第35.9話 番外 霧の店長①
青い塗料を全身に塗り込んだゴブリンが、戦いの開始を告げた。
彼らが信仰する。緑の履物妖木の青花を模した、神聖であり、同時に野蛮な姿だ。
ここ、クレキシウス岩窟宮では、大樹である履物妖木の根が張り巡っている。
地下に建設されたこの場所は、地底湖を望み、彼らゴブリンとメアゴルの発祥地とされる聖域だった。
そこで月に1度、開催される剣闘技会の、特等席に1人。
「彷徨える沼人の魔道具店」店長、ゼアイクは招待されていた。
緑の種族伝承では、この地で最古の狩りが行われたと言い伝えがある。
緑の種族は根を通じて妖木に猛獣、あるいは怪物の血を戦いで捧げるのが、習わしだった。
眼下には大勢のゴブリンやメアゴルが血の気の多い顔をひしめき合い、賭けを始めていた。
「さあ張った、張ったぁ、賭けはまだ張れるぞい!」
「では今宵は、血と生命が飛び散る様をご笑覧!」
「見ての通り、霧の御大将もご覧になられる、全員、気張っていけい!」
「オォオオオオオ!」
5人ほどの屈強なメアゴルたちが、しきたりに従い大歓声を受けながら入場した。
ぜアイクは愛想よく手を振った。聖剣闘士たちは咆哮と武器を掲げる事で返した。
向かいの入口からは、数頭の猛獣が骨の檻中で大暴れしていた。
大地を踏みしめ、高速で駆け抜ける敏捷な四肢。
全身を覆う浅黒く、赤い差しの入った毛皮。
ぞろりと揃った牙と爪、1等長い犬歯。
そして、香りの夢まで見ると唄われる。長い鼻。
狼。最も人類種を喰い殺したと言われる獣。
ハウンド種。それも群れの長は、火吹きまでやる強く多い猛獣だ。
何頭かのハウンドたちは遠吠えをあげて威嚇していたが。群れの長は違った。
弱い犬ほど、よく吠えるという。
それを体現するが如く、ただ自然に、まるでここが自分のナワバリのように、悠々と構えていた。
大自然の児たる余裕。不遜を持ってただ戦いの時を待っている。
対するメアゴルたちは、戦士の風格を強く漂わせていた。
皆一様に精悍な顔つきで、猛獣を睨んでいる。
野蛮とはいえ、皆、神事に向かうベテランの聖剣闘士たちである。
しきたりに従い、生の魚肉を食し、地底湖で身を清め、武具は自然由来の物を纏っている。
獲物はそれぞれ、怪魚の大骨が2つ、
「今宵は、あの枝持ちが死ぬか」
「…分かりますか、御大」
ゼアイクの側に控えた、給仕のゴブリンが答えた。
枝持ちと呼ばれたメアゴルは顔に深い皺が刻まれ、肌も褪せ、髪も後退していた。
老年である。
メアゴルは天寿を受け取らぬ種族と謳われる。それは何故か。
年老い、己が劣化する前に、自ら戦いで死ぬからである。
メアゴルの生誕は、生まれながらのものではない。
ゴブリンの氏族から、メアゴルだった者が死に、浮かび上がるように、ゴブリンから進化して成り替わるのだ。
まるで転じて生まれ返すようだと、言葉にする者も居る。彼らに云わせれば、血に選ばれるのだという。
蛮勇であり、勇ましき者であり。血を手渡す者。
戦に愛され、戦を愛す者。
武に生き、武の前にて、まえのめりに死する者。
天寿を構わず、戦死こそが己の天寿であると、誇る者。
戦士であり、戦死であるそれらが、誇りも高きメアゴルである。
「
「はっ…」
開戦の音は勇ましくも麗しき、ゴブリンの美姫による、猿叫と聞き紛う祝詞で開始された。
「うぉおおおおおおお!!」
瞬間、目配せも息合わせもなく、ただ喉から土間声が張り上がった。
ビリビリと肌を張る豪音に、観客たちの熱狂が燃え上がる。
古の戦にて、雄壮なる叫びこそが原始、初段の武器である。
まさしく、たゆまぬ気魄の儀だ。
何頭かのハウンドたちは、気迫に飲まれるように、慄きながら遠吠えを止めて叫び始めた。
「…、が、ガウ!」
「…ウウウッ」
このままでは1合、交わす前に優勢は決まってしまう、かと思われた。
「っ…」
長が、動いた。
長は、肌すら揺るがす気魄を、そよ風でも受けるように毅然と流した。
そして、その場でメアゴルたちへ歩き始めた。
真に強い行動を示す王者ほど、ただ歩み征くモノなのだ。
坦々と進み征き、同胞に威風を示す。
