第21話 窓辺の姫君


フリッグスの火龍教殿は中央竜車駅から降りて、約1000歩ほどの近さにある。小高い丘の上で、大通りまで伸びる長い階段が目立つので、フリッグスに初めて訪れた者でも迷う事は無い。今日も、観光客やその観光案内。多くの出店や拝む信者。僧などが多くが行き来している。

荘厳な寺院は、コンクリートや鉄を一切使わず、石や岩、木材。土と特殊な骨を混ぜた骨削。つまりは自然物だけで建てられ、巨大な龍、或いは竜の彫刻や数々の怪物種彫刻などもある。


多くの炊き出し、主にカリーを提供しているが、それこそドラゴンのように、火吹きできるほど辛すぎるとよく言われる。リザードマン文化の名残りの1つなので、伝統料理にして観光名物でもある。

ちなみに、俺の大好物だ。実家では親父と腹壊すまで取り合いになったり。駆け出しになった後、1週間コレだけで過ごした事もある。


普段は背びれの関係で、上半身に胸腹当て以外。衣服を身に着けない俺でも、今日は正式な緑袈裟だけは、肩に掛けて身にまとっている。

徳の高い修行者だと、無縁の彼方者が身につけていた衣服をよく洗浄。繕って、袈裟にしている事もある。今日は居ないようだ。


馴染みの僧たちの黙礼、信者のオバハンたちの黄色い声に、手を口で覆う黙礼で返しながら、俺は本殿の奥へと登って行った。

古代文献資料室、立入り遠慮願いますと幕に記載されている部屋に入った。中には灰色に褪せた色の鱗持つリザードマン。俺の父親が、メガネを掛けて忙しそうに資料を漁っていた。


「おはようございます。御僧。良き日ですな」

「うむ。息災で何よりです。クック僧。では堅苦しいのはやめましょう。…首尾は?」

「全部調べてきたぞ。俺は直接触れても来た」

「………なんと。相変わらずの不敬者め、…クソ度胸だな。くくっ…」


喉奥から忍び笑いが漏れた。それ程には俺の所業は、とっつぁんには痛快だったらしい。他の僧侶に知れたら日が沈むまで、説教コースだろうに。流石は俺の親父殿だ。


「いざって時は腕ごと切り離すつもりだったが、一切の変わりなし。知っている限りの疫や、まじないでもねえ、となると…」

「仮死ではなく、停止或いは停滞である。と?」

「完全な推測はとてもまだできんがな。とにかく、色々な文献を紐解こう。…そっちは?」

「狼狽える者も多かったが、概ね普段通りだ。…それとなく信を置ける者に、ここを守らせてもいた。…如何だ?」

「流石だぜとっつぁん。送った絵の所感は?」

「………正直。何者なのか、わからんというのが本音だ」

「………なに?」


驚くしか無かった。ここは北本殿ではないにしろ、かつてそこに勤めていた親父が、ドラゴンに関する知識で知らないと語る。決して、滅多な出来事ではない。


「これが私の力量不足だ。というのなら良いのだが…。星焼き固めし竜の歴史は、原初にまで遡る。或いは永き時の果てに、失われた生き残りやもしれん…」

「………ふむ、渡来龍ですらないと。政治的な荷は降りたか…?。…とっつぁん。ノルンワーズ方面の文献は、あるか?」

「それは魔女様方始め、多くを納めて頂いておるが、何故…?」

「例の飛んでった奴の方角だ。半ば勘働きだが、そこからしてみよう」

「良かろう。確か、あるとすればこの棚だ。しばしま…………。無いぞ」

「…………あん?」


2人して文献の収められた棚を見上げ、空っぽの場所を眺めて、ピタリと同時に動きを止めてしまった。あるべき物が、ねえ。…ゾワッとしやがる。


「確認だが、他のとこに紛れてる可能性は…?」

「私も鱗の子だ、無いとは言い切れん。しかし、他に紛れればすぐに…」


他の僧が血相変えて持ってくるわな。そもそも立ち入り厳禁で、入れる訳もない。つまり…。


「ここには、いつ…?」

「鍵は私が管理し、お主が来る直前に私も入った…、他の僧も多く見ておる前でだ。なんと、恐れ多きことか…」

「よーし…、動かんでくれ…」

「心得た…」


アリバイどころの話じゃねえな。すぐに床に這い付く張ってみたが、足跡も俺達以外なし。部屋全体を暗い場所まで見渡しても、埃1つ乱れてやがらねえ。どんな手練れだよ。身内でもラランじゃねえと、これはわからんかもだな。


