イフェの住まい②

 皮のブーツを水に浸けちゃマズイ、とかそういうところが抜けているのが、如何にもイフェらしくていいではないか。

 彼女がすることならば、俺は何でも笑って許せてしまう気がした。

 黙ってそこに居るだけで可憐な乙女は、口を開けばそのギャップがたまらなく可愛いのだ。


 結局あれから数日を、俺はイフェの家で過ごしてしまっている。


「戻らなくてもいいの?」

 不安げにそう問いかけてくる彼女に、

「休暇取って来てるから大丈夫だよ」

 またもや口から出任せの言葉で応じる。


 その台詞に淡い笑みを浮かべると、今度は「いつまでお休みなの?」ときた。

 その時は「一週間ぐらい」と適当なことを言ったけれど、案外イフェはその言葉を気にしていたらしい。


「一人になるのは嫌だな……」


 体調を崩したのか、熱っぽいと訴えるイフェのたっての希望で、少し夜気に当たることにした。


 彼女の体調を考慮すれば夜風が毒なことは分かっていたけれど、イフェの熱意に押される形でしぶしぶ外に出る。


 山奥だからだろう。夏にも関わらず、澄んだ空気の中で、半月と星が鮮やかに輝いていた。


 それを見ながら二人で話していると、ふと真顔になった彼女がこぼすようにつぶやいた。


 最初、何のことを言っているのか分からなかった俺も、それが「一週間ぐらい」の期日を指したものだと気付く。


「イフェが嫌じゃなきゃ……まだしばらくは居られるけど?」


 どうせ期日の定められた旅ではない。早く戻らねば嫌味を言う相手は一人しか思い当たらないし。


 そこで、いつだったかバルベリスが言った言葉を思い出して、一人苦笑する。


 ねんごろな女、か……。

 確かに出来てしまえば名残惜しいものだ。


 俺の提案に、「いいの?」と戸惑う素振りを見せつつも、笑顔を隠しきれない様子だったイフェが、そんな俺の表情に気付いていぶかしんだ顔をする。


「大丈夫だ。俺もイフェと離れたくねぇし」

 率直に気持ちを吐露すると、不安そうにしていた彼女の頬に朱が差した。


 それが、熱で潤んだ瞳と相まって、何とも言えず可愛らしくて。


 その表情が愛しくて、俺は思わずイフェを抱きしめた。


 今までずっと我慢してこられたのにどうしたことだろう。

 自分の大胆な行動に戸惑いつつも、こうなったらいっそ、という思いにも駆られる。


 急に抱きしめられてビクッと身体を震わせたイフェも、力を緩めた俺の腕からすり抜けるような無粋な真似はしなかった。


 それが、俺の自制心をさらに遠くへ追いやってしまう。


 澄んだブラウンの瞳に揺ら揺らと半月を浮かべて俺を見上げるイフェに、半ば吸い寄せられるように俺は唇を寄せた。


 口付けはほんの数秒――。


 でもその瞬間、俺は彼女とは離れられないことを自覚した。


 イフェの家に滞在するようになってから幾日かの夜を越えてきたけれど、彼女と寝所を共にするのは今夜が初めてだった。


 だからと言って、肉体的快楽に溺れるでもなく、ただお互いの温もりを感じることにのみ重きを置いて、寄り添い横たわっている。


 さっき、キスをした折に一瞬ゆらりと燃え上がった情欲の念も、彼女を抱きしめている間に徐々に治まった。

 普通なら絶対に逆のはずなのに、イフェの肌には不思議とそういう俗な感情を退ける効果があった。


✽+†+✽


「怖い夢を見るの……」


 熱が上がり始めたのだろう。


 悪寒がすると震えるイフェを、後ろから包み込むようにして目を閉じた俺に、彼女がぽつんとつぶやいた。


「夢? どんな?」


「真っ暗闇の中に一人ぼっちなの。何かにすがりたくて一生懸命手を伸ばすんだけど、何も掴めない。怖くなって叫ぼうとしても肝心の口がなくなってて……」


 思い出すだけで怖いのだろう。

 背後から回された俺の腕にすがりつくようにして震えながら、手に力をこめる。


「大丈夫。今夜は俺がついてるからそんな夢、絶対みないさ。――そうだ」


 そこまで言って、ふとある名案が浮かんだ俺は、寝台を降りて玄関へ行く。


「ちょっと汚ねぇけど、これを枕元に置いて寝たらそんな悠長な夢、見てらんねぇと思うぞ?」


 例の、水に濡れてよれよれになった俺のブーツ。


 丸洗いの甲斐あって目眩がするほど臭くはないと思うけれど、だからと言って全く無臭という風にもいかなかったものだ。


 あの洗濯騒ぎのあと、結局、イフェの心遣いが嬉しくて新調する気にもなれず履いてしまっていたし――。


「サルガのブーツ?」

「そう。臭くて魔よけになる」


 そう言って頭をくしゃりと撫でると、薄暗がりの中、イフェが微かに笑う気配がした。


「そうね。真っ暗闇でもこの臭いを頼りに歩いて行けばいいもんね」


 その通りだと太鼓判を押すと、イフェはやっと安心したようだ。有難う、とつぶやくと、ややあって静かな寝息が聞こえ始めた。

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