王者の歩みに、その不遜に、配下たちは自らの恐怖を諌め、ただ粛々と戦の構えを始めた。
(ほう、ただの神事ではなく剣闘になるのか)
自然、ゼアイクの頬は釣り上がり始めた。
言うまでもなく、ハウンドたちに生き残る術はない。
観客も合わせれば、彼らにとってここは言葉通じぬ異世界と、その住人そのものだからだ。
たとえこの戦いに勝っても、ハウンドたちに残るものは何も無いだろう。
長はすべてを察していた。この視界、この嗅覚で感じる夢々は、己たちを確実に殺し得るのだと。
それでも長は、道を示した。
それでも長は、強さを同胞に示した。
それでも長は、諦めを微塵も見せなかった。
重要なのは間合い、退かぬ、折れぬ心である。
そう思い、そう感じ、戦うと決めた。
(欲しいな、アレを)
ゼアイクはただ頬を釣り上げ、その時を待った。
そして、枝持ちと長の目が会い、ただ両者嗤った。
まるで、求めていたモノに手が届いたかのように。
メアゴルの撃に小技はあり得ない。無骨の1言だ。
得体を活かし、オーガに次ぐ膂力を持って突撃し、勢いを持って蹂躙するのみである。
故に、次手は全身全霊で持って、干戈を交えた。
最も先に撃を打ったのは、長だった。
高速で駆ける四肢を活かし、あっという間に左右に分かれたハウンド。
その陣形の穴めがけて、長は、喉を膨らませ、火吹きの体制を取った。
幾度もイクサバにて、勝利を飾った必殺の殺し間。
火吹きを察知し、岩の盾持つオークは、ただ愚直に長への道を直進した。
長を恐れての行動ではない。仲間を守るための行動でもない。仲間の道を作り、活路を示すための行動である。
火が、吹き放たれた。
「オアアアアアアア!!」
盾は縦に持たぬ、ただ横に持ち、獄炎の元にぶち当てる。
少しでも大きく炎を防ぎ、突撃し、前に出て、あわよくば巻き込んで焼き殺す構えだ。
身体が燃えるのも構わず、何頭かのハウンドが突撃して、ようやくメアゴルの盾持ちは逸れた。
道は出来た、機なり、残すは攻め果てるのみ!
「オォオオオオオオオ!!」
「リァアアアアアアア!!」
大骨持ちのメアゴルは、道を進み長に仕掛けた。
長を守る為、ハウンドたちが迫る。最も強きオスを残すために、本能が咆哮する。
何度も振るわれる、白刃のような大骨。
容赦なく切り裂く、大ぶりの鋭い爪と牙。
噛み千切れ、弾け飛ぶ肉。
2度と大地踏めぬ、潰された脚。
ぞろりと揃った爪牙と血に染まった大骨が、何度も暴れ回った。
乱戦の中、老獪で枝持つオークは、ただこの時を虎視眈々と待っていた。
「イヤァアアアアアアアアアア!!」
足蹴にしたハウンドが砕けるのも構わず、火吹く長に飛びかかった。
長とてさる物だ、空飛ぶ獲物と対峙したのも、1度や2度ではない。
だがまさかあの老いた匂いが空を飛び、己が炎を飛び越え、迫りくるとまでは読めなかった。
戦の匂いを嗅ぎ間違えた事を悔いる間なく、長は火を吹いたまま。
四肢に力を入れ、老いた匂いに飛びかかった。
避けるという選択肢は、あり得なかった。
退くという選択肢も、選ぶつもりは無かった。
1度避け、退けばその領域に、2度と踏み込む事は許されない。
野生の、ナワバリの極意だ。
大自然の掟が、魂が、本能が叫び、恐れず飛びかかった。
「ガァアアアアアアアア!!」
数本の牙を犠牲に、片腕を肩から噛み砕かれる。
強かに妖木を打ち据えた指が折れ、脇腹の骨が粉砕する。
血溜まりに、墜ちる。
野生と武の嵐が、血風荒ぶ。
返しとばかりに、5本の爪が砕け、脇腹を抉る。
用向き終わった腕を盾に、四肢の1本を砕く。
残されたのは、歯の根合わぬ牙、数本。
生き残りしは、妖木振るう、ただ一撃。
他の者たちは、血溜まりか毛皮に沈んでいた。
動けるのは、予感通り好敵手のみ。
観客たちの怒号を超えた熱狂は遠く、ただ老いた匂いと、精強なオスの、愛のような妄念の世界となった。
この剣闘に、もはや、交わす言葉も、匂いも不要。
最期の先手は、また長だった。
火吹きはせぬ、肺など等に潰れている。
ただ生き残った本能のまま、牙を喉笛に突き立て、抉った。
─────── 勝った!
