きしょうときしかいせい
──ふわふわ、さらさら。
意識が曖昧なまま、アレッタは水の音を耳にする。
ゆっくりと目を開けると、視界いっぱいに虹色の湖が飛び込んでくる。アレッタはギリシャ神話のような白い布をたっぷりと使った服を纏い、金の波打つ長い髪を揺らし、腕には木で編んだ籠を手にしている。視界の高さから、成人した大人くらいの体格であることがわかる。
夢だからだろうか、アレッタの思い通りには動かないこの体は、何事かを勝手にしゃべっている。どういうわけか声を聞くことは叶わず、アレッタの口は誰かに言葉を紡ぎ続けている。
誰に向かって話をしているのだろう。
好奇心で、体を動かそうと身を捩る。
けれど体は動かず、おしゃべりな口は笑ったり軽快に節を口ずさんだりする。
その視界が、上の方を向こうとして──
◇◆◇
「──あれ?」
ぼんやりと覚醒すると、見慣れた天井が目に入る。
何か夢を見ていた気がするんだけど、うまく思い出せない。
「アレッタ様……!」
ぱたぱたと駆け寄ってくる気配。
テレンツィオだ。
その瞳にはほっとしたようなものがあり、だんだんと意識がなくなる前のことを思い出してくる。
「……そっか、わたし、死にかけて……?」
「そうですよ、アレッタ様。……おや、泣いているんですか?」
「……え、わたし、が……?」
手慣れた様子でテレンツィオが引き出しから手鏡を取り出す。
差し出された鏡面に映っているアレッタの目尻からは、涙が一筋溢れている。
「……よく覚えてないけど、夢、見てたから」
「悪い夢だったのですか?」
「……ううん、多分ちがう。なつかしい、ような……」
少し喋ると、けほけほと咳が飛び出す。
テレンツィオがグラスに水を注いでくれるが、それを持つ力もない。背中を支えられ、上半身を起こしてもらった状態で水を飲ませてもらう。
「しばらく水も飲んでいない状態でしたからね、喉が悲鳴をあげているのでしょう」
「……しばらくって……どのくらい?」
「アレッタ様が倒れてから、3日経っています」
身体のほとんどが死にかけてよく3日で意識が戻ったというべきか、それとも遅い方なのか。この世界の医療技術には明るくないのでなんとも言えないが、わかることはひとつ。くるるる、とアレッタのおなかが元気に主張を始める。
「消化にいいものでも作りましょうか」
「……うん、おねがい」
負担のないようそっとアレッタを寝台に戻したテレンツィオがキッチンに立つ。ぼんやりと天井を見つめていると、香ばしいスパイスの香りが漂ってくる。いい匂いに、またおなかが切なく鳴いている。まだ力は入らないけど、おなかが空くくらいなら快方に向かっているんだな、と他人事のように考える。
ゆっくりと記憶が追いついてくる。
神殿の地下で龍に会って、おねがいしたけど死にかけて、テレンツィオに助けてもらって。あんなに痛かった全身は今では沈黙している。
あの龍の瞳がフラッシュバックして、吐き気と動悸がする。
勝手にぽろぽろ涙が溢れ、拭うこともできずに流れ落ちる。
「アレッタ様、できましたよ……アレッタ様……!?」
湯気の立つお皿を持ってきたテレンツィオがその様子を見て目を丸くする。手にしたトレイを慌てて置き、引き出しからハンカチを取り出して拭ってくれる。
「どうされましたか? やはり怖い夢でも……」
「ううん、ちがう。ちがうの。……こわくて、あの龍とのことがこわくて……」
ぺしょぺしょと止まらない涙を、そっと拭ってくれるのに任せる。やっぱり戦いなんてまっぴらだ。こんなにこわいのに、どうしてひとは戦えるんだろう。あんなに痛いのも、死んじゃうかもっていう恐怖も、二度と体感したくない。
ぜったいぜったい、ぜーーーーったいに、召喚なんてされたくないし、戦争には関わりたくない。
アレッタは、当初の目標を再度心に強く誓う。
「少し冷めてしまいましたが、食事にしましょうか」
目がぱんぱんになるまで泣いたアレッタの瞼を、氷水で冷やしたハンカチで冷やしてくれたテレンツィオが食事のお皿を運んでくる。おかゆのような料理だが、色が黄色い。香りもスパイスっぽいものを感じる。
まだ手もうまく力が入らないアレッタは、恥ずかしがる暇もなくスプーンで食べさせてもらっていた。口に含むとほどよいスパイスが食欲をそそり、また次のひとくちを食べたくなる。あっという間にお皿の中は空になっていた。
「これだけ食べられれば安心ですね」
「……ごめんね、全部お世話になって」
「そうですよ、甲斐甲斐しい僕に感謝してくださいね」
「……うん、ありがとう」
申し訳ない気持ちが先立って、目もうまく合わせられない。何もかもやってもらっている自分が恥ずかしい。
この世界に生まれてから、全部ひとりでそれなりに生活できていると思ってた。だから今回も、自分ひとりでなんとかできると、根拠のない自信があったのだ。
何が『中身はアラサー』だ。これでは見た目と変わらない。他人におんぶにだっこ。迷惑しかかけていない。最低だ。
「下僕を心配させるのは主人失格ですよ、アレッタ様」
「……うん、そうだね。ごめん」
お皿を下げたテレンツィオにも皮肉を言われるが、言い返すこともできずに謝罪を返す。
彼のことも巻き込んでおいて、その責任も取れないまま危険に巻き込んで、解除の方法はわからないまま。その上、介護のようなこともさせているなんて。
情けなくて、目を逸らす。
布団にでも埋もれてしまいたい気分だ。
……今のアレッタにはそんなかんたんなこともできないのだけど。
「……アレッタ様」
少し不機嫌を滲ませたテレンツィオの声が降ってくる。
失礼します、と伸びてきた手がアレッタの頬を包んで。
「……
「アレッタ様らしくなかったもので、つい」
「………………」
むにむにと捏ね回してくる手を振り払うこともできず、そのまま押し黙る。らしくないってなんだ、さすがに落ち込んでるというのに。
「確かに龍との交戦は想定外でしたが、元々は僕が押しかけたせいでしょう? アレッタ様だけの責任ではありませんよ」
「……でも、一番かんたんな方法ができなくなっちゃったんだよ? きみはそれでもいいの?」
「あのときも言いましたが、他の方法を探してからでも遅くはないでしょう」
「……ほんとに? それでいいの?」
「代わり、と言ってはなんですが……アレッタ様には召喚術の研究にご助力いただければ、と思いまして」
自分が従魔になる経験は、なかなかないですからね。
やわらかく笑うテレンツィオの若草色の目からは、慰めてくれているのが伝わってくる。こちらに気負わせないように気遣ってくれているのも。……彼がそう言ってくれるのであれば、アレッタも好意に甘えることにする。
「……ありがと」
「どういたしまして」
「……体が動くようになったら、ちゃんと解除の方法探し、はじめるからね」
「ええ、もちろん。僕も各所に当たってみます」
「……それは頼もしいかも」
「『かも』ではなく、頼もしいんですよ」
「……ふふ、そっか」
この小憎たらしい言葉にちょっとだけ安心することになるとは。
──今度こそちゃんと探そう。
魔法を解除して、テレンツィオを解放するために。
──コンコン
窓を叩く音がする。
きっと友人の妖精たちだ。
テレンツィオが気を利かせて隙間を開けると、色とりどりの光がふよふよと部屋の中に入ってくる。馴染みの妖精たちが、それぞれ手に花やきのみを持ってベッドの周りに集まってくる。
『アレッタだいじょうぶ?』
『げんきになった?』
『おみまい持ってきた!』
『そこのニンゲンがはいっちゃダメって!』
『もういい? あそべる?』
わあわあと賑やかにアレッタの周りを飛び回る妖精たちひとりひとりにお礼を伝え、順番にお見舞いの品を受け取る。
「あれ、きみ……はじめて会う妖精?」
『そう! つい昨日生まれたばかりなんだ!』
普段のお茶会では見たことのない妖精は、小さな妖精の中でも一段と小柄。小さな両手で抱えているのは、見たことのないきのみだ。
『これ、食べたらぜったいぜったい元気になるから!』
「うん、ありがと! あとでもらうね」
『ううん、いま! たべてたべて!』
ぐいぐいとそのまま口に入れようとするのを、テレンツィオが翅を摘んで持ち上げる。
「こら、アレッタ様に無理強いするのは許していませんよ」
『え〜〜? でもさ、しんせんなうちがいいよ!』
「わかった、剥いてみて食べられそうなら食べるから」
「……アレッタ様」
「ごめん、食べさせてくれる?」
せっかくの好意を断るのも忍びない。
視線でテレンツィオにおねがいすると、仕方ないですね、と妖精からきのみを受け取る。黒っぽくてゴツゴツしたその実に刃物を入れると、案外あっさりと外皮が割れる。中からは真っ白な果肉が現れる。見た目的にはライチに近いかもしれない。
テレンツィオが器用に外皮と中心にある種を取り除き、食べられる状態になった果肉をひとくち口に放り込む。
「……毒の類いではなさそうですね」
「よかった、じゃあ食べれるね」
「……本当に食べるんですか?」
「だいじょうぶだよ、わたしおなか強いから」
そういう問題ではないんですが、と渋面を作るテレンツィオに、いいから、と口を開けて待つ。『アレッタ』には植物毒に対する耐性があるためだ。毒耐性を共有するテレンツィオが問題ないというのならアレッタが食べても大丈夫だ。
そういえば言ってなかった気がするので追加で伝えると、そういうことでしたら、と眉根を寄せつつ口に運んでくれる。
甘酸っぱい果肉が口の中に広がる。
少しクセはあるけど、基本的な糖度は高いのか美味しく食べられる。
「うん、おいしいよ! お見舞い、ありがとね」
『やった! 元気になったらまたくるな!』
嬉しそうに空中で一回転した妖精は、先に帰った妖精たちの後を追って外へと飛んでいった。
「……アレッタ様、よくわからないものをそのまま口にするのはどうかと思いますが」
「言いたいことはわかるけど、大丈夫だよ。彼らにはわたしを害する気持ちはないだろうし」
「その気がなくとも、今のアレッタ様に何が悪影響を及ぼすがわかりませんから」
「……きみ、なんかさっきから過保護じゃない?」
前までそんなかんじじゃなかった気がするんだけど。
こまめに世話してもらっている立場だけど、思い返してみればおかしい。どちらかというとアレッタの後ろをついてくるような受け身の態度で、積極的に世話を焼くようなところは見ていない。まあ、一日で何がわかるのか、と言われれば口をつぐむしかないんだけど。
「アレッタ様は知らないかもしれませんが、結構僕は世話を焼きくのが好きなタイプなんですよ」
「……ほんとかなあ」
「さて、お水でもいかがですか?」
「……飲む、けど」
アレッタの背に手を添え、上半身を起こして水を飲ませてもらう。
なんだろう、腹の中に何か隠してるような気がしてならないけど、証拠もなしに追及することもできない。何より、要介護状態のアレッタはテレンツィオの手伝いがないと何もできないのだ。ならば、多少のことには目を瞑るしかない。
コクコクとコップの水を飲み干して、少しだけ睨んでみるけれどテレンツィオは涼しい笑顔で受け流す。これ以上できることもなく、アレッタはお礼を伝えてベッドに横になる。
「妖精たちはおしゃべりだから、そのうち森のみんなもお見舞いに来てくれるかもね」
「それまでにはご自分で起き上がれるようになっているといいですね」
「そうだね、できるなら元気なところ見せたいけど……」
思っているより元気なつもりではあるが、身体の大半が動かせないというのは結構重傷ではないだろうか。寝ていれば治るものか、と言われれば首を傾げるしかないし、アレッタの治癒魔法も使えない。
「わたしって……どうやったら治るんだろう?」
「ああ、そういえばそろそろ時間ですね」
コップを横に置いたテレンツィオが、クローゼットの方へ歩いていく。慣れた様子で隅の方から小さな小瓶を取り出す。アレッタが溜めている、自分の鱗粉を収めた小瓶だ。非常時の魔力補充にもなるし、物々交換とか取引のときにこれを渡すと快く了承してくれるからストックしているんだけど、それは割愛。
だんだん違和感を覚えてきたんだけど。
この人、部屋の中のこと知りすぎじゃない……?
「……ねえ、聞きたいことがあるんだけど」
「なんでしょう?」
「……わたしの部屋、家探ししたりしてない……よね?」
「お世話に必要な場所しか見ていませんよ」
「……! 見たんだ……! わたしが寝てる間に……!」
「少し失礼しますよ」
言いながら布団を足元にまとめるテレンツィオ。
顕になる寝巻き姿のアレッタ。シンプルなワンピースタイプで、脱ぎ着しやすいように前側をボタンで止めるようになっている。しかし、アレッタの記憶が正しければ自分で着替えた覚えはない。
「ま、まさか……まさか……! 見たの……!? ぜんぶ……!?!?」
「すぐ終わりますからね、あまりぴいぴい鳴かないでください」
「ぴ……!?」
抵抗しようにも重い身体は言うことを聞いてくれない。
慣れた様子で小瓶の栓を開け、ワンピースのボタンを外し、動かない場所へと金の鱗粉を振りかけていく。
やだやだやめてとごねても、もう少しで終わりますから、としか返事が返ってこない。
羞恥で顔も体も真っ赤になるのがわかるのに、どうすることもできなくて、せめてもの抵抗にぎゅっと目を閉じる。ほどなくして、終わりましたよ、と声をかけられ、元通りに布団をかけられる。
「……っ、ばかばか、やだって言ってるのに……!」
「文句を言うのでしたら、エルフの族長にしてください。僕は指示通りにしているだけですから」
「……だからって、だからって……!」
「単なる治療行為と捉えてもらえれば問題ないでしょう?」
「……うぅ、そうだけど、そうだけど……!」
自分で動けない以上、誰かにやってもらうしかないのだが。急に心構えもないまま服を剥かれて羞恥が限界を迎えている。テレンツィオはこちらが子どもだと思っているのかもしれないけど! こっちはそれなりに年齢を重ねているので……!
「……ぅう、およめにいけない……」
「夕食のあとにもやりますからね、慣れてください」
「……まだあるの……!?」
泣きたい気持ちになるが、そうすることでしか治らないのならアレッタにはどうしようもない。
一刻も早く動けるように、せめて魔法を使えるくらいまで回復しますように……!
自分の回復力に期待して、アレッタはまた瞼を閉じた。
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