崖っぷち
月曜日。教室でお昼を食べながら、空也は士郎と聡に相談を持ちかけた。
「友達の話なんだが、関係が微妙になってる相手と仲を改善するにはどうしたらいいんだろう?」
「それは神谷か? 来栖か? それともこの前の年上のお姉さんか?」
「友達の話だって言っただろ」
コンビニ弁当の唐揚げを咀嚼中の士郎にツッコミを入れると、
「んぐ、お前に俺たち以外に友達いるのか?」
今度はウインナーを口に運ぶ。
「……年上のお姉さんだ」
悔しいがいない。敗北感が湧いてくる。
「押し倒せ」と答え、士郎はご飯を口へ運ぶ。
「ちなみに聞くが、仮に唯や来栖って答えたらなんて答えてたつもりだ」
「……コンビニ弁当の上げ底って法律で禁止できないか?」
士郎は頭を出した上げ底を箸でつつきながらつぶやく。明らかに話をそらしている。こいつに相談したのが間違いだったかもしれない。
「うーん、そうだねえ、仲が良かった頃に行ったところで思い出話するとかどうかな。そうすれば自然と昔の状態に近づけるんじゃないかな?」
「なるほど。さすが聡さん。あれ、でも」
よさそうなアイディアだが、『仲が良かった頃に行ったところ』と言われても思いつかなかった。石原家に遊びに行くことはあっても、一緒に遠出することはあまりなかったからだ。
「あとは……きれいな景色があるところとかかな?」
「それならある」
思いつく場所が空也にはあった。
聡のアイディアを涼佳に伝えた結果、その日のうちに3人は車で1時間ほどのところにある岬へ来ていた。
目の前には視界いっぱいに海が広がり、夕日の綺麗さから日本遺産に認定されている地だ。
まだ日は高いが、平日の夕方ということもあり、駐車場には真実のランサーエボリューションX以外停まっていない。
断崖絶壁には柵が設置されておらず、足を踏み外せば崖下まで真っ逆さまだ。
空也は恐る恐る崖下を覗いた。10メートルはありそうで、崖に白い波が打ち付けている。
「ああああ……」
夏だというのに寒気がしてきて、駆け足で反対側へ戻る。
「大丈夫?」
顔を上げると、真実が立っていた。風で髪型が崩れないよう手で押さえている。
「ああ」
目が合った気恥ずかしさもあるが、唯との一件以来気まずさを抱いていた。
真実は「気にしなくていいよ」と言ってくれたが、楽しい場にするはずだったのに悲しい気持ちにさせてしまった罪悪感もある。
「そういえば涼ちゃんはどこいったのかな?」
真実は辺りを見渡す。
岬に向かう前、涼佳は「2人にしてあげるから、その間頑張ってね」と言っていた。今がその時なのだろう。
「……トイレ?」
「かなー」
そこで会話が途切れ、規則的な波の音と、目の前に広がる海がすべての世界が訪れた。
空也は気まずさを覚え、真実を視線に入れないようにするために景色を眺めたが、すぐに自分がここに何のために来たかを頭の中で反芻する。
今度こそうまくやらなければならない。このために脳内シミュレーションを行ってきた。だが、プレッシャーのせいか頭にあったことが真っ白になってしまっていた。
方針は一向に決まらず、水平線を意味もなく注視していると、真実が口を開いた。
「覚えてる? ここくーくんが小さかった頃に一緒に来たことあるんだよ」
「え? いや、覚えてない」
意図せず聡の最初のアイディアにも従っていたようだ。
「あの頃はお父さんもお母さんもおじいちゃんもいたのに」真実はわずかに顔を上げ、目を細める。「でも気がついたらみんないなくなって、私も今年で24って信じられないよ。なんとなく日々を過ごしてるうちに、覚悟する間もなくいろんなものが変わっちゃうんだね」
「想像つかない」
空也には分からない感覚だった。順当に小学校を卒業して、中学校を卒業して、そして今に至る。高校生になったときは「もう自分も高校生か」と思いはしたが、特にワープしたとかそんな感覚はなかったし、考えたこともなかった。
しかし大人になると一瞬で時が過ぎ去ったかのように感じてしまい、戸惑いながらも速度を緩める方法はなく、加速度的に進む時に流されるしかないのだろう。
「大人になったらわかるよ」
「もう子供って年じゃない」
暗にまだ子供だよと言われているの不愉快で、反射的に言い返していた。
「体は大きくなったけど、まだまだ子供だよ。私だって高校生の頃を振り返るとまだまだ子供だったなーって思うもん」真実は空也へ視線を移す。「だから、『空くん』にどこにでも行けばいいって言われたときはカチンと来たなー。そんなこと言われても困るわ! って」
突如真実から本音を明かされ、空也が真っ先に抱いた感情は『困惑』だった。
「いやいや、でも俺よりも7つも上なんだからそれくらい上手くやってくれよ」
大人は子供みたいなことを考えないと思っていた。
真実にあこがれの人でいてほしくて、理想を押し付けるような発言が出てしまう。
「私まだ十代だったんだよ? その年で男の子のことなんでも分かってる女の子なんて嫌じゃない?」