そう思ったのは、同時だった。
老いたオークは枝を長の目に突き立て、脳を抉った。
互いに地に、血溜まりに付さず、組み合い、直立したまま、膝を折らず果てた。
決着である。
1人と一匹は、すべてを出し尽くした顔で動かなくなっていた。それは神聖な儀式そのものに見えた。
決着を、ただ履物の妖木は見ていた。
決着を、ただ霧の魔術師は見ていた。
観客たちは土砂降りのような歓声、絶叫を浴びせ、戦士たちの奮闘を労った。
数日後、「彷徨える沼人の魔道具店」で、ゼアイクはいつもの通り、瞑想兼、睡眠を取っている。
今日はゴブリンの老婆が、主に店を切り盛りしていた。
若い連中は店の奥で、ハウンド長の遺骸を加工するため、かなり悪戦苦闘中だった。
「…っ」
「おや、お目覚め、何か来るのかい?」
「…バカが来る」
瞬間、幽き世界が斬り拓かれた。
「よっと、チャオ〜☆、元気してた?」
軽い調子で世界を斬り拓き、ふわりと現れたのは、絶世の美女剣士だった。
もし、人が想像し得る書や描きに、天の龍人が居るならば、こう伝えるであろうというような、外見の人物だった。
麗しい栗毛の髪は光を弾きしも、透き通るように輝いて束ねられている。
僅かな化粧が施された肌は、快活な彼女を示すかのごとく、朱を差している。
瞳は縦割れで龍を思わせる虹彩と、生き生きと光を宿している。
人間種ではない、ドラゴニュートでもない。
その証拠に鱗は一見無く、額には植物の枝のような角が生えている。
ドラゴニュートよりも長く、細い尾を腰にゆるりと巻いていた。
背は小さい、ゼアイクの3分の2も無いだろう。
だがその異様な存在感を無視できる者は、地上に存在し得ないだろう。
表情は一見、あどけない童子のように晴れやかで、垢抜けない、溌剌とした、心の曇りなど欠片もないような顔だった。
総じて、何も無い空まで、いとも軽やかに駆け上がってしまいそうな。
捉え何処ろのない、天衣無縫の八方美人という印象を抱く剣士だった。
そんな美女を前にして、ゼアイクは本当に残念極まりない生き物を見たように、深いため息をついた。
「たった今元気が亡くなった、どこかの剣バカが店の結界を斬ったのでな」
「あら、なら直してあげるわよ、峰打ちでいい?」
「出来るならな」
一歩剣士が踏み込むと、それだけで幽き世界は元通りになった。
真の強者に、理屈はただの余分に過ぎない。
ただあるがままに、成したいことを、成すのだ。
ゼアイクは、聞こえるように大きく舌打ちした。
彼にしては珍しい客対応だった。
「お久しゅう御座います、かかさま」
ゴブリンの老婆が剣士に瀟洒に挨拶した。さっと椅子を引き、恭しく茶を差し出した。
とても老婆と思えぬ、流れるような所作だった。
「お久、太母ちゃん、また皺が増えたんじゃない、好ければ斬っちゃおっか?」
「ほっ、ほっ、ほっ、不思議な物で、重ねる皺にも愛着がありましてね」
「そう、美しい過分ね」
剣士は心底嬉しそうに、愛しげに老婆の皺を見つめ、相貌を崩した。
「それで、今日はどうした、また剣でも逃げ出したか?」
「そうなる前に今回は持ってきたわ、たまたま霧が出てたし」
剣士は腰に帯びていた1本の刀を、ゼアイクが眠っていた机の上に差し出した。
一見、なんの変哲もない、ダロスではよく店先に並べられている、無銘の刀に見えた。
「拝見する」
「んっ…」
剣士は服の袖を、たおやかに唇で噛み上げた。
もしここに若い衆がいれば、彼女が帰るまで、決して目を離せなくなる程の所作だった。
