第08章『幸せのかたち』
第22話
二月二十七日、水曜日。
休日の希未は午前八時に目が覚めた。設定した携帯電話のアラームが鳴るまで一時間あるが、頭も覚め、眠気は無い。緊張によるものだ。
ひとまず洗濯機を回し、軽く朝食を済ませる。それでも、ソワソワした気持ちは落ち着かなかった。
ただ――洗濯物を普段は部屋干しだが、気まぐれで外干しにした。天気予報では雨の心配が無く、実際に窓の外は晴れている。布団までも干した。
まだ外は寒い。しかし、二月が終わり春への移ろいを感じさせる、気持ちのいい青空だった。
その後、掃除をすると時刻は午後十時になっていた。
希未は部屋着を脱ぎ、下ろしたての衣服に着替えた。ネイビーのニットと、グレーのタイトスカートだ。買い物に行く時間が無かったため、通信販売で購入したものだが、サイズに問題は無かった。
厚手のタイツの他、黒いショートブーツを履くつもりだ。全身が暗い色だが、手持ちの――グレーのチェック柄コートを羽織ると、想像通りシックな雰囲気になった。白いバッグを持てば、より落ち着くだろう。
それに合わせて化粧を施した。アイシャドウとリップを、割と鮮やかな赤色にした。
鏡に映った、いつもと違う雰囲気の自分に、希未は背伸びした子供かと思った。二十八歳にもなって少し自己嫌悪に陥るが、すぐに午前十一時になり、仕方なく部屋を出た。
三十分ほど電車に揺られ、目的地の駅で降りる。
改札の前で待つこと五分――待ち合わせ時間である正午の十分前に、ひとつの人影が近づいてきた。
「お待たせ、のんちゃん」
成海志乃だ。
ベージュのニットとオフホワイトのコートに、ピンクのパンツが映えていた。ハーフアップにした髪から耳が露わになり、大きめのイヤリングが揺れていた。
あまり見ることのない、パンツスタイルだろうか。色で普段のフェミニンさを残しつつも、希未にはなんだかクールな印象を与えた。
「のんちゃん、似合ってるわよ」
希未の格好を足から頭まで眺めた志乃が、微笑んだ。
ただの世辞かもしれない。しかし、変に思われないかと不安だったので、希未は素直に嬉しかった。
「ありがとうございます。ドレスコードは要らないと思いますけど、一応キレイ目に……」
とはいえ志乃の手前、照れくさかった。適当に理由を作った。
休日に志乃と仕事外で会うのは、一緒に『stella e principessa』に行って以来、二度目だった。
――せっかくのオフに、デートに誘ってくれたんだから。
あの時、志乃に言われたことを未だに覚えている。きっと冗談半分だろうが、どうしてか頭に残っていた。
今日も似たような台詞を言ってくれないだろうかと、希未はぼんやりと志乃を見上げる。
「どうしたの?」
「な、なんでもありません! さあ、行きましょう」
だが志乃に首を傾げられ、慌てて歩き出した。
バレンタインが明けてから、すぐにシフトの休日を合わせた。最短で重ねられたのが、今日だった。
以前話した通り、映画を観るだけでも希未は構わなかった。だが、志乃から『行ってみたい所』の提案があった。
向かった先は、駅のすぐ傍にあるホテルだ。ふたりの勤務地とは違い、どちらかというと宿泊が主要の――そして、世間では高級扱いされている。
『やっぱり、この時期はイチゴよね』
志乃がイチゴビュッフェに行きたいと提案した。どうせなら良いもの食べたいと話し、このホテルのランチタイムをふたりで選んだ。
やはり今の時期は人気であり、土日の予約枠は埋まっていた。平日が休日でよかったと、希未は思った。
「敵情視察です。余所のホテルがどんなサービスしてるのか、リサーチしないと」
久々のイチゴビュッフェということもあり、希未は浮かれたかった。だが、朝からの緊張はまだ続き、誤魔化す意味でそのような体裁にしておいた。
「ふふっ。美味しいの、お腹いっぱい食べましょうね。今日は糖分もカロリーも忘れて、リミッター解除よ」
そんな希未に、志乃が微笑みかけた。
少し歩き、ホテルに到着する。
