食卓

 その日の18時前。

 あの後空也は店に戻ったもののすぐにお開きになり、唯から『1人で帰る』と連絡が来ていたので、空也は真実の運転で帰宅するとすぐに机に向かった。

 普段ならば5分も机に向かっていれば集中できるはずなのに、今日は唯が頭にチラついてしまってすぐに集中力が切れてしまう。

 あのときどう答えればよかったのだろうか。角の立たない返しがあったのか。そもそも2人を同席させたのがまずかったのか。しかしいつかは2人の間を取り持たなければならない。それならばどうすればよかったのか。悩めど答えは出そうにない。

 ふと、机の端に置いていたスマートフォンの通知ランプが点滅していることに気づいた。

 スリープを解除して通知を確認すると、『また写真撮りに来ない?』という涼佳からのメッセージだった。

 本来ならば行くべきではない。

 しかし唯との一件の後に1人で黙々と勉強しているのは正直辛く、涼佳からの誘いは今の空也にとっては『丁度いい理由』だった。

『行く』と短く返信し、空也は石原家に向かった。


 今回は最初から呼び鈴を押すと、涼佳が2階から降りてきた。

「いらっしゃい」

「あれ、それ今日買ったのか?」

 涼佳のトップスは長袖のブラウスだった。夏服にしては生地も厚く、落ち着いたグレーのチェック柄だ。それに膝丈くらいのスカートを合わせている。

「去年の売れ残りが『秋を先取り!』ってキャッチコピーで売ってたんだけど、売れ残りにしてはかわいいなって思って。どう?」

 涼佳は微笑ともに左耳の上の髪の毛をかき上げ、ポーズを取る。

 それを見た空也は胸の奥に熱を感じたものの、

「いくらなんでも気が早くないか?」

 自分の感情を無視するように話題を変えた。

「服は前のシーズンのうちに買っておくものだよ」

「そう、なんだな」

「それより立ち話もなんだし」

「ああ」

 涼佳に続き、部屋に入る。2度目とはいえ緊張してくる。

「最初はどんなポーズがいいかな。カメラマンさん?」

「じゃあ、ベッドにうつ伏せになってくれ」

「おっけー」ギシリ、と音が鳴り、涼佳がベッドの上にうつ伏せになる。「なんだかえっちだね?」

「……その状態で左膝を曲げてくれ」

 動揺しつつもあえて取り合わずに指示を出すと、通知をすべてオフにしてカメラアプリを起動し、横から見下ろすように涼佳の脚部にレンズを向ける。

 スカートの長さ的に前回のような事故は起こらないだろうが、念の為だ。

 お尻から太ももにかけてのなだらかな下り坂がスカートと黒タイツ越しとはいえ、空也の目に晒され、魅入られた空也の顔から表情が消えていく。

 さらに曲げられた左足のすねとふくらはぎから足首にかけての曲線が、壁紙が白いこともあってより鮮明に空也の視界に映り込んでいる。

 足を注視していたときの空也は、勉強中よりも集中力を発揮していた。

 無意識のうちにシャッターボタンを押す。押したというよりは、「ここだ」と思った構図で自然に指が動いていた。

 そうしている間にもインスピレーションが湧いてきて、前回のように次々と空也は涼佳に指示を出していく。

「俺に背中を向けた状態で足を揃えて曲げてくれ」

「うん」

 涼佳はベッドの上で横になったまま体を回転させ――

「ちょっと、スカート!」

 スカートがまくれ上がり、事故が起きそうになってしまっていた。

「あ、ごめんね」と涼佳は特に反応らしい反応を見せることなくスカートの位置を正す。

「い、いや、大丈夫だ」

 心を落ち着けるべく撮影に意識を集中しながらも、ふと思った。

 涼佳は唯の気持ちも知っている。その上で家に誘い、写真を撮らせてくれている。それに知り合って間もないとはいえ、2人は友達のはずだ。

 涼佳は何を考えているのだろう。

 しかし今は撮影に意識を集中することにした。考えることはあとでもできる。

「その状態で足を前後にずらせるか?」

「こう?」

「その状態で足の力を抜いてくれ」

 涼佳の足から力が抜け、程よい無造作感が出たところを見計らって空也はシャッターボタンを押す。もちろんいい構図を狙って撮っているのだが、狙って撮っていない感がある方が芸術性は高い。

 やはり80デニール。60デニールでは肌の色が出すぎてしまうし、100デニールは濃すぎる。程よい透け感で空也の心にときめきを与えてくれるのは、やはり80デニールなのだ。

