第26話 パーティーに潜入
夜の一時の喧噪は過ぎ去り、城は普段の調子へと戻っていた。
朝はメイドの独壇場。我先にと働き出す彼女たちは忙しなく城内を駆け回る。
夜を明かした衛兵はあと数時間で交代なため、眠気は最高潮に達していた。城の騎士は衛兵の任務が三交代制であるため、睡眠をとったら訓練が待っているのだった。
煌びやかな王城を舞台に、メイドと騎士という関係で繰り広げるラブロマンスがあったりなかったり。
そんなことを知る由もないアリシアはいつも通り早起きをし、鏡台の前に座る。
「綺麗な髪なんだから、ちゃんと梳かないと勿体ないわよ」
まるで母親みたいなことを言う彼女はアリシアの髪を優しくブラシで梳く。
寝癖は当然、枝毛は一本も残らずにサラサラな髪へと様変わり。黄緑色の色彩は綺麗を超えて美しさすら感じられる。
「そうかな? 短いから不要だと思ってた」
鏡越しの返答に彼女は、
「もう、アリシアってちょっぴりズボラよね」
そんな正鵠を射たことを言う。
「うっ、そんなぁー」
椅子に座りながら肩を落とすアリシア。
それを見てクスリと笑う彼女。
窓から差し込む爽やかな朝日は、まるで一日の始まりを祝福しているよう。
「リコみたいに長髪にすればちゃんとするよ」
リコと呼ばれた少女はアリシアよりも二歳ほど幼い風貌である。
しかし、腰まで流れた赤髪は高貴な華やかさがあり、青い瞳は知性を感じさせるという正真正銘の美少女だった。
「ダメよ、私の梳く髪がなくなってしまうわ」
髪を梳くのを嗜好しているような言いぶりに、アリシアは再度笑みを見せる。
嬉しい冗談に心が洗われるような清々しさを感じつつ。
「もう、私はどうすればいいの?」
「幸せでいればいーの」
鮮やかな紫の瞳が見開かれる。
それは、悲しくも優しい言葉だったから。
「リコのおかげで幸せだよ……ありがとう」
彼女は恥ずかしい科白だと理解しながらも、素直な思いを伝えた。
それができるのは今だけかもしれないのだから。
「私もよ、アリシア」
後ろから伝わる温もりは何よりも大切なものだと思えた。
人生には楽しいことや辛いことが数えきれないほどある。しかし、生ける人間はその全てを乗り越えていかなければならない。ときには苦痛に押し潰されてしまうこともあるし、ときには快楽に溺れてしまうこともあるだろう。悲しいかな、そんな道のない悲喜交々をたった独りで生きていくのが人生である。
だからこそ、彼女は今この瞬間に独りではないと確信できた。自分が死ぬまで毎朝髪を梳いてくれる彼女がいてくれるならば、どんなに辛い現実だったとしても乗り越えていける。
それこそが真実の幸福なのだから。
コトン、とブラシが床を叩いた。
「…………」
――こんこんこん。
唐突に扉がノックされ、メイドが入ってくる。
しかし、彼女は気配で分かっていたため驚くことでもない。
「今、誰かとお話しておりませんでしたか?」
訝しむメイドに、アリシアは床に落ちたブラシを拾いながら答える。
「いや、何でもないよ」
その瞳は純白の布によって隠されていた。
◇
わたくしは公爵家が主催のパーティーに潜入していた。
王国貴族の文化は本を読んで勉強したため、そう簡単にバレることはないと思っている。およそ一日という少ない猶予であったが、礼儀作法は帝国と大差ないため、伯爵令嬢ほどの立ち回りはできるだろうか。
王国の料理などには自信がないが、問われることなど滅多にあることではないため、切り捨てたりもした。その結果、より実践的な王国貴族に成り切れそうだ。
「ごきげんよう」
と、煌びやかな令嬢がシャンパンを片手に声を掛けてきた。年齢は十七歳頃であり、わたくしと同い年な気がする。
「ごきげんよう」
わたくしはドレスのスカートを摘み、礼を尽くした。
デュアリティ帝国の皇女であるわたくし――クリスティーナ・ロンリー・ガーネットはここでは子爵令嬢のクリス・ガーネットという設定になっている。
そのため、相手が伯爵ならばそれ相応の態度で接しなければならないのだ。
「見ない顔ね、どこの家の子?」
「わたくしはガーネット子爵令嬢――クリス・ガーネットと申します。どうぞよろしくお願いいたしますわ」
「私はロイン伯爵の一人娘、リンド・スター・ロイン。よろしくね、クリス」
そんな挨拶を適当に済ませる。
リンドは気安い性格のようで、敬語などはあまり好まないようだ。
「私、ガーネット子爵って聞いたことないわ」
身分が上なら失礼にあたる一言だが、下なら当たり前の態度である。