「盗みだとまだ良いが、間諜スパイだと、この手腕は大問題だ」

「お主でも、分からんか…?」

「生憎こっちは鋼砕きギリギリの腕前でな。場所も場所だ、相棒じゃねえと…。とにかく出てくれ、とっつぁん」

「うむ…」

「心配せんでも、ガキが出来たら娶るぜ?」

「そこは欠片も心配しとらんわい。…どう見る?」

「人為的だな。状況からも間違いねえだろ。…ようやく、切り離した尻尾を見せやがった…!」


「…追えるか?」

「追うさ。…向こうに気づかれたくはねえ。ラランが礼拝しにくる以外は、つね通りで頼む」

「抜かるなよ、クック。…龍を敬愛する者以外は決して、信を置けぬぞ」

「へっ、重々承知よ。そっちは頼んだぜ、親父殿」




ここ、自由都市同盟領、トロイドの街は中央の湧き水から出来た湖を、円状に囲んだ街。

内陸部にあるこの国の水産物を取り扱う街で、中央の古代神殿に御座すのは、誉れも高き氷の眷属さま達だ。


太古からおわす、氷の精霊様が今は首長として取り仕切っており、何よりも水を大事にし、湖の慈悲深き恵みで我々は生かされてきた。


夏場は野分が多い同盟領ではあるが、この荘厳で触れ得ざる神聖を宿す、アリース湖周辺では氷の眷属さま方の奮闘により、ほとんどの嵐が起きない。


そして、現在では商業都市として発展し、水産物を中心に様々な商会が名を連ねている。

そんな街の1画に、私の務める道具商会、ダックス商会はあった。


「お疲れ様です。今日も取引に来ました」


20代後半から、30代前半の青年が1人、今日もスクロールを取引に来ていただいた。


「毎度お世話になっております。ではいつも通りこちらにどうぞ」


彼は最近のお得意様で、歪み夜明けの災害でこの街に来てしまい、何でも婚約相手様と、ご家族の養子様1人を伴い、ノルンワーズで式を上げる予定なのだとか。


「今日も自信作だそうで、是非良いお値段で、お見積り下さい」


そのための路銀を稼ぐ手段として、自身の技術である商談で、婚約者さまが制作しているスクロールを販売しているとの事だった。


はっきり言えば大金になる商売ではないが、こちらは定期資産が増えて、あちらは相応の路銀を稼ぐことができる。

スクロールの需要も、最近我を失った怪物種が活発化しているので少し高騰している。


そこそこの稼ぎになるになら、物品の査定さえしっかりしていれば、大勢の出品者の1人として、我が商会では一時的な商談が成立していた。


「最近は魔液の値段が下がっていて、少し不安になりますね」

「全くです、それだけ怪物種が殺されている、ということですからね」


私はいつも通り煙草に火を付けて、彼は煙草だけ受け取って火を付けず口に咥えた。


何でも婚約者は大の煙草嫌いで、このあと軽く臭い消しもしなければならないらしい。

彼は「愛嬌のようなものです、可愛いでしょう?」と惚気けていたので、遠慮なく私は煙草を吸っていた。


「それで、今回は如何ほどでしょうか?」

「こちらでいかがでしょう」


私が提示した値段で彼はおそらく納得しないだろうが、それでも安い値段を提示した。

商売の常套句のような物だ、もしこの値段で通るのなら、むしろ一言聞かなければならないだろう。


「先ほど申し上げましたが、値段も下がっており、彼女の腕も上がりつつあります、いかがでしょうか」

「ふむ…、あと幾度か商談していただけそうでしょうか?」


「できれば他の街に旅をしても、この商会で取引させていただければと、願っております」

「わかりました、では少し勉強させていただきましょう」

「大変感謝を」


商談の帰り際、彼はいつもの事を私に聞いてきた。

何でも、ドラゴンに関する品々の情報を、彼は探しているらしい。生憎今回は新しい情報は無かった。


「それで、例の情報などはありますでしょうか?」

「残念ながら…」

「そうですか、ではまた来店させていただきます」

「はい、心よりお待ちしております」



小高い丘にあるダックス商会から見る、アリース湖は絶景だった。

中央の神殿はここからでも一望でき、此の世ならざる物を感じさせる。


水鳥は優雅に飛んでいて、遠巻きに見る遊覧船は外輪をぐるぐると回して水の上を走っている。外輪船は海運国家ダロスのお家芸みたいな物だが、輸入船と聞いていただけに、驚いた物だ。