ゼアイクはそんな彼女を完全に無視して、パピルス紙を唇で噛み、親指を押し当て、濃口を切り、鞘から白刃を少しだけ抜いた。
なんの変哲もないはずの刀は、びっしりと鱗のような物が生えて、変化してしまっていた。
ゼアイクはまなじりを下げながら、静かに白刃を納刀した。
「また随分、派手に変えたな、おい…」
「少し長く斬りあったからね、祖龍さまと」
竜と対峙し、竜を追うものは竜に成る。
それは、ただの刀も例外ではない。龍人とて例外ではない。
まして、血風遊びかねない、真剣勝負と見紛う鍛錬なら、尚の事だった。
「俺が見るに、あと20太刀程で竜になってたな」
「えへへっ、ごめんね、興が乗って…」
「相変わらずの、御武運なようで…」
剣士は愛想笑いをしたあと、叱られた子供のように、罰が悪そうに指の先を合わせた。
ゼアイクは呆れて深いため息をついた。
ゴブリンの老婆は、いたずらをする。可愛い孫を見るようにニコニコ笑っていた。
「し、仕方ないじゃない、濃口切ってお世話しちゃうと、生き生きしちゃうんだから」
それはあまりにも斬り心地が良すぎて、剣が逃げかけているだけでは?、歳頃の子供が親から逃げるように。
ゼアイクは心からそう思ったが、口には出さなかった、まるで武士の情けである。
「ここまで成ったら、もう龍にした方がこの子の為だ、また世話しろよ?」
「うん、もちろん! また子供が増えるね!でヘヘへへっ」
確信犯かコイツ、ゼアイクはかなりイラッと来たが、軽く咳払いしてこれも仕事だと割り切った。
「アレ? いつもの小箱が無いじゃない、どうしたの?」
剣士が何気なく店の奥を覗くと、緻密な魔術刻印の刻まれた小箱がなくなっていた。
「咲く寸前のような、それでいて新月のような妖精の姫が来た。それで取引した」
ピクリと彼女の角が揺れた。ゼアイクは彼女の笑みが、僅かに深まった気がした。
「そう、導かれたのね。どうだった?」
「このババが見るに、大変可愛らしい方に見えましたが…?」
「そうね、とーっても可愛い子よ♡」
剣士とゴブリンの老婆は顔をほころばせていたが、
ぜアイクはしばらく押し黙って言った。
「アレは、深いな。深すぎる」
「…そう、アナタにそう、云わせる程…」
いつの間にか彼女の笑みは、貼り付けたような空虚なモノに変わっていた。
「いいのか、アレで、少し世話を見ているんだろう?」
「…そうね、わかりやすく云うと ─────」
剣士は少し脇差しの柄を触って考えた。彼女の考え事の癖だった。
「崖に飛び降りたって重力を斬るだけだけど、人の膿まで絶ち斬ろうとは思わない、彼女が心から
「うぬぅ…、人の膿、ときたか」
「斬れないモノがあんまりなくても、決して、なんでも斬って良いわけではないでしょう?」
珍しく真剣な彼女の顔に、少し引き込まれたのもある。ゼアイクが納得できる意見ではあった。
店の結界はどうなんだと思ったが。話の腰が折れるので口には出さなかった。
「それに、察するに、1人で来てしまった訳では無い、…でしょ?」
「流石の御警眼、その通りですじゃ…」
「彼女が1人で来てしまえば、此の世の殆どは変わるか、終わりかねないもの、…たぶん」
「…それほどか?」
「と云うより、世の中そんなモノよ、例えば…、眼の前の人が居なくなれば、あっという間に、ね」
「…ああ、言いたいことは、分からんでもない」
「…さ、もしものお話は、おしまい! 裏で体でも動かしましょ?」
結局、店には小さな仔龍が1頭、産まれる事になった。
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