第26話 ナイフと切り愛

俺達は近くの花園を歩きながら、姫さんが少し落ち着くまで、屋根付きの休憩所で休んでいた。パラパラと少しだけ雨が降って、濃い霧もまだ出ていたので、他に休んでいる客は少なかった。


「落ち着いたか?」

「はい、ご迷惑を…」

「まさか、あれだけ感動されたなら、役者冥利に尽きすぎるってものだろう?」


素人意見だが、実際に演じている若者たちも、姫さんの様子に感化されたのか。

演技力が1段上がっていたように、俺には見えた。


「この街でも演じられているなんて、とんでもない不意打ちでした…」


「内容は一部、変えられていたみたいだけどな」

「そこはおそらく、演技する役者さん達に合わせたのだと思います。…とてもいい劇でした」


「ああ、劇場にこれて良かったか?」

「もちろん、ずっと大事な思い出にします」

「それは、ふふっ、何よりだ」



しばらく花園で佇んで、お昼ご飯もそこで済ませた。優しい雨音を聞きながらテラスでの食事は、心に染み入るようで。穏やかで、とても優雅な時間だった。


「本当は遊覧船にも乗りたいんだが、この天気ではな…」


マナギさんは花園から、霧の切れ間に見える湖を見渡して私に告げた。遊覧船は霧のせいで現在、安全面を考慮して、短い距離しか航行してないみたい。ゆっくりと水面を移動してる。


「人気で人も多いので、ここから眺めるだけでもいいですよ、それに、港街ミョルズポルトのほうが、遊覧船は立派ですよね?」

「それは向こうは元軍艦だからな、海だしモノが違って当然だろうさ」


「魔法で海底散歩もできるんですよねぇ、流石は世界に名高き海運都市です」

「なに? それは初耳だったな、なら帰ったら2人で行こうぜ」

「…はい! とっても楽しみにしてます!」


帰り際、私は手を繋ぐだけでなく、彼の腕を抱くように身体を押し付けて歩いていた。


「姫さん、その…」

「当ててます、イヤですか…?」

「…大変ごちそうになります」

「どうぞ美味しく、召しあがれ? …恥っず…」


恥ずかしい、つい流れに乗って言ってしまった。マナギさんの顔もかなり赤い。

わー、顔真っ赤だ、カワイイ…、こんな顔もするんですねぇ、このひと。そのままそっと自分の頭を、彼の肩によせてみた。たぁまんないですねぇぇ、うぇへへへへ。


普段硬い革鎧だから、半端に温もりが伝わって、少しもどかしかったんですよね。

雨のお陰でしっとりとした感触で、彼の腕はかなりゴツゴツとしていて…、疼くなぁぁもうぅぅ。


抱きついてみると、コヤツ結構着痩せする体でたまんないなぁ…。ずっとこうしてたい。もうこのひとが、…欲しい。


そんな事を胸に秘めながら、馬車乗り場まで足をできるだけ、ゆっくりと向け続けた。




馬車の待合所の近くは飲食店や、楽器店などの品の良い商店が立ち並び、傘を差した住人たちや観光客で賑わっていた。


「あ、魔道具店です」

「お、本当だ…、珍しいな」


縁を牙のような装飾で彩られた看板には「彷徨える沼人の魔道具店」と書かれていた。

魔道具店は向こうから店が招かないと、現れることはないと揶揄されるほど滅多に見かけない店だ。


俺も数度しか入った事がない、主に貴重な触媒などを取引している。店舗に出入りしている身としては、店構えが骨などの動物の体の一部、植物や鉱物などの自然物のみ出来ているのが気になった。


「せっかくだし入って見ましょう!」

「そうだな、面白そうだ」


店内にはところ狭しと、店構えと同じ物が並べられている。俺達の半分ほどの背丈の、疣蛙イボガエルのような、デコボコのでき物が浮かぶ肌。口の端に牙が突き立った半裸の種族。