人の営みに溢れ、妖精種とも美しく寄り添っている。いい街、なのだろう。


俺はダックス商会を後にして、市場に足を向けた。

すっかり馴染みになった、露天といくつかの物品を交渉し購入するためだ。


「おう、来たなおっさん」

「お疲れさん、景気はどうだ?」


彼らは近隣に住むリザードマンだ。このトロイドでは遊泳能力の高く、指の間に水かきや、水中で呼吸が出来るリザードマンの希少種。鮮やかな鱗に彩るロイ・リザードマンが多い。

鮮魚を中心とした市場を支える。屋台船とも言える露天は、彼らのようなロイ・リザードマンの店が多かった。


「悪くはねえが、歪みの影響がまだ強いな。アラクネーたちが魔術師たちと組んで、頑張って新しい流通路の開拓始めてるらしいが…」

「そうか、あんまりよくなさそうだな…」

「ま、ゆっくり見てってくれ。今日は珍しく、森からレッサーデモンの魔液が出たんだ」

「ほう。死体でも上がったのか?」

「そんなとこだ。安くしとくぜ」


下位悪魔レッサー・デモン

有角の羊によく似た頭部を持ち、背中に生えた蹄付きの羊膜翼を持つ。およそ俺の倍ほどの人体に似た構造の体と、背を持つ…。

ただし、これらは必ずともそうであるとは決まっていない。

便宜上、似た身体の構造で群れを成している生物を、そう呼称しているに過ぎない。そう言わなければならない程、彼らは呪われたように身体の構造が、いまいち安定して生まれてこない、らしい。


生き物なのか、それとも未知の魔宿しとも言える超生物なのかは、恐れながらも永遠と賢者たちに議論されている。

生物学者や術師。或いは宗教家いわく、羊から人類種に似た進化を遂げた、或いはその途中の収斂進化種。かつて、魔を宿した者たちの実験で生み出された、歪んだ魔造生物。幽き神々の祝福を授からなかった哀れな生き物。など、誕生の経緯すら定かではない。

分かっている事は、体液すべてに持て余すほどの魔力がある。恐るべき力持つ。怪物の中の怪物たちという事だけだった。


「なるほどな。じゃあ、いつもの布と、それ貰おうか」

「あいよ、可愛い娘さんと、綺麗な奥さんにも、よろしく言っといてくれ」


俺は購入した荷物を背負い、市場を後にして湖畔に近い宿街へと向かった。



浅瀬の湖畔は手漕ぎボートや、小さな漁船が立ち並び、ほとんど波がなく多くの観光客や、漁師で賑わっていた。

俺は一室を借りている宿に戻り、警備の在中騎士たちに差し入れをして、最上階へと階段を登り、部屋を1度ノックした。


反応はない。さらに少なめにノック。

また反応はなかった。さらに多めにノック。


「はーい」


ようやく反応があった、符丁を決めていたのでこのノックの方法でしか、彼女は反応を示さなかったのだ。


「俺だ、開けてくれ」


鍵をガチャガチャ開ける音が響いて、可愛らしい長耳の女性がドアを開けた。


「おかえり、マナギさん」




この街に入る筋書きは、こうした。


結婚を誓いあった矢先に、災害にあって避難してきた。いっそこのまま予定を変更して、彼女の育ちの故郷であるノルンワーズで、式をあげたい。


連れ子の娘は駆け出し冒険者で、スジが良いので色々この街で経験させたい。

また、氷の大精霊様に、御友人からの大事な手紙を渡すよう仰せつかりました。


そう衛兵に告げて手紙を渡そうとすると、トロイド所属の自由都市騎士が丁寧に接してくれて、氷の大精霊様から礼として後日、謁見をしてほしいと願い出された。

姫さんの護衛を考えると、要人として扱って頂けるなら願ってもない。遠慮なくご厚意に甘えさせて頂く事になった。

そして、彼女は相談の上で俺の婚約者であると指輪を左手薬指にすることで、男避けの提案をしてくれた。嘘を付くのは少々心苦しいが、ココハン村での出来事を考えると、何かしらの対策はしたかった。