「それはそうだけど、あなただってそうだったんだから、あのときの俺なんかもっと子供だったんだよ。でもあのときはあのときであなたに対して真剣で」
口に出してから、空也は自分の失言を責めた。
自分の過ちを真実に謝罪し、関係を修復することが目的だったはずなのに、今の発言は謝罪とは正反対の、自己正当化だ。
「ちが」
「じゃあ今は違うの?」
とっさに訂正しようとしたものの、真実が言葉を被せてきた。
「それは」
真実と目が合う。
髪型も服装も昔とは違い、今はメイクもしている。しかし『あの頃』とは本質的には全く変わっていない気がする。
きれいな人だ。しかし、異性として微笑んでくれることはおそらくないだろう。
「……分からない。そ、その、あなたこそどうなんだよ」
「今も昔もかわいい弟かな〜」
「んだよ」
分かってはいたが、直接言われるとつい吐き捨てるような物言いになってしまう。
「だめだよ。そうやって自分のものになってくれない女の子には冷たくしてたら、一生ひとりだよ」
すかさず真実に咎められる。
「じゃあどうすりゃいいんだよ」
「昔みたいに仲良くしてくれたら嬉しいかな」
「どうしろと?」
「あなたじゃなくて、昔みたいにお姉ちゃんって呼んで」
「はあ?」
幼い頃ならまだしも、この歳で『お姉ちゃん』と呼ぶのは恥ずかしい。かといって、『姉さん』は姉弟感がありすぎて抵抗があるし、『真実さん』は照れくさい。
「あれ、もしかして恥ずかしいのかな? まだまだ子供だね」
口元に軽く握った拳を近づけ、クスクスと笑う真実。
この人には勝てないと思った。今でも空也にとって、石原真実という女性は特別な人だった。
「お……お、おね」
「ほらほら頑張って」
「お姉、ちゃん」
「はい、よくできました」
真実は空也の頭をなでてきた。
「子供じゃないっつーの」
照れくささと、子ども扱いされていることへの反発からしかめっ面になるが、正直悪くない。
「はいはい。そうやって変に意識してるところが子供だよ。ふふ」
真実は広げた手で、空也の頭を二度軽く叩く。
「ちぇっ」
これでいいのかという気がしないでもないが、わだかまりは解けた気がする。
「まあ、そろそろ帰ろうか。涼ちゃーん、帰るよ」
真実は後ろを向き、涼佳を呼ぶが返事はない。空也も真実よりも大きな声で「来栖!」と呼ぶが、聞こえてくるのは風と波の音だ。
2人にするために姿を隠しているだけで、てっきり近くにいるものだと空也は思っていた。
しかし実際は崖から落ちてしまっていたとしたら……?
「私あっち探すね」
「じゃあ俺はこっち」
二手に別れ、崖の外周をなぞるように涼佳の姿を探す。
「来栖!」
涼佳からの反応はない。
あたりを見渡してみるが、誰もいない。夏といえど徐々に暗くなり始めている。普段ならきれいに見えたであろう夕日が不気味に見えてくる。
警察を呼ぶべきだろうか。もう一度「来栖!」と大声で涼佳を呼ぶ。
「何?」
「来栖? どこに行って……」
声が聞こえた方向を向くと、ソフトクリームとイカ焼きを手にした涼佳が立っていた。イカ焼きに至っては、器用に親指以外の4本の指の間で3本の串を挟んでいる。
「もう閉店時間は過ぎてるんだけど、特別に売ってくれて」と答えると、涼佳はイカ焼きを一口かじった。
「心配して損した」
思わずため息が出る。
「あ、心配してくれたんだ」
涼佳がフッと微笑んだ瞬間、無意識のうちに空也は見とれていた。
笑顔に既視感を抱いたからだ。涼佳は、真実に似ている。
目の形だとか、顔の輪郭だとか、具体的に「ここが似ている」と言える訳ではない。
しかし、2人が従姉妹だからだろうか。かつて真実の笑顔を見たときと近い感情を抱くことに空也は気づいた。
「どうしたの?」
「顔にタレがついてるぞ」
以前涼佳は『女の子は視線に敏感だからね』と言っていた。変に勘ぐられても困る。ちょうどよくごまかせるものを見つけたので、ポケットからハンカチを取り出し、涼佳の口端を拭く。
「ハンカチ持ち歩いてるんだね」
大人しく拭かれながら涼佳は目を丸くする。
「俺を何だと思ってるんだ」
呆れながらハンカチを畳み、ポケットへしまう。それにしても、しっかりしてそうなのに食べることになるとポンコツになってしまう女の子だ。
「そういえば仲直りはできた?」
「おかげさまでな。戻るぞ」
涼佳に背中を向け、歩き出そうとしたところでポケットに入れていたスマートフォンが震えた。唯からのメッセージだ。
『あの人とは仲直りできた?』
見た瞬間、心が重くなった。
そう、真実との関係改善はゴールではない。過去の罪を精算し、唯と向き合うために前に進むことができるようになっただけだ。これからが本番なのだ。
実感はなかったが、きっと自分の中で変わったはずだと、空也は自分に言い聞かせた。
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