絹糸で出来た筒状の帽子を被った、疣沼人ゴブリンが、何人か忙しそうに働いていた。


「お、いらはい! 彷徨い型店舗、「彷徨える沼人の魔道具店」によこそ!」

「久しぶりに新規のお客様だで!」

「お、おー…、おおー、ありがたや、ありがたや」


様々なゴブリンたちが仕事をほおりだし、こちらに駆け寄ってきた。最後のヨボヨボ歩いてきたゴブリンの老婆は、姫さんを見ると崇めていた。気持ちはよく分かる。


「彷徨い型店舗…ですか?」

「そうだで! 彷徨う店だで!」

「ここには欲しい物を求めて、彷徨う客が来よるんじゃよ、どれ、寝坊助店長を起こすとしよう」


ゴブリンの老婆が覚束なく歩いた先には、俺達の倍はありそうな巨漢がいた。だらしなく制服を着崩して、受付の上で大いびきをかいている。


外見はゴブリン達に似てこそ居るが、肌の質は樫の木のようで、クック頭目のように、得体で鍛えすぎたような身体をしている。

メアゴル。ゴブリンたちの守護者だ。


「メアゴル種さん、でしたっけ?」

「ああ、俺たちで言うフェアリーみたいなもんだな」


ゴブリンたちの中で、必ず強い戦闘能力を持つ成長をする者が1人のみいる。それがメアゴルだ。


彼らの言い伝えでは、太古の役目を終えた精霊や妖精が、何らかの原因で変化した子孫だと伝わっている。逆説的な魔力の影響も含めて、真相は彼らゴブリン達自身にもわからないらしい。


寝そべっていたメアゴルは、ゴブリンの老婆に耳を引っ張られて起きたようだ。立ち上がるとやはりデカい、少し羨ましいな。


「本店にようこそ、ゼアイクは何をお求めかお客さんに聞く、そして眼福、眼福」


どうやら変わった喋り方をする店主のようだ、彼は姫さんを見て、手を合わせて拝んでいた。


「いや、まずは商品を見ようかと思うんだが…」

「ぬ? それはおかしい、ゼアイクの店は何か道具を渇望する客しか喚びこめない」


ふむ、どういう事だろうか? 欲しいものと言われれば、そりゃたくさんあるが…。


「あの…」


姫さんが少し躊躇いがちに手を上げた。何かをゼアイク店長に訪ねたいようだ。


「魔術儀式用のナイフ…、など、ございますでしょうか…?」

「…ナイフか?」

「ナイフです」


ゼアイク店長は姫さんにナイフと言われて、俺と彼女が繋いでいる手をじっと見た。


「そういうことか?」

「そっ! そういう事、です…」

「わかった、ゼアイクはすぐナイフを持ってくる。腰掛けて待つと良い」


会話が短くて俺には分かんねえな、どういう事だ?

ゼアイク店長は大きな身体を揺らして、店の奥の商品棚を漁り始めた。


「そういうことって、どういう事だ?」

「…帰ったら話をして、その…」

「話?」

「はい…」


姫さんが耳まで真っ赤にして、恥ずかしそうに顔を伏せって俺によりかかってしまった。それ以上話す気は無いらしい。珍しい反応ではあるが、可愛らしいなぁ。

その間にゼアイク店長が、桐の小箱を持ってきた。


「ゼアイクは質問する、この刃の名は聞こえるか? 妖精の姫君」


ゼアイク店長は桐の箱を押し開けて、細い木の緩衝材に包まれたナイフを俺達に見せた。両刃のナイフで、大きさは戦闘にも使えるだろう。変わったことに刀身から柄下まで、縦に木目がついている。

だが材質は一見、すべて木とも石とも鉱物とも言えるような、不思議な材質をしていた。


姫さんは目を閉じて、そっと桐の小箱に手を這わせてみた。何かをナイフから感じ取っているようだ。

相当集中しているようで、汗が何粒か頬を伝う頃、彼女はほっと一息つき、名を口にした。


「…ウンシュルト」


「うむ、よく魂を磨いてる、それだけ聞こえるなら、ゼアイクは十分に販売できる」

「これでお願いできますか?」


「承知した。部族に伝わる緑の履物妖木で、型の儀だけを施した、値段は…、そうだな」


ゼアイク店長は俺の胸ポケットに視線を注いだ。

俺はポケットから7つ星の煙草を1箱取り出した。


「コレでいいのか?」

「ああ、後で一服貰う」

「金銭はいいのか?」

「ゼアイクと店にはこっちのほうが価値が高い、十分だとも」


彼は1本だけ取り出して、嬉しそうに牙を少しだけ鳴らした。


「ではまた、霧の濃い彷徨う日にでも」

「はい、ありがとうございました」

「ありがとうな」


店を出て霧に巻かれて振り返ると、店は跡形もなく、ただの空き家になっていた。

…俺達は妖精にでも化かされたのだろうか?


