第16話 貴族の業
俺は腹の虫が収まらずに空き教室の椅子を蹴り飛ばした。
ガン、と音を立てて倒れた様を見て、漸く感情が自制される。
皇女に手を出してしまったという酷い事実が理解でき、気持ち悪さと目眩が起こる。
「クッソ! 俺はなんてことを……」
後悔は後に悔いると書くのだから今更なにを思っても過去が変わることはない。
しかしながら、この事実が発覚すれば退学、或いは家から勘当されてしまう。
そんな状況で平静としていられる人などいまい。
――ならば、俺はどうすればいいんだ⁉
さらに、義兄であるレインに目撃されてしまったのも痛い。彼は嫡子だから家での信頼も厚い。つまり、チクられるだけで俺の人生は転落する。
違う、彼が言わずともバレるに決まっていることだ。
「クソ、クソ、クソ、クソ、クソが!」
――――怖い。
今後どうなるのか。皇女に暴行を加えてタダで済まされるワケがない。不敬罪として極刑という線もあり得ない話ではない。
――――死ぬのか?
得体の知れない怖気が身体を巡り、ガタガタと震えだす。寒気は微塵も感じられないのに、無意識に歯が鳴ってしまう。
母が正妻でないため、どう足掻いても家を継ぐことはないと、諦観決め込んで自由奔放やった結果がこれか。才能があると息巻き親のコネで帝立学園に入学したはいいものの、一学期早々から平民の誰一人にも敵わない成績を叩き出してしまった。
嫡子であったなら、とあれほど憎んだ家柄を除いてしまえば、誇れるものすらない伽藍洞に成り果ててしまう。そんな現実に逃避し、似たようで自分よりも哀れな連中とつるんで滅茶苦茶した。それも気休めでしかないと理解しつつ。
平民はこの学園にいるというだけで及ぶべくもない天才だと、悔しくも今はそう認めている。否、最初から心の奥深くで薄々感じていたのだ。
教えられずに魔法を使う天才、適当に剣を振って相手を倒す鬼才。そんな奴らに敵うワケがないと、そう決め込んで何もしなかったのだ。
卒業後はエリートとして国の大役を任されるだろう平民。それが、俺は心底気に入らなかった。貴族として教養を得て育った俺と、才能だけで優秀と見なされる平民ども。この構図が吐き気を催すほど不快だった。
そんなある日、廊下を歩いていたら肩がぶつかった。余所見をしていた俺も悪いが、同様の理論で相手も悪い。そんな思いで睨んだら相手の男はペコペコ頭を下げてきた。その病的な様子に内心戸惑っていたら、許してほしいと地に頭をつけて必死に懇願してきた。
俺は彼を一方的に知っている――むしろ、騎士科であれば知らない者はいないほどの有名人。四年生の首席であり、卒業後は帝国騎士への就任が約束されている先輩。俺が二十人いても敵わないだろう、と容易に想像できるほどの強者。
そんな彼の態度がアレかと、そのとき抱いた違和感はすぐに解消されることとなる。
後に平民だと知ったとき、俺はゾクリと蠱惑的な悪寒を得た。
自分は偉かったのだと、そしてその世界がすぐ近くにあるのだと。
その後は――言うまでもなく偉ぶった。
公爵家より上など両手で数えるほどしかいないのだから。
「クソッ!」
――その結果、一線を超えてしまった。
家柄を笠に着ながら、俺はこの学園で文字通り一番偉い人に手を挙げてしまった。
再度椅子を蹴り飛ばし、壁に頽れる。
「うぅ……こんな、こんなことなら」
――貴族として生まれるんじゃなかった。
「悔しい――。そうだね、わかるよ。私だってそう思う」
不意に、既知の声が頭上から発せられた。
女性的な美しい音色だが、力強さもあるという風雅で魅力的な声。この声が誰のものだったのか、そして、俺を見下げてくるこの女性は誰だったのか。その不明瞭な存在を想起させようとすると、紗がかかったように――できない。
「私はね、君ならできると思う。君の内に秘められたソレは、そんな安いものじゃあない」
