第2話 魯趙子を捜して

「……っ!!」


 声にならない声を上げてシートから起き上がった女は、汗が滲んでいる額を指先で触れるとゆっくりとその指を見た。

 指先に異常がない事を確認すると、澄川すみかわカンナは荒い呼吸を落ち着かせるように胸に手を当て、大きく深呼吸をした。


 酷い悪夢だった。もう3年前の事だが、未だに両親が殺された日の出来事を夢に見てしまう。そして必ず最後は自分も射殺される。


 カンナは辺りを見回す。

 薄暗いバーの隅のテーブル席。部屋には何人か客がおり、楽しそうに酒を呑んでいる。

 聞こえてくる言語は中国語。

 カンナは手元にあるグラスを取ると、半分以上残っていた綺麗な青いカクテルを眺めた。

 ライチリキュールとグレープフルーツジュース、そしてブルーキュラソーの鮮やかな色が美しい、フルーティーな口当たりの甘いカクテル。チャイナブルー。カンナが一番好きなカクテルである。


 父が最期にカンナに言った『魯趙子ろちょうしを頼れ』という言葉だけを胸に、あの日から3年もの間その得体の知れない人物を捜している。

 日本にいた頃に得た情報によれば、魯趙子という人物は男性で歳は70を超える武術家だ。香港を拠点に方々を回っている風来坊で、見付ける事は困難だという事だけだった。

 何はともあれ、カンナは現地に行けばもっと情報があるだろうと、すぐに日本を出て香港にやって来ていたのだ。


 しかし、カンナの考えは甘かった。

 初めての異国では言葉や文化の違いで魯趙子捜索どころではなかった。

 それでも、カンナは1人魯趙子を捜し回った。そのうちに少しずつ中国語も分かるようになり、気が付けば3年。カンナは22歳になっていた。

 成人して始めた呑んだ酒がチャイナブルーだった。


 この日は最近魯趙子の目撃情報のあった、あまり治安の良くなさそうな土地のバーまでやって来たが、カンナは店に入りチャイナブルーを注文するとあまりの疲労ですぐに眠ってしまったようだ。


「お客さん、日本人か?」


 中国語の飛び交う店内で流暢な日本語が自分に対して使われた事に驚いて、カンナは目を丸くして目の前のマスターを見た。


「やはりそうか」


 カンナはマスターの質問には答えなかったが、そのスキンヘッドに口髭の厳つい風貌のマスターはカンナの反応に納得して頷くと、カンナへ諭すように話を続ける。


「この辺は治安が悪い。あまり余所者がウロつくな。特に若い女はすぐに目を付けられる」


「日本語、お上手ですね」


 マスターの助言を軽く流しながら、カンナはチャイナブルーを一口呑んだ。


「最近、隣町のチンピラ共がカタコトの若い女1人に喧嘩で負けたらしいと話題になっている」


「……」


 カンナはマスターの言葉に黙って目を逸らす。


「銃が禁じられたこのご時世、チンピラと言えど武術を嗜んだ強者だ。それを女1人で叩きのめしたんだ」


「きっと相手が弱かったのですよ。女も武術を身に付ける時代ですから。チンピラを女が倒す事なんて珍しい事ではないと思います」


「相手は5人だったそうだ」


「へぇ」


「その女は黒髪に水色のリボンで髪を結い、水色のデニムジャケットを着ていたという。あんたと特徴が一致する」


 カンナは自分が着ている水色のデニムのジャケットの襟元を摘んで黙って目を逸らした。


「たとえ人違いであっても、その女と同じ特徴を持つあんたが危険である事に変わりはない。ここらのチンピラはマフィアと繋がりがある。面倒事に巻き込まれないうちにさっさと帰りな」


「ご忠告ありがとうございます。でも、私は魯趙子ろちょうしを捜さないといけないので」


「魯趙子? 成程、だからこんな所に来たのか。確かにこの店に彼は何度か来た事があるが、最後に来たのは半年以上前だ。もうこの辺にはいないだろう」


「そうですか……あの、魯趙子さんは何をしている人なんですか? 武術家というのは聞いているのですが、日本では聞いた事もなかったので」


「中国武術界ではそれなりに知られていたようだが、俺にもよく分からん。全盛期は30年前らしいが、今はただの飲んだくれの爺さんだ」


「なるほど……」


 マスターの情報を聞くとカンナは肩を落として、残りのチャイナブルーを飲み干した。


「ご馳走様。美味しかったです」


 カンナは代金をピッタリカウンターに置くと、軽く会釈をして席を立った。


等待待て


 店の出入口に差し掛かると、突然スーツ姿の3人の男に進路を塞がれ、カンナは立ち止まる。


「舎弟が世話になったらしいな。お嬢さん」


 早速、マスターの心配事は現実になりそうだ。3人の内の真ん中の白スーツの男は日本語で喋り始めた。どうやらカンナが日本人だと見抜いているようだ。


「何の話でしょう? 人違いかと」


 カンナは背の高いスーツの男3人を前にしても臆する事なく堂々と対応する。

 すると白スーツの男は咳払いし、襟を正すと明らかな作り笑いを浮かべた。


「俺は王飛龍おうひりゅう。この辺りを仕切っている者だ。別の場所で話しようか、お嬢さん」


「嫌です」


「勘違いしているようだから教えてやろう。俺は平和的に話し合いで解決しようと提案しているのだが?」


 カンナはチラリと背後を見る。

 その視線の先には非常口の扉。そしてまた視線を王飛龍へと戻す。


「人違いなのに、何を話し合うのか分かりません」


「話し合いは嫌いか。仕方ない」


 王飛龍が左右の黒スーツの男に目配せをすると、左右の男は慣れた手付きで懐から短刀を取り出しカンナにその切っ先を向ける。


「そんなもの、こんな所で出さないでください」


 短刀を見た周りの客は悲鳴を上げて店の隅に避難する者や出入口から逃げ出す者などが入り乱れ店内は騒然とするが、カンナは僅かにハッとした様子を見せたが、冷静にその場に立っていた。

 男2人が短刀を構えているが、カンナは丸腰だ。


伤害我痛めつけろ


 王飛龍の中国語の命令一言で、左右の短刀男が同時にニヤリと笑いカンナに向かって来た。

 カンナは咄嗟に後方に下がると、近くのテーブルをひっくり返し短刀男の前に転がした。


这贱人このクソアマァ!!」


 短刀男の1人がその得物を振り上げ怒号を上げた時には、カンナは一目散に背後の非常口へと駆け出しその扉を開けて外へと飛び出していた。


 ───だが、その扉の先の外階段には、大勢の男達が待ち構えていた。

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