第12章『腕を組んで歩けた日』
第34話
「成海さん、今日と明日と急に休み取って……前の職場に帰ったよ」
その事実を知るや否や、希未はフラワーサロンを出た。
廊下を適当に歩きながら、携帯電話を取り出す。成海志乃に電話をかける。コール音がしばらく鳴った後、繋がった。
背後のうるさい雑音から、電車に乗っているのだと察した。
「もしもし、成海さん!?」
志乃も聞こえ難いと思い、大きな声ではっきりと喋る。
『のんちゃん……』
車内で周りを気遣ってか、志乃は小声だった。そして落ち着いた様子だった。
以前の職場――つまり、逃げてきた『夫』の元へ帰ると聞き、希未にふたつの可能性が浮かんだ。正式に離婚する、もしくは寄りを戻すかだ。
「どうして、あたしに黙って行くんですか!?」
だから、後者の予感がした。もう二度と、この地に戻らないような予感がした。
それに昨日、天羽晶と澄川姫奈の案件が片付いたタイミングで真意を告げられたのが――まるで、懺悔のように思えたのだ。
『……ごめんなさい。貴方に言いたくなかったのよ』
電車の雑音に混じり、謝罪の言葉が届く。
本当に申し訳無さそうな声が聞こえた後、通話が途切れた。志乃が意図的に切ったのか、電波の状況からなのか、希未にはわからない。リダイアルは行わず、ブライダルサロンの事務所に一度戻った。
「すいません、加藤さん。あたし、今からちょっと外出してきます。半日有給の扱いで、お願いします」
「え? 遠坂?」
唖然とする加藤絵理子を余所に、希未は手ぶらで事務所を飛び出した。
冷静さを欠くも、午前に接客の予定が無いことだけは把握していた。しかし、午後二時からは顧客との打ち合わせが入っている。それに間に合うのか、そもそもこの件の着地点はどこなのか――考える余裕は無かった。
今はただ、志乃に会いたい。
電話の雑音から、まだ新幹線には乗っていないようだった。間に合うのかわからないが、希未は駅へ向かい電車に乗った。
焦る気持ちを抑えられないまま揺られること、十五分。新幹線の通っている駅に到着した。
希未はすぐに、志乃が乗るであろう新幹線のホームへと走った。
乗車を待つ客が疎らに居る中――キャリーケースを携えた志乃の姿を見つけた。
「成海さん!」
呼び声と共に近づくと、志乃が振り返った。驚いた表情の後、小さく苦笑した。
「のんちゃん……来ちゃったのね」
「心配したんですから!」
「ありがとう。ちょっと心細かったから、来てくれて嬉しいわ」
希未は向き合った志乃から、両手を握られた。視線を落とすと、志乃の右手には小指にイエローゴールドのピンキーリングが嵌っていた。
逃げてきた『夫』と寄りを戻すと思っていたが、この様子から、そうではない予感がした。
「黙っていて、ごめんなさい。恥ずかしかったのよ」
くだらない理由だと希未は思った。だが、くだらなさに安心した。
おそらく志乃は、職場の人間にも詳しい理由を告げていないのだろう。
「いっつもあたしに黙って――あたしのこと、そんなに信用できませんか!?」
「ううん……。私、もうのんちゃんに隠し事はしないわ。約束よ。だから、言うわね」
希未は志乃を見上げると、両手を握ったまま恥ずかしそうな表情だった。滅多に見ないので、珍しいと思った。
「昨日、傍に居てもいいって許してくれたじゃない? だから、ケジメつけてくるわ。もう、後ろめたいのは嫌なの。ありのままで、のんちゃんの傍に居たいから」
「成海さん……」
踏ん切りがつかない志乃を、希未は不憫に感じていた。だが、志乃と一緒に居ることに、特に条件を求めなかった。希未自身はどうでもよかった。
それでも、志乃はとても気にしているようだ。
そうまでして自分を選んでくれたのだと、希未は理解する。
「昨日の今日だけど、お花も結婚式も……私、この仕事が好きみたい。のんちゃんと一緒なら、やり甲斐があるのよ」
