第35話
四月九日、火曜日。
休日の今日、午前十一時頃に希未は大きな公園を訪れた。自宅から電車で二十分ほどの距離にある、緑の豊かな所だ。幸い、天気は良かった。
成海志乃も一緒だった。ふたりで花見にやって来たのであった。
桜も散り始め、かつ平日だが――希未の予想に反し、公園は大勢の花見客で溢れていた。十五分ほど歩き、なんとかレジャーシートを敷ける桜の麓を見つけた。
「これだけ混んでるなら、ホテルのレストランでも予約すればよかったですね」
ようやく腰を下ろし、希未はインターネットで調べていた内容を振り返った。
庭園で桜を眺めながらのランチプランが、いくつかの高級ホテルであった。もっとも、ランチでも値が張るうえ、そもそも予約枠が残っていたのか不明だが。
「そんな所に行ったら、のんちゃん職業病が出ちゃうじゃない。混んでいても、ゆっくりしましょう」
志乃が保温バッグからタッパーをいくつか取り出した。中にはそれぞれ、おにぎり、唐揚げ、卵焼きが入っていた。
そう。希未はホテルランチを一度は提案したが、志乃が弁当を用意することになり、この公園となった。
桜の下でレジャーシートを広げているからだろうか。タッパーに詰められたレジャーの定番とも言えるメニューが、とても美味しそうに見えた。
「そうですね。志乃さんの手作り料理には、どこのホテルも敵いません」
「もうっ。お世辞言っても、何も出ないわよ」
志乃が食べ物を用意する一方で、希未は缶ビールや缶チューハイ等の飲み物を購入していた。
鞄からひとまず缶ビールを二本取り出すと、ひとつを志乃に手渡し乾杯する。昼間から外で飲む酒は、たまらなく美味しかった。
「唐揚げ、濃い味付けで美味しいです」
「おにぎりとも合うわよ」
「そんなの、絶対に太るやつじゃないですか」
「いいじゃない……ちょっとぐらい、幸せ太りしても」
希未はそのように言われると、自制心が効かなくなりそうだった。
空は晴れ渡り、暖かい日差しが心地良い。桜の花びらが、綺麗に舞い落ちる。目の前には美味しい料理、そして大切な人がすぐ傍に居る。
確かに、少しぐらい太ってもいいと思えるほど――幸せだった。
志乃が新幹線で古巣に戻り、翌日には帰ってきた。無事に籍を抜け、独身の『成海志乃』となった。スッキリした様子だった。
志乃自身に大きな変化があった。そして、希未としても見送る際に気持ちを確かめあったことで、意識が大きく変わった。
とはいえ、あの時の続きを言葉で交わしていない。仕事でのやり取りは普段通りだ。接し方自体は、何も変わっていない。
それでも希未は、志乃と恋人関係になったと捉えていた。この花見は、交際後初めてのデートとなる。
一方的な解釈かもしれないという不安は、不思議と無かった。
やがて空になったタッパーを志乃が片付けた頃、希未はごろんと横になり、志乃の太ももに頭を置いた。
仰向けに、志乃を見上げる。逆光の中、特に困った様子は無く、微笑みを浮かべていた。
「志乃さん……」
希未は手を伸ばして、志乃の頬に触れた。
「もうっ。甘えん坊さんね」
志乃からは、優しい手付きで頭を撫でられた。左手小指に嵌っている、イエローゴールドのピンキーリングが見えた。
周りには、大勢の花見客が居た。希未は周囲の視線が気になることで、同性と交際しているのだという実感が湧いた。
きっと今の様子は『女友達』として見られているのだろう。そのような考えが少し窮屈であり――新鮮さを前向きに捉え、嬉しくもあった。
しかし、複雑な気持ちはやがて、どうでもよくなった。周りの喧騒が遠退き、ふたりだけの空間が切り取られたように感じた。
ただ、柔らかく、温かい。
微睡むような心地良さは志乃によるものか、春によるものか、酒によるものか――或いはそれら全てか、希未にはわからなかった。
「ねぇ。前からちょっと気になってたんだけど……RAYが解散した後、他のアイドルを追いかけなかったの?」
ふと、志乃から訊ねられる。かつては希未自身も疑問に思ったことだった。
確かに、天羽晶死亡の喪失感で、すぐには動けなかった。だが、ようやく落ち着いた頃にテレビ番組を観ても、誰にも惹かれることはなかった。
「はい。RAYがオンリーワンだったというか、代わりが見つけられなかったというか……。たぶん、アイドルそのものが好きでもなかったんでしょうね」
そのような結論に至った。
もう、推せる人物はこの世に存在しない。そう理解すると、気持ちを切換え――大切なものを見失うまで、仕事に明け暮れたのだった。
「そのRAYも、やっと卒業することが出来ました」
希未は天羽晶と澄川姫奈の
寂しさが全く無いわけではない。それでも、現在は大切な人が傍に居る。
「百合のミニブーケ、気合入れてブリザードフラワーにするわね。のんちゃんの、大切な思い出なんだもの……」
「ありがとうございます」