 徐々に空也が手にしているスマートフォンと涼佳の位置が近づいていき、空也はまだ撮っていない構図があることに気がついた。

「ベッドの端に座ってくれ」

「ふふ、今日は注文が多いね」

 涼佳は起き上がるとベッドの端へ移動し、空也と向かい合う形で座った。

「それくらい来栖の足が素晴らしいんだから仕方がない」

 空也は左膝を前に出し、右膝は伸ばし、レッグランジのような姿勢を取った。タイツの網目が視認できる距離にまで、スカートから覗く太ももにスマートフォンを近づける。

 そう、この網目によって心奪う模様が生まれるのだ。

 手を伸ばせば涼佳の太ももが触れられる距離にある。空也の上半身は、涼佳の太ももという甘い香りのする花に吸い寄せられていく。

「あ」

 言うまでもなくこの姿勢は不安定だ。ついに空也は前に倒れ込み、顔面は天国へ到達した。

 男の足とは明らかに違う柔らかさ、そして体温とタイツの肌触り。さらに胸の奥がのぼせ上がるような甘い香りがしてくる。

 ずっとこうしていたいという誘惑に襲われたものの、ギリギリのところで自我を取り戻した空也が頭を上げると、心配そうな目で空也を見る涼佳と目が合った。

「大丈夫?」

「もちろん。ずっとこうしてたいくらいだ」

「え?」

「い、いや、なんでもない」

 涼佳から距離を撮り立ち上がるも、つい先程まで触れ合っていた涼佳の太ももに視線が吸い込まれ、「膝枕か」とつい声がもれてしまった。

「……してみる?」

「はは、もしかしたら軽い脳震盪になってしまったかもしれないなって……ええ!?」

 自分の聞き違いだったかもしれず、つい聞き返してしまう空也。

「いいよ。ほら」

 涼佳は空也が頭を乗せやすいようにベッドの角側に移動し、太ももをぺしぺしと叩く。

 空也の心臓は期待と興奮で高鳴っていた。心境を例えるならば、長年探し求めてきた財宝を目の前にした探検家だろうか。

 ベッドの上に乗り、涼佳のすぐ横で四つん這いになった状態で一時停止。一度深呼吸し、心を落ち着け、いざ頭を乗せようとしたところで――

「くーくん何してるの!」

 唯がノックもせずにドアを開け、部屋に飛び込んできた。

「唯!?」

 空也は無意識のうちに涼佳から距離を取る。

「何度連絡しても返事がないと思ったら」

「いや、これは」

「ひどいよ!」唯は言い訳を許す間もなく、空也が来ていたシャツの胸元をつかんだ。「どうしてはっきり言ってくれないの。なんで? どうして? 答えてよ!」

 集中できるようにと通知をすべてオフにしてしまっていたのが、今回は裏目に出てしまった。

 唯にはなんと説明すればいいのだろうか。唯の視線から目をそらしながら懸命に納得してもらえそうな言葉を考える。しかし、何を言っても詭弁になってしまいそうな気がした。

「涼ちゃん、どういうことなの? くーくんと何をしようとしてたの? 2人はなんなの? 私がくーくんのことをどう思っているか知ってるよね?」

 空也が何も答えようとしなかったため、矛先は涼佳へと変わった。空也に掴みかかったまま、早口でまくしたてる。

「唯ちゃん落ち着いて。何か勘違いしている」

「2人で涼ちゃんの部屋にいて何を勘違いしろっていうの? バカにしてるよ!」

 唯が空也を突き飛ばし、涼佳のもとへ向かって歩き始めたところで、

「何してるんだい」

 3人が同時に出入り口に視線を向ける。

 そこには松子が立っていた。


 19時過ぎ。石原家では空也、涼佳、唯、真実、松子の5人で食卓を囲んでいた。

 昔ながらの畳の間に置かれたローテーブルの上には、野菜や煮物やらが並べられている。

 場の空気は重く、まだお通夜のほうがマシなレベルだ。

 唯は箸を手に取ろうとすらしない。下を向いたままだ。

 そんな中でも涼佳は山盛りのご飯と、おかずの中華炒めを普段と変わらない勢いで食べており、その大物っぷりに空也は感心と戸惑いを覚えていた。

 松子は粛々と箸を進め、真実はビールを飲みながらつまみ感覚でおかずを口に運ぶ。

 会話はなく、時折聞こえる車の音や動物の鳴き声が、普段は気にも留めないのに妙に大きく聞こえる。

 さすがの空也もこの空気をなんとかしたかった。

「唯。栄養不足は脳の敵だぞ」

「……」

 唯は聞こえてなかったかのように黙り込んでいる。まるで反応がない。

 一層気まずさが増しただけに終わってしまった。仕方なく松子に倣い粛々と箸を動かす。

