第17話 伏魔殿

 降りしきる雨は止む気配すらなく、曇天だけが日暮れの空を鉛色に染めている。今にも大地を包み込みそうな黒々しさの奥に、僅かな夕日による橙色が窺えた。ここより遥か遠くの雨雲が照らされているのだろう。


 その様を三階の窓から見つめていた彼女――フィオナ・アルツは考えあぐねていた。


 試験が近いため勉学に励んでいたら、下校時間をとっくに過ぎてしまっていたのだ。

 そのことに気付いたのが先程。そして、窓際のソファで寝ている彼は一向に起きる気配がない。


 昼休憩からずっと寝ているのか。午後の授業は――サボったのか。

 そして、まさかこのまま泊まるなんてことはなかろうか。


 そんな思考を抱きつつ、彼女はなんとはなしに彼を一瞥する。

 ソフィアにとって彼はヘンな輩から助けてくれた生徒という印象しかなく、それ以上でも以下でもない。助けてと望んだワケでもないため、恩義などは一切感じていないのだが。


 起こすべきか、そっとしておくべきか。

 そんな迷いが生じてしまうほどの関心はあったようで、少しだけ思案顔をつくった。


 ――どうしようかな?


 彼女は自分だけ帰ることに気が引けたため、という理由もあるにはある。しかしながら、資料室の鍵を掛けなければ教師に怒られてしまうし、彼の不興を買ってしまうのも能がない。かといって、起こして何かされても面倒である。


 時にして二分ほどの葛藤。それだけ考えた結果、


 ――やめておこうかな。


 無理に関わるのは良くないという至極真っ当かつ消極的な解へと辿り着いた。なにせ、知らない人にだって好意を持たれたりするのだと、今回の件で彼女はひどく学んだから。


 窓の外を見やれば、曇天から降り注ぐ雨は増していくように思われた。

 窓硝子についた雨滴は矢継ぎ早に流れていき、その絵をより一層どんよりと仕立て上げている。


 必然的に、室内はびっくりするほど薄暗かった。

 フィオナは隔世の感に似た思いを抱き、迫る夜から逃げるように扉を開ける。そして、最後に居眠りしている彼を一瞥。


 早く寮へ戻らなければと、自らを急かして廊下へ出た。


 輪をかけて薄暗い廊下はシンと静まり返り、人気がない様はまるで廃墟のよう。そんな錯覚は非現実的な心境を抱かせるには充分すぎる奇妙な力がある。

 きっと、今の彼女なら何があっても受け入れてしまうだろう。


 普段の喧噪はこのときのためのスパイスか。妖しい廊下を独りで闊歩するのは幾らかの高揚感を昂らせる。まるで校舎全体が自分の所有物のように思えてきて、いまにも踊りだしたなら朝までとまらないといった気分。


 彼女は意外にもこの状況を愉しんでいるようだ。

 そして、今この地点ならば何でもできるという全能感に包まれる。


 電気が点っていないからこそ、彼女は暗闇に共感できた。

 静謐とした空間だからこそ、彼女は誰よりも存在できた。


 ――――グサッと、鈍い音が静寂に響く。


 ふと、三年前に言われた言葉を思い出す。ソレは彼女にとってかけがえのないものであり、この世界に生きるための道しるべであった。どんなに辛い事象であったとしても、無感動で無味乾燥とした瑣事へと帰す。そんな――魔法の言葉。


 ――――胸を貫いた銀剣が抜かれ、ビチャビチャと廊下を赤く染める。


 その言葉が、いつ如何なる時も彼女の心を平静へと戻してくれる。

 だから、男子生徒からの暴行などは無意味。

 恐らく、殺されたとしても何も感じないだろう。


 ――――仰臥位に倒れた躯から鮮血が広がる。


 そんな懐かしく大切な思い出を想起させながら、彼女は廊下の天井を茫と見つめた。

 そうさせた彼の足音が去っていく。その旋律は彼女の感情を揺り動かした。


 ――彼女は殺されたとしても何も感じない。


 それは些か誇張し過ぎたようだ。

 だって、こんなにも楽しそうに顔を歪めているのだから。


 宵の口に差し掛かろうという時刻、廊下で一人の少女が――――死んだ。



       ◇



〝おきなさーい! 夜ですよー〟


 夜のアラームは少々不快感強めだったので、唸りつつも必死に抗う。といっても、再度唸るだけなのだが。


「うう、やめてくれ……」


〝オカマタイムだよーん!〟


「うう、気色悪い声が……」


〝起きろって言ってんだろガキ‼〟


「おわぁっ!」


 ――――――ガシャンッ!


 俺は内側から発せられた怒号に猫の如く驚き、折り畳み式のテーブルに身体を強か打つ。特に肘と膝がじんと痛み、その衝撃によって意識が覚醒。


「痛ってー、ここどこだっけ?」


〝寝ぼけてんじゃあないわよ〟


「あー、思い出した」


 昼休憩の折、俺は資料室に入って昼寝したのだ。午後の授業で居眠りするとクリスが煩いからという理由で。

 現在の時刻はオカマが起きているという事実から七時頃だと予想。つまり、知らぬ間にサボタージュを完遂してしまったということ。その才能に空恐ろしさを感じつつ、俺は周りを見渡した。


 雑多な棚には商業関係の書物がぎっしりだが、それに反して机には物がない。

 彼女は帰った、いや――授業に出たのか。


〝ギルちゃん、ここはどこなの?〟


「資料室、この分じゃ下校時間すら寝過ごしたな……」


 俺は事もなげに欠伸して廊下に出た。

 クリスが馬車で待っていたら何を言われるだろうか、なんて思いながら。


 そこで、不意に顔をしかめる。

 それは、彼女の膨れっ面がありありと目に浮かんだ――からではない。


「――――――」


 なにかが蠢く様な奇音、気配、存在感。

 中空に漂う鼻につく血生臭い匂い、その邪なる瘴気。

 明かに異様な空間だと肌に感じさせる嫌悪的刺激。


 ――これは、なにかあるな。


 そんな直感を得て、俺は躊躇うことなく剣を抜いた。

 奇々怪々極まる闇に包まれた廊下の奥に、なにか、いる。


 その正体を突き止めること叶わず、素早い動作で影を見失う。まるで巨大なナニカが自立して走り去ったというイメージが言い得て妙だろうか。

 そんな不確かな奇怪の流動を、その言い難い圧力を、冷静に努めた俺は気味が悪いほど現実的に感知している。


 宵の口、煩い程の喧噪に包まれていた校舎が一変。

 魑魅魍魎が跋扈する伏魔殿へと成り果てていた。


 異質に、異端に、そして――異様に。

 そんな常識に不在した夜の校舎で、


〝さすが異世界ね〟


 そんな呑気な言葉を掛けられ、俺はたまらず苦笑した。

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