「相当高名な、魔術師様ですね…」


姫さんがそっと桐の箱をなでながら、呟いた。

彼女がナイフを持っているなら、化かされた訳では無さそうだ。


霧越しの淡い夕日を眺めながら馬車に乗り、宿の部屋に帰ってきた。

テーブルの上には、タロッキの手紙が置いてあった。彼女は今夜、友人の家で一泊するつもりらしい。気を使って貰ったのだろう。今度何か礼をしないとな。

今日はじゃんけんで勝ったので、俺は片腕で力こぶを示すポーズを取り脱衣場へ…、姫さんは急に顔を赤らめ始めた。ははーん?


「大人のデート。…最後までするかい?」


バシッと無言で叩かれかけたので、大笑いしながら逃げて、風呂場に向かった。本気で叩く気はなかったのだろう。簡単に避けることができた。

この宿は防音も優秀で、適切な料金を支払えば、連れ込み宿のような事も行える。意識しちゃって可愛いなあ、もう。


寝間着に着替えて脱衣所を出ると、姫さんがまた、大ぶりのナイフを抜いて、刃先を見つめていた。


彼女が椅子に座るテーブルの上には、桐の箱と、取り出したナイフ、精霊儀式盤、何故か切り傷用の軟膏薬が置かれていた。

その横顔は遠く、俺の預かり知れないどこかを見つめているようだった。こちらが迂闊に話しかけられない気配を感じたが、彼女はそっと振り返ると、ぽつりと呟いた。


「この、ナイフ…」

「ああ…」


彼女はとても大事なことを俺に告げようとしている。そう思い、隣の椅子に座った。


「このナイフで、ひとを刺した事があるんです」

「…そっか」


なんとも言えない透明な笑顔を彼女は浮かべていて、俺は彼女の肩にそっと手を添えて、片手で軽く抱きよせた。

少しでも自らの傷を晒した彼女の心に、寄り添ってやりたかった。


「今でも嫌で夢に見るんですよ、大切な誓いをしたこのナイフで、刺してしまった事…」

「後悔か」

「…はい」


姫さんのことだ、きっとその大切な誓いや、大事な物、赦せない事の為に刃を手に取ったのだろう。

彼女があまり昔の事を語らない事。その一端が少しだけ、分かった気がした。


《マナギ・ペファイストさま》

「ん?」


姫さんはナイフを仕舞うと、居住まいを正して俺に向き直った。

何百年も前から生きている大樹に話しかけられているような、凛とした奇妙な感覚の声で、俺は彼女に名前を呼ばれた。


《是非、この妖精の姫と、ミュレーナ・ハウゼリアと、今宵…、契りを交わしては、頂けないでしょうか…》


相当無理をしているのだろう、凛とした声は次第に勢いを無くし、顔を伏せ、最後の言葉は言葉尻が濁りかけていた。

耳もいつもの勢いがなく、倒れて絞られてる。


なんとなく、彼女が求めていることは理解していた。

だがきっと今のままそれをしてしまえば、俺は彼女のすべてを、暴き、奪い、下手をすれば、壊し尽くして変えてしまう予感があった。


他の男と、同じようにだ。ケダモノ未満になるのだろう。彼女の傷を一時的に誤魔化すように。永遠を生きる彼女の傷と、その怒りと、…きっと、涙を、嘆きを、だ。


それだけは、たとえ姫さん自身に1度踏み込まれても、俺自身が彼女を欲しくて、本っ当に欲しくて堪らなくても、イヤだった。


偽善だろうが何だろうが、彼女の特別に成れねば、きっと意味など無い。

そうでなければ、彼女の抱える傷みは、怒りは、それこそ真に濯げない。そう思う。そんな風に、自身のこれまでのことは頭の片隅にすら無いほど、俺は彼女の事を考えていた。きっと俺は、この娘以外を男として愛せないだろう。そんな確信すらある。

