第2話
ハルは、実家の広い寺に住んでいた。冷たい床板にスリッパを置き、キリエを待った。
ハルは難しい赤本を手に、仏壇の前の長いテーブルの前に正座する。彼女の自転車の耳につくブレーキ音を不愉快に思いつつ、彼女が来た喜びに胸をときめかせていた。
彼は大きな寺仕様の大きな仏壇の前で合掌した。
「ハルー? 住職さーん?」
と、キリエは彼の父である方に声をかけたようだった。
晴れ晴れとして天真爛漫であるキリエは、ハルの父によそ行きの声で少し談笑した。
ハルはそういう一面を見ることで、胸の高鳴りと、進展も退歩もしない自分らの状況にドキドキした。
「おい。キリエ。勉強しに来たんだろう?」
彼は声にいらついた調子と親しみを織り交ぜた。
「あ。ごめんごめん。それじゃ。ハル君と勉強しますので。変なことなんてしませんよ」
と、声の調子はまんざら不愉快でなかった。かといっていい気分でもなさそうだった。彼女は脇道にある地蔵に合掌した。
「行くぞ」
サンダルで屋根の下に出ると、白い眩しさが目の奥を差した。手で遮れても余白を残した。セミももう鳴かない。寺の門前である所で、おばあさんが氷菓子を短髪の子供に渡していた。
蜃気楼がその景色の奥で揺らぐ。彼はアイスクリームを売るおばあさんを見るキリエを見ていた。
「キリエ、アイスなら家にもうあるから」
と、ハルは少し苛ついた風をしてみせた。なんだか分からないけれど、キリエに甘くすると、年相応の人間でない自分を見せる気がした。
「ねえ? リカさんっているじゃん?」
彼女は土間の上をまたぎつつ、ハルに尋ねた。彼女は露出のあるホットパンツに、淡い水色のキャミソールを着ていた。
「リカさん? ああ、あのちょっと可愛い子?」
「可愛いと思っているの?」
と、キリエは少し不満げだった。その表情を眺めるのは悪くない。
「まあ……でも、ちょっと暗そうだけど。というかそういう話じゃなく、彼女も勉強会に交ぜたくない? 一学年top3で総合的な価値を高めたいじゃん?」
遠慮のない思考方向にハルは苦笑いした。
リカの顔を思い出すと気恥ずかしい気がする。
縁側に何気なく目を遣ると、松の木が青々としている。池でとぷんと鯉がはね飛ぶ音がした。
彼女も大きな仏壇の前にあるテーブルに座り、彼がアイスクリームを持ってくるのに喜色満面だった。
「私は抹茶味が好きなのよー」
と、キリエは楽しそうだ。
「お兄ちゃん。私の分も残してね」
と、部活に行く準備をした妹のナミは、明らかに眉間のシワを濃くしていた。休日なのに制服で躍り出た。
中学三年でかなり厨二病だ。で、キリエが嫌いなのだ。
「そしてキリエさん? お兄ちゃんは私のお兄ちゃんだからね? 少し仲良くなっただけでいい気にならないほうが良いよ?」
と、ナミは吹奏楽部の部活動へ向かった。
彼女はブラコンだ。ブラスバンドではない。
「ハル。私は全然気にしてないから。ただ妹さんと一線を越えるようなことはやめてね」
はは、とハルは切子ガラスの中に入ったバニラアイスを、テーブルに置いた。
「僕が好きなのは、もう少し知性と理性の力を統御でき、他人に寛容さを持つことのできる人じゃないと」
果たしてそれはキリエに適合するだろうか? ハルは盆にアイスクリームをのせた。
「それはそれで、なんだか嫌だわ。ハルって、言っていることとか、考えていることを他の内容にすり替えて、周りの評判とか自分の感情を違う風に操作しているように見えるわ」
まさにピタリとした分析を無視し、彼女の手元にスプーンを置いた。彼女は抹茶が無いのか、と少々残念そうだった。
お盆も近くの夏の日だからか、早めに檀家さんらが線香をあげ、読経をしてもらいに来ているのを、脇目に見た。
彼らは風通しの良い所で夏休みの宿題を始めた。近くの庭から竹林の囁くような葉のこすれる音がする。猫と犬が喧嘩腰になっている叫びがする。
アイスクリームをスプーンで掬いつつ勉強していると、中学生の頃には考えなかったことを考えるようになった。恋愛は相手のことや、自分だけのことを考えればいいということではない。自分の周囲や自分の心に、現実の厳しさといずれやってくる様々な喪失を直視しなければいけない。その残酷さをハルもキリエも、恐らく曖昧模糊としか認識できないでいる。
昼が近くなって、父が出前をとってくれた。チーズを沢山にのせたピザや、コーラ。
父は縁側でアイスクリームを食べている。気を遣っているのか、邪魔にならないようにしてくれたようだ。
「高校一年で赤本解けるって結構すごいのよね」
彼女は改めて自分の頭の良さを誇らしげだ。
ハルは黙ってノートに数列と、証明に必要な文章を書き込んでいる。
この寺にはハルの必要とする個人的な部屋がある。この寺はハルの家と繋がっているが、普段使っている場所とは異なっている。
たまにお供え物を置いていく檀家さんのお菓子を食べるため、比較的涼しいこの寺の場所で勉強する。
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