音程が一瞬しか合わない素人楽団でホールニューワールドを聞き「明日からも頑張るか」と思った話。
坂本 ラッコ
(一話完結)
昔、ある田舎の都市で、家族で貧乏暮らしをしていた。
ほとんど移民としてこの国にやってきた両親と二世の私。
両親は「中流の暮らし」をしていると心の底から信じていたようだったし、私自身にもそのように教育していたのだが、初めこそ遠巻きに悪口を言っていた同窓生たちに「やーい、貧乏人。」と、面と向かって揶揄われるようになった頃には、すっかりその認識を改めていた。
この国に夢を見て、はるばる移住を決めた両親。「◯◯ドリーム。」安い言葉だが、きっとそんな言葉を信じていたのだろう。
今一瞬の苦しい生活など、問題ではない。
もちろん、自分たちの娘が、「一時的に」学校でいじめられていることさえも。
結局、友人という友人が1人もできず小学校生活をまるまる1人で過ごすことになったのだが、それはまた少し先の話。
さて、ちょうど中学年になったあたりだ。
生来明るい性格だった私が「明日学校行きたくないなぁ」と両親の前で弱音を漏らすようになっていた。
両親は、私を「元気づけるために」、ディズニーのミュージックCDを買い与えた。
シンデレラ、美女と野獣、不思議の国のアリス。様々なストーリーを、時たま美しい音楽を挟みながら読み聴かせてくれるCDは、20種類の物語冊子とセットで、およそ3万円。決して安い品ではなかった。
だが幸い、私はすぐにそれに夢中になった。
ディズニーの主人公達は、初めこそ不遇な境地にあっても、最後には夢を叶えてキラキラと輝く。そんなところに私自身も、一縷の望みを託したのだろう。
「今は」友人もいない。
「今は」周りに理解のある大人もいない。
嵐が過ぎ去るまで、「今は」1人で抱えるしかない。
だけど、いつかは。
きっとこの主人公達のようにキラキラと輝ける。木造2階建のアパートの角部屋でCDコンポに齧り付き、そんな儚い妄想をする夜21時が、私にとって唯一の、そして一番の至福の時間だった。
それから20年が経った。
ノイローゼになるまで必死に勉強をし、いわゆる難関大学に奨学金で入学した後有名企業に入社した私は、辛かった幼少期のことを思い出すことなど、まったくなくなっていた。
ある週末、大学時代の友人に招かれ、彼女の所属する楽団のクリスマスコンサートを聴きに行った。
到着して配られる、たった5曲のセットリストの、一曲目。
パーン、と張りのあるトランペットの、鋭くも重厚な音がフロアに鳴り響き、一瞬背筋をピンと伸ばした。
が、すぐさまその期待は打ち砕かれることになる。
チューバのズレた音程、曲の盛り上がりに合わせ自分勝手に走り出すシロフォン、表現力に注意を全振りした結果、不安定な音程のままに悪目立ちする低音パート。
辟易とした。
独学であったものの、ほんの少しだけ歌と楽器をかじり、人よりほんのすこしだけ耳がよく相対音感を獲得していた私には、その演奏が、決して一音目の入りに出遅れることのない「勢い」だけが良い、まさに素人の演奏にしか聞こえなかった。
天を仰いで翌日の仕事のタスクに想いを馳せていた時。気づくと、最後の一曲。
久しぶりに聴いたものの、やけにはっきりと耳に残るその曲は、ホールニューワールドだった。
もちろん演奏している楽団は、先ほどから変わらないのだから、音程やリズム感などは、相変わらずだった。
が、なんとなく心を惹かれ、ふと顔を上げ、音の一粒一粒やそれから構成されるガタガタのハーモニーから耳を離すと、楽団員の表情が目に入ってきた。
たった30人の、同じ会社のメンバーで構成された団員たち。時折白髪が混ざる。
決して余裕のある業界ではないから、平日は忙殺されている。これだけのセットリストでも形にするには、数ヶ月間、週末をほぼすべて犠牲にして練習したことだろう。
子もある。妻もいる。夫もいる。
加えて、ややこしい客と上司。
私とさほど変わらない境地のはずの彼らだったが、演奏している時は、おそらくゾーンに入っていた。シワをたたえた表情が、それはそれは明るく、そして、ストロボをたいたように燦然と輝いていた。
「あぁ。この人たちは、表現をしているのだ。」
そんなことを思った。
そしてふと周りを見渡すと、100余名は集まっているだろう、楽団員の家族や友人達。
肩でリズムを感じ、前のめりになり、足でリズムをとっている。表情こそ見えないが、きっと笑顔なはずだ。
彼らにも様々な生活がある。
もちろん、良いことも、悪いことも。
だが、その演奏を聴いているほんの一瞬、彼らは間違いなく「今」に集中をしていた。そして、「表現」に身を委ねていた。
そこには、無味乾燥な生活や、多くのやるべきことに追われる慌ただしい生活はなく、ただただ、穏やかで幸福な「今」があった。
ふと気づく。
師走の週末。カレンダー通りに仕事を休み、多少のドレスアップをしてコンサートを聴きに来る余力があるくらいには、私も今、豊かで幸福であることに。
そして、その幸福が、この会場に満たされていることに。
ガタガタの音程すら全く合わない素人楽団は、私にこんな感情を呼び覚ませてくれた。
1人の帰り道。
なんとなく、今夜はゆっくり暖かいお風呂につかり、体温が下がらないうちに寝てしまおうと算段する。
明日は朝から嫌な会議が一件。
夕方には納期もある。
ま、仕方ないからやってやるか。サラリーマンだしね。
無意識に口角があがる。
終
音程が一瞬しか合わない素人楽団でホールニューワールドを聞き「明日からも頑張るか」と思った話。 坂本 ラッコ @tofu_16
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