「ふっふっふ、先生直伝の隠遁術です!」

「誰かを騙すのって楽しいですよね! 誰も傷つかないなら上場です!」


おめめキラッキラに輝かせて、ニマニマ笑って喜んでいた。うーんこのいたずら好きめ。性根が悪い。

先生とやらもどんな性悪なんだ、会うのが怖くなってきたぞ、俺は。


嘘を言う時は、できることで真実を織り交ぜればバレない。バレても誰も傷つかない嘘を言うのがコツだ。


彼女の存在は無策で何も考えず甘い行動を取れば、ハンココ村のように、犯罪に巻き込まれる危険性も大いにある。

策としては上場だろう。宿の外に積極的に出なければ、そうは目立たない。

警報用の呪文の巻物スクロールや、衛兵様たちが進めてくれた、専用の在中騎士が守ってくれている宿も取っている。犯罪対策はかなり厳重にしてある。


唯一、申し訳ないのは吸い殻の彼だが、そこは隠し技の範囲内だろう、許せ。

そして、頑張って俺たちを見つけ出して見せるが良い、ふはははははは。悪の親玉か俺は。

そんなわけで、この街で文字通りの仮面夫婦と養子を演じながら過ごしていた訳だ。

ここに来るまでにも一応気をつけていたが、素早く部屋に入って尾行が無いかドア越しに確認し、部屋に入った。


「タロッキは?」

「ギルドに顔出しに行ってくれてます。お友達にお呼ばれされて、おゆはん頃には帰るそうですよ」

「そうか。呪文の巻物スクロールの方は、どうだ?」

「ノルマよりもいくつか書きましたよ、あっ…」


彼女の腕をゆっくり取って、手首を確認した。

長い耳が小刻みに揺れている。少しだけ恥ずかしいのか。可愛らしいことだ。


「また痛くなると嫌だろ? ほら、もう一回薬塗ってやるよ、こっちきな」

「…うん、ありがと」


姫さんには呪文の巻物スクロールの基礎部分を、書き込んでもらっていた。

それで、頑張りすぎて少し手首を痛めていた。

駆け出しの呪文の巻物スクロール制作者にはよくあることだ。


テーブルの端に隣り合って座って、軟膏薬を指に取った。

冷ややかな感触と、粘性が指を伝う。見ただけで柔そうな白肌に、ゆっくりと優しく、労るように、ぬるっ…、とした感触を塗り込んだ。


「ふふっ、くすぐったーい…」

「こーら、逃げるな」

「逃げないよ…」


冷ややかな感触と、くすぐったさで彼女が身を引いたので、ゆっくり肩をよせて、俺は彼女を逃さなかった。


「養生しろよ、痛めると辛いんだからよ」

「うん…」


俺も若い頃、何度も調子に乗ってやってしまった覚えがある。描くだけ稼げれば仕方ない。

姫さんの手はよく見ると、剣士らしく剣ダコの跡がある。腕にもいくつか傷跡はあるが、彼女の妖しい魅力を損なう物ではないと思う。むしろ、気高く美しさを引き出しているようにすら思える。

ただ、俺はまず目についた、手首の何本もある真横に切り裂かれた、かなり薄い傷跡は、努めて無視することにしていた。


「…やっぱり、聞かないんだね」

「ああ、言いたいなら聞くぞ」

「…ううん、いいや」

「そっか」


聞くまでもない傷は無闇に晒させない、当然の行いだ。女性ならなおさらだろう。


呪文の巻物スクロールの主要部分は多少精度がいやすいので、仕上げは俺の仕事だった。


儀式版で魔液、魔鉱石を聖別する。

半透明の魔鉱石を削り。魔液に混ぜ合わせる。


周囲には果物の皮を削るような音と、軽く泡立つような、耳に心地良い音がしばらく響いた。


「くぁ…、あふぅ…」


窓辺にだらしなく座って本を読んでいた姫さんが、可愛らしくあくびをした。惜しげもなく肌を晒して、白魚のような足が窓辺から1つ垂れ下がっている。


今日の彼女の服は白を基調とした袖なしで、ミニのワンピースだ。

自作の品らしく、ドレスのように胸元の上から肩周りがシースルーで、目にも涼しい格好だった。今日は暑いしな。


白と鴉の濡れ羽根のような黒髪と、目を引く真紅のタイが良いバランスで、とても清潔感がある。

のどかだ……。ずっと彼女を、見ていたいほどに。

気を抜くと彼女に目線を奪われて、集中できないかもしれない。それは良くない。仕事にかかろう。

魔液を筆に浸し、一息入れず、そのまま何枚も主要部分を書き終えた。



こちらが仕事を終えても彼女はまだ、窓辺で本を読んで佇んでいた。はしたないと言っても過言でない姿勢なのに、妙にサマになっている。


伸びた黒髪を長い耳にかける姿は煽情的過ぎた。

いっそしゃぶりつきたいねぇ、あの耳に。

自分で掛けたのに、邪魔そうに耳で髪を弾いてるのも可愛らしい。半端にだらしなくかかってるからか、なんというか異様に男心を唆りすぎる。


俺はそっと横から近づいて、窓の外を見てみた。

最上階なので、ここに来るのは目があった小鳥たちぐらいで、眼下には小さくなった人々が見える。


小鳥たちもどうやら、姫さんを盗み見していたようだ。誤魔化すように一斉に毛づくろいを始めた。…普通この距離なら逃げると思うんだが、それはしたくないらしい。魔術師の使い魔という線はおそらく無いだろう、それならいくら何でも動きが自然すぎる。