希未に体裁を保つつもりはなかったが、どうしても自身の勤務地と比較してしまう。館内の、海外を彷彿とさせるアンティーク調の雰囲気は非日常ながらも没入感がある。そして、綺麗なうえに広い。式場や披露宴会場をまだ見ていないが――どれほどの予算があればここで結婚式を挙げられるのだろうと、エントランスの時点で頭を過ぎった。
イチゴビュッフェの会場はロビーラウンジだった。入口の列に少し並んだ後、正午になり開いた。完全予約制であり、座席まで指定されている。上着を脱ぐと、志乃と共に四人がけのテーブル席に通された。
「わぁ。凄いわね」
「洒落てますね」
ラウンジもアンティーク調であるが、窓が無く照明も薄暗い。今が昼間であることを忘れてしまうほど『夜』の雰囲気が漂っていた。
希未としては、酒を飲みたい気分だった。しかしながら、ひとり六千九百円のビュッフェからさらに別料金を出す気にはなれず――イチゴの紅茶をふたり分注文した。
「さあ、取りに行きましょうか」
志乃とすぐに席を立った。
ビュッフェ台には生のイチゴの他、様々なイチゴのスイーツが主に並んでいた。だが希未は、今が昼食時のため、それらだけで空腹を満たす気にはなれなかった。ローストビーフのストロベリーソースがけと、イチゴのリゾットをまずは取った。
志乃の皿には、イチゴと生クリームのサンドイッチが載っていた。
ふたりで席に戻る。
「それ、よく食べようって思ったわね」
向かいに座った志乃が、リゾットに目を落とす。
確かに奇抜な料理であると、希未も思う。どのような味なのか、想像がつかないが――おそらく美味しくはないだろうが、却って興味を引いた。
「まあ、折角なんで……。ていうか、成海さんこそ冒険すると思ってました」
「私はなるべく嫌な思いをしたくない、安全思考タイプなのよ」
「へぇ。知りませんでした」
希未はなんだか印象と違うと思いながら、リゾットを一口食べた。
「あ……意外と甘くないですね。それなのに、イチゴの味がします」
「なにそれ。全然わからないんだけど」
「実際に食べてみないとわからないぐらい、独特です」
希未はリゾットをスプーンですくい、志乃に差し出した。
何気ない言動だった。志乃の悩む表情を見て、しまったと思った。今すぐ引き下げたいところだが、不自然なうえに理由も浮かばない。
せめて志乃が拒むことを願うも――口を開けて、顔を伸ばした。スプーンが志乃の口内に入ったのを、希未は確かめた。
「うーん……。これは確かに、独特の味ね。のんちゃんの言う通りだわ」
神妙な表情での感想を聞くも、希未としてはどうでもよかった。それどころではないほど、内心は困惑していた。
ひとつの料理をひとつの器具を使用してふたりで共有するなど、希未にはありふれた場面だった。二十八歳の現在、異性間とでも特に気にしないだろう。同性間なら、なおさらだ。
そのはずが――今はただ、志乃と間接キスをしたという事実が、重く圧し掛かっていた。まるで十代の学生のようだと、自己嫌悪に陥るほどだ。
「ぶっちゃけ今ひとつだけど、これも貴重な経験よね。のんちゃんみたいに冒険するのも、アリかも」
その事情を知るはずもなく、志乃が微笑む。
前向きに捉えるのは彼女らしいと、希未はぼんやりと思った。
ロールケーキ、スコーン、タルト、チーズケーキ、ゼリー、ムース、ミルフィーユ、マカロン、フィナンシェ等々――何らかのイチゴの加工が施されているスイーツ十八種類を、ふたりで一口ずつ全て平らげた。イチゴ一辺倒だが、希未は意外と飽きなかった。
「うう……。もう食べられません」
途中から義務感で自棄気味になっていたせいか、制覇した達成感はあまり無かった。
それでも、志乃との時間の共有は、素直に嬉しかった。
「ほら、のんちゃん。最後に一口」
志乃が生のイチゴをひとつ摘んで差し出す。希未は口を開けてそれを食べた。
女性同士、何気ない光景だ。このビュッフェには女性複数人のグループ客がほとんどであり、似た光景を目にしている。
きっと彼女達は『友達』或いはそれに近い間柄なのだろう。
きっと志乃も、そのつもりで楽しんでいるのだろう。
だが、希未は――
「美味しいです」
洒落た空間で志乃との甘い一時を過ごすことができ、満足だった。
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