「ちょっと」松子がうつむいたままの唯に声をかけた。「食べた上で口に合わないなら何も言わないよ。だけど全く手を付けないなんて失礼だと思わないかい?」

 その一言に3人は手の動きを止め、視線が唯に注がれる。

 唯は渋々と言った様子で箸を手に取ると、取皿に一口分だけ中華炒めを載せて口に運び、何度か咀嚼して飲み込む。

「おいしい……」

 感情を取り戻したかのように唯の顔に驚きが広がり、一気に五口分ほどを取皿にとった。

 そして茶碗に盛られたご飯にも箸をつけていく。唯もなかなかの健啖家だ。

「よかったよかった。ほら、食べないと涼ちゃんが全部食べちゃうよ」

「っ、はい!」

 唯は松子の料理が気に入ったようで、先程まで沈んでいたのが嘘のように笑みを浮かべ、今までの遅れを取り戻すかのように食べ始めた。


 食後。見事に唯と松子は打ち解けてしまっていた。

「松子さんも苦労されてたんですね。わたしだったら耐えられないです」

 テーブルの前にお互い直角に向かい合うように座り、唯は眉をひそめて松子に共感を示す。

「まあ、でもこうやって今は真実も涼ちゃんもいる。一時は『私何か悪い事したか?』と思ったこともあったけど、今は幸せだよ」

 空也はお茶を片手に、2人の会話を聞き入っていた。

 もともとクラス内でも会話上手で人気者の唯だ。その手腕は世代を超越するようで、口数が多いわけではない松子から言葉を引き出していた。

 確かに松子は今まで苦労してきた。旦那と真実の父親である息子を早くに亡くし、真実の母親は一緒に住む理由がないからと家を出ていってしまった。そして数少ない肉親の真実もつい最近までは遠く離れた東京に住んでいたのだ。

 思い出のつまった家に今では自分しかいない、という状況は寂しかったに違いない。

「境地に達してるって感じですね。わたしもそんなふうになりたいなー」

「そうだね、1つ挙げるなら『おしとやかでいること』かしらねぇ」

「おしとやか?」

 もちろん意味は分かっているのだろうが、唯は首を傾げる。

「そう。騒いだり喚いたりせず、したたかに前を見続ける。そうすればいつか私のように運が巡ってくるのさ」

 松子は一口茶を飲んだ。

「なるほど」唯は相槌を打ち、立ち上がった。「わたしそろそろ帰ります」

「あれー、今日は私に絡んでこないんだ?」

 据わった目で真実が缶ビール片手に言った。

 まずい。真実はビールで酔っている。また喧嘩になってしまうのではないだろうか。

 空也は立ち上がり、2人の間に割り込もうとしたものの、

「いいえ。わたしは『おしとやか』ですから、そんなことはしません。あ、お酒はもう少し控えたほうがいいと思います。ビール腹になってもいいなら止めませんけど」

 唯が棘のある一言を残して部屋を出ていくと、真実は無言で缶ビールを握りつぶしていた。

 空也としては違う意味でお酒をもう少し控えめにして欲しかったが、今は急に態度を改めた唯が気がかりだった。

「唯を送ってくる」

 空也は立ち上がると唯の後を追った。


 夜道を2人並んで自転車で走る。相変わらず湿度は高く自然と汗が出るが、昼間に比べればまだ過ごしやすい気温だ。

「お年寄りの言うことなんて価値観が古すぎるから、耳を貸す価値もないと思ってたんだよねー。でも、本当に大事なことは時代なんて関係ないのかなって」

「ずいぶんとばあちゃんと仲良くなったんだな」

 涼佳と何をしていたのか突っ込まれるのではないかとヒヤヒヤしていたが、予想に反して松子の話ばかりだ。

「うん。それにしても松子さんのご飯美味しかったなー」唯は上機嫌に言ったあと、一言付け足した。「私も、あそこの子だったらな」

 空也はなんと答えればいいのか分からなかった。

 とはいえ無言というわけにもいかず「そうか」ととりあえず相打ちを打つ。

「私もおばあちゃんの孫だったらな。くーくんより年上のお姉さんだったらな。私も東京からの転校生だったらな。そしたら、くーくんの気を引けたかもしれないのに」

「唯」

「私も、あまり長く待てないからね?」

 空也に向けられた笑顔は空也のよく知る人懐っこいものだったが、暗さのせいだろうか、普段とは異なるものに見えた。

 それにしても、一体どういう意味なのか。発言の真意を空也はつかむことができず、かと言って尋ねることもできなかった。

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