晶と姫奈から貰った白百合を、希未は花束のように捉えていた。あれはミニブーケという扱いだったと、志乃から言われて思い出した。
手渡しだが――ふたりからブーケトスを受け取ったのだと、今になって理解する。
ブーケトスを受け取った者は、次の花嫁になると言われている。
希未は膝枕での仰向けから、慌てて寝返りを打った。
「のんちゃん?」
「何でもありません!」
首を傾げる志乃から顔を覗かれそうになるが、両手で隠した。ジタバタと悶えた。
なんだか無性に恥ずかしくなり、今はとても志乃と顔を合わせられなかった。
やがて、希未は腹と酔いと共に、気持ちも落ち着いた。志乃とレジャーシートを片付けて立ち上がった。公園内を散歩することにした。
広い並木道はやはり、大勢の人達で混雑していた。それでも咲き誇る桜に囲まれ、圧巻だった。来て良かったと、希未は思う。
桜に見惚れながら歩くも――どうしても、視界の隅にカップルの姿が入ってしまう。手を繋いで歩いている様が、羨ましかった。
志乃と手を繋いで歩きたい。恋人らしいことを、してみたい。希未にその気持ちはあるが、言い出せずにいた。いや、口に出さないで自然に手を握るものかと思う。どちらにせよ、恥ずかしさから躊躇していた。
ふと、風が強く吹いた。
「きゃっ」
志乃の声が聞こえ、少し前を歩いていた希未は振り返った。
桜の花びらが、吹雪のように舞っていた。
その中で志乃は、顔に張り付いた毛髪を耳にかき上げていた。ミルクティーアッシュの長い髪が、風に揺れていた。
まるで時間が止まったかのような一コマの光景を、希未は美しいと感じた。そして、この女性がただ愛おしかった。
「志乃さん」
希未は衝動的に、志乃の手を取った。
志乃が小さく驚くが、すぐに微笑んだ。希未の手に指を絡めた。
手のひらが重なるのを、希未は感じる。柔らかく、温かい。自然と笑みが漏れた。
「行きましょうか」
「ええ」
桜で囲まれた綺麗な道を、大切な人と手を繋いで歩いた。少なくとも希未にとっては、とても心地良い時間だった。
女性同士で手を繋ぎ、周りの目が気にならないわけではない。だが、この時ばかりは自分の気持ちに素直でありたかった。いつまでも志乃を感じ、明るい道を歩きたい。
午後一時過ぎに、ふたりで公園を出た。
近くのショッピングモールで買い物を楽しんだ後、電車で移動した。
午後三時半、志乃のマンションに到着した。志乃が紅茶を淹れ、駅前のケーキ屋で購入したイチゴのズコットをリビングへと運んだ。
ソファーに並んで座り、ワイドショーを観ながら食べた。
「美味しいですね」
「そうね。また今度、真似して作ってみようかしら」
「へー。こういうのまで作れるんですね」
「上手くいくか、わからないけどね。何にしても、のんちゃんに試食して貰わないと」
「あたしでよければ……。楽しみにしてます」
希未はズコットを食べ終え、テーブルに皿を置いた。
志乃との花見、ショッピング、スイーツ――とても充実した休日だった。まだ繁忙期は続くが、明日からも仕事を頑張れそうだと思う。
一段落つき、ふと隣の志乃を見ると、唇にクリームが付いていた。舌を出して舐め取る仕草が、なんだか艷やかに見えた。
「あの、志乃さん……キスしてもいいですか?」
「え? ええ!?」
希未は自然に訊ねていた。しかし、驚く志乃に、黙ってするべきだったと後悔した。
「まあ、その……いいわよ。ていうか、私もしたいし……」
志乃は耳まで真っ赤にして、落ち着かない様子で希未に向き合った。
小声で付け足したことも含め、年上なのに可愛いと希未は思った。
目を瞑った志乃と向き合う。希未はわざわざ訊ねたせいで、余計に緊張していた。自分の心臓の鼓動が、うるさく聞こえる。
だが、志乃とキスをしたいのは本心だ。先日の結婚式で見た、天羽晶と澄川姫奈のキスを思い出した。
希未は顔をそっと近づけ、志乃の唇に自分のものをそっと重ねた。
志乃と――女性同士で初めてキスをした。
僅かに触れる程度の、軽いキスだった。それでも、柔らかい感触が伝わるには充分だった。
特に変わったことは無かった。性別など関係無いと、希未は思う。相手が大切な人ならば、この上なく満たされるのだ。
希未は顔を離すと、志乃が恥ずかしそうな表情で硬直していた。自分もきっと同じなのだと思う。気持ちの整理が追いつかず、頭がどうにかなりそうだった。
互いにうろたえていると――ニャンという鳴き声に、ふたり揃ってびくっと我に返った。足元ではルルが、もの珍しそうに見上げていた。
希未は顔を上げ、志乃と照れ笑いした。
「志乃さん、好きです」
「私もよ……のんちゃん」
気持ちを確かめ合い、再び顔を近づける。
希未はただ、好きな人を求めた。
次は、長い時間――唇の柔らかさと温もりも、しっかりと味わった。
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