彼女のカタチの良い食指が俺の胸へと這うように伸びた。
それは、忌避するべき魔力に満ちていたと思う。
「――俺はなにも、できない。だから、俺はお終いだ……」
「クリスティーナ皇女と……レイン? と言ったかな? あの二人しか知らない事だ」
俺は顔を上げて、彼女の黒玉の如き眼窩を覗いた。
その闇は際限なく広がるようで、意識が吸い込まれるように、何も、考え――ない。
「他はどうにでもなるだろ? 平民なんだから」
「へいみん?」
「そうさ! ゴミどもなんて後から片付ければいい」
「ゴミども……」
「君は偉いね賢いね。最高に愛おしいよ」
蜂蜜よりも遥かに甘い言葉に浸り、俺は麻薬的な快楽へと落ちた。
まるで張り詰めていた線が切れたように、全ての負感情が欠落しながら。
「あ、ああっ!」
そのとき、俺はどうにかなってしまったのだ。
だって、こんなにも得難い全能感に支配されてしまったのだから。
「だから、できるさ! なんだってなぁ‼」
――俺はできる、俺はできる、俺はできる、俺はできる、できる、できる、できる、できる、できる、できる、できる、できる、できる――
「クリスティーナを殺せ」
そう啓示が下ったとき、美しい女神の唇が、歪に、ゆがんだ。
◇
「これは、これは、珍しい組み合わせだね」
保健室の扉を開けると、紫煙を吹かした教師――フラウ・フリューゲが赤縁眼鏡をくいと上げながらそう言った。
「また、またケガしたのかい? この前は喧嘩して顔面を殴られたんだったね」
「あれは喧嘩などではない、決闘だ! 俺様を蛮族人扱いするなよ!」
ギルフレットとの決闘でレインは顔面を殴られて昏倒したのだ。その時の屈辱をいつの日か晴らしてやると心に留めている彼に対し、女教師は揶揄う様にからからと笑った。
それに対し、眉間に皺を寄せて不快感を露にする男子生徒。
「わ、怖い。なら、何用で?」
言ってから気付いたのか、あー、なんて声を出してベッドを指さす。
そんなものぐさな指示に従ってレインは彼女を丁寧に寝かせた。
あの時、彼女は緊張の糸が切れて昏倒してしまったのだ。
脳の障害などではないと良いが、なんて思考を振り払い彼は遠慮なく諫言する。
「煙草臭い、吸うなら外でやれ」
「怖い、怖い、そんなんじゃモテないよ?」
――イラッ。
「貴様! 教師だからって図に乗るなよ。色恋にかまけるために学園に来ているワケでは――」
「――その発言はいただけないね。現に下級貴族の令嬢が膨大なカネを都合してまでウチに通う理由、大方ソレだからね」
そんなヤツ眼中にない、なんて言葉を咄嗟に飲み込む。
ここで言い返したら毎度のごとく言いくるめられる、と瞬時に理解したから。
大方、その発言は彼女らを軽んじている、なんて言う腹積もりだろうとレインは察して踏みとどまれた。
「あまり多方面を見下さない方がいいよ。気になるあの子に嫌われるかもね」
「誰がっ!」
――本当に食えない人だ、大人はそんな奴らばかりなのか?
そんな疑問を抱きながらレインは扉を開けた。
彼にはまだすべきことが残っているから。
「おや、おや、図星だったな?」
そんな追撃の台詞をフルシカトして、彼は苛立ちながら廊下へ出た。
それをクスクスと笑いながら見届けたフラウはおもむろに椅子から立ち上がり、クリスのもとへと歩く。
「…………」
そして、紫煙を吹きかけた後、窓に足を掛けて言った。
「今夜は波乱かな?」
豪雨の中に彼女は身を委ねる。
室内には煙草の煙が幽かに残っていた。
びゅう、と窓から吹きすさぶ雨風は彼女の目覚めを呼ぶ。
ゆっくりと起き上がって、豪雨に見舞われた世界を一瞥するクリス。
その身体には傷の一つも残っていなかった。
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