欲深くてすまんな、本当に…。


「…契約か、良いぞ、何をするんだ?」


姫さんはとてつもなく葛藤を抱くような、もどかしい物を抱えるような表情をしたあと。絞り出すように言葉を紡いでくれた。


「私と、せ…っ…、ううん、ナイフを、その…」

「慌てなくていいぞ、ゆっくり言ってくれ」


姫さんは深呼吸を何度かして落ち着いたあと、意を決したかのように俺に話しかけた。


「ナイフを、魔道具にできたら良いと思って…」

「魔道具にするのか?」

「はい、2人だけで、共有できるモノに…」

「良いぞ、具体的には何を?」


「あなたの血液を、生命を、少しだけ下さい」



姫さんが風呂から上がってきた。蒸気した肌が艶めかしいが、魔術儀式の基本は、清潔にすることから始まる。やるからには真剣に行わなければ…。

俺達はテーブルに隣り合って座って、俺は針入れを待つように片腕をまくってテーブルに横たえている。

姫さんは全部の道具を丁寧に、少しやり過ぎなくらい時間をかけて、清潔に磨き上げていた。

血液による、感覚共有の魔術。

どんなに離れて居ても、混ざり合い、2つの血を啜ったナイフが存在する限り、軽度の感覚共有が可能になる魔術。

短時間なら視覚の共有や、痛覚の共有による生存確認など、様々な事ができるらしい。


「清潔な水布2枚、切り傷薬、儀式盤、ナイフ、水盆。よし、始めます…」

「ああ、頼む」


生き血を啜る。


古来より、吸血種の怪物が持つ行動で、強すぎる武将への陰口にも用いられる言葉だ。


生命の象徴である血を穢す、行為。

背徳的で、強い嫌悪感と忌避感を示す、行為。

それ故に膨大な魔力の喚び水となる、行為

魅惑的で、抗い難い誘惑が付きまとう。血の行為。

その艶やかな禁忌に、俺と彼女は今宵、連れ添って挑んだ。


姫さんは深呼吸をして、俺の手首にそっと、線を引くように、浅い傷を付けた。


「っ…」


驚くべきことに痛みはなく、押し当てたままの妖木のナイフは、俺の血を一滴も残さず啜り上げた。

血が止まると姫さんは、綺麗に傷口周りを拭いて、いつかと逆に軟膏薬を丁寧に塗り込んでくれた。


「出来ました、次は私です…」

「ああ、上手く出来なかったら、すまん」

「…大丈夫ですよ、コツがわからなければ、ちゃんと教えますから」

「頼む…」


妖木のナイフを1度、綺麗に水で洗浄し丁寧に良く拭いた。

姫さんは儀式服の長い袖を捲って、白魚のような見ているだけで柔い腕を晒した。

俺の生涯で見たどんな自然よりも、美しい細腕。


…俺は、この芸術、否、もはや神秘そのものと言っていい腕を前に、畏れ多くて固唾をのみ、手の先が少し震えてしまった。


これからこの手首に、傷を増やす。


間違いなくとんでもない大罪を冒している。その感覚が、ともすればドラゴンに挑んだときよりも、遥かに身体を強張らせてしまっていた。


「大丈夫ですよ。見ての通り傷は薄いですし、それに、嫌いな思い出ばかりでも、実は無いんです」

「そう、なのか…?」

「はい、何より、です…」


姫さんは深呼吸を長く繰り返すと、とんでもない一言を俺にそっと言い放った。


「何より、アナタにして欲しい、…お願い…」


一瞬、魂が弾け飛ぶかと思った。それぐらい彼女の魅力の洪水は普段と段違いだった。

呼吸を思い出したのはずいぶん後に思える、魅力の暴力に屈しそうな精神を、なんとか繋ぎ止めた。


「その、姫さん、こっちは刃物を持ってやるんだ。だから、あんまり人の心を掻き乱さんで戴きたい…!」

「あ!、すっすいません、そのアナタにしてもらえると思うと、とても嬉しくって、つい…」

「ハハッ、…紙切れに上書きを頼むとは、本当に…」


しばらく目が合うと逸らしてしまい、姫さんと共に嬉しすぎて呆れるような笑い声を抑えられなかった。

間違いなく、幸せな一時だった。


「はー…、うん、しよっか、姫さん」