その言葉を聞くことが出来てよかったと、希未は思う。志乃に前向きな気持ちで花を扱って貰えることが、何よりも嬉しかった。
そして、一緒なら仕事にやり甲斐を感じるのは、希未もまた同じだった。
「だから、のんちゃん……キレイサッパリして帰ってきたら、また一緒に居てくれる?」
希未は志乃からどこか弱々しい笑みと、縋るような瞳を向けられた。
そのように怯えることは無いと、おかしく思う。答えなど、とうに決まっていた。
「成海さんに大切にされて、成海さんと一緒に居て……あたしは間違いなく幸せでした」
この二ヶ月半の充実感を、そう呼ぶ以外に無い。
多くは望まない。志乃と他愛ない日常を過ごすだけで、満たされていた。
これからも欲するが――こちらが受け取るだけではいけない。天羽晶と澄川姫奈のような『幸せのかたち』は成立しない。
否、志乃と共にかたち作りたいと、希未は思う。
「あたしも、成海さんを大切にします。幸せにします。だから、これからも……あたしのこと、幸せにしてくれませんか?」
希未には、出来るのかもわからない大それたことを簡単に――そして、図々しい願いを口にしている自覚があった。
だが、紛れもなく心からの提案だった。
これまで口にすることを、躊躇っていた。志乃とは同性であり、それに彼女を幸せに出来る確証が無かった。
確証など無くてもいいのだと、今になって希未は思う。この熱い気持ちはきっと、いつまでも消え無いだろうから。
瞳に熱いものが込み上げてくる。覚悟の表れだけでなく――不安も含まれていると、希未は察した。志乃から向けられていたものと全く同じ瞳で、志乃を見つめた。
希未はふと、正面から志乃に抱きしめられた。
新幹線を待つホームで雑音が耳に触れる中、まるで志乃とふたりだけ時間が止まったように感じた。
志乃の温もりに、不安が和らぐ。そして、提案を肯定されたと捉えた。
「あたし、成海さんのことが好きです」
希未は志乃の耳元で、ぽつりと漏らした。自然と口にしていた。
少しの間を置き、志乃が身体を少し離す。再び、希未と正面から向き合った。
「私も……のんちゃんのこと、愛してるわ」
志乃から優しい笑みを向けられた。
瞳から熱いものが溢れ出すが、希未もまた微笑んだ。喜びの涙だ。
願いが叶った。気持ちが通じ合ったのだ。
かつてないほど幸せだと感じる。もう何も考えられない。しかし――
ふたりで笑い合っていると、やがて新幹線がやってきた。
希未は我に返り、慌てて志乃から離れた。ちらりと志乃を見ると、彼女もまた恥ずかしさと焦りが入り混じった様子だった。
ホームに人は疎らだが、視線を感じていたのかすら、希未はわからなかった。とはいえ、もう事後であるため、どうしようもない。
新幹線の扉が開き、志乃がキャリーケースを手にする。
「それじゃあ、行ってくるわね」
「はい、行ってらっしゃい。帰ってくるの――待ってます」
キャリーケースを持つ志乃の右手――小指にピンキーリングが嵌っているのが、希未は見えた。
志乃が乗り込み約五分ほどが過ぎると、新幹線は発車した。窓越しに志乃と手を振りあった。
ガランとしたホームで、希未は暖かい日差しを受けていた。優しい風が頬に触れる。空を見上げると、気持ちよく晴れ渡っている。
春なのだと、改めて感じた。
こうして志乃がかつての古巣に帰っていったが、過去と向き合い精算することは、とても辛いだろう。円満で済むのかも、わからない。ひとりで行かせてよかったのかと、今になって少し悔いる。
それでも希未は、志乃が無事に片付けて戻ってくることを信じた。
止まっていた時間を動かすために。ふたりで、新しい季節へと歩き出すために。
大丈夫だ。きっと、今の続きが――その未来が訪れる。希未は確信に近い予感を抱きながら、大切な人を見送った。
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