第07章『ケンカと心変り』

第19話

 二月十九日、火曜日。

 午前六時半に希未は自宅のベッドで目を覚まし、鳴り響く携帯電話のアラームを止めた。

 ぼんやりとした頭で寝返りを打つと、部屋中央のテーブルの上に、黄色い花が見えた。茎の先端から弓なりに、複数の花が咲いている。たった二本でも、充分に見栄えは良かった。

 バレンタインに成海志乃から貰った、フリージアだ。翌日にはホテルで小さな花瓶も譲り受け、バケツから移し替えた。

 志乃が言っていた通り、バレンタインからちょうど三日後に蕾から花が咲いた。いつまで保つかわからないが、今朝で二日目となる。

 どちらかというと散らかり気味であるこの部屋で、たった二本の花が飾られている。本当に些細な――何気ないオブジェだ。

 しかし、希未はそれを眺め、笑みが漏れた。これまで花に縁の無い私生活だったので、新鮮だった。そして、志乃からの贈り物として、今なお嬉しかった。


「おはよう」


 小声で挨拶を漏らした。

 話しかけると花が元気になるという一説を、希未は聞いたことがある。非科学的な話だと思うが、今は信じてみたかった。それほどまでに、一日でも長く咲いていて欲しかった。

 希未はベッドから起き上がり手洗いを済ませると、花瓶を取った。


『今は、日中は寒いから……二日か三日おきに水を替えれば充分よ』


 志乃からそのように言われたが、毎日替えていた。なるべく清潔な状態を保つに越したことはなく、それに夜間は暖房を点けている。

 ただ、この花の水は少量で構わないと言われたことには注意した。多いと茎を痛める原因になるらしい。茎にぬめりが無いことを確かめ、念のため茎を水道水で洗い流した。

 希未のこれまでの人生で、花をここまで大切に扱ったことは初めてだ。珍しいという自覚はあるが、悪くない感触だった。


 希未はいつものように、午前八時四五分に出社した。

 午前十時から、担当している顧客との、披露宴の打ち合わせがあった。

 それを終えて午前十一時半に、ブライダルサロンから事務所に戻った。珍しく同僚達が出払っているようで、マネージャーの加藤絵里子とふたりきりだった。


「お疲れ、遠坂。それ、あんたに届いているよ」


 希未の散らかった机には、小包が置かれていた。


「ああ、あの時の……」


 一ヶ月ほど過去に式を執り行った夫婦が、連名で宛名に記されていた。

 開けると、焼き菓子店の菓子折りと共に、メッセージカードが入っていた。


『遠坂様―― この度は、大変お世話になりました。素晴らしい式を執り行って頂き、夫婦としての第一歩を踏み出すことが出来ました。新婚生活にも慣れ、落ち着きましたので、ご連絡致します。これから先も苦労はありますが、あの時の幸せを決して忘れません。改めて、ありがとうございました』


 このような事後連絡は、珍しくはない。だが、希未は手書きのメッセージを目で追い、瞳の奥が熱くなるほど感動した。

 久々の感覚だった。ここしばらくは、ただの社交辞令としか捉えられなかった。

 そう。まるで、遠い過去――新人だった頃、この手の連絡を初めて貰ったかのように嬉しかった。

 確かに、ウェディングプランナーとしての付き合いは結婚式と披露宴までだ。希未は今もなお、結婚に対し『終わり』の印象を持っている。

 しかし、このふたりにはこの先も末永く幸せであって欲しいと願った。


「うんうん。そういうの、嬉しいよね」

「はい。なんていうか……報われたって思います」


 希未は仕事の『やり甲斐』を噛み締めながら、席に座った。

 だが、嬉しい一方で――別れの挨拶で、ようやく肩の荷が下りたと感じたことが情けなかった。いくら顧客には伝わらないとはいえ、あのような心持ちで仕事をしてはいけないと、深く反省した。


「遠坂さー、最近何か変わったよね」


 メッセージカードを机の引き出しに仕舞い、顔を上げて絵里子を見た。なんだか、しみじみとした様子で――笑みを浮かべていた。


「そうですか? あたし自身は、そんな感じ無いですけど」

「私からは、なんか活き活きしてるように見えるよ」


 絵里子からそのように言われ、希未は今朝のことが浮かんだ。一応は、花に癒やされているのだろう。そう考えると、昨日からになる。気持ちが明るくなった心当たりなら、確かにあった。