姫さんの伏し目がちな顔を眺めながら、そっと彼女の左手に手を重ねた。何度手を取っても綺麗で小さく、長い指してるなぁ…。何度か薬を塗る時に気が付いたのだが、彼女は俺に手を触られるのが、心地良いらしい。


小指を中心に親指で揉みしだいてやると、愛らしい事に、嬉しそうに耳を弾ませ、目を細めてくれる。

しばらく彼女がページをめくる、静かな音だけがしていた。彼女は本から目を逸らさず、俺に質問してきた。


「何か良いこと、あった?」

「良い女がいるなと思って手を取ったら、お前さんだったんだよ」


優雅なんてありきたりな言葉では、追いつかないと思い。俺の辞書から本心で、いい言葉を選んで送った。そっと手を握り返された。まるで逃さないかのように。彼女の目線はまだ本だった。


「…悪くはないですが、もう一声イケるでしょ?」


…ふむ、鍛えすぎたかな、欲深い事だ、素晴らしい事に。俺の眼の前には彼女が読んでいた、1冊の本があった。題名を「ゲルダの涙」

ピンときた。


「まるで、物語のヒロインみたいだな」

「あら、よく知ってるんだねぇ、以前はそうだったんだよ」


彼女の視線が本から俺の方に完全に向いた。心底嬉しそうに耳を弾ませ、肌を朱に染めている。どうやら今の言葉が、よほど嬉しかったらしい。俺は彼女のその応えに、乗る事にした。


「そうなのか、絵画や文字から飛び出して来たとは、思ってたが」

「ふふっ、そうですよー、みんなに愛されてぇ、呪われてしまったので、驚いて飛び出してきちゃったのです」

「そうか、…じゃあ、この世界は辛くないか?、絵の世界に比べてだ」


俺はきっと辛いだろうな、と思って質問した。これだけの美貌を持っているのだ、要らないくらいに辛いだろうなとは思っていた。村1つに愛されることでさえ、かつえてくるのが世の常だ。世界を相手取れる美貌を持ち、愛されてしまうのは、地獄ですら生ぬるい所業だろう。


そう難しい話でもない。食べたくもない料理を、無理やり世界中から与えられれば、どんな健啖家でも辟易する。これは、そんな単純な話だ。


だから姫さんは、自分が得て、与える愛に飢えている。そう思う。決して、憐れんでは居なかったが。俺の乏しい思慮でも、彼女を理解しようという姿勢だけは、揺らすつもりはなかった。


「辛いよ? 要らないぐらい愛されて、追い詰められるぐらい、呪われてるもの」


案の定だが、彼女の表情は当たり前の事を言われたように、キョトンとしていた。まるで「フェアリーの耳が長いのは当然だよね」とでも言いたげな顔だった。


「でも大丈夫、全然へっちゃら、好きな人がいてくれて、好きな人がいるから」


そっと掴んでいた手を両手で持ち上げられて、愛おしそうに、目を閉じて頬ずりされた。…正直このまま抱きしめてやりたがったが、頬を揉んでやるだけで自制した。


最近気が付いた。この娘には、愛している人が別に居る気がする。そいつとまずは彼女を賭けて決闘してこそだろう。ここまでが線引のギリギリだ。決して悪くは無いが。俺は彼女に救われている、甘さか、優しさか、気安さか、それとも…。


「今はちょっと窮屈だけど、描くの楽しいし、あなたを見つめてるのも、…っ…楽しい、し…」


「そうか、今度出かけるか、また布でも買いに行こうぜ」

「うん、いっぱい甘やかして、えへへっ!」


彼女は照れくさそうに笑った後、さっきまで読んでいた「ゲルダの涙」を俺に差し出してくれた。


「これ、貸してあげる」

「…いいのか?」


手垢や傷も付いているが、装丁を直した跡や、シミ抜きした跡もある。きっと、大事に読んでいた本なのだろうう。


「貸してあげる。いつか返してみてもいいですよ」

「俺はこの本、穴が空くほど読んだことがあるぞ?」


実際に「ゲルダの涙」は読んだことはある。正確には読み聞かせてもらっただが。


「いいから、いいから、ね?」

「わかった、大事にするよ」

「…うん!」


必ず生きて彼女をノルンワーズまで届ける。その旅の果てが、どう結末を迎えようと。俺はこの時あらためて、決心することにした。

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