「うん…、して…、マナギさん」


そっと白魚のような、幾筋も傷の消えかかった肌に、意を決して、針入れのように尖った刃先を刺し入れた。


「んっ……ふぁあっ……」


じわりと流れ出る宝石のような、赤が躍り出た。

姫さんの艷やかな声が響いて、彼女の手を取っている俺の手にも震えが伝わって…。

とんでもなく、彼女が興奮の極みにいることを、理解してしまった。


「はー…、はー…、はー…っ…っぐ」


今、彼女の生命を、俺がナイフの刃先に乗せているという、事実。


その事に、彼女をとんでもない奴だと感じつつも、俺も汗が目に染みるほど興奮していた。

荒く熱い息を吐きながら、なんとか握ったナイフを動かしていく…。


「…つっ…、やっ…、はっ、あぁー…」


ふと、手を止めて彼女の顔を伺うと、まるで一糸纏わぬ男の下半身でも見たかのような、艷めいた釘付けの目と視線が合った。


───────── あはっ


瞳が会った瞬間。咲った。

あ、だめだコレ、終わった。そう思った。


娘だと思っていた相手は、貪欲なる女だった。

ヘビに睨まれたカエルなら、まだマシだった。

狩りをする猫なら、鳩のように狩られた。

ドラゴンを飲み込む大蛇なら、死ぬことが出来た。


だが彼女の眼差しには、底抜けのナニカがあった。

おそらくは、意思の問題ではない、モノ。


本能。


今宵、俺はこの女に── され。


「血、止まってるよ…?」


彼女の声に、俺は視線を下に向けることができた。

気がつけばナイフは彼女の血液を、啜り終えていた。啜り終えて、くれていた。


「あ、ああ、すまん…」


背筋が飛び跳ねるような衝動を感じながら、今度はきっちりと清潔な布で軽く拭いて、彼女の傷に労るように軟膏薬を塗り込んだ。


…身体は先達が指導してくれたように、何も考えず治療を施せた。

心の中で、先達に心底感謝した。

たったこれだけの行動で、俺は酷く疲れていた。


ほっと一息着こうとすると、くらりときて姫さんの方に少しよりかかってしまった。

血の匂いが、たった数滴なのに、濃い…。


「…上手に出来てたよ。んふっ、確かに、貰ったよ」


彼女は微笑みながら、心底嬉しそうに軟膏を塗った傷口に、舌を少しだけ出して、舐めるように口づけした。


淫靡で妖艶で、人が変わったかのように妖しい色香が漂った。

妖しいのは当然だろう。

彼女は、妖精の姫なのだ。


「姫さん、その…」

「こんなのが本性なの、軽蔑する…?」

「いいや、だが、そんなに欲しかったのか…?」

「うん…、あなたが、今夜、欲しいの…」


彼女に、愛されている。

不可解だがその事実に心臓が早鐘を打ち、初めて女に恋をして、胸の赤い実が弾けたかの如く、彼女から目が離せなくなった。


「どうして、そこまで俺を…?」

「秘密。でも、今日はここまでにしよっか…」

「え…?」

「多分このまましたら粉々に無くなるよ、私たち、積み上げた物も、幸せも…」


同感だ、同感ではあるんだ、だが…!


「姫さん、俺は、俺はぁ…!」

「いいの」

「姫さん…!」

「いいんだよ、だけどね、いつでも耐えられなかったら…」


そっと俺の胸元に、姫さんは耳をよせて抱きついた。まるで早鐘を打つ心音を、絶対に聞き漏らさないかのように。

俺は受け止めて、抱きかかえてやることしか出来なかった。


「アナタが、アナタだけが、壊していいよ…」


本当に不可解だった。彼女にここまで好かれる謂れはないはずだと言うのに。


「イイ、とても、イイ音…」


早鐘を打つ心臓と、笑顔で妖艶な姫さんと、彼女の事を理解できないこと、3つすべてがチグハグで、俺は当然、動ける訳もなく。


故に、覚悟が足りていない、白い泥のように渦巻く霧深い夜は、まだ、明けることを許してはくれなかった。

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