「ちょうど、天羽晶の案件を引き受けてからかな。やっぱり、あの人絡みは特別?」


 だが、変化はそれほど過去よりあったようだ。

 希未はその案件に関して、ゲストを誰も呼ばない寂しさが未だに引っかかっている。本人達は問題無いにしろ、ウェディングプランナーとして何か提案できないか、今も模索中だ。頭のリソースを割と割いている自覚はある。しかし――


「特に贔屓はしてませんよ。あたしの大事なお客さんの、ひとりです」


 もうアイドルではなく一般人だと、とうに割り切っている。抱えている他の案件と、扱いに差異は無いつもりだ。むしろ、熱を入れすぎないよう注意していた。

 希未としては、その時期を境に変化があるならば――天羽晶以外に、もうひとつ出会いがあった。花も、その人物から貰ったものだ。


「まあ、最近……ちょっといろいろありまして……」


 希未は微笑むも、成海志乃の名前を出せなかった。

 理由はわからないが、なんだか出したくなかった。部署が違うとはいえ、仕事仲間と仲良くしていると同僚に言いたくないのだと、考える。


「ははーん。まだ外は寒いけど、遠坂にもついに春が来そうな気配かなぁ」

「ち、違います!」


 絵里子はニヤニヤした笑みを浮かべた。

 変に思わせぶりな態度を取ってしまい、勘違いさせたようだ。希未は慌てて否定した。

 志乃の名前を出したくないのは、或いは同性だから――ふと、そのように思う。否、たとえ異性であっても躊躇していただろう。仕事終わりに酒を飲みに行くだけでなく、互いの自宅で食事をしているなど、とても言えない。

 志乃とはそのような仲なのだと、希未は改めて感じた。同性だから、まだ許されるのだろうか。

 いや、許される? 誰に?

 考えるほどに、わからなくなってきた。


「加藤さんも……結婚して、やっぱり幸せなんですか?」


 色恋の話になったついでに、誤魔化す意味でふと訊ねた。

 この質問をこれまでにした、もしくは絵里子から喋った記憶が希未にはある。何にせよ、長い付き合いの中、初めてではないはずだ。


「もう子供も居るし、当たり前すぎて何も思わないけど……旦那に不満もあるけど……誰かと家族になっていろんなものを共有してるのって、たぶん幸せなんだろうね」


 絵里子にもう一度喋っている自覚があるのかわからないが、希未の知っている内容だった。

 満足そうな表情から説得力はあるが、内容自体はよくわからなかった。とはいえ、それはどうでもいい。


「周りの祝福が無ければ、幸せになれないんでしょうか?」


 これはおそらく、絵里子と初めて話す。希未が最近気になっていることだった。

 絵里子はきょとんとした表情を見せた後、腕を組んで悩む仕草を見せた。


「うーん……どうだろう。私個人的には、無くてもいいけど有れば嬉しい、って感じかな。たぶん、絶対に必要でもないと思う」


 希未の想像と同じ内容だった。

 おそらく、絵里子も結婚の際は周囲から祝福された側だろう。彼女もまた希未と同じく憶察でしかないが、既婚という立場から説得力が幾分あった。


「これまで、望まれない結婚のケースをいくつか見てきたよ。どれも、本人達は幸せそうだった。まあ、式挙げたいって言ってるぐらいなんだから、当然なのかな」


 絵里子の方が希未より、ウェディングプランナーとしてのキャリアは長い。希未にそのような経験は無いが、中には親から結婚を反対されても式を挙げる案件もあると聞く。

 彼らもまた、祝福は望んでいないのだろう。天羽晶が語っていたように、気持ちを固める儀式として執り行う意味合いが強い。


「だからといって、はいそうですか、で済ませていいわけじゃないですよね? あたし達の場合」


 親から反対された。世界中の人間を騙した。そして、今後扱う可能性として――同性だから。

 理由は様々だが、祝福を拒む案件にこれからも出会うかもしれない。希未は実際に直面している現在、顧客の意見を汲んでなお、祝福に代わる何かを提案しようとしている。それが果たして『余計なお世話まちがい』ではないのか、念のため確かめておきたかった。

 絵里子は、おかしそうに笑った。


「当たり前じゃん。お客さんを喜ばせるのが、私らの仕事だよ?」

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