立ち、太ももに視線を落とす。長距離走選手だけあって見るからに締まっていて、健康的で、思いの外白い。

「おいで」

 抵抗はあったものの空也はベッドに乗ると、制汗剤の香りを感じつつ、唯の太ももに頭を載せようとした……が、四つん這いになり、唯の太ももを覗き込む姿勢で固まってしまった。

「……すまん、できない」

「どうして? ただ頭を載せるだけなのに、涼ちゃんにはできるのに、どうしてわたしにはできないの?」

 唯の言う通り、たしかにただ頭を載せるだけかもしれない。それに唯に膝枕をしてもらうことが嫌な訳ではない。それでも、過去に自分がしたことを思うと許せないことだった。

「……すまない。やっぱりできない」

「どいて」

「え?」

 小さな声で聞き取れず聞き返すと、

「どいて」

 先ほどよりは大きく、そして冷たい声で同じ言葉を繰り返す。

「っ」

 たまらず空也は飛びのき、唯は無言で立ち上がるとかばんを引っ掴み、部屋を出ていってしまった。

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