貴族社会とは身分で全てが決まるのだ。貴族令嬢では次に容姿だろう。或いは素晴らしい婚約者がいるなどという要素もスペックとして自らの価値を上げることができる。
自分の身分が上ならばへりくだる必要はない。むしろ自分自身の身分を下げる行為であるため、好ましくないのだ。
「我が家は北部の辺境に居を構えておりますから、ご存じなくて当然ですわ」
そういう設定だ。
ちなみにアリシアは王国よりも遥か北に位置する小国の貴族だったらしい。
その北は魔界だろうか。
――魔王は怖いですわ。
魔王は魔界という陽の光が当たらない場所にいるとされているため、帝国まで魔族が攻めてくることなどあり得ない。しかし、わたくしも亡命先は決めておくべきだ。有事の際に慌てるようでは人生設計が甘すぎるのだから。
「北部から来たの? 招待状は誰からもらったの?」
「ええ、招待状はエリーゼ・アントワーヌ様に頂きました」
少々癪だが、そういう設定であるため甘んじて受け入れるほかあるまい。
あの笑顔がありありと目に浮かぶ。別に嫌いではないが、好きにもなれない。わたくしたちはそんな気まずい関係なのだ。
「あはははっ、面白いこと言うね、クリス。エリーゼ様が誰かに招待状を送るなんてありえないよ」
――え、なんでですの?
確かにエリーゼは他国の皇族であるため、高い身分であることには変わりない。だが、招待状は鳩に餌をやるような感覚で配られるのだ。子爵令嬢くらいなら違和感は余りないと思うのだが。
「エリーゼ様はこの国にいらっしゃってから誰一人としてパーティーに招待していないの。いいえ、パーティーの主催は勿論、出席されることも稀なのよ」
――あの引きこもり義姉様ぁあああー‼
「も、もちろん冗談ですわ。おほほほほ……」
普段の彼女が全く想像できない。どのような日常を送っているのか、どれほどの羨望を受けてそれに応えてきたのか。
リンドは憧れの先輩を想起させるかの如く恍惚と浸っている。もはや悪質な霊感商法で洗脳されているのではあるまいか。わたくしはそんな邪推をしては頭を振った。
「リンド様は彼女のどこが好きなのですか?」
「様なんてやめてよ。公爵じゃないんだから」
この一言がなくてため口は許されない。それが貴族というもの。
「エリーゼ様は素晴らしいお方よ! 美しくて高貴で、皇族として相応しい気品があるのよ。……ここだけの話、彼女を手放したデュアリティ帝国はアホの集団に違いないわ!」
アホの集団の国で皇女をやっているわたくしの前でよく言えたな。
その感情を隠しつつ、彼女に呆れて溜め息を吐きたくなった。
「あ、ああっ、あがっ、ぐぅぇ……」
――ぐえ?
いきなり瞠目し、呻吟し出したリンドは過呼吸になっている。
喉を詰まらせたのか、シャンパンで?
――ああ、上ですの?
言いたいことは伝わったが、内容が入ってこない。コミュニケーションは難しいものだとしみじみ実感していると、
「クリスさん、ごきげんよう。久しぶりね」
凛とした声が頭上から降り注ぎ、わたくしは振り向いた。
「お、義姉りっ、エリーゼ様⁉」
パーティーに出席しないのではなかったのか。あと、その言葉遣いができるなら普段のザマは何だ。そんな憤りを抱きつつ、子爵令嬢――クリス・ガーネットとしての役割を果たすべく挨拶に努める。
「ごきげんよう、エリーゼ様」
「様なんてやめてよ、まだ公爵じゃないんだから」
彼女は次期公爵と婚約している。それを理由にして帝国から追い出されたため、不憫だと同情してあげよう。
「あわわわわっ、エリーゼ様がクリスと談笑しているぅるうるるるっ……」
壊れたブリキ人形のような彼女は精神崩壊を起こしているようだ。
彼女にも同情をお裾分けしてあげよう。まあ、わたくしが同情されることなどあり得ないのだが。
「ごきげんよう」
「エリーゼしゃまが喋った……」
まるで目眩を引き起こしたかのように頽れるリンド。
目立つのは嫌なので勘弁してほしい。
「エリーゼ様がいらっしゃるわ!」
「あの公爵様と婚約されている、あの⁉」
「ああ、なんと美しい令嬢なのだ!」
「エリーゼ様が生きているぅううう‼」
そんな声が周囲から――最後のは下から聞こえた。
会場の視線を独り占めしているエリーゼはヘンなポーズを決めている。
もう同情なんてしてやらないと、わたくしは